シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年02月25日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回は、八切止夫作品集から、戦国時代の日本人と信長の実像とを抜粋紹介した。

 「信長殺しは秀吉か」という作品を読むと、信長の冷酷さがよくわかる。その作品によると、信長は、妻となった奇蝶を利用し、舅の道三を、義龍に、腹違いの子という噂を流して騙し討ちさせ、美濃を占領するが、奇蝶に露見したため、信長は奇蝶を無視しはじめたので、奇蝶は、信長暗殺を企て、その企ては、秀吉に利用される。安土城と共に奇蝶が焼かれたのは、秀吉の策略のようで、焼いた信雄を(信長暗殺は奇蝶という)生き証人として残した。

 しかし、信長殺しは、秀吉だけの仕業ではなく、細川藤孝や足利義昭やイエズス会、そして家康も絡んでいたようである。

 「徳川家康」という作品では、信長の執念深さが表現されている。「信長殺しは秀吉か」の主人公有楽にもいわせているが、信長が信秀の後継者になれたのは、舅道三の美濃勢力に負うところが大で、だから奇蝶は、信長に対して居丈高に振る舞い、美濃衆は信長に美濃の京風の式法を強要し、信長はそれに反抗したので、「たわけ(馬鹿)殿」と呼ばれ、尾張一族からも、美濃の裏切り者とみられるようになったという。

 信長の母の父平手政秀などは、信秀の葬儀でも、信長を無視し、弟の信行に従うような態度をとったようで、信長は、このときの平手の態度と、信長の母が男不在のときに坊主と密通(不倫)したことで、平手が折檻し死なせたことを怨みに思い、平手家を根絶やしにすることを密かに決め、政秀を、母に折檻したように自死させ、後に家康から、三方ヶ原の救援依頼がきたときに、平手家後継の平手汎秀らを救援に向かわせ、平手を捨て殺しにするように佐久間らに言い含め、見殺しにしたという。

 平手からみれば、信長は、尾張を美濃に明け渡す侵略者の元凶とみなしたようである。戦国時代は、同じ日本とはいえ、地方では全く異なる国々の観念があったことがわかる。

 信長の執念深さは凄まじく、晩年に、林佐渡が、このときの織田家後継争いで信行に従ったのを理由に追放している位である。

 ともかくも、信長は、尾張と美濃の確執のなかで、恨みを晴らすことで浮上してきた人物で、最後は、自分がしたことの仕返しで、殺されてしまう。

 信長をみても、自分がなしたことは自分に返って来るという自業自得ということがわかる。



 ☆  ☆  ☆

信長は部落解放者

----戦国時代と幕末が庶民の憧れなのは、下克上といわれる恵まれぬ底辺の者達が浮かび上がれる唯一の機会だったからである。つまり加藤清正にしろ虎之助とよばれ岡部又左の大工の徒弟だったのは、薮塚の加藤弾正の伜ですから居付地住まいの素性。それから同じく秀吉のまたいとこにあたる福島市松がササラ衆の、桶屋の職人の伜だし、これも原住系に相違なく限定職だから居付地に入れられていた。秀吉も中村が後に遊郭になる程ゆえ、居付部落の抜け人。

----家康も原住系の部落の出身ということですが‥‥

----勿論そうです。これはまだ、もう一回やらなきゃならないけども、明治三十五年に村岡素一郎という、直木賞をとった榛葉英治の外祖父にあたる方で多摩書房刊の「明治論叢」にも原文で収録されている『史疑徳川家康事蹟』という本を徳富蘇峯の民友社から出した処、当時の華族会の圧力でもって警保局が全部、これを押さえてしまったんです。そこでその外孫の榛葉英治が今から二十年前の昭和三十八年に吉川弘文館からまた現代語訳で本を出した。
 処が、これも不思議なことに、どこかに全部、定価でみんな売れちゃった。その代り絶版です。[1996年4月現在、入手可能です]

 不思議といえば正確には村岡素一郎の本が出た二年後の明治三十七年刊なのに、七年前に発行年をさかのぼらせた「松平記」が「東大蔵版」と朱印つきで青山の青山堂より木版刷り三百部が、紋入りの桐箱で各華族や歴史屋に配布された。この内容を水増しして現代語で大河小説にしたのが、故山岡荘八の「徳川家康」で、内容はまったく松平記と同じゆえ、発禁や絶版にもならず大ベストセラーになりNHKで三度も大河ドラマとしてテレビ化された。

 なにしろ東大をはじめ官立大学の歴史学会は、華族会の援助をうけていたので、確定史料と認知された。そのため岐阜城館主郷浩が、信長の美濃攻略は永禄七年といくら訴えても「松平記」には永禄十年とあると、いまだに相手にされない始末である。せっかく岐阜城内の古資料を二十年も掛って調べあげた苦労も無駄である。

 さて日本原住民について八切史観を始める時には、判りやすくと、占領軍が黒で、被占領軍が白であると、これは足利時代の室町御所の記録に、「白旗党余類」という言葉で、彼らは被差別されておるので、ゲットーへ入れられている被占領民つまり賎の賊軍扱いされているのと、官軍の黒と白の争いにし八切史観を判りやすくしたんです。

 ところが、どうしても赤をやらないと、私の出自血脈では困るから、「特殊部落発生史」を書き、お稲荷さんとか祇園さんとかいった赤系をやったわけです。紅殻塗りのお宮ですね。これやらないと日本原住民には白と赤がいるから話の辻褄が合わない。

 それがいわゆる庶民。ところが純民がいるんです。日本にはあくまでも頑強に反藤原勢力の‥‥民族です。



----秀吉も平の秀吉で死んでます。北条政子も源の頼朝の妻でも平政子として死んでます。これは例の『大乗院寺社雑事記』という活字本にもなってますけど、あの中に、西南より渡来せるものは堀川三条小路の囲地に収容し、僧籍に入らざるは古来より風習にて平氏。要するに京都はお寺が多いから、今でいうとタレントみたいに目が青いのだとか、一見毛色が変わったのを連れてって、それぞれの寺の目玉商品にしたわけです。言葉は通じないから執事が色んなカッコウして手真似で何とかこうこうとやるわけです。ところが、いつまでたっても不器用でノースピーキング、ノーヒアリングの者は結局、京都から追い払われ高崎へ行って、面壁九年ってのも、何も壁が好きで九年も向き合ってたわけではない。あれは全然ヒアリングもスピーキグも苦手で、だからいくらいじめられても、じっと我慢しておったからでしょう。

 さて、山芋からつくる芋アメは、これはシノガラ特有のもので、ベッタラ漬もそうです。サンカ用語でベッタラっていうのは特別の意味。上野のアメ横の入口に近くに電話局があり向かえの角のところを入った通りのところまでは、浅草からかけて朝鮮人町です。焼肉屋があったり、浅草瓢箪池の前などは堂々と朝鮮服屋が並んでいます。

 ところがアメ横は一町入って通りまで入ると、全然もう違います。現代では終戦時の事は何も知らないから、ヤクザがアメ横を守ったなどというけれど、あれはウソで、アメリカ兵の中の日系シノガラ部隊が機銃をもってきて防いだんです。はじめは芋のアメを売っていたから、アメ屋横丁になったのですが、その頃はアメリカ製のタバコなんかも持っていると、MPにぶんなぐられ、沖縄重労働だぞと怒られた時分に、シノガラのアメリカ兵がどんどんあそこにはPXから流したから、アメリカ製のものはアメ横へ行けば買えるといわれたのも、そういうつながりがあったんです。

 ただ言いたいことは、一般庶民の家庭は子供を沢山産むと、器量が落ちるからといって、一人か二人で子供をつくるのをやめます。ところが、シノガラの方では、本当の純粋な日本種族ですから民族を増やさなきゃならないため、子供を沢山つくっています。有名な方では、九州でこの間奥さんが癌で死んだ江口さんですが、あすこは十六人。名古屋では伊東さんって方が十四人目の子供をうんでいます。なにも好きでつくるのではなくて民族の使命なんです。だからマンションなんか住んでいて隣同士でも口もきかない人がいるのは、まぁシノガラの方達でしょう。

----さて八切史学では、私の読み方が判らない不勉強のせいなのかとも思ってるんですけれども、乱暴な質問をしますと、土地所有の問題はあまり多くは‥‥でていませんが‥‥



----農地、農民の場合ですけれども、質に入れたり売買したりしてますね、中世から盛んに‥‥

----江戸中期から旗本が知行地でも入れなくなる。そこで、大庄屋が全部代わって代行することになった。つまり大庄屋が年貢米を集めるから土地が誰から誰へ行こうが関係なしです。つまり吉村虎太郎の天誅組みたいに、非生産的な武士など廃止し、天皇と百姓とを直結せん。そうすれば日本の国は豊かになると。農本主義というんですか。これが討幕の最初のテーゼ。

 そもそも信長があそこまで行ったのは、まず桶狭間の合戦で、‥‥あの時、今川義元は何も戦争をするんだったら、尾張なんか隣国だから、まず掃討作戦を先にやっておくのが常識。彼は「なんとかして三万五千の軍勢を無傷で京都へ連れて行かなきゃ困るわけ」なのゆえ、途中で道草を食って戦争なんてしたくないわけだから、あの時点においては、信長は今川義元に、とっくに降参していたわけです。ところが桶狭間というところは、今の中日グランドのあるところで、昔は平手庄といって平手政秀の領地織田信長の生家です。

 休んでいる時に雨がザアーザァー降ってきた。そこで雨が降ると、当時の鉄砲は火縄銃だから役に立たない。ただの棒キレにすぎない。先発隊には全然一挺も鉄砲をもたせず、本陣に五百挺の鉄砲をみな置いていたのをば、信長は雨がふってきたので思い切って襲った。結局は毛利小平太なんかが、今川義元の首をあげたけれど格別の出世はしてないです。『当代記』を読むと、後に本能寺の変の時に二条城で、やっぱり小姓頭で、伜の岩というのと共に一緒に討死してるわけです。信長の主目的は鉄砲をふんだくるだけでした。永禄初年ではまだ国産はできず貴重品で、鉄砲ゆえに降伏していた信長は戦力を増したことになるわけです。

 ところが、それでも、織田信長の軍勢はあんまり強くないんです。そのせいか永禄七年に「上総介布令」なるものが「駿河[掛川?]志稿」の中には残ってます。
「今後、印地院内のもの、つまりこれまでゲットーのものに限り商売を許すものとす。
その他のものは、いくら困っても大根一本売りの商いもしてはならぬ」と、商売というものは全部、原住系の八に限ったわけです。要するに当時、遠州の掛川は朝比奈三郎兵衛の城で、今川義元の伜の今川氏真がおったところです。そこへ秘かに布令を出すというのは、今でいうと、今川方の残存勢力を崩す宣伝戦です。つまり信長が強くなったのは、次々と居付き地部落を解放し、原住系の「八」をみな自分の味方にしてしまい、それで結局、いわゆる天の王朝がかつてあったとされる弁天涯への道は、「八」の連中がつくったようなものです。

 ☆  ☆  ☆

 現代に残る信長のイメージは、ほとんどが嘘であることがわかる。 





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Last updated  2013年02月26日 10時51分03秒
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