シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月12日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回は、細川ガラシャが、美女ではなかった可能性が高いが、美女とされたのは、本能寺の変の真相を隠すためだったことを、八切止夫作品集から抜粋紹介した。

 戦国期の美女といえば、もう一人、信長の妹のお市が有名だが、こちらの方は、八切止夫作品集から、どうやら美女だった可能性が高かったようである。勿論、当時の価値観でいうところの美女である。

 春日局との興味深い話もあわせて、八切止夫作品集から抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

うばは乳母でない話

 箱根に姥子(うばご)の湯というのがある。

 伝承では坂田山の金時が、眼の悪い姥を背負ってゆき、眼病にきくとされる明ばん泉で治すため通ったとされている。また、「姥すて山」が信州の川中島の近くにある。これは貧しい農民が食べさせてゆけなくなった姥を背負ってゆき、堪えてくれとやむなく置いてくる山だったそうである。

 だが、どちらも「ウバ」とあっても、もし乳を呑ませるだけの乳母であるなら、乳離れした時に暇を出されてしまっている。

 それでは年寄りになるまで同居して、眼が病むから、と冷泉の出る所まで運んでゆく事も事もなかろう、と想われるのである。



 漢音にしろ呉音にしろ、乳をウ、母をバとよぶ発音はないが、これが罷り通っている。

 もちろん戦国ものの確定史料には、そうした言葉はなく、乳人というしかない。だから乳母も「ちちぼ」でなくては変だが、これの語源とされているものは、橘成季(なりすえ)の『古今著聞集・十五』にあるところの、「幼き日に浅間しく歎きて、うばにうれえ、たいじようしけれども」の一節からだという。

 が、(うれえ=訴え)、(たいじょう=両手をつき詫びる有様)だからして、うばが奉公人の身分であるならば娘が、そこまですることはなかろう。これは著聞集を解釈した人の誤りではなかろうか。

 なにしろ「うば」を乳母にしてしまったが為に可笑しくなってしまったのは、なんといっても春日局の存在である。

 「竹千代御腹春日局、のち三代将軍家光 国松 御腹御台所 のち駿河大納言忠直」と明記されているものが残っている。

 これは幕末まで江戸城の紅葉山文庫に、極秘保管されていた『神君御遺文』の末尾につけられていたもので、明治四十四年に非売品として千部だけ活字本になったものである。

 原文は内閣総理府図書館に、今も歴然として残されている。

 「御腹」とはいうまでもなく、生母のことである。つまり徳川家では、春日局は徳川家光の母であったことが明白なのに、どうしてこれを匿していたのだろうか?

 その謎ときは後に廻し、まず従来の乳母説をもう一度考えてみたい。俗説では、京所司代板倉勝重が、徳川秀忠に長子が生まれたので、よき乳人をと公募して彼女を採用し江戸へ送った、----という事になっている。

 が、公募というからには、何人もの候補者が選ばれ江戸城へ集ってコンテストを受けるべきである。なのに初めから彼女ひとりだけが東海道五十三次を遥々東下りして江戸へ赴いている。

 これでは肝心な秀忠夫妻に面接せぬ先から、もう決まっていた事になって変ではなかろうか。



 つまり乳母として採用されるからには、末子の正利はまだ授乳中でなくては話が合わぬ。処が正勝の子の稲葉正則が本郷湯島麟祥院へ、貞享三年九月十四日に奉納した額によると、彼女が東下りした時、末子は既に三歳であったとある。

 すると彼女の乳は止っていた筈である。ではドライミルク罐でも持って行ったのだろうか?

 家光の生母なら乳が出て呑ませられたろうが、でないと搾っても出ない事になる。

 それに乳母なら、乳離れした時お暇が出るべきなのに、彼女はそのまま居座って家光七歳の時には、死にかけの家康を駿河から引っ張り出してきている。

 あれは乳母では強引すぎて、まるで男の責任を問う女のような、そんなやり口である。



 もし竹千代も国松も共に孫なら、わざわざ死ぬ前年の七十四歳の老人が、江戸まで出てくる必要などなかったであろう。

 また秀忠にしても吾子なら、家光が二十歳になったからといって、自分がぴんぴんしているのに将軍職を譲ることもなかったろう。どうも変である。

 春日局という名は彼女で打ち切りになってしまったが、それは、「征夷大将軍側室にて小御所へ参内、天覧をうける女の官名」と定まり、室町時代にも代々「春日局」は一人ずついて、『毛利家記』にも、足利義昭の春日局の記事が書かれてある。

 だから彼女がその名を用いたことは、家康の側室だった事に間違いなかろうと推理される。

 なにしろ彼女は前夫の子を十二万石の大名に、自分も神奈川三千石の所領の他に、銀百貫匁ずつ毎年とっており、寛永二十年病気になると、代官町の屋敷へ家光は三度、家綱も二度、御三家はもとより勅使までが詰めきる豪勢さで普通ではない。

 なのに彼女が乳母と世間を偽ったのは、五代綱吉から徳川家では、彼女の父斉藤内蔵介がなした信長殺しを、家康の使嗾とせず光秀にかぶせる為の工作で変えたものらしい。

 なのに初めは、「三代将軍家光公卿御はら」とあるのが、いつの間にか、乳母となってしまったから、戦前の修身の本などでは、「春日局は幼い竹千代を大切にした。だから竹千代も成人してから、春日局を大事にして仕えた。

 乳母とはいえ忠義を尽せば必ず報いがある。隠匿あれば陽報ありなのである」と、よく働け、主人を大切にしろ、といった教訓用にと教材用にされたものである。

 しかし、いくら忠義を尽した処で、相州東郡内用吉岡で三千石の領地と、毎年白銀百貫匁ずつの手当となると、手取りだから一万石の大名なみで、他に春日局は江戸代官町に三町四方の敷地を貰って、ここへ親類の蜷川喜左衛門の手で豪壮な邸を建てさせた。

 そして寛永二十年九月に発病し、代官町の自邸へ下がると、千代田城から其処まで家光は三回も行列を仕立てて見舞い、家光の子の家綱も二度にわたってその枕許に付き添い、千代姫を始め家光の他の子女が詰めかけ、御三家の尾張、水戸、紀伊も何度も伺っているが、恐れ多くも御所から勅使右衛門佐局までが下向している。

 これでは、いくら忠義への報酬でもオーバーすぎる。家光の生母だからであり、家綱らには祖母に当たるためだろう。

 といっても、「春日局は家光の乳母」と思いこまされている人が多いからして、「そんな事はない」と否定したいだろうが、彼女を葬った前述の湯島天沢山麟祥院に、追悼の額をあげた孫に当たる小田原城主稲葉美濃守正則や、江戸代官町の屋敷を建てた蜷川(この曾祖父蜷川道斎の妹が斉藤内蔵介の母で、春日局の祖母)の自筆書付によれば、「春日御局が京より東下されしは末子内記が産まれてより三年後の慶長九年なり」とも明白にある。

 つまり他人の乳母では、最後の子をうんでから三年もたっていてはとても乳など出まい。

 が、御腹ならば自分で家光を産んでいるのならば、これはいくらでも授乳できたというものだろう。

 さて、死せる子は眉目よかりき、などというが、どうも故人となった女は、死者への礼でもあろうか誰もがみな美人扱いをされてしまう。

 しかし本当の美女はそうざらにはいなかったらしい。

 が、誰もが依存なく指を屈するのは、やはり於市の方であろう。父の織田信秀は勝幡の小城から、尾張八郡を平定するようになる迄、普通では兵も馬も集まらぬから、「平手の庄の政秀には年頃の娘がいる」ときけば、その娘に後の三郎信長をうませ、「阿古井の豪族土田久安に妙齢な女子」がと耳にすれば、それに後の四郎信行を作らせるように、一夫一婦の時代でなかったから、その生涯に男子は一郎信常から十一郎長益(織田有楽)まで、女子も於市の他に八人をそれぞれ尾張の豪族の娘にうませている。

 そして、それらの親兄弟を味方にして、今でいえば同族会社のようなやり方で、尾張一国を掌握し得たのである。

 だから信長と於市は異母兄妹の間柄に当たる。

 さて、信長は美少年万見仙千代を奪うため、摂津の荒木村重と戦ったようなホモ型である。もちろん戦国時代ゆえ人的資源の必要上、生駒将監の後家娘に信忠、信雄をうませたり、神戸の板御前とよぶ未亡人に信孝らを作らせているが、それはやむを得ぬことで、きわめて女嫌いで女性にはむごかった。

 それが於市御前だけは可愛がり、浅井長政へ嫁入りさせる時も、前にいた女はそっくり追放させ、信長は己れの長の名のりを与え、「長政」とした先方へ当人をとっくり確かめてから縁づけている。

 信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろうといえよう。

 この於市に三人の娘がうまれた。長女は、「やや」と初めよばれた茶々、後の淀君である。この人を於市の娘ゆえ美女と誤る向きもあるが、秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になったからの話しゆえ、それ迄、放って置かれたという事実は、あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。

 『当代記』や、『大阪御陣記』によれば、「騎馬女三十人ばかりいつも引き連れ、緋威しの大鎧をめされ七寸(ななき)の馬にめされ」と、出ているのをみると母親似ではなく、父浅井長政生き写しの骨太な大女であったろうと、『女人太閤記』に私は推理して書いた程だ。

 次女の京極高次夫人になった常高院は、「細身ながら気性烈しく」と残っているが、まあ十人並みであったろう。処が三女の、「ごう」とよばれたのは、これは於市をさえ、しのぐ抜群の美人だったらしい。

 「せんだんは双葉より芳し」というが、十二歳の時すでに母方の尾張大野の、佐治与九郎に求められて人形のように嫁ぎ、翌年は連れ戻されて秀吉の養子だった信長の四男於次丸秀勝にめあわされ十六歳になった時、秀吉がその秀勝を殺して、己れの甥の秀次の弟小吉に同名を継がせた際、彼女は左大臣九条道房の許へやられ、やがて取り戻されて徳川秀忠の許へ、「江戸へ与えるのだから、江与と改名せい」と嫁入りさせられる。

 まあ、余程の絶世の美女でなくては、こうも、たらい廻しさせられるものではない。

 さて、この絶世の美女のなれのはての江与と、春日局を対比させ、これをエリザベス一世とメアリ・スチュワート女王との関係においてみたのが、「八切日本史」の中の『謀殺』[既に当コーナーにアップ済み]なのである。

 ☆  ☆  ☆

 というように、八切止夫作品集では、「信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛した」ことを、美女の理由にし、また、その娘の「ごう」を、「余程の絶世の美女でなくては、こうも、たらい廻しさせられるものではない。」という理由で、美女としている。

 そこで、現在に残っている両者の以下の肖像画をみてみると、

kita14.jpg

9qmEw6oH.jpg

 というものなので、この像が本物に近いとすれば、両者は、とてものこと、現代では美女どころか、私の価値観が世間離れでもしていない限り、不細工(ブス)の範疇に入れられるものだろう。やや江(ごう)の方が目が大きいだけ、まだマシというくらい。

 文字数制限を超えるので、次回に譲る。





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Last updated  2013年03月12日 16時03分43秒
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