シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年09月27日
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カテゴリ: 神秘体験空間
人間にとって、楽園の外にいることが、最も大きな楽しみになった!

 いま、人生についての、上記の本当に不思議な事実に直面しているが、この不思議な事実を学び、知るべきである。

 (天国よりも、地獄にいる方が好きな人間が多い、ということ。)

 そして、最後の第4の不整合へとやってきた。この第4の不整合には、自我とアストラル体が関係する。第4の不整合について、ルシファーは、自我のアストラル体に対する卓越性が生じるように、乱れを生じさせた。

 第1から第4までみてきて、人間の構成体の関係のなかで、乱れがない部分に気づくだろう。それは、アストラル体の自我に対する卓越性であるが、それは存在しない。単純に、論理的に考えてはいけない。常に事実に対する観察に従って前進すべきである。

 既に見てきたように、アストラル体とエーテル体の間には、第2の関係があり、そして、その逆の第3の関係があるが、アストラル体と自我には、アストラル体に対する自我の卓越性だけがある。

 このことは、ルシファーの影響の介入前の、神々が意図していたアストラル体との正常な関係を、自我がもはやもっていない、つまり、本来、自我がもつべきだった関係よりも、自己中心的である、という事実を意味している。

 自我のアストラル体に対する優越性は、ルシファーの影響によって起こった。



 この問いへの答えを理解するには、まず、自我とアストラル体の間の適切な関係に対する明確な理解が必要である。

 自我とアストラル体の正しい関係について知る唯一の方法は、その関係を再構築してみることである。物質現象世界の中に生きる人間のなかでは、必然的に、ルシファーの影響を受けるため、自我とアストラル体の間の関係が秩序だったものになっていない。自我の卓越性が常に存在する。

 いうなれば、人間は、本来よりも、より自己中になっている(粗雑な表現だが、このような表現が相応しい)。

 さて、この連続講義の中で、人間の自我の本当の役割を見通せるように誘導する考察を積み重ねてきた。自我の正しく真正な関係は、人間が、賢明で精力的で、忍耐強い自己訓練に取りかかり、「驚き」、「敬虔」、「調和の感情」、「献身」という言葉の下に記述した性質を獲得したときに生じる。

 そのとき、何の偏見ももたない観察者により、自我はルシファーの介入による影響を取り消し、打ち消し、真正なアストラル体との関係をもった、という印象が持たれる。

 以上の、「驚き」、「敬虔」、「調和の感情」、「献身」の4つの魂の性質を、非常に高度に発達させることでのみ、元の正しい関係を取り戻すことができる。

 では、その時、一体、自我はアストラル体との間に、どのような関係をもつのか?

 その正しい関係は注目すべきものである。著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」のなかの内容を注意深く読めば、理解が得られる。今日のような人間は、絶えず思考、感情、意志と密接に結びついている。

 思考、感情、意志と無関係に、自我だけの状態を見つけるのは、外見的な覚醒意識には、簡単ではない。試しに、純粋に、自我だけを考察してみればよい。

 ウンガー博士(人智学に関わった人物らしい)が、この思考、感情、意志から離れた自我を考えるように、私(シュタイナー)の友人に、何度も要求した際、その友人は勇敢にも、この自我だけの純粋な状態の把握に努力したが、ついには息切れしてしまった。

 真の自我に到達することが、思考だけでも、非常に難しいことがわかる。まして、物質界の現実のなかで、実際に、絡み合った思考、感情、意志から、自我を分離するのは尚更困難である。通常、人間の魂は、思考、感情、意志そして、欲望とともに経験され、一瞬たりとも、それらから自我が離れることはない。



 そのとき、もう、「自分が考える」、とは言えない。何故なら、そのときの思考は、自分とは関係なく、勝手に外で進行するプロセスのように見えるからである。それは感情や意志についても同様である。

 (芸術家が、作品をつくるのは、この行為のためである。つまり、真の自我を発見するためである。)

 しかし、少し考えれば、思考、感情、意志から、自分を解放することは、いつかは達成すべき理想として自分の前に置くことができるが、実際問題として、あまりにも、それらに雁字搦めに捕らわれているため、究めて困難である、ということが認められる。

 例えば、自分に次のように言い聞かせながら生きていくのは究めて困難であることが理解できる。

「この世に、私が生きている間ずっと、そいつは私にぶらさがり、くっついてくる。そいつは、私が一緒に成長した仲間であり、私の幻影なのだ! 私の思考、感情、意志の全てが、私と共に歩む。

 私は、思考し、感じ、意志するものではなく、私の自我のなかの本当の私なのだ! 私は、私が携える3つの袋のようなものと共に歩む。1つの袋には思考が、もう1つの袋には感情が、そしてもう1つの袋には意志が詰まっている。」




 この3つの袋理論を実際に自分のものとしない限り、ルシファーの影響の介入前の、神々によって本来意図されていた状態から、今日の思考、感情、意志との関係に至った自我に対して、いかなる正しい考えにも到達できない。

 人間は、本来、自分(自我)を眺めるように神々から運命づけられたのであって、自分(自我)の中で生きるように意図されてはなかった!

 では、元来、誘惑とはどのような性質のものか? 

 できるだけ通俗的に記述してみる。

 ルシファーが人間の自我に近づいてくる。本当は、自我を、純粋性の中で保持すべきだったが、その自我に対し、ルシファーが次のようなことを言った。

「おい人間! たった1つのちっぽけな『私』という中心から辺りをうろつくだけで、他のものをただ眺めているだけなんて、全くつまらないじゃないか。そこから、お前のアストラル体の中に飛び込んだら、もっとずっと楽しい思いができるぞ。

 お前にその力をやろう。そうすれば、お前はもう、お前の自我と一緒に突っ立って自分の幻影を眺めている必要はない。お前は、お前の幻影の中に浸れるぞ。

 だが心配ない、お前が、その中で圧倒され、溺れたりしないように、オレ様の力を提供しようではないか。」


 (この悪魔の囁きは、聖書では、悪魔がイエス=キリストを誘惑する場面として記載されている。

 1.眺めているのではなく、楽しい思いをしろ→石をパンに変えるよう命じたらどうだ、の誘惑
  キリストは、人間はパン「物質」だけで生きているのではない、神々により生かされている、と応えた。

 2.アストラル体のなかに飛び込んでみろ→神の子であるなら、飛び降りてみろ、の誘惑
  キリストは、親である神々の愛に背いてはならない、と応えた。

 3.力を提供しよう→私にひれ伏すなら、地上世界を与えよう、の誘惑。  
  キリストは、神々から離れては彷徨い行き場を失うだけで、神々の愛があってこそ永遠に生きられる、と応えた。)





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Last updated  2011年09月28日 10時05分26秒
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