シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年07月14日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 サットヴァ時代には、最高の魂へのヨーガの歩みを、叡智に満ちながら語ることができた。

 新しい叡智として世界に登場した知性、つまり、人間内部における、魂に対する霊の勝利は、ラジャス状態から叙述できるものだった。人類史にとっては、非常に意味深く、この知性を最初に叙述する者は、全情熱をもって叙述する。

 「私は、その叡智に関わった。キリスト衝動(意志)の顕現(啓示)に対峙したとき、私は、誰にでもわかるように、震え慄いた。」

 このとき、その叡智は、個人的(パーソナル)に、パウロに近づいてきた。そのとき、パウロははじめて、過去数千年を通じて作用する叡智を、前にした。そのとき、パウロは、この叡智を前にして、魂のなかのあらゆる力が、個人的(パーソナル)に関わらずにはいられない、というほどだった。

 従って、パウロは、バガヴァッド・ギーターにおいて見られるような哲学的で、叡智に満ちた明確な概念で叙述せず、キリストの復活として叙述すべき内容を、直接、個人的(パーソナル)に関わり合うように叙述した。

 以下のような問いが考えられる。

 キリストの復活が、パウロの個人的(パーソナル)な体験であるべきではなかったのか?

 キリスト教が、究めて個人的(パーソナル)に浸透し、灼熱させ、突き動かすようであるべきではなかったとでもいうのか?

 この問いには、以下のような回答だけが与えられる。



 ギーターにおいては、ヨーガによる高次の霊界への上昇に主音を置いていることがわかる。その他は、単に付け足しとして触れられるだけである。なぜか?

 クリシュナは指導に際し、特別な弟子(アルジュナ)に関わらなければならないからである。クリシュナが関わるべきは特別な弟子であり、霊との関係から、外に感じる他の人間ではない。ここでクリシュナは、弟子が、なるべき人間を描写し、弟子を益々高次に、霊的な存在にしようとする。

 ギーターは、魂を、一層益々円熟した状態へと、一層、印象深い美のイメージへと通じていく叙述である。従って、ギーターの結末になってはじめて、魂を、美へと上昇させて生きることへの魔的なデーモンと聖霊との対立が生まれ、硬化が生じる。

 ギーターの結末においてはじめて、新旧の対立が、魔的なデーモンと聖霊との対立のなかに置かれるのがわかる。

 硬化して、物質として現れる存在、物質のなかに生き、死と同時に滅びる物質の特性を信じる存在は、全てデーモン(魔物)である。とはいえ、デーモン(魔物)のような存在は、説明のためにだけ叙述され、偉大な師が、真に関わるべき存在ではなく、師は、何にもまして、人間の魂の霊化に関わらなければならない。

 ヨーガに対立するデーモン(魔物)の存在について、ヨーガは単なる付け足しとして語っている。

 パウロは、第一に、暗黒の時代の幕開けにいる人類全体と関わらなければならなかった。パウロは、この暗黒の時代が、人間の生活に引き起こす全てに着目しなければならなかった。パウロは、この普遍的な闇の時代に、人間の魂のなかの小さな植物のように、キリスト衝動(意志)を対比し、甦らそうとした。

 パウロの場合、パウロが与える叡智により、打ち負かされるべき、あらゆる可能な悪徳が、唯物主義として繰り返し指摘される場所に、明白に現れているのがわかる。

 パウロが与える叡智とは、人間の魂のなかで、小さな炎として、ようやく燃え始め、個人性(パーソナリティ)に担われた感情の顕現(啓示)として、意気揚々と、発する言葉のなかに表出してくる情熱が存在するときにだけ、力を獲得できるものである。

 ギーターとパウロ書簡の叙述は、以上のように、非常に異なっている。ギーターにおける清澄さ、無私の叙述に対し、パウロ書簡においては、個人性(パーソナル)が言葉のなかに入り込む。この相違が、一方ではギーターに、そして他方ではパウロ書簡に、基調(トーン)や様式を与えている。

 いずれの作品においても、各々に、どの行においても、現れてくる。芸術的な完成は、成熟したときにはじめて、美を達成するが、始まりにあるときは、何か混沌とした形で現れている。



 ギーターの力強い冒頭に注目するとき、この問いに答えてくれる。この冒頭の特徴は既に述べたが、親族たちの軍勢が、戦闘において対峙している様を見た。戦士たちが対峙するが、勝者と敗者は血縁関係でなければならない事実も見た。

 いま、ギーターで語られる背景は、霊視力と結びついていた古い血の親和性(同族婚)から、まさに近代を特徴づける血の分化や混合(異族婚)への移行の転換期である。人間の外的な身体性の変化と、その結果生み出される認識の変遷や変化に関わらなければならない。

 人類進化のなかに別種の混血が、血のなかの別の意味が登場してくる。古い時代から新しい時代への移行を研究するなら、小著『血はまったく特製のジュース(液汁)だ!』を思い出すが、次のような結論に達する。

 古代の霊視は、いわば種族の内部だけに、血がとどまる事実に結びついていた。新たな時代では、種族の混合や混血に由来することで、古い霊視が滅ぼされ、物質(肉)体に結びついた新たな認識が到来した。

 ギーターの冒頭で、外的な、人間の姿に結びついた叡智が示される。サーンキヤ哲学は、このような外的な形態変化を好んで観察し、サーンキヤ哲学について、既に述べたので、その背景だけにとどめるが、魂は、多数の形態の背後に存在し、サーンキヤ哲学という一種の多元論を見た。



 「ここに、魂があるが、この魂は、周囲の体の外的な形態との関係において、サットヴァ状態か、ラジャス状態か、もしくはタマス状態のなかに現れる。」

 以上のように、魂の形態を、この哲学者は観察する。この形態は変化する。重要な変化は、エーテル体の別の使用のなかに現れ(日常体の利用)、もしくは、上記に特徴づけたような血縁に関する移行により現れる変化にある。

 移行により、外的な形態の変化が伴う。サーンキヤ哲学を用いた観察により触れることができるような、魂の内部の変化はない。古いサットヴァ時代から新たなラジャス時代への移行の境目に、クリシュナが立っているが、この移行の際に、考慮すべき変化に注目したいなら、外的な形態変化だけで全く充分なのである。

 この移行期に考慮すべきものは、外的な形態変化である。

 時代の移行期には、常に外的な形態変化が考慮されてきた。ペルシァ時代からエジプト時代への移行期の外的な形態変化は、エジプト時代からギリシア-ラテン時代への移行期とは異なっていたが、それでも、やはり1つの形態変化に違いはなかった。

 原始インド時代からペルシァ時代への移行も、また異なるものだったが、やはり形態変化にとどまった。また、古代アトランティス時代から、ポストアトランティス時代へと移行が完了したときも、形態変化だった。

 転換期の移行は形態変化だった。従って、サーンキヤ哲学の法則を拠り所として、この形態変化を追求でき、すなわち、形態変化のなかに、人間の魂は充分に具現し、形態変化自体は、魂そのものには、影響を与えないので、魂、すなわちプルシャは手つかずのままに、形態変化だけを追求できる。

 以上のように、サーンキヤ哲学の概念と同時に、サーンキヤ哲学を通じて、特徴づけることができる独特の種類の変化を獲得できる。しかし、この形態の変化の背後には、プルシャが存在している。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2011年07月14日 16時54分27秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: