シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年07月15日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 人間1人1人の個別な(個的な)魂が存在する。この個別の魂について、サーンキヤ哲学では、「個別の魂としてのプルシャは、外的な形態に対して、サットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナ(徳性)の関係にある」、といえるだけである。

 しかし、様々な外的形態に、魂が触れられることはない。プルシャは、様々な形態の背後にあって、魂に注意を喚起させる存在で、例えば、クリシュナが、ヨーガの主(導師)として教授する内容は、この絶えざる魂への注意を喚起する方法である。

 クリシュナは、個別な魂の存在を示唆するが、この魂が、その性質によってどうであるか、という認識を、眼前に現すわけではない。いかに魂を進化させるか、という導きを最高とし、外的な形態の変化は、魂自体の変化ではなく、単なる余韻(副作用)にすぎない。

 そして、この余韻を、次のように発見する。

 人間が、ヨーガを通じて通常の魂の低次の段階から高次の段階へと上昇しようとするとき、人間は、外的な営みから自由になる必要があり、外的な行為や認識から、自らを解放しなければならず、人間は、自身の観察者となる必要がある。

 その際、外的な行為や認識に打ち勝って、高次となった魂は、内的に自由な状態となる。通常の一般人の場合は、上記のように内的に自由な状態となる。しかし、秘儀参入して、霊視的になった(見霊者となった)人間の場合は、上記の状態にとどまらず、外的な物質には対峙しない。

 外的な物質は、それのみでは、マーヤー(幻影)である。外的な物質が現実(リアリティ)に映るのは、自らの内的な物質(肉)体の道具(器官)を用いる人だけである。

 では、秘儀参入者には、物質の代わりに何が現れるのか? 

 古代の秘儀参入を、霊視力を用いて、目の前に導出すると、ヨーガによる秘儀参入者を迎える存在が現れる。日常の一般人の魂には、物質、つまりプラクリティが対峙するが、ヨーガを通じて、秘儀参入へと進化してゆく魂に対峙するのは、アシュラ(阿修羅)たちの世界や、デーモン(魔物)の世界で、秘儀参入者が闘わねばならないのは、アシュラ(阿修羅)界である。



 デーモンたちや、アシュラたちとの闘いに入るときにはじめて、魂は、自身を霊的に知覚する。

 秘儀参入者の魂に向かってくる、上記の小さな規模での闘いを、人智学用語では、物質がその霊性をもって現れるときに、霊視できる霊的な存在として表す。アーリマンとの闘いとして知られる闘いが、秘儀参入する際の魂に、小さな規模で、向かってくる。

 (この闘いが、ハルマゲドンの闘いのことだろう。)

 秘儀参入者は、上記のような闘いを把握することで、自身の魂のなかに参入できる。すると、以前は単なる物質的な霊にすぎなかった存在が、巨大に成長し、魂は、強大な敵に直面する。このとき、自らの魂が、自らの魂の余韻に対峙し、個別の魂は、広大な宇宙においてアーリマンの王国に対峙する。

 ヨーガにおいて闘う相手は、アーリマンの王国の最低次の段階である。しかし、人智学の意味での秘儀参入による魂の観察では、アーリマン勢力やアーリマンの王国との闘いにおいて、アーリマン自身と対峙する。

 サーンキヤ哲学では、外的な物質が優勢になるときの魂と、この外的物質との関係を、タマス状態として認識している。ヨーガを通じての秘儀参入は、タマス状態のなかだけでなく、ある種のデーモン(魔物)の力、参入者には、物質がデーモンの力に変わっていくのが観えるが、この魂のなかのデーモンの力に対する闘いのなかにいる。

 人智学の意味においては、魂の関係が、単に物質のなかの霊性に対峙するだけでなく、純粋に霊的な存在、いわゆるアーリマンという存在に対峙する魂が霊視できる。

 サーンキヤ哲学に従えば、ラジャス状態においては、物質と精神が均衡を保ち、一方から他方へと揺れ動く、あるときは物質、あるときは霊が上位になり、あるときは物質、あるときは霊が下位になるといった具合である。

 以上のような関係を、秘儀参入に導くなら、古代のヨーガの意味では、直接、ラジャスの克服の、サットヴァへと通じていくだろう。人智学徒にとっては、まだサットヴァには通じず、別の闘い、すなわち、ルシファー(悪魔)の存在との闘いが始まる。

 人智学徒の考察では、サーンキヤ哲学で、暗示されるプルシャが、目の前に立ちはだかる。プルシャを暗示するだけでなく、プルシャは、アーリマンとルシファーに対する戦闘地域のなかに立つ。魂の余韻が、魂の余韻に対峙する。

 遙か太古の展望のなかでは、プルシャは、サーンキヤ哲学に現れる。サーンキヤ哲学では、魂の深奥にある、いまだ分離できない、アーリマンやルシファーとして、魂の本質のなかに入り込んでいる余韻に参入する際、物質-実体との魂の関係が、サットヴァ、ラジャス、タマスとして得られるだけである。



 キリスト教では、プルシャが、プラクリティを纏う際に生じる関係を描写できる。キリスト教の時代の、秘教的なキリスト教の根底にある叡智に参入し、プルシャに進入すれば、魂の本質とアーリマン的な余韻とルシファー的な余韻という三重の存在に注目することで、これらの関係を特徴づけることができる。

 以上の魂のなかの格闘に従って、魂の内的な関係に注目できる。到来すべき移行は、第4文化期の魂の内部に含み置かれた、ゴルゴタの秘蹟によって刻印される移行である。

 では、一体当時に、何が起こったのか?

 第3文化期から第4文化期への移行の際に起こったことは、単なる形態変化により特徴づけられる変化だったが、特に[ゴルゴタの秘蹟による魂への刻印の移行期に起こったこと]は、プラクリティから、プルシャへの移行により特徴づけられ、次のようなものである。

 「人間の魂の内面性において、プラクリティから、プルシャが、完全に解放される過程(プロセス)を感じる移行だった。」



 このとき、魂の物質への関係において、いわゆる、サーンキヤ哲学でいう、サットヴァ、ラジャス、タマスにおいて、いかなる状況であったのか? という問いが生じるだけではない。

 このとき、魂はヨーガを通じて、タマスやラジャスを超えて高まるには、タマスやラジャスを克服するだけでなく、アーリマンやルシファーに対して闘わなければならなく、魂は、自らの本質に身をゆだねる。

 このとき、一方で崇高な歌バガヴァッド・ギーターとして、古い時代に人間に示された叡智と、他方で、新時代のために欠くことのできない叡智とを、どうしても互いに対決させる必要が生じてくる。

 崇高な歌バガヴァッド・ギーターにおいて、上記の対決に直面させられ、人間の魂そのものが示される。魂は、肉体性や「覆い」のなかに宿っている。肉体性や「覆い」を特徴付け、絶えざる形態変化のなかにある。

 魂の生きる有様そのままに、魂は通常の状態においてはプラクリティのなかに編み込まれ、プラクリティの内部に生きている。ヨーガにより、魂は、覆われているプラクリティから、自らを自由にし、克服する。そして霊の圏内に到達し、「覆い」から自らを完全に自由にする。

 キリスト教やゴルゴタの秘蹟が、はじめてもたらした叡智を、ギーターの叡智に対置できる。キリスト教やゴルゴダの秘蹟では、魂が自らを自由にするだけでは十分ではない。

 というのも、魂が、ヨーガを通じて自由になれば、魂は、クリシュナの姿を目にでき、クリシュナは、その威力全てをもって、魂の前に立つが、そのクリシュナは、アーリマンとルシファーが、後に猛威を獲得する前のクリシュナだからである。

 ギーターのときはまだ、以前描き出したように、崇高な姿を見せたクリシュナの傍らの左右に、アーリマンとルシファーが立っていたが、クリシュナの善き神性が、それらを覆っていた。人間がまだ物質のなかに下降していなかったので、太古の霊視では、善き神性で覆うのが可能だった。

 しかし、もはや覆うことはできなくなった。魂が、ヨーガを遂行するなら、魂はアーリマンとルシファーに直面し、これらとの闘いを受け入れなければならない。そして、魂は、タマスやラジャスのみならず、アーリマンやルシファーを打ち負かしてくれる盟友を持つときにはじめて、クリシュナの傍らに身を置くことができる。

 この盟友がキリストである。

 以上のように、英雄クリシュナが登場した当時、プルシャが、プラクリティから、いかに自らを解き放ったか、もしくは、プルシャが、プラクリティのなかで、いかに暗くなっていったかが霊視できる。

 他方では、魂が、自らの本質に身をゆだね、闘いに曝される圧倒的な有様や、ゴルゴタの秘蹟が起こった時代に、魂のなかにだけ見えるようになる存在が霊視できる。





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Last updated  2011年07月15日 17時03分46秒
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