シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年08月30日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 随分前から、西洋と東洋の融合が、精神世界ではいわれている。シュタイナーも、来るべき水瓶座時代の大事業が、東洋と西洋の叡智の融合であることを述べていたようである。

 私的には、東洋と西洋の融合といえば、鈴木大拙を思い出す。

 鈴木大拙については、以下のホームページが参考になるだろう。
http://tantra-yoga.org/touyousei.htm

 そのホームページには以下のやりとりがある。

『「火に入って焼けず、水に入って溺れず」と臨済は説法でいうが、「水に入っても溺れないというのは、先生、どういうことでしょうか」と。それに対して大拙先生は何の躊躇もなく自然に、しかも単純にはっきりと「それは溺れるということだ」』

 この大拙の答えが、私には、どうも腑に落ちないものだったが、シュタイナーの講義を学ぶことで、この腑に落ちない答えの意味に気づいた。

 臨済宗では、以下の説法が有名だが、この説法も神秘学を学べば、意味が明らかになる。

 「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢(らかん)に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり」



 この意味は、この世が外の世界で、あの世が内の世界であること、つまり内と外の関係から、わかる。

 外に仏に出会うのでは、自分の内に仏がないことになり、だから、仏に外で出会うのは、自分が仏でない証拠なのである。だから、自分が仏なら、外で仏に出会うことはない。要するに、まだ未熟者であるから、外の仏を食べて殺す位に、自己教育、鍛錬せよということになる。

 殺せという表現の意味も現代人には難しいが、外にある仏という事実を吸収しなさいということに解釈できる。瞑想や座禅では、内観なので、恐らく「殺す」というニュアンスが的確なのだろう。

 また、外の死は、内の生になるわけでもある。

 要するに、自分のなかにないものが、外に現れている、というわけである。

 だから、人生で遭遇することは、自分のなかにないもので、それは自分にとっては必要だから、神様が遭遇する機会を与えてくれている、ということになる。

 さて、問題の、水のなかに入っても溺れず、というのは、肉体にある感覚に頼るなということである。

 溺れるとは、肉体が溺れることで、肉体の生命感覚に囚われるから溺れるわけである。肉体の生命感覚とは、起きているときの覚醒意識を土台にして成り立つので、脳の分別知に他ならない。

 つまり、脳の分別知という悪を知ることで、その悪である分別知を克服しなさい、という意味になる。

 人間は便利な頭をもち、人生を生きる上で、判断と思考を与えてくれるが、人生から学ばなければ、かえって頭は障害となる。同様に肉体も生きる上で必定だが、肉体に囚われてしまえば、生もそのまま死になってしまう。

 死を超えるには、死とともにある生も超えなければならない。



 溺れるから抜け出すには、溺れることから逃げるのではなく、溺れる感覚を掴まないといけない。溺れる経験がどうしても必要なのである。

 溺れるという事実を、自分のなかに取り込んで、殺し、克服しなければいけない。

 そこで説いていることは、概念や知識ではなく、経験や体験である。つまり実践や行動である。

 まずは、焼かれて、溺れてみなければ何事も始まらない。

 その悪しき経験を糧にして自らのなかで善導しなければ、何事も救えないのである。



 まずは被災してみなければいけない。同情では疑似体験にすぎない。

 臨済宗の態度は、あくまで真剣である。

 だから、人間は皆、死を超えるために、死を経験する必要がある!

 大拙も日本人の欠点として以下のように述べているが、昨今益々この欠点が甚だしくなっている。

 「日本人のただ感傷性に富むこと、人に引きずられてゆくこと、自主的に物事に対する考え方をもたぬこと、理智力の十分に発達していないことなど」。

 大拙と同様に、大拙を紹介している上記のホームページにも、現代の日本人の精神性の欠如を問題としている。

 特に「日本人へ啓蒙すべきこと」という題で述べられている内容は秀逸である。

 そこでは、現代の日本人の特徴は以下に要約されている。

 「何かを決める時、好悪とか感傷性によって決めるのである。物事の善悪ではなく、感情的な好き嫌いだけ、下らない感傷性によって決めることで、それは決して物事の正鵠(せいこく)を射ることはできない。いつも的外れ、out of pointなのである。自分の幼稚さ(無明)と無能さを同時に相手に知らしめていくだけである。およそ理知的な人間はそのような事に関わらないであろう。下らない感傷性のことだからだ。」

 そして、結論として以下を述べている。

 「貧困し、荒廃している日本人のエスニシティーとは、父権の威厳を奪い、生命を奪う倫理観の希薄とも言えるのである。そういう大人社会が、子供を容赦なく苦しめ、不満のはけ口をふさいでいく。寂寥(せきりょう)たる子供たちの心には、埋め尽くせない風穴がぽっかりと開く。そこは決して温かくはなく、冷たい風が吹き込むところだ。そこにはごみも塵も吹きだまる。その吹きだまりは、次第に心の歪みを生む。それが結果的に犯罪の目を生起させている」

 この著者は父権と述べるだけにとどまっているが、父権とは、高度な秩序性である道徳であろう。人類を滅亡から守るのは、道徳しかないだろう。現代の日本人で道徳の大切さがわかるものは少ないので、天変地異が起こって、全てが失われてみてはじめてわかるのだろう。

 それは、官僚の操り人形の全く父権のない総理大臣をみればわかる。

 父権は、少なくとも好悪の感情から決断するものではないだろう。日本人が好き嫌いや欲からくる自己主張をはじめてから、どうも、日本人らしくなくなってきたように思える。同時に父権が失われていった。

 昔でも、「糞親父」という言葉があるぐらい、父親が嫌いな日本人は沢山いただろうが、子供から文句でも言われれば、嫌いな父の子に生まれてきたお前が悪いというのが普通だった。嫌いな感情を自分で始末しなければ、父親とは和解できない。

 カルマからいえば、嫌いな父親の子に生まれるからこそ、人生の意味がある。

 結婚だって、共に地獄の苦しみを味わうからこそ、結婚の意味がある。

 現代では、父親が子に阿る。子は傲慢になる。社会に出てから、厳しさを知るという悪循環になってしまう。父権が奪われるわけだ!

 父親というのは、やはり、夢を与えるために、身を持って、守るべき道徳を教えるものである。嫌われても叱る根気が必要である。それが父権の役割である。

 礼儀作法等は家庭教育の一環だった。社会に出てからでは遅いから、家庭で祖父母が主体となって家系の伝統を受け継いだ。家系の伝統が、系図という単なる紙切れになり、品格も糞も金銭でやりとりされる成金が生まれてきた。

 そして学歴などという誰でも勉強すればつく知識を有り難がり、知識量の多さを尊ぶ変な風潮が生まれた。知識とは本当は、自己教育に役立てるもので、知識をどう活用するかが問題だ。知識を克服し、捨てることに意味がある。

 人間の心が理解できない獣が知識を詰め込んでも、百科事典や辞書やコンピュータ以下である。

 昔は、総理大臣には少なくとも品格が求められた。自分の好き嫌いは度外視して、判断された。嫌いで憎たらしい奴でも、国民のためなら、自分が我慢して、責任ある地位に置いた。官僚たちは、憎くて嫌いな総理に付き従った。

 国家が父権という精神の大切さ、天皇制の意味を重んじていた。

 平和であれば、奴隷でもいいのだろうか?

 安全なら、家畜でもいいのだろうか?

 米国や中国に馬鹿にされても、へらへらしておべっかを使い、貢物までやる始末。内心では馬鹿にされているとも知らずに、もし逆の立場だったら、どうなのかを考えればすぐにわかる。

 現代には自由意志がない。自由に対する自立心や厳格さが皆無なのである。だから父権もなくなってしまった。独立自尊の精神を失った国家は奴隷国家となるしかないだろう。

 国民全体に独立機運がなければ、独立など絵に描いた餅にすぎない。  





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Last updated  2011年08月31日 11時02分35秒
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