シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年04月02日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 このブログでは、何度となく、偶像崇拝の過ちを説いてきたが、そのために、歴史上神格化された人物の実像を、八切止夫作品集から探り、通説とは180度異なる話を抜粋紹介した。

 日本を戦争に巻き込むのに利用された有名な人物といえば、乃木希典だろう。戦争というのは、1%の金持ちが、更に金持ちになり、他を奴隷支配するために行われることは、サンヘドリンの策略や、偽ユダヤの悪辣さから明らかだが、いまだに、軍神化されている乃木希典の実像を、八切止夫史観から抜粋紹介する。

 乃木希典は、戦前、戦中の日本人の教科書とされた人物で、偶像崇拝の対象だった。

 後に同じく軍神化された西郷も同じように抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

聖将・乃木希典

 乃木希典(1849~1912)西南戦争の植木坂の激戦の時、連隊旗を奪われたのを苦にして自決せんとしたのを明治大帝の思召しで止めたが、大帝崩御の時後を追って静子夫人と共に殉死。「軍神」として崇敬され、辻占売りの少年をやさしく扱ったとする浪花節などで一般には親しまれている。高島易断が今日有るのは乃木大将のおかげだとまで言われている。

 皇国史観が一世を風靡した際、待っていたとばかり水戸人は、水戸光圀が弘道館で編纂に着手したと称する処の「大日本史」全十六巻をもって水戸学はこれなりとし、これらの著述こそ勤皇の先鞭だったと主張した。

 それに対して長州人は、吉田松陰を持ち出してきて、松下村塾精神で対抗し、「乃木大将も松下村塾で学んだ一人である」と歴史家がこぞって宣伝したから乃木は軍神になる前に聖と言う呼称が出来た。つまり<聖將>と言われるのである。

長州人にはあまり人気がない という。

 しかしこれには訳がある。当時は江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、旧会津藩士の思案橋事件、ついで九州の秋月の乱から熊本の乱と、ひっきりなしに内乱が各地で起きていた。

 さて、早死にした高杉晋作と並んで、吉田松陰門下の三羽鴉と言われたのは、広沢兵助と前原一誠の二人である。同じ長州人でも桂小五郎はコンプレックスというか、松陰門下の連中を毛嫌いして頭ごなしに、軽輩達なりとしていた。

 だから桂は、鍋島のアームストロング砲で上野を焼き払った後で東北を征圧した大村益次郎を兵部大輔にしたものの、薩摩から陸海軍の統帥権は此方へと言われると、周防人を唆して襲わせた。が、薩摩の海江田信義が下手人達を六角の牢で処刑する直前に放免してしまった。

 余りにカラクリが見えすぎ、大村の後任に直ちに薩摩人を直ぐともゆかず、とりあえず人望のある前原一誠をもってきて据えた。しかし大久保利通が早く入れ替えろと催促するので、桂は伊藤博文や井上馨をやり、「長州で奇兵隊が解散を拒み内乱を企てているから鎮撫に行って貰いたい」と、まことしやかに、君が行かねば収まらぬと嘘の情報で前原に兵部大輔をやめさせ、西下させた。

 だが、広沢兵助が妾宅で暗殺され、前原も戻って直ぐ何者かに拳銃の乱射を受け襲われたので、

 「こりゃ桂小五郎の手下共が、我ら松下村塾出身者を目の敵にして始末しよるんじゃ。こうなりゃ二十一回猛子の故松陰先生の御意志を継ぎ、われらは決起すべきである」

 と国許では主張。奥平謙輔が憤って塾の旧士族八十名を率い、殉国軍と名乗って山口県庁へ押しかけようとすると、前原一誠を総大将に玉木文之進の息子で当時の松下村塾で松陰の遺訓を教えていた玉木正誼が在校生百名を集めて第一大隊を結成した。

 そこで薩摩の大久保利通の内命を受けた桂小五郎改め木戸孝允は、腹心三浦悟楼陸軍少将を討伐司令官に任命した。

 玉木正誼の実兄乃木少佐が小倉から先発隊長となって長州へ戻り、松下村塾出身の第二大隊と己が弟の第一大隊を萩で包囲して捕捉し、撃ち殺してしまった。

 後に水戸学に対抗のため、松下村塾精神をおおいに謳歌させたのは、彼らを滅ぼした木戸だが、「聖將」「軍神」と明治軍部に追従するマスコミからおおいに讃えられても乃木に長州人が冷やかなのは、松下村塾の建物は残したが、実の弟をはじめ皆殺しにしたせいなのである。


 軍人ゆえに命令には絶対服従とはいえ、肉親を撃ち殺した悩みは酷かったろう。四国丸亀の連隊にいた頃は、女郎屋に流連していて、そこから人力車で通って副官に諫められると、「人間の人格とはへそから上の話しである」と言い放った。

 有名な言葉だが聖將とか軍神に祭り上げられてしまってからは、読み人知らずではなく言い人知らずに今ではなっている。何しろ酔うと軍刀を直ぐ引き抜き暴れたのは、一般には隠されているが陸軍部内では知れ渡っていたことらしい。

 今は東北と称せられる当時の満州公主嶺の料亭で、酒乱の中尉が芸者の生首を叩き斬って憲兵が来ると「軍神の真似をして何が悪いか」と道路へ出ても、なおも居丈高になって、血塗れの軍服姿で大声で喚いているのを実際に私は見ている。

 乃木大将が有名になったのは二〇三高地攻撃である。息子を二人まで戦死させたことを同情されて、あまり世間から非難されてないが、故福岡徹の考証によると乃木は前線から五里も遠ざかった司令部で、寛永三馬術などの講談本を読んでいただけで、酒浸りになり前線視察にもあまり出なかったという。

 といって乃木大将が怠惰だとか臆病だったというのではない。



 しかしハバロフスクの陳列館の二階への改段口に面した硝子戸棚の中に、当時使用された青銅製の機銃と、原爆にあった広島の被害者の山積み光景に似た日本兵の死骸の拡大写真が展示されていて、説明文は、「愚かなる敵司令官は我々の機銃の目印にする為か、わざわざ白布で胸部の位置を明確にした兵士を次々に送り込んできて全滅した」と大きく出ている。白襷隊の事である。

 当時の葉書は一銭五厘だったが、いくら赤刷り召集令状で集めた兵を送り込んでも全滅するゆえ、全国的に召集令状が次々と乱発された。

 二〇三高地攻撃の乃木大将の方へ廻されぬようにと、家族が「死線(四銭)を越えて」と当時の五銭玉を千人針の布に縫いつける習慣も始まったのである。しかし旅順をバルチック艦隊来航前に、何としても陥落させねばならぬ陸軍は、応召兵はみな片っ端から消耗の激しい乃木軍へやむなく投入した。だから五銭玉のついた千人針の白布で襷がけさせられた彼ら応召兵は屍体の山に突進、自分らも次々とその上積みの死骸になっていった。



 よって参謀本部の児玉源太郎がたまりかね、 「とても乃木には委せておけぬ」 と密かに満州へ渡った頃、横浜の関門に露天の占師をしていた高島象山が、それまでの腰掛け式を止め「あいや御通行中の皆さん」と大道の真ん中に立ちはだかり、桜の太いステッキの先で地面に姓名を書き、集まってきた群衆に向かって、

 「お国のために出征なさっても、無事に凱旋なさる方もいれば武運つたなく戦死の方もいる。運不運の分かれ道はこうして姓名の中央に線を引き、左右同じになるのは弾丸がさあっと通り抜けていって吉運。そうでない方はお気の毒だが改名せねば運が開けない」

 と、今日で言う姓名判断を字画で数える型を創始した。

 溺れる者は藁をも掴むというが、夫や倅を生還させたい人々は争って行列を作って並んだ。江戸時代にはなかった姓名判断や高島易断の名が、明治三十八年から日本全国に広まったのは乃木大将のおかげなのである。

 「庭にひともとナツメの樹、弾丸跡もなまなましい・・・」という、ステッセル将軍と乃木大将が水師営で会見した唱歌が、文部省の国定教科書にのせられ普及した。

 司令部からあまり外へ出たがらなかった乃木大将が何故に水師営まで行ったかといえば、児玉源太郎によって解任され、司令部には児玉やその幕僚が入り、大口径要塞砲を陸揚げ、それによって小銃や斬り込み隊では突破出来なかった機関銃座を吹っ飛ばし、ついに陥落させてしまったからである。

 が、乃木大将を内地へ戻せば、前代未聞の戦死者を出した原因が彼に有ったことになり、長州軍閥にとっては大変な結果になる。そこで無任所司令官のような恰好で乃木大将は残されていたから、暇つぶしに水師営の捕虜収容所へ行き、ステッセル将軍に会っただけの話しなのだろう。

 山下奉文大将がパーシバル将軍に「イエスかノーか」と卓を叩いて凄んだのとは全く別個のものである。しかし唱歌では仁愛の大将が敵の大将を労ったように優しくなっているので、浪花節の辻占い売りの少年に優しくした乃木大将の話しが作られ、本当らしく広まったのである。

 児玉が渡満したために、無事に生還できた者らは高島易断のお庇と、象山先生は生き神様のように信仰され、不運にも前に召集され戦死した兵の遺族も、学校唱歌や浪花節で「情け深い乃木さんの部下として死んだのが....せめてもの慰めである」と、皆それぞれ納得したものである。

 何しろ戦争は済んでも一般大衆は小村寿太郎の講和条約が不満で、日比谷公園の交番へ焼き討ちをかけたり、暴動を起こしていた。が、「民には知らすべからず、寄らしむべし」のお国柄ゆえ、今で言うマスコミ利用と義務教育で、乃木大将は戦争責任を問われることもなく、聖將といった虚像に祭り上げられた。

 海軍での軍神は日本海海戦の東郷元帥なのに、陸軍では乃木に大将の上の元帥はつけたくてもつけられなかった。周囲も辛かったろうが、当人の大将はもっと苦しかったろう。

 恰好がつかず陸軍部内では白眼視されたろう。松下村塾を継いだ玉木家の生まれゆえ、漢詩を作るのは教わっていたが、読書は生涯、講談の速記本だけだった老人にとって、二人の子息を失っていたし、さぞかし侘びしい晩年の日々だったろう。

 なにしろ聖將と祭り上げられてしまっては、若い頃のように遊廓やお茶屋へ行って憂さ晴らしも出来ない。ちびちび酒を呑みほすしか、戦後は過ごしようが無かったからだろう。酔うと決まって何時も、

 「わしも白襷をかけ、彼らと突貫し、機銃の餌食になっていたらよかった....」

 と、愚痴るごとく下僕に洩らしていたとも言う。

 だから、周囲の長州閥が見かねて、何か仕出かさないようにと学習院の院長の職につけた。黙々と学校には行ったが、院長室では<寛永三馬術>とか<真田三代記>の速記本を、折角職員が手でカバーが掛けて有るのに、しきりに口に出して音読していたという。

 ☆  ☆  ☆

 字数制限を越えるので、次回に譲る。





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Last updated  2013年04月02日 13時42分36秒
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