シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年03月06日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回まで、古代ヘブライ語の例のサイトから引用し、教育を考えたみた。そこで、その総括を考えてみたい。

 明治維新以降、日本の教育は、欧米の猿真似だったことは否定できない。欧化政策などは典型である。その目的は、欧米列強に侮られないことで、日本は、欧米からみて、紳士になる必要を感じ、そのための教育だった。

 かつての帝国大学は、欧米の大学の猿真似でしかなかった。実際、多くの西欧人が教員としていわば輸入された。

 当の欧米人は、猿真似と笑っていた。そもそも、欧米からみて紳士になるという発想自体が、日本人の観点だからである。

 それは、欧米の独創性を尊ぶ価値観とは真逆のもので、歴史的経緯から、英国が紳士の国とは、とてもブラックジョークといわざるをえないだろう。

 西欧を真似るどころか、日本人からみた架空の西欧を真似ているわけである。

 例えば、現在の医学体制も、当時のドイツの陸軍の医学体制を継続した(ドイツにはもはや存在しない)名残りが随所にみられる。ドイツ語の医学が高齢の医師に浸透しているのも、その名残りである。忘れてはならないのは、ドイツ留学の陸軍医の森鴎外のせいで、日本陸軍は脚気に悩まされた事実である。

 面白いところでは、食事のとき、ライスをホークの背にのせて食べるのが、西欧の作法と思い込んでいる日本人が多いが、西欧文化の輸入の経緯から、恐らく英国海軍の作法に思われるが、間違っても一般西欧人の作法ではないので、フランス料理の食事の際に、そのようなことをやると奇妙に思われる。

 そもそも、食事の際に、作法などに拘るのも、いかにも日本人的ともいえる。例えば、逆に、欧米人が、寿司を食べるときに、日本人みたいな食べ方をわざわざ試みるだろうか?



 このような猿真似は、現在、音楽の分野に多いが、米国で受けないのは当然だろう。「肉じゃが」を、「ビーフシチュー」として出すのは、「カルフォルニアロール」を、寿司といって出すのと同じである。

 それは、現在、中国が、「ドラえもん」であるかのような猫キャラクターを複製するのと同じ感性ともいえる。しかし、西欧人のように猿真似といって馬鹿にしないだけ、マシかもしれない。だからとって、日本人が過去に同じ事をしていたことに気づく人はほとんどいない。

 実際、満州支配は、欧米の植民地支配の物真似である。

 これと同じようなことは、現代でもマスコミにより頻繁に行われている。その多くは、官僚が自己都合で流す嘘情報に起因しているように思える。

 少し考えて、欧米人と日本人の立場を入れ替えてみれば、一目瞭然である。米軍と同じ兵器を使ったからといって、自衛隊が米軍になるわけではないのは、成績優秀な人の鉛筆を使えば、高得点がとれるわけではないことから、明らかだろう。

 つまり、猿真似や、権威を真似ても、バレれば恥ずかしい思いをするわけである。

 猿真似の根底にある偶像崇拝というのは独創性がほとんどないので、所詮、偽者なので、バレれば恥ずかしい思いをする。

 以上のような猿真似ケースは、日本の伝統的文化の根本にある相手の気持ちを「察する」という精神風土が怠惰に染まって誤って出てしまった例といえる。

 相手の気持ちを本当に察するのではなく、自己都合や偏見を交えたままに、察する振りをしているにすぎない。1種のパフォーマンスなのである。お笑いの道化としては通用するだろうが、お笑いの世界を、常識の世界に持ち込むのは狂人である。

 例えば、日本人が集団でレストランにやってきて、ライスをホークの背にのせて食べ始めたら、西欧人の多くは笑い出すか、忽ち噂するだろう。

 そのような意味で、日本のお笑いの有名人の物真似は優れているとはいえる。



 このような単純な間違いは、日本に原爆が落とされるまで、落とされても尚、ほとんどの日本人は気づいていないようである。特に官僚は、精神性まで真似れば、西欧人と扱われると思い込んでしまっているようである。それは自分が奴隷や道化であることに気づいていないことで、最も教育の成果に乏しい現われである。

 戦後の日本の教育の失敗の象徴が現在の官僚にあるといえる。

 道化だって、望まれたときにしかやらないプライドをもっている。プライベートまで道化であるのは奴隷である。

 米国人の真似をすれば、米国人に扱われるという発想は何に根源があるのだろうか?

 これこそ、古代イスラエルの風習にあるように思える。



 日本人は、古来から、皇室を模範として、家族を形成してきた。つまり、日本の文化は、皇室、つまり朝廷の文化なのである。

 京都に観光する外国人が多いのは、皇室文化の名残り、つまり古代イスラエルの平安京が再現されているからである。

 しかし、「天下り」という単なる無能官僚の利権獲得に、朝廷文化の用語が利用されるのは、上記に説明した猿真似の1種にすぎない。

 「天下り」の本当の意味を知らずに、偶像崇拝し、俗物化した典型である。このような俗物化が、ヤハウエを怒らせるのだろう。ヤハウエは「天下り」を断じて許さないだろう。

 キリストが、悪魔に荒野で唆されたときに、断固として、「主なる神を信じよ!」と拒否した態度を忘れてはならない。

 言葉の意味を理解しないで使ってはならない。それは神の言葉も穢すことになるからである。

 「天下り」というのは、皇室や、神事に関わることに対してのみ用いられるものなのだ!

 官僚たちがやっていることは、猿真似である。中国が、日本の製品のコピーをつくることを批判できるのだろうか?

 もし、批判するのなら、「天下り」の罪を先に裁かなくてはならない。相手を裁くには、自分が裁くのに相応しい資格をもつことを実証しなくてはならない。

 偽者が通用しなくなるときは、本物が明らかになるときである。教育とは真贋を見分ける能力を身につけることでもある。

 ユダヤ人でないのに、ユダヤ人として裁くことは、主たる神に背く行為となる。教育とは、つまり、自らの出自を明らかにすることからはじまる。

 自分とは何なのか、どこから来るものなのか、はじめに明らかにしなければいけない。

 そのような明らかな証明が抜けてしまったので、教育が荒廃してしまった。日本人が古来からもつ、「察する」という感覚の源がどこからくるのか、この感覚を高め、継承するには、どうすればいいのか、そのようなことが教育である。

 「察する」の根源は、日本人が伝統的に受け継いできた真贋を見分ける感性のことである。

 日本人の模範は、皇室であり、父親は天皇が見本である。皇室が倹約すれば、日本人の家族はいかに富んでいようとも、自然と自主的に倹約しなければならない。それが、日本の教育なのである。

 日本人が自然の四季とともに生活を変えるのは、皇室とともに精神を一にし、永遠の命を永らえ、楽しむ秘訣でもある。

 強制ではなく、思いやりをもって、自主的に行う態度の育成にある。だから、日本人は自然を愛でるし、皇室に親近感を覚える。

 尊敬する人の身振りを自主的に真似ることは非常によいことである。

 問題は、自主的に楽しく行う気分にある。嫌々やるのでは、やらない方がマシである。

 だから、まず、自己の由来を理解しないと、教育を何者もはじめることはできない。自己の由来とは、日々の反省にあることはいうまでもないだろう。

 偽者や詐欺を正すことをはじめなければならない。それが教育の大原則である。





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Last updated  2012年03月07日 13時52分23秒
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