シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年08月24日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 忠武飛龍さまの御指摘を受けた「源田実」なる人物を調べるうちに、これは極悪人なのではという思いが強くなってきている。明治維新の極悪人の伊藤博文以来の極悪人の印象をもつ。

 源田や伊藤のような、比較的容易く、人の信頼を裏切り、利用するような極悪の性質は、諜報機関特有のものと思われる。

 その源田と原子力を結びつける鍵は、瀬島にあることが、以下のサイトからわかる。

http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/sekona.html

 以下は、上からの抜粋である。

++++++++++++++++++++++++

沈黙のファイル 「瀬島龍三とは何だったのか」 共同通信社社会部編 より

 1979年秋、東京、等々力の児玉邸。児玉が西山の目の前で瀬島龍三に電話した。
「庄司の件は西山君に任せます。彼は頭の切れる男です。僕の代わりに信頼して何でも相談してください。」



 『児玉先生は5時間かかって瀬島さんへの親書を書いた。便箋5枚ぐらい。あまり達筆とは言えなかったな。『この者を児玉誉志夫そのものだと思って、どんな大事を打ち明けても大丈夫だからという内容だった。僕はそれを持って瀬島さんに会いに行った」

 当時、伊藤忠庄司の系列会社に出向中の庄司は『参院選に出馬するから資金を出してくれ。」と伊藤忠商事側に迫っていた。無名の庄司では当選はおぼつかず、費用も一億円は下らない。

 「資金の提供を断られた庄司は元週刊誌記者と組み、瀬島さんも絡んだ伊藤忠の軍用機商戦の内幕を暴く記事を書き、伊藤忠に揺さぶりをかけ始めた。慌てた伊藤忠が『何とかして』と児玉先生に頼んだ。下手すれば国会に喚問されかねないからね。」

 庄司が伊藤忠商事航空機器電子部にいた当時、防衛庁の第2次FX(次期主力戦闘機)選定をめぐる商戦が激化していた。その最中の68年1月、東京地検は伊藤忠商事東京本社(旧東京支社)を自衛隊の機密漏洩事件に絡み家宅捜索した。3月には元空爆防衛課長、川崎健吉が逮捕され、直後に川崎の元上司の防衛部長、山口二三が自殺した。

 「伊藤忠の本社に行くと、瀬島さんが現会長の米倉功さん(当時常務)を紹介されて『この人は必ず社長になる。この人と話し合って』と言われた。どこの会社でも表に出したくない恥部はあるからね。それから僕は庄司を事務所に呼んで説得にかかった。」

 西山は煙草の火を灰皿でもみ消しながら続けた。

 「そして君は金が欲しいのか選挙に出たいのか。どっちだ』と迫ったんだ。」結局、普通の退職金の三倍くらいの金を伊藤忠が払って三ヵ月後に問題は決着した。彼にしてみればそんなにもらえると思っていなかったんだね。僕が伊藤忠から貰った謝礼金もそっくり庄司にやった。その額は想像に任せるよ。」

 庄司は誓約書(筆者注 今後、全てを西山に預けるというものと、伊藤忠を円満退社するというもの二通)を書いた直後の八〇年の二月末、伊藤忠商事を辞め西山経営の「やまと新聞」に入社した。

 「どこにも行くところがなくて『西山先生の門下生として出直します』というから、やまと新聞に入れたら、半年ぐらいしでだんだん出社しなくなった。たまに来てもぼーっと腕組みしているだけだった」。庄司は約一年後に全く姿を見せなくなり、九一年に病死したという。

 「庄司の一件から瀬島さんは僕を非常に信頼してくれるようになり、なんでも腹を割って話せるような仲になったよ。その関係は今でもずっと続いている。」

 西山の「確たる判断」によると、瀬島を児玉に紹介したのは元海軍参謀で戦後、航空自衛隊の幕僚長を経て自民党参議院議員となった源田実だ。児玉は戦時中、上海の児玉機関で海軍の軍需品調達に携わっており、源田とはそれ以来の付き合いだ。



 庄司問題の解決から2年8ケ月後の82年10月。東京・永田町のヒルトンホテル二階のスイートルームには自民党総裁選の中川派作戦本部が設置されていた。その部屋の奥のソファーで向き合う二人の男。周囲の空気は異様に張りつめていた。

 『蔵相でも通産省でも好きなポストを用意する。中曽根は必ず約束を守るから、総裁候補を降りてもらえないか」

 瀬島龍三が身を乗り出し、派閥の領袖中川一郎に迫った。

 「いや、この選挙はやらなくちゃいけないんだ。おれには神様がついている」

 「北海道のヒグマ」と言われた中川が何かに取りつかれたように答えた。



 中川が降りれば一般党員による予備選がなくなり、田中派の支援を受けた中曽根康弘の当選がより確実となる。

 「それでも筋を通したい。やらなければいけないんだ」

 中川は譲らなかった。結局11月の予備選は中曽根、中川、河本敏夫ら4人で争われた。中曽根が圧勝した。敗れた中川はそれから2ヶ月後札幌市内のホテルで首をつって自殺した。

 「僕は瀬島さんの話に乗ってたんです。だってポストはくれるし、小派閥の中川先生が総裁になれるはずがない。『瀬島さんの言ううようにしたら』と口を出したら先生に怒られたよ」中川の秘書だった衆議院議員の鈴木宗男(43)

 瀬島は、中川が農相時代の77年ごろに親しくなり、中川後援会「さくら会」の発起人にもなった。鈴木が語る。

 「中川先生が大野伴睦の秘書だった関係で、大野後援者だった久保正雄東日貿易会社から瀬島さんを紹介されたんです」

 久保はインドネシア賠償ビジネスを通じて大野や河野一郎ら自民党人脈に食い込み、瀬島とも取引を通じ密接な関係にあった。賠償ビジネスから撤退し、大野と河野が病死した後も、党人脈に連なる中川や中曽根と交流を続け84年1月に病死する。

 「総裁選の瀬島さんの動きは久保さんも知っていて『今回は中曽根だ。一ちゃん(中川)無理するなよ』と電話してきました。

++++++++++++++++++++++

 以上から、瀬島を、児玉に紹介したのは、源田であることがわかる。児玉と、源田の関係は、次のフリーメーソンの話からわかる。

 抜粋文が長いので、次回に続ける。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012年08月24日 16時10分59秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: