シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年08月28日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 家康というのは、馬鹿ではないから、豊臣政権を滅ぼした際に、徳川幕府が滅亡することを十分に想定していたことは、前にも、このブログで書いたことがある。

 前回紹介した本によると、徳川御三家と呼ばれるのは、江戸の本家、尾張藩、紀州藩で、水戸藩は除外されていたという。除外されていた理由は、水戸藩が、尊皇攘夷の思想を持つことからわかるという。水戸藩は、代々、将軍の後見役でもある。

 つまり、水戸藩は、徳川家の後継者を見届ける役なのである。

 この本によると、『家康の残した「公家法度」の真義は、「徳川幕府が時代の要請にあわなくなったら、密かに南朝の天皇家を皇位に立て、そのもとで徳川家の存続を図れ』という意味をもっていたという。

 そのために、徳川家に懇意な天皇を、当時は、玉(ぎょく)といっていたようで、幕府が隠しもっていたのが、後の東北連合の熊沢天皇だったというのである。会津藩が薩長にあれほど抵抗したのも、玉を囲っていたからだと思われるわけだ。

 つまり、外様藩に革命をやられる前に、幕府自らが革命をやってしまえば(勿論、仮想のものだが)、外様に先を越されることなく、幕府に都合よく進むというわけなのだ。

 家康は、朝廷の盲点を見抜いていて、朝廷が、幕府の意向を聞かないときは、南朝を持ち出して、朝廷を揺さぶることを念頭においていたわけである。この実行部隊が、幕府の隠密で、水戸藩とつながるようである。このような話が、水戸黄門の諸国漫遊記につながったのだろう。

 水戸藩の藤田東湖は、天下の情勢を鑑みて、南朝革命の指令役を担った存在なのだろう。幕府存続に懇意な天皇なら、公武合体で、反意なら、熊沢天皇を嬢して、慶喜を将軍につけ、南朝革命をして、後に伊藤が大室で長州幕府として行ったように、幕府を存続させる手筈を整えたというわけで、藩主斉昭が、先頭の頭目になって、慶喜を送り込み、その道筋をつけようとした。

 対照的に、外様長州の吉田松陰が、西の藤田東湖といわれる所以で、松陰は、南朝の落胤の大室を玉として、長州幕府を立てることを構想する。明治維新後も、長州の藩主は、伊藤に、自分はいつ将軍になれるのか、と聞いたという笑い話があるそうである。



 松陰らの長州の朝廷工作部隊は、かつて秀吉を天下取りに導いた背後の存在でもあるらしい。中国大返しのような芸当は、謀略がなければできるはずもない。秀吉の出自が伊藤と似ていることでわかるという。

 出自や身分が天下人に相応しくないのに、なれるというのは、重要人物が死んでしまったわけで、それは暗殺を意味し、幕末に病死が多いのは、暗殺が横行したことでわかる。

 だから、ペリーの黒船来襲は切欠にすぎないが、幕府側の朝廷工作の不手際もあり、朝廷の孝明天皇が過剰に反応してしまったのと、大奥での藩主斉昭の評判の悪さからくる。実際、斉昭は、水戸に酒池肉林をつくりあげ、それが現在の偕楽園だという。斉昭は、外圧を理由に自分の息子を将軍につけ、幕府を専横しようとしたようだ。

 さて、はじめは、水戸藩と長州藩の関係は良好だったという。お互い、尊皇攘夷で、慶喜を、13代家定の後に、慶喜を将軍の座につけようとした。水戸藩としては、自前の天皇に、自前の将軍が理想だが、それが駄目でも、長州の天皇に、水戸の自前の将軍、つまり慶喜をつけようという妥協案があったようである。そして、水戸の天狗党が、幕府に対して反乱を起こすが、あっけなく収拾されて、藩主斉昭と慶喜は、自己保身から天狗党をあっさり切り捨ててしまう。

 家定は病死といわれているが、恐らく、斉昭による暗殺だろう。慶喜を将軍につける斉昭の試みは、12代家慶の頃からあったようである。それを大奥に見透かされ、井伊大老を通じて、先に家茂を立てられてしまう。つまり、斉昭の謀略は、大奥に見抜かれていた。

 そもそも、幕府の問題は大奥による財政逼迫にある。大塩中斎が、乱を起こしたのも、大奥の贅沢からくる年貢徴収の重税にある。

 だから、大奥からみれば、斉昭の子慶喜がやることは、幕府改革という名の下の大奥大粛清で、節約に決まっているから、大奥は大反対で、更に、斉昭は、自分の水戸の酒池肉林を棚にあげて、大奥を牛耳ろうとするのに、反発してのものだろう。大奥は、いまでいうなら、財務省というとこだろう。江戸時代も、いまも一般の住民は蚊帳の外である。

 幕府は、大奥が将軍を人質にして、専横している状態だったといえる。しかも、大奥は、朝廷への工作金を担う重要なところだったようで、朝廷とのつながりも深いから、将軍後見役の水戸藩といえど、なかなか手出しができなかったのだろう。

 大奥をつくったのが、春日局で、三代将軍家光は、春日局と家康の子といわれているので、春日局が、天海を通じて明智光秀の流れを汲むことから、徳川幕府は、大奥という裏で光秀に乗っ取られていたともいえるから、歴史的な皮肉でもある。

 さて、幕末の将軍継承問題だが、長州藩では、代々、相応しくない者が藩主についたら、毒殺して、代えてしまうというような藩主でも知らない極秘の忍者部隊がいたという。伊藤博文は、その下忍といわれる下層の出身だという。ちなみに吉田松陰は、中忍だったという。

 長州藩ですら忍者部隊がいたのだから、徳川幕府の隠密は、必要ならば、不要な将軍を毒殺してしまう忍者部隊だったのだろう。このような忍者部隊は各藩にいたようだ。そのように考えてみると、将軍は、大奥に気に入られるかどうかで、運命が決まってしまう。実際に、伊藤が、孝明天皇を毒殺(刺殺らしい、子の睦仁が毒殺)したのも、朝廷の女官を通じてだというから、将軍にとって、大奥は鬼門である。



 このようなことから、慶喜が一端の女垂らしだったのに、大奥に近づかなかった理由がわかる。

 長々と余談を続けてしまったが、次から明治維新の隠された意味を紹介する。  





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Last updated  2012年08月30日 15時30分40秒
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