シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年08月05日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 では、人間の思考が、決定を下すのに無能であるなら、つまり、人間の思考が確かな導き手でないなら、一体、どうやって、人間が疑いと無知の中に沈み込んでいくのを救うことができるのか?

 というのも、事実、様々な事柄に対して経験を積み、思考に関して深い関心を持てば、どんなことも証明もできるし、逆に反証もできる、という事実を知るからである。従って、人間の思考では、どんなに洞察力のある哲学でも、思考から先の問題を提示できない。

 何故なら、正論も反論も、思考により知的に理論づけることが問題なくできるからである。思考上では、全てに証明も反証もできる。このような関連から、日常生活において、しばしば究めて興味深い観察を行うことができる。

 全ての理論が証明も反証も可能である事実を感じ経験するような魂の進化段階にまで到達しながら、この世界の奥に潜む精神(霊)的な存在を受け入れるまでには十分に成熟していない人物と知り合いになると、その人物が、非常に興味深く思える。

 私(シュタイナー)が、かつて遭遇した人物のなかに、そのような魂の在り方を顕著に示しながら、人智学が提供できるような叡智を、まだ把握できるまでには至らない人物がいたが、ここ何週間にもわたって何度も、その人物を思い出さずにはいられなかった。

 その人物は、哲学が言及する命題は、証明も反証もできる、という事実を究めて明確に認めることができる段階にまで達していた。その人物とは、数週間前(1911年12月27日)に亡くなったウィーン大学教授で、類い希な能力と知性を持った男、すなわち、ローレンツ・ミュルナーのことである。

 彼は、あらゆる知識体系や思想に対する可能な証明を、大いなる明晰さを持って引用できる大変な才能を持っていたが、同時にまた、全ての矛盾の指摘もできた。そして、彼は常に厭世主義の態度を示した。彼が、かつて、次のような、かなり恐ろしい発言をするのを聞いたことがある。

 「あらゆる哲学は、実際、よくできたゲームに過ぎない!」

 その思考ゲームにおいて、彼の心のなかの素早い閃きや活動を目にするような場面は度々あったが、同時に、彼が何1つ全く認めていないため、彼に全幅の信頼をおくことができない、という事実を知るのは非常に興味深い。



 彼は興味深い心の持ち主の1人であり、実際、ある意味、近年における最重要な哲学者の1人であった。彼が、そのような心の在り方へと導かれていった過程もまた大変興味深い。というのも、ミュルナーは、哲学史上の熱心な探求者であると同時にカトリックの神父でもあったからである。

 彼は、長年ウィーン大学の教授職にありながら、カトリックの良き神父のままでいたい、という熱心な願望を常に所持していた。彼はカトリックの考えにドップリと浸っていた。同時に、このことが、彼には、外界の中に見つける単なる思考ゲーム全てが、ある種の宗教的な熱情により実り豊かにされた思考方法に比べて、ちっぽけに見える、という効果を及ぼした。

 ただ、以上の事実にも関わらず、彼のカトリック主義は、彼の懐疑主義的な立場を越えてゆくことを可能としなかった。彼はあまりにも偉大だったために、単なる教条主義的なカトリック主義の段階に留まることはできなかったが、同時に彼のカトリック主義が、彼の中であまりにも大きな位置を占めていたために、神智学的な叡智の把握へと上昇できなかった。

 人間が、叡智にアプローチするのに必要な態度を、実際に研究できる段階にまで到達した、ミュルナーのような魂を観察することは、途方もなく興味深いものである。というのも、ミュルナーのように有能で、知的な人物が、全くはっきりと、彼の思考では、叡智には近づけない、という事実を自覚していたからである。

 遙か古代ギリシア時代の昔には、健全な心が、いつの日か叡智に到達することを望むなら、何を持ってはじめるべきか、を知っていた。当時の次のような言葉は、現在でも有効である。

「人間の全ての探求は、驚きから出発すべきである!」

 以上の言葉を、完全に前向きの姿勢で受け取るべきである。実際、真実に到達しようとする魂の中には、驚きの状態が最初に存在しなければならない。真実を探求しようとする魂は、驚きと畏敬の念を持って宇宙の前に立つ必要がある。

 この古代ギリシア人たちの表現力を理解できれば、真理の探究へと向かうときの出発点が、世界の事実に対する驚きの気分や感情であれば、その他の条件が何であろうと、その様子は丁度、地面に種子を蒔いて、地面から植物が生長する様子に喩えられることが実感できる。

 人間が、驚きからではなく、例えば、若い頃に、好きな教師がいて、しかるべき哲学の原則を叩き込まれたからとか、或いは、成長過程において、しかるべき哲学の原則を学ぶ習慣になっていたために、つまり純粋に環境の影響から、哲学者になった、というような場合とは、全く話が異なる。

 また、現代では、哲学の試験をパスするのが最も易しい、ということも良く知られているが、要するに、哲学研究の出発点には、「驚き」とは全く別のものが多種存在する。しかし、「驚き」以外の出発点から、何らかの知識に至っても、それは、種子から植物が育つのではなく、新聞紙で、植物を作るのと同じである。

 以上の比喩は適切である!



 「驚き」からはじまらない知識体系が巧みに考え出したアイデアなどが提供されると、間違いなど何も含まれていないようにみえるが、その間違いのなさが必ずしも真実へ導くとは限らない。考え始める前に、実際、思考を働かせ始める前に、「驚き」の経験が絶対に必要である。

 驚きの状態抜きで働かされる思考は、単なる思考の遊び以外のものではない。真の思考全ては、驚きの気分に由来する。

 しかし、それだけでは十分ではなく、一歩先に進むべきである。「驚き」の気分から、思考が発するときでも、もし、当人が、カルマにより鋭い機知や賢さの持ち主になるように予め決められ、直ちに、その賢さを自慢し、自論に満足すると同時に、自慢と満足な自論のみの展開に全てのエネルギーを使うなら、当初、感じた「驚き」はもはや、当人を支援することは全くない。

 (研究者のなかには、自論を展開することにだけ生きがいを見いだし、権威主義者に成り下がる者も少なからずいる。)

 何故なら、もし、驚きが魂を捕らえた後、更なる思考過程において、「思考」以上のことをせず、思考を超えなければ、叡智へと到達することはないからである。人間は無思慮になるべきであるとか、思考は有害であるとかを言っているわけではない。






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Last updated  2011年08月13日 08時39分13秒
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