シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月28日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回からの続きだが、さて、桜田門の真相である。

 ☆  ☆  ☆

【異説桜田門】
 これは私が「元治元年の全学連」の中でも引用しているが、また明治十八年の時点においても、時の伊藤博文内閣の松方大臣や東大の内藤博士までが、今日では「尊王攘夷の志士」として扱われている水戸の天狗党をもって、「流賊」「奸賊」とはっきり指摘した堂々たる石碑が、今も茨城県大子町の永源寺には現存している。

 しかし、封建時代当時の「攘夷」という概念は、今日考えられているような、挙国一致で外敵を追払うのではなく、江戸公儀の「征夷大将軍幕府」に代わって、「自分らの殿様を征夷大将軍にかえ、己が陪臣の身分から直参になりたい為の」家臣団のテーゼなのである。

 下関で長州が四カ国の連合艦隊を向こうへまわし馬関戦争をした。鹿児島を焦土と化した薩摩の対英戦争もこれは「攘夷の実績」をつくって、己らの殿を征夷大将軍にする為の御奉公だったのである。現に栃木の太平山神社が三光神社と謂われた頃、そこに立てこもった田丸稲之右衛門らは「水戸幕府」という六尺板の大看板を掲げていたし、明治の末まで別院に保管されていた事実がある。

 つまり「尊王」と「攘夷」とは、全く異質の概念で、これは明治三十年代の三国干渉の時点からの「国民を戦争目的に駆り立てる軍部のスローガン」でしかなかった。つまり「夷」とは、その頃は露国であり昭和に入っては米英を指したのである。この事実を把握して「真実とは何か」を掴まないと労多くして功少なき結果になってしまう。 

 なお新撰組を解明するならば、弾左衛門家との関係を徹底的に探査し、元禄十一年の弾圧時代に遡らないと、この真相は捉えられないものである。



 しかしかって、この時の一枚刷りの絵「文久元年刊の日本橋檜物町の正木屋版」のものを、浮世絵、版画の権威で当時名古屋中京商業教論だった尾崎久弥先生に、そっと見せられた事がある。「喰いものの怨みおそろし、桜田門」と右上にあって、牛の頭が雪中に転がりでていて、「もう、ごめん」とそれに註がついていた。

 「当時は相当に刷られて売られたらしいが、明治になって回収され、ことごとく焼却処分された」と先生は言った。そこで「何故ですか」と聞くと、桜田門の変は当時は牛肉騒動といったそうだ。水戸斉昭のために、その軽輩の家臣が重代の報恩か、あるいは出世欲に取り付かれたかして襲撃したのだが、中に呑み友達として付合っていた薩摩の有村治左衛門がいた。後年、その同輩だった川路が警察権を握るにおよんで牛肉襲撃では、有村への贈位や遺族への扶助料も出ないところから、これを勤王事件にでっちあげ、反対の証拠品は警邏に命じて徹底的に押収処分にした。

 水戸人は主立った人材を天狗党の乱で失い、新政府へ潜り込む余地もない状態だったから、勤王の美名の方が今となっては好都合とばかり同調して、結局、ああなったんだと教えてくれた。その時はまさかと思った。

 だが、『明治四十五年三月刊非売品史籍雑纂第四巻』を最近読むと、その五百四十六項に、「水戸老公は近江牛を珍重されているのに、井伊直弼が彦根藩主になってからは<国中の牛の屠殺は中止した>と、これまでの習慣を破って送荷せず、老公が<何卒贈られたし>と懇願しても聞かず、やむなく老公は<是まで年々用いたる江州牛肉の味は格別なれば、我らのためにのみにても>と再三にわたって、自らも頼みこまれたが、断られおおいに恥をかき、不快に思召され悔しがられた」と、旧水戸藩士の手記が載っている。

 こうなると、「君辱められるや、臣これに死す」という士道のモラルが想起されてくる。この水戸斉昭の牛肉好きというのは、肺病を病んだ時に薬食いとして肉汁や煮焼きしたのが始まりらしいが、江州牛が入らなくなった後、各地の牛を沢山集めた。

 しかし、当時のこと故農耕用のものなので、美味しくなくて放って置く内にこの牛が子を作って増えた。しかし昔の人はものを粗末にしない。この牛の大群を利用して種痘用のワクチンを作った。だから日本では水戸が早くて、ここの者は他藩のように痘痕相でなく、これが後に薩長土の顔中ぶつぶつの連中から嫌われ、その嫉妬から、水戸人は損をしたといった話も「波山記事追加」というのには出ている。



 さて、井伊掃部頭という官名は世襲である。

 これは侵略してきた仏教政権が原住民を蔑み、掃除人夫扱いした侮称の名残である。そして原住民は「今昔物語」の頃から(餌取り)として扱われ、獣の皮を剥ぎ、肉を取る者とされていた。だから井伊が意地になったのは、水戸が有栖川家の登美宮を夫人に迎えていたせいもあるらしい。

 何しろ井伊の祖先は、遠州井伊谷。この地は「熊野速玉神社文書」にあるような神社領で、これはれっきとした(神の民)である。「遠州文書」によれば、近江彦根初代城主の井伊直政は二歳の時にその父を討たれ、後、松下神社の社家にもあたる松下源太郎清景に引き取られ『武徳編年集成』によると、木下藤吉郎が初めに奉公した松下加兵衛之綱と、この源太郎は併記されているから源氏系の原住民として井伊も由緒正しい家柄である。

 だから牛肉騒動は発端には違いないが、根元的にはやはり(仏の民)と(神の民)の正面衝突と見るべきだろう。



 従来の幕末史解明は、勤王の志士をスター扱いにするか、さもなくば一部の諸藩主の行動を帰納的に演繹する方式、つまり個人のバイタリティーに依存する講談的論理しかなく、肝腎な民衆の行動を等閑視しているが、世界中何処へ行ったとて民衆の参加しない革命などあり得ない。

 それゆえ幕末史の鍵を解くには、「伊勢への無銭旅行の(お蔭参り)」と「各神社の守札を各地にばらまいて(神の民)と自認していた原住民系の純日本人を扇動し(ええじゃないか)騒動を惹起させた戦国期同様に、外来の仏教徒追放をスローガンにして結集させたエネルギー」とを、もっと検討すべきではあるまいか。

【革命準備工作】
 さて『田村栄太郎著作集』によれば、「天照大神の前身は、大山石尊と同じ雷神」とある。大山石尊とは<山窩>と命名された丹沢系のフウマ族が謹んで守護している神だから、この田村式着想からゆけば、天照大神も(神の民)が守る神ではあろう。だが西行法師のごときは、「何ものの、おわしますかは知らねども・・・・・」と露骨に疑問を提示している前例すら有る。もちろん後年は良い方に解釈しているが、それでも誠に畏れ多い極みである。

 なにしろ原住民系の者共が勝手気ままに集団で押しかけていった(幕末のお伊勢詣り)つまり無銭でゆけた(抜け参り)とか(お蔭参り)とは、伊勢は伊勢でも鳥羽の二見ガ浦の蘇民将来の原住民専用の神様(松下神社)だった。そこで当時のいわゆる(お伊勢様)の方は、古市に軒を並べていた遊郭へ寄ったくらいではなかろうかと想われる。これは、なにしろ慶応二年版「いろは番付」の筆頭にも「いせで筆下ろし」つまり伊勢詣りして男の成人式を済ませた慣習が書かれて在るからだ。



 ところがこの時代は米価にしろ、「安政三年越後米一斗四百八十文だったのが、十年後の慶応二年には、一斗につき四貫三百六十文と九倍に騰貴し、ご府内の小売値は百文につき米は二合、麦でも三合と、生計苦しくなり困窮す」と『江都評判記』にも出ている程の悪性インフレの世の中である。田村説のように、沿道の者が(平等思想を尊重して、他人に施しなどしていたら)自分らが首を吊らねばならぬ社会情勢だった。

 それでは誰がスポンサーだったのか調べてみると『宮川舎漫筆』に、「鹿嶋屋作之助方にて一人銀一匁ずつ出す」「鴻池善右衛門方にて一人金一朱ずつ渡す」と明示されている。

 そしてこの鴻池も鹿嶋も(神の民)の代表的な名前である。つまり彼らは同族の純日本人同士だけで相互扶助をし、彼らのエルサレムにも当たる弁天、恵比寿、大黒の七福神を祀る松下神社への参拝を奨励し、同族意識を強固にして(文治革命)(慶長革命)につぐ(慶応革命)といったものを意企し、外来の仏教勢力を一掃して(神国日本)に戻そうとしたのである。

 しかし結果的には、西南勢力は外来系であることを忘れたか、有栖川宮や岩倉らに軍資金を出して成功させたばっかりに、返ってそれが命取りになって、神の民の敵国である<新政府>を作られてしまい、鹿嶋も鴻池もやがて没落してゆく過程は「五代才助伝」にも詳しく出ている。

 国民の分布は外来系に対して原住系の方が圧倒的に数が多いから、大東亜戦争などでも、さんざん圧迫しておいた神の民を利用するため、旗色が悪くなると「天祐神助」だとか「神風」といった宣伝をしたのもこのせいである。

 ☆  ☆  ☆

 日本という国家は、表面上は統一されたかのようにいわれているが、仏教系の大陸からの支配勢力と神道系の原住民系の被支配者層に分かれているようである。





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Last updated  2013年03月28日 15時14分49秒
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