シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年08月28日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 太平洋戦争の謎という表題だが、結局遡っていくと、戊辰戦争に源流があることがわかる。

 戊辰戦争まで因縁が遡れる理由の答えは、日本の国旗の日の丸にある。さて、この日の丸は、松重楊江著「二人で一人の明治天皇」では、長州毛利家の軍扇の旗だというのである。

 そういえば、秀吉も、貿易の船に、日の丸を用いたことが、ウイキペディアの「日本の国旗」の解説のなかに、「室町時代の勘合貿易や、豊臣秀吉から徳川家光の第3次鎖国令が出される1635年(寛永12年)までの間に行われた朱印船貿易の際に日本の船籍を表すものとして船の船尾に日の丸の旗が掲げられた。」とある。

 この本によると、伊藤博文の力士隊の隊旗が日の丸だったというのである。伊藤も秀吉も、部落の下忍出身である。特に、秀吉の豪農出身は、後世の後付けの可能性が高い。だから、恐らく、日の丸の、赤丸は、南朝の玉を意味するのではないだろうか?

 毛利長州といえば、出雲の国を拠点とする。この本によると、日本人は、縄文系、弥生系、出雲系と、3つに大別できる、というのである。古代史は非常に複雑で、私もいまだに理解できていないが、とにかく、古代日本は、人種の坩堝だったようだ。

 そして、どうも弥生系は北朝と、縄文系と出雲系は南朝と関係が深いようだ。古代史に関しては、不勉強なので、次回以降に譲りたい。要するに、支配されていた側が、支配する側にまわる逆転を画策した流れがみられる。南朝の落胤は、部落と呼ばれていたようである。

 この本によると、長州の伊藤が下忍だったように、薩摩の西郷も、薩摩の郷士とは忍者集団の意味のようだ。部落出身者は、戸籍に載らないために、影の忍者になったようである。薩長といっても、若干のニュアンスが異なる。長州の桂-伊藤は、朝廷の岩倉と結託し、南朝革命による長州政権をつくろうとするが、薩摩の西郷は、長州とは違い、身分制度の打破に重点をおいたようだ。

 実際、維新後の西郷政権は、廃藩置県や四民平等を断行し、それらができたのは、岩倉、大久保、伊藤などの利権獲得洋行組が西洋視察で留守だったのが大きいといわれている。更に、西郷軍は、荊冠旗を掲げていたともいわれている。

荊冠旗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8A%E5%86%A0%E6%97%97

 この本によると、薩長同盟は、慶喜の構想で、大政奉還も、規定路線だったようである。慶喜は、勝海舟を幕府側の実行部隊として、勝海舟は、坂本龍馬を、薩長同盟の実行部隊としたようだ。

 だから、後藤象二郎が、大政奉還の建白を独り占めしたときには、慶喜の土佐山内藩への信頼は失墜したように思われる。慶喜自らが、勝を通じて、龍馬から出した大政奉還なのだから、慶喜にとっては笑止千万だっただろう。

 不思議なのは、当時、龍馬は世間的には無名で、後藤象二郎が、大政奉還の建白を独り占めにし、龍馬が暗殺されたので、龍馬の案だとわかるはずがないのに、後世では龍馬の案だとされている点にある。だから、慶喜-海舟側が情報リークしたのだろう。

 慶喜の目論見としては、体制を一旦は朝廷に返上し、そして改めて南朝の天皇により、大政を請け賜る予定だったのだろう。だから、戊辰戦争になるとは慶喜も幕兵も露とも思わなかったはずである。

 それは、後年の西南戦争による西郷抹殺に繰り返された。大久保の江藤に対する騙し討ちは法治国家とはいえない惨さが明らかになっている。このような騙し討ちが、太平洋戦争までに続くのである。そして、その背後には必ずメーソンの動きがある。

 つまり、慶喜は、一旦返上した大政を再び拝命に行くはずだったのだが、薩長の騙し討ちにあって、驚いて、逃げて帰ってきたというのが真相なのだと思われる。龍馬が殺されてしまったために、薩長の裏切りが、慶喜に伝わらなかったのだろう。

 その証拠が、龍馬が、中岡慎太郎だけにみせた新体制構想で、○○○を中心とした新政府と記載してあったが、この○○○は、慶喜公であることがわかっている。つまり、政権を一旦返上し、慶喜に通じた天皇が、改めて、幕府に政権を委任するという構想だったはずで、慶喜は、その宣下を受け取りに行くはずだったのが、薩長による騙し討ちの戊辰戦争になった。

 この龍馬の構想は、慶喜の目論見通りであり、藤田東湖の右翼革命、つまり家康からの公家法度に沿ったものなので、薩長側の身分制度の打破にはつながらないわけで、特に伊藤や岩倉のように、孝明天皇父子を殺してまで、朝廷工作してきた連中には納得いかない形となる。

 戊辰戦争に至るまでの慶喜の経緯をみてみると、家康の公家法度に則った行動が明らかになる。

 例えば、長州征伐は、慶喜が将軍後見役となり、家茂を誘き出して殺す目的だったと考えられる。だから、家茂が死んだ後は、長州と休戦する。

 以下のウイキペディアの長州征討では、

長州征討
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%BE%81%E8%A8%8E

 「徳川慶喜は大討込と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の御沙汰書を発してもらう。また慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。なお、徳川慶喜は停戦の直後から、フランスの支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手している(幕府陸軍#慶応の軍制改革を参照)。」

 とあるように、幕府側で、家茂を殺すから、長州側で、孝明天皇をなんとかしろ、という含みをもたせてある。海舟は、長州の交渉の前後で、厳島神社に太刀を奉納したようなことを、海舟座談で述べていた。これは南朝の天皇を立てるという意味だろう。しかし、結局、長州との和議後に、慶喜は長州との盟約を反故にして、海舟の立場は追い込まれてしまう。

 つまり、慶喜は、親長州なのだが、孝明天皇が、嫌長州なのだろう。孝明天皇にしてみれば、幕府を助けて、長州を征伐して欲しいわけだが、慶喜としては、薩長同盟もあり、幕府内の大奥を中心とした旧体制を崩すには、外からの薩長は有力なので、倒すわけにはいかないジレンマがある。この辺の駆け引きは非常に微妙である。

 また、上のウィキペディアにあるように、「なお、徳川慶喜は停戦の直後から、フランスの支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手している。」というように、南朝の天皇の下で、改めて慶喜自身が政権をとったら、フランス風の軍政改革を行うつもりだったのだろう。






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Last updated  2012年08月28日 17時00分43秒
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