シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月16日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

<<附記>>

 磐城平五万国の安藤家の家臣だった、編者鍋田舎人こと晶山という人は役向きは不明だが、禄は五十石二人扶持の中流の素性であった。

 校訂者の難波常雄は、数十年かけて晶山は嘉永年間に集められるだけのものを筆写したという。だから俗に言われる義士史料なるものは、この書の中に殆ど集大成されている。

 世に伝わる義士話の全てのよってくる処は、この書の中にみんな入っているのである。だが、世情騒然としていた黒船騒動の最中に、東北人の晶山が何故に赤穂事件にそれ程迄に夢中になったかが、どうしても引っかかるものがある。

 何しろ彼には「磐城誌」等の著書も他に在るからである。だから苦労して纏めた故人のことを、とやかく評する訳ではないが、嘉永元年になる二年前の弘化三年(1846年)に歿した伴信友との関連性を考えざるをえぬ。

 伴は若狭小浜でやはり四十石どりの家士だったが、初めは本居派に弟子入りして、考証学派の泰斗となって「神社私考」や六国史までも手がけていたが、士籍を捨てて筆一本になってからは宮本武蔵をうんだ「二島英雄記」を書いて、これが芝居になってからは、今で言う流行作家になり、出しも出したり三百余点も刊行した。

 だから鍋田晶山もそれに刺激されて「よし、わしも刀を捨てて筆一本で身を立て、考証主義の物書きになってくれん」と発奮して、元禄事件から二世紀も経ているのに苦労して、赤穂関係のものは硬軟取り混ぜて集めに集めて、この集大成となったのだろう。しかし伴信友のごとくベストセラー作家になれなかったのは、範囲が狭く義士関係だけに搾ったせいかもしれない。



 なのにそうした故事来歴を踏まえずに、沢山の忠臣が集まった倉庫みたいなものと、忠臣蔵の名前を付けてしまい、さも忠義の権化の如く扱われるのは、それは忠義を求める側によって推奨されたテーゼである。 なにも、一般はいくら封建時代でも忠義で死ぬのを賛美する訳はない 。

 (明治帝崩御のときの乃木殉死についても世間では「単なる犬死!」という風潮が大半だったそうである。殺されたという説もある。)

 今と違って昔は義士達の、惨めったらしい死に様がそれとなく当時人口に膾炙され、それへの同情が追慕の念を深めたのではあるまいか。楽をして平穏無事に畳の上で大往生を遂げたのでは、誰も気の毒がりはしないものである。また、殺されねばならぬような行為をして、それで処刑されたからといって、同情する者がいる訳はない。となるとである。

 日清戦争で折角得たのに、三国干渉で遼東半島を返還したことに国民が憤慨した。そのため頭山満によって、浪花節語りの桃中軒雲右衛門が「義士銘々伝」として各地を講演して廻り、大いに日本人全体の復仇心を煽り一致団結させて、明治三十七・八年の日露戦争を勝たしめる結果となったゆえ、ともすれば、君に忠、親へ孝の道徳教育の教科書並に扱われ今日に到っているのは、如何であろうかと首を傾けざるを得ない。

 同情と賛美とは全く異質のものである。毛利家の場合でも註をつけているが、細川邸での処刑でも、実際に吉良邸へ抜刀し不法侵入したのは、表門からの奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、片岡源吾、富森助右衛門の四名である。

 裏門からは 赤埴源蔵で合計五名のみなのである 。 他の十二名は武闘派ではなく、ただ戸外にあって上野介を討ち取るまでは邸内に一歩も入っていないで、塀の周りに立っていたきりなのである 。

 だから、 いくら大公儀の権勢をもって、とはいえ、柳沢吉保が実際に人を殺した者達と唯の見張りだけの者までを、一蓮托生に死罪にするのは酷いというのが 、当時の同情が集まった処だろう。義士たちは死後になってもてはやされても憐れな最期で悼ましい限りで、謹んで合掌したい。



 ☆  ☆  ☆

 このように赤穂浪士の黒幕は悪人柳沢吉保だったが、なにやら昨今の時勢をみると、吉良=中国、浅野=アホを筆頭とする日本、柳沢=ニセユダらの支配する米国、大石らの文臣派=自衛隊、松の廊下=尖閣、竹島、沖縄もしくは朝鮮半島のようにみえてくるから不思議でもある。

 しかし、世間は、浅野には同情するかもしれないが、アホには同情しないであろう。アホは浅野というよりも、犬公方といわれる綱吉かもしれない。済州島出身といい、自らの高貴さを宣伝し、弱者嫌がらせの政策ばかりしているからでもある。

 大企業=幕府ら支配差別階級、庶民=当時大半の被差別民と考えると、赤穂浪士の構図は現代にもあてはまるからである。かつてのイラク戦争も、フセインがクェートに攻め込んでも米国は何もしないという米外交官の発言に騙されことが発端だったわけで、ネットでは英王室の利権が絡んでいたこともいまでは明らかになっている。

 なお、続けて赤穂浪士の真相を知りたいのなら、以下のサイトを参照するのがよいと思われる。一部抜粋して紹介する。



赤穂義人纂書
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/gijin.htm


 こうした資史料を元に書かれた本に以下の物があります。「大江戸意外史」1975年刊(日本シェル出版)、「意外史・元禄太平記」昭和50年(潮出版)、これは公明新聞、日曜版に60回連載された「赤穂意外史」に修正加筆し、改題した作品です。

 「元禄太平記」1974年刊(日本シェル出版)、これは箱入りで全4巻から成っており、綱吉、柳沢、内匠頭、大石、光圀らの実像に迫ったものです。通史、俗史を捨てて真の実存を知りたい方には一読をお勧めします。

 この元禄事件とは当時のあらゆる状況から、権威に利用され操られ捨て殺しにされた、内匠頭や大石らの哀しみの物語に収斂されてゆくのが理解できます。

◎町木戸の開閉の時間も稲垣氏の考証とは違ってます。

◎吉良を討ち損じた場合、二段構えで家老の大野九朗兵衛が、鉄砲三十丁と火薬を用意して、米沢へ逃げるであろ う吉良を、山形湯殿山海道、米沢城下への入り口板谷峠で討つ計画だったことも書かれてます。

◎討入り当日の吉良方の人数は家老の松原多中以下、足軽小者も入れて四十人。火事だと詐って開門させ、三人一組の五組が乱入し事。
〔後に義士たちの刀の血曇りを調べた際、実際には五人の刀からしか発見されなかったのが本当のところ〕

 三代将軍家光の食言に端を発した天皇家と徳川の確執、綱吉の将軍継承問題、光圀が京より将軍を迎えて、自分は武家を代表して副将軍になろうとした事実。生類憐れみの令とは何だったのか、仏教徒対神徒の確執、日本列島の基底を脈々と流れる枠外の民の存在。

 由比正雪の乱、伊達騒動、別木庄左衛門たちの決起、これらは後水尾帝の院宣を拝した「まぎれもない討幕運動」だった事も判ります。

 そして元禄時代とは「大平で文化絢爛たる時代」とする通説とのあまりの乖離に驚かれるでしょう。

 柳沢の政策で大量に出回った粗悪な小判の為、悪政インフレと各地の大地震や飢饉に苦しむ当時の庶民たちの様子。

 さて、八切史観は、歴史分野の学者や専門家が言っている事に対し、新しい証拠に基づいて、異なる視点で独自の見解、即ち自分なりの新しい付加価値を出した、とも言えるでしょう。言い換えれば、今まで在ったのに誰も気付かなかった物を見つけることとも言えるのでは。

 いま、一つの時代が終わり、新たな時代が始まろうとしている。カオスのなかでの真剣な模索、それは、現代に生きる私たちの切実な課題となっています。いまほど「原点」からの出発が求められている時はないでしょう。私たちは、自由な、とらわれない目で全てのものを見直し、考え直して行かなければならないと思うのですが。

 ☆  ☆  ☆

 本当の日本史、日本人とは何なのかを考えるべきときにきているように思われる。





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Last updated  2013年12月16日 13時14分22秒
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