シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年09月16日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 これまでの講義から、人間の肉体と、人智学で、感覚界と呼ぶ世界との間に相関があることが理解できる。人間の物質体が、以前述べたように、外に広がる感覚世界のなかに認識できる意志の性質を持つ実体と同じものからなることを理解した。

 秘儀参入者は、外にある感覚世界にも、人間の物質体の中にも、同じく、活動し、支配する「意志」を発見できる。従って、同等という意味において、人間の肉体は、外的な感覚世界の一部である、と言ってもよい。

 続いて、感覚世界の背後に、「生成し消滅する世界」が横たわり、その世界の中には、「叡智」が、つまり、活動し、支配する「叡智」として描写できるような本当の世界が発見され、そして、人間のエーテル体は、本当は「叡智」の実体からなっている、ということについて述べた。

 (物理学の素粒子論では、物質現象の背後には、調和振動子による生成、消滅の数理的世界が想定されている。理論的には、人智学の内容を、素粒子レベルで解き明かしていることになる。シュタイナーは、既に1920年に述べているので、量子力学が誕生する前になる。)

 さて、人間のエーテル体と肉体には、更に、他の霊的器官が組み込まれている。すなわち、その中にあるアストラル体と自我である。というのも、人智学では、地上で遭遇する人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我の集結点からなるからである。

 さて、多分難しいかもしれないが、一度、上記の知識を把握すれば、現象世界、特に、人間自身の本性を理解する上で大いに役立つことがわかる。肉体、エーテル体、アストラル体、自我が、ある集結点で合流し、1つの全体へと統合された、という仮定について、ようやく受け入れる準備ができた。

 ところが、超感覚(霊)的な認識能力の獲得者が、人間本性の4つの構成体がどのように組み合わされているかを観察するなら、それらが「不整合」もしくは「不規則」な形で統合されているという印象(この印象の考察が重要であることが後にわかる)を持つ、という事実がある。

 現在の人間の中の、上記の「不整合性」、もしくは「不規則性」が、なんらかの段階で入り込んだような形で統合されている印象が見受けられる。

 このように、人間の4つの構成体に対する霊的な探求から、ある時点で、いわゆる乱れが生じたため、当初の形で統合されていない、というような結論を導くのは注目すべき事実である。



 ルシファーは言う。

「お前たちの目は開かれ、お前たちは善悪を区別するようになる。」

 この言葉の中には、究めて深い真実がある。単なる「眼が開かれる」という意味に理解すべきではない。目は人間の全ての感覚を代表している。もし、ルシファーの言葉を正しく理解するなら、次のようになる。

「お前たちの全ての感覚は、神々に従うのとは異なる形で働くようになる。」

 ルシファーの影響により、人間の感覚は、神々に従うような形とは、異なる形を取るようになった。今日の人間にとって、人間の感覚の本質的な機能を表現するのは究めて困難である。

 ルシファーを通じて、人間本性を形成する4つの構成体の間に「不整合」が入り込まなかったら、人間の感覚機能が、どのようなものだったか、を明らかにすることは、馬鹿げたことに思うかもしれない。何故なら、人間の本来の正しい感覚機能とは、これまで人間が経験してきたものではない、という事実を信じるのはほとんど不可能だからである。

 「人間の目は、何のためにあるのか?」と問うなら、「何だって、勿論、見るためだ!」という以上に自然で明白な答えがあるだろうか。そのような意味で、「目は見るためにあるのではない」、などと言う人間を馬鹿呼ばわりすることには、確かに正当性がある。

 しかし、現実に、地球進化の初期に遡れば、人間の目は、本来、見る能力に起因せず、現在の見る能力に起因するのは、ルシファーの誘惑によるものであることがわかる。それはつまり、次のような経緯がある。

 人間のもつ視覚能力は、眼を通じて、外に進出し、いわゆる物体にまで到達するようには意図されていなかった。神々の本来の目的に合致した形で、全てが進行していたなら、人間の視覚能力とは、自分の目を意識することで、外的な事物を見るのではなく、人間自身の目を経験し、感じとるはずだった。

 つまり、本来の人間は、目そのものの活動を意識するように発達すべきだった。しかし、現在の視覚能は、目そのものに対しての意識をもたない。人間は、眼の活動により生じる視覚に対して、つまり、周囲の外的な事物に対しての意識だけをもつ。

 本当は、対象に到達してから、「見る」という視覚行為に関与するのではなく、もっと早い段階から関与し、既に、目の中で、眼そのものを意識すべきなのである。本当は、眼の活動そのものを感じないといけない。



 自由に手を動かしている場合には、手自身の実際の動作を意識できる。しかし、視覚だけに注意を向けても、何も意識できない。このような実態が、今日の人間の特徴である。

 最初から、このような実態が意図されていたわけではない。神々が意図していたのは、目や耳、もしくは、いずれかの感覚器官に注意を向ければ、以前述べた、支配する「意志」を知覚し、実際に、支配する「意志」の中を泳ぎながら、耳その他の器官への特別な影響の形に従って、その事実を認識する、というようなものだった。

 このように、人間の目に関する経験は、あらゆる点で、人間の手に関する経験に類似したものになるはずだった。

 例えば、何か物を掴めば、力の入れ方や、物のへこみ方により、硬いか柔らかいかを知覚できる。また、実際、いつでも手の動作に対する意識をもっている。目についても、手のようであるはずだった。エーテル体が肉体に正しく適合しているうちは、可能だっただろう。

 もし、正しく適合していたなら、人間は目を知覚し、目と「支配する意志」との関連を直接感じ取れただろう。



 しかしながら、現在、エーテル体が肉体に正しく適合していない、という重要な事実に気づくべきである。ただ、この事実は、人間の中に見られる「不適合」の1例に過ぎない。





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Last updated  2011年09月21日 11時16分31秒
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