シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月18日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き

 ☆  ☆  ☆

【紹介者・注】

武田の一向宗、つまり後の浄土宗や真宗の本願寺派は、西方極楽浄土を説くのに対して、薬師寺医王派というのは、白衣を纏い、正反対の東方瑠璃光如来、を教える東光派である 。

 教義がまるで逆で、墨染めの衣を纏って読経するのに対し、修験、修法を旨とする白衣派であり、「武田一派の本願寺派を折伏せん」と各地から動員されたものである。

 こうして双方が宣伝合戦をしている内に、信玄は妻の義弟本願寺光佐の合力でまたぞろ出兵してきた。越中、越前、加賀の一向宗の勢力をもって、越後の上杉景虎を防ぎ後顧の憂いをなくしたからで、やがて美濃岩村城を落とした信玄は遠州二股の城も降し、二万五千の兵は家康の浜松城めがけて殺到してきた。

 家康は十二月二十二日、夜明けと共に、三河岡崎勢を前発させ、遠江勢を己の旗本として全軍を率いて浜松城を出ると、秋葉街道を南下してくる武田勢に向かった。が、 あまりの大軍に驚き取って返し、籠城の支度をした 。武田勢は姫街道の西へ出て追分けで北方へと隊列を変えた。

家康を討つ胆なら、眼前の浜松城を攻撃すべきなのに、信玄はそうはせず、全く無視して三河岡崎城へ向かおうとしていた 。

 さて、現在のように徳川史観そのままの「松平竹千代が成人して松平蔵人元康になり、それが姓も名もやがて徳川家康に 改名した」といった伝説を鵜呑みにしていては判らない話だが、当時の武田信玄は、

 〔松平蔵人が誤って森山で斬殺されたのを奇貨として、後家の築山御前に近よってその倅の岡崎三郎信康めを籠絡、家康はまんまと替玉を勤めている。が、今や当初の約束は守らず、成人した信康に三河を返すどころか横領せんと企てている。よって 戦のたびに最前線に出され、損害の多い松平譜代の石川数正らは堪まりかねている 。故に、 三河を攻めて彼ら旧松平の者らを解放することこそ、街道制覇の焦眉の急である 〕

 と全軍を向けんとしていたのである。

 さて、前記したが、もともと三河は一向宗の地盤である。だから、不慮の死で急逝した松平蔵人元康の身代わりとなって、世良田二郎三郎〔家康〕が岡崎へ入って来た時、薬師寺派の彼に激しく抵抗した。やむなく家康はその与党を率いて、一向宗徒と提携した三河松平党の征伐をした。

しかしとても完全に征圧できぬと知ると、家康は引馬城を増築して浜松城とし、さっさと岡崎を引払ってそちらへ移り住んだ儘である。そしてその後はあまり三河へは寄りついていない 。

だから三河の土民や地侍達は、「三河解放」を豪語して信玄が乗り込めば、残存一向宗の者らと共に歓迎し、瞬時にして武田方へ靡くのは目に見えていた。だから、名を取るより実をとれと信玄は、目の前の浜松城をまるっきり無視し、この時三河へ向かうとしていたのである 。

閉じ籠もっていた家康も、〔この浜松城へ攻め込まれんで助かった〕と、ほっとするよりも、三河へ入り込まれ住民を煽動されたら大変であると周章狼狽。すでに日没になっていたが「追い討ちをかけい」と城門を開かせた 。

 「三河物語」の中で、大久保彦左衛門は、

 「家康公は浜松城から十二キロの余も撃って出て武田勢を追いかけた。もっと真暗になってから奇襲を掛けたら、勝利を得たかも知れないが、三河へ行かれるのを恐れてはやりすぎたので、薄暮の中で捕捉され失敗したのだ」

 と説明している。

 つまり、この三方ヶ原合戦で、家康は完膚なきまでに敗れ、また浜松城へ逃げ込んでしまい、勝ち誇った信玄は三河の大野へ出られる細江まで一気に進出した。しかし、 信玄は瀬戸城に入って越年し、雄図空しくここで病没してしまう

 (通説では、信玄が上洛するためだったとしているが、信長が、家康に、目障りだった平手汎秀らを捨て殺しにするための援軍をわずかに出したにすぎないことから、信長も信玄も戦う意志がなかったことがわかる。)

 【紹介者・注】

 信玄は一向宗の僧達を自在に使い、己の宣伝をすると同時に、他国〔駿河、遠江、三河、尾張など街道沿いの諸国〕にも一向宗の勢力はあるので情報収集もしていた。だから家康が元康の替え玉だ、ということも判っていて、己の兵力温存の意味からも、浜松城を力攻めせず、こうした合理的作戦を採ったのだろう。

 「加越闘争記」巻一の始めの書き出しにも、はっきりと、「是則ち、仏法は大魔にして、武士の怨敵なり」とでているぐらいで、元亀天正の頃は、徴税つまり年貢を取り課役を言いつける施政権の奪い合いで、 仏教徒と非仏教徒の武士は不倶戴天の仇敵同志だったのである 。だから、この時代を宗教闘争、民族闘争として捉えれば理解できる。

【紹介者・補記】

 さて、八切史観で家康、松平元康を解明すれば以上の様になります。従って松平の血脈は信康〔竹千代〕で断たれ、松平一族は悉く殺されています。 そして、松平の「姓」は徳川に従うという意味から「属」とされ、大名にもこの姓を与えている。

 武鑑を見れば、九州の島津も、東北の会津も松平姓で、この姓は多い。だから、徳川秀忠と御台所〔江与の方・信長の異母妹、於市の末娘で信長の姪御に当たる〕の間に生まれた国松〔駿河大納言忠長〕には、織田の血が流れているというので、徳川姓は名乗らせず正式には「松平忠長」である。

 「右は神君大御所駿府御城御安座之砌、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書拝写之 忝可奉拝誦之者也秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 左大臣同 御次男  国松君 御腹 御台所 駿河大納言忠長公也 従二位」

 とあるこの確定史料は現在内閣図書館に秘蔵されている<内閣蔵本>の<慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文>というのがある。

 これは明治四十四年刊の国書刊行会のものに<当代記><駿府記>といった、徳川史料のものと並んで活字本で収録されている。

 これによると、生母が春日局と御台所との相違をはっきり出している。が、父の方は(という)と、忠長の方は明白に御二男としてあるが、家光の方は御長男、とせずに、御嫡男の文字を当てている。

 現代では「嫡出」といった用語もあるが、この時代は「猶子」といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決まると、<嫡出>とか<嫡子>とか書かれたものであって、一男とか長子という文字が無い限りは、その長男とは認められないことになっている。

 これは当時の<陰涼軒日録>や<御湯殿之日記>にも、「嫡男とは長男とは違い、他から入って嫡男となり、そこの倅共と争う事など」と残されている。

 さて、家康~秀忠~家光~家綱~綱吉と続く徳川家であるが、

 八切史観では、秀忠は鍛冶屋の平太の娘、おあいの子〔後の西郷の局〕で、家康直系。家光も於福〔春日局〕に産ませた家康の子で、秀忠とは異母兄弟である。この春日局は本能寺で信長を襲った一万三千の軍勢を率いた斉藤内蔵介の娘なのである。

 当時於福は稲葉八左衛門の妻で四人の子持ちであった彼女を探しだし、夫の稲葉には五千石の扶持〔手切れ金〕を与え、夫婦の縁を切らせた。これを伏見城に連れてきて仕込んだ子が家光その人なのである。

 〔しかし、知らぬは本人なりで、家康は家光を自分の種だと思いこんでいたが、本当の父親は天海僧正らしい。これは「八切裏がえ史」や「徳川家康」「家康は世良田徳川の生まれ」の本に詳細。〕

 (天海は、光秀の孫らしいから、三代家光は光秀の血をひいていることになる。三代から、事実上は明智政権となる。家光の名は、利三と光秀と家康の名があわさったもので面白い。この家光に、ときの後水尾天皇が石高の加増を願って、家光が承諾したことから、幕府と朝廷のいざこざがはじまったらしい。)

【紹介者・注】

 何故に於福の産んだ子に徳川家を継がせたかの謎も、これ全て「信長殺し」に起因する。徳川史料を鵜呑みにして家光を秀忠の子とすると、何も判らないが、徳川家では家光を秀忠の子としないことには、まずかった理由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、神徒系の徳川家が全く仏教系に変貌してしまい、<神仏混淆>と言う時代に変遷してゆく為の糊塗策とも見られる。

 【引用参考文献】八切止夫著「徳川家康」「家康は世良田徳川の出身だった」「元禄太平記」「徳川家康は二人だった」 駿府政事録・大日本国駿州城府分時鐘銘・駿河誌・武徳編年集成・城塁記事

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年12月18日 16時42分05秒
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