シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月27日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切止夫作品集を読むと、日本史として習ってきた多くの事柄が、全くの出鱈目ということもあることに気づかされる。

 例えば、有名な聖徳太子などが架空の人物であることや、いまでは厩戸皇子と習うらしいが、これまた有名な宮本武蔵が、非常に脚色された人物であることなどである。

 いまだに、日本には侍と忍者がいて、丁髷をしていると思っている外国人と同じである。少し考えれば、わかりそうなものだが、TV等のドラマで見せられてしまうと、喜怒哀楽が伴い、記憶として植えつけられ、パブロフの犬の反応のように、英雄待望論のようなものが時代と共に起こってきて、洗脳はなかなか解けないものである。

 そこで、宮本武蔵が、どのように脚色されたのかを、八切止夫作品集より抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。

 もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ。草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。

 なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。

 これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。



 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。

 「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。

 しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだからして、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。

すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。

 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者。

 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。

 戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、 伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。

 ☆  ☆  ☆

 というように、いまでいうなら、都市伝説が一人歩きし、宮本教という宗教になってしまったようである。

 戦国時代でさえ、刀同士の戦い、いわゆるチャンバラなどはなかったそうで、江戸時代は、殿中は勿論のこと、町中でも、無闇に抜刀することは禁じられていたそうで、相手をけしかけて抜刀させる抜刀術が生まれた位だそうで、チャンバラなどは架空の産物だそうである。

 少し考えれば、目潰しなどで視界を奪えば、どんな剣豪も実力を発揮できないだろうし、鎖帷子を着て、装備すれば、刀で切られても、刀の方が使い物にならないことがわかる。



 その根底に誤った歴史認識があり、いわゆる現実逃避の精神論があり、それは俗に島国根性といわれる奴隷根性に起因していることが伺える。

 このような歴史的背景を知ると、この国に住む、ほとんどがB層なのではないか、と思う。自分を日本人と一括りにして称するのも実はB層となる要因なのではないか?と思う。日本人といっても、沖縄人と、東北人や北海道人とは全く違うのである。それに、江戸時代までは、国といえば、地方のことを指していたはずである。琉球国、蝦夷地、南部藩、津軽藩等々であった。

 まぁ、宮本武蔵を日本史で習うことはないから、そんなに弊害はないだろうが、時代劇を歴史モノとしてみてはいけないことに気づく。特に大河ドラマは曲者である。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013年03月27日 10時48分13秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: