シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年10月03日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 例えば、眼の前のチョークが、「ある思い」を駆り立てる場合を考えてみる。その時、もし、チョーク以外の他全てを排除し、チョークだけを知覚することで刺激された「思い」に没頭するなら、自身の最奥の存在は、そのチョークの「思い」と1つになる。

 このチョークの「思い」を把握するときに、突然、昨日見たチョークを思い出す。直接的な知覚により与えられたチョークの「思い」を、昨日経験したチョークと比較すると、今日観察したチョークと自分は完全に1つだが、昨日のチョークを自分とは同一視できない、ということに気づく。

 後者は記憶像であり、いつまでも、記憶像としてとどまる。今日のチョークとは本当に1つになったが、昨日のチョークは、外的な事物となった。今日観察されたチョークは、今日の自分の内的な存在と同一視できるが、記憶像は、後に振り返ってみるもので、前者と比べると客観的で外的な存在である。

 そして、以上のことは、現在の経験を除き、人間が魂の中で経験する全てについて言える。現在という「時間」はさしあたり、人間のなかで内的な存在になっているが、経験した過去、つまり、いわば脱ぎ捨てた過去全ては、既に人間の外にある。

 以上のプロセスについて、イメージするなら、「思い」を抱く現在は、例えば、蛇に喩えられ、外に出した過去は、脱ぎ捨てられた蛇の皮に喩えられる。そして、蛇が2度3度と脱皮するように、幾らでも多くの思考を脱ぎ捨てることができる。

 (お釈迦さまも似たようなことを述べている。)

 脱ぎ捨てた思考は、今現在の内面性に比べると外的な事象になっている。そのような思考のプロセスは、記憶を辿ることができる時点からずっと、当初は、内的な存在であった思考を、絶えず外的な思考にしてきた作業を意味している。

 例えば、今、もっているチョークの思いを、次の瞬間には、本当に、外的な事物にしてしまう。そして、自分自身は、何か別の対象に移っていく。つまり、人間は、絶えざる外面化の過程に従事している。人間は、永遠に自分の内で何かを創造し、そして、それを過去へと置き去りにする。

 人間がもつ最奥の存在は、脱ぎ捨てられた皮のように、直ちに外的な事物になる。人間の魂の活動は、内面を絶えず外面にするため、自身というなかの精神的な過程の中で、真に最奥にある内面と外面とを区別できるという事実から成り立っている。



 さて、この魂の区別の過程、つまり内面の外面化により達成される過程こそ、実際に魂の経験内容を与えるものである。何故なら、この内容を熟考するなら、自分が思い出せる幼児期の最初から経験してきた全てを自分の魂と呼べる、と理解できるからである。

 自分の経験全てを忘れてしまった人は、実際、自分の自我を失ってしまう。

 (経験内容を忘れると、認知症になる。)

 従って、記憶を後にしながら、それでも、記憶を絶えず脱ぎ捨てられた皮のように保持できるという事実の中や、その可能性の中に、魂の経験の現実性が横たわっている。

 さて、この魂の経験の現実性は、あらゆる形で形成されている。では、魂が、ある瞬間には、その他の瞬間とは、いかに異なって形成されるか、を観察してみる。例えば、美しい星空の夜に出かけ、ベートーベンの交響曲を聴きにいったとする。

 そのような瞬間に、広大にひろがる魂の経験領域を、自分の内面と一致させる。星空の下から暗い部屋の中に足を踏み入れるとき、この広大な魂の経験領域は、突然縮んでしまったかのようになる。そのときには、2,3の思いがあるだけである。

 交響曲を聞き終わり、魂の経験領域は、交響曲の思いに、縮小してしまう。そして、家に帰って眠るとき、魂の経験は、朝起きて、自分を、まるで鳥が羽毛を立てるように広げるまで、収縮している。以上のように絶えず魂の経験を再構築している。

 もし、魂の経験内容を描写するなら(本来描けるのは空間であって、時間ではないので、象徴的に描くという意味である)、多くの異なった形に描くことができる。

 以下の図において、魂の経験は、(a)では縮み、(b)で広がる。魂の経験はありとあらゆる形を取ることを想定する必要がある。(c)には常に魂の経験内容がある。

masga1.jpg
 (上図では、「運動形態」としたが、原文では、「形態」である。「運動」による「形態」と考えてほしい。)

 上図のように不可視の魂を可視化し、象徴的に表すことで、魂の収縮と拡張に気づく。魂の経験は、交響曲を聴いているときの方が、単調な音を聞いているときよりも豊かとなる。そのように魂の経験内容は、外に向けて広がり、そしてまた内に引きこもる、つまり、拡張し収縮する、といえる。



 ただ、魂をこのように表現するときには、いかなる空間的な性質も混入することは許されない。この拡張と収縮の間に、あるものが疑いなく存在する。そのあるものとは、内面的な精神の働きである。

 内面の精神的な働き! すなわち、魂の経験内容とは、この運動なのである。

 ただ、運動といっても、空間中での運動ではなく、時間のなかでの運動を考える必要がある。そして、この拡張と収縮が、形態を与える。

 以上のように、魂の運動と、その外的な表現としての形態が存在する。しかし、空間的な形があるわけではない。この形態とは、空間上ではなく、拡張し、収縮する魂の時間的な性質を意味している。





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Last updated  2011年10月04日 15時17分12秒
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Re:シュタイナーの人智学的医術その534(10/03)  
忠武飛龍  さん
ぜんぜん違う話題ですが、五来重さんの本を読んで思ったことです。
日本には「ひじり」の伝統があって、仏教・神道の実は大きな力・思想でなかったのではないか。と思います。

有名どころでは空也・行円・ビックネームの行基。
勧進聖では重源・歌人兼職の西行。

空海は、聖・学問僧・行者の三者をかねた巨人で、法然・日蓮もその傾向があります。

橋を架け・相談に応じたり悩みを解消したり・病を治したり・
それを義務でも職責でもなく、「自己の修行・滅罪」のために行った聖たち

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E9%80%B2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E8%81%96

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA

再見!

なにか江戸・特に明治以降失った日本人のもつ民主制・共同性が、ここにありそうな気がします。

(2011年10月04日 15時46分27秒)

Re[1]:シュタイナーの人智学的医術その534(10/03)  
5dolphin  さん
どうも、忠武飛龍さま
>日本には「ひじり」の伝統があって、仏教・神道の実は大きな力・思想でなかったのではないか。と思います。
>有名どころでは空也・行円・ビックネームの行基。
>勧進聖では重源・歌人兼職の西行。
>空海は、聖・学問僧・行者の三者をかねた巨人で、法然・日蓮もその傾向があります。
>橋を架け・相談に応じたり悩みを解消したり・病を治したり・
>それを義務でも職責でもなく、「自己の修行・滅罪」のために行った聖たち
>なにか江戸・特に明治以降失った日本人のもつ民主制・共同性が、ここにありそうな気がします。

非常に参考になりました。秘儀参入者の生き方を彷彿とさせますね。現代でいえば、マザーテレサのような人ですね。

日本では、カネは卑しいものという教えがあります。卑しいものだからこそ、坊主に寄付して、神殿や寺や仏像を建てたり、社会福祉に役立てられたりして、物欲という卑しさを浄化させる役割を、仏教が果たしていたのでしょう。

江戸っ子の気質にもあるように、宵越しの銭は残さない、というのは、カネに対する欲望や執着心を戒める誉め言葉だったと思います。

つまり、銭は社会に役立てるために使うものだという認識があったのでしょう。だから守銭奴は嫌われたわけです。江戸の粋につながったのでしょう。社会秩序や道徳を守るという美学なんでしょう。

現代の日本人からは奪われた性質です。江戸っ子からすれば、野暮な輩が多いとさぞ嘆くでしょうね。 (2011年10月05日 10時34分48秒)

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