シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月27日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

 「イモくってプウー・・・・西郷どん臭うごわす」

 「はぁ気いばつけます」と小さくなるのへ、「郡方の勤めは百姓からの年貢どりだ。ちょっと巧くやればイモでのうて米の飯くえるぞ」 

 同輩から言われても、西郷は首をふって、「百姓はそう苛められん」とことわった。

 この年は12月から弘化と変わるが、シーボルト事件から17年たち、大塩平八郎の乱から8年たっているが飢饉が続き、薩摩も冷害。

 三年前からの天保の改革も失敗老中水野は引退、阿部正弘が変わったが、やはり寒冷は続き百姓は年貢分さえ収穫できずだった。「・・・・ひもじか」と吉之助は唸った。

 子供のときには大食だったというが、次々と弟妹が生まれ前年には後の西郷従道となる信吾さえ生れ、「弁当がこないな小っぽけな芋一つでは」と情けそうに腹をなぜたが、だからといって役得みたいに百姓家で飯も要求しかねた。

 「なにも正義漢ぶっとるじゃなか。おいどんは気がこもうて百姓によう言えんのじゃ」と見かねてヒエ飯を碗にもってきた百姓娘に吉之助は、大きな身体を小さくしていった。



 「いけもっさん、腹が、へっては戦はできんでごわす」とせっかくの、馳走だが首をふった。そういう事をすると子供ができて、ますます食糧の事情が悪くなる、と本能的に拒んだのだ。

 「上の口も下の口もことわらっしゃるのは、たんと年貢かける気か」と娘は泣きかけた。

 「うん、困ったな」吉之助もとまどった。「ひえ飯を振舞うて貰っては後が困ろうな、では使うてもへらぬ方を・・・・」と掛かったが、「・・・重い、おし潰されもっそ」とかぼそい娘は西郷の巨軆の下で悲鳴をあげた。

 そこで、「やっぱりやめもっそ」すたこら逃げた。しかし娘を安心させる為とはいえ恰好だけでもなした事は、後悔。自己嫌悪におちた。「淋しさに負けた、貧しさに負けた・・・・おいどんの身体の重さに負けたんじゃなかぞな」

 次の見廻りのとき西郷はやさしく、娘の家の年貢を出せる範囲にまけてやった。

 「嘉永二年三月に江戸大火で伝馬町大牢がとき放しのままで高野長英が行方不明」と、まさか薩摩まで逃げてはくるまいに、郡方へ手配書が廻ってきた。西郷は高野など知らぬ。

 しかし禁止のオランダ学者だと教わると、「世の中が変だ」と想うようになった。が、薩摩も大変なことになった。殿の斉興には正妻の子の斉彬に江戸の舟宿の娘お由良のうんだ久光がいた。跡目をどちらにするかで藩内は二分して対立していた。西郷は、「父が厄介になっている赤山さまが斉彬さま側ゆえ、おいどんも」自分の立場をきめた。

 「まさか殿のお子を刃にかける事はできぬ」と久光が早死にするよう祈とうしたのが発覚。西郷家が出入りの、赤山ら十四名へ切腹。遠島が九名閉門も十四名と大弾圧があった。「高崎くづれ」と呼ばれ大久保の父も遠島。伜の後の大久保利通も謹慎を命じられた。

 「わしもすんでのとこ引っ掛かる処だった」父吉兵衛は青くなったが吉之助はすぐに、「親じどんの名代で」と赤山邸へ行った。「よかよか」丁度いま切腹しかける処だったが、「まあ、よく見ちょれ」と腹へ突き刺した。が直ぐ死ねるものではない、のたうった。

 「あんな立派な方でも切腹では巧く死ねぬ」24才の西郷吉之助は妙な悟りをひらいた。翌嘉永四年二月斉彬が43歳で当主になった。「鬼界が島へ流された大久保の父も許されて戻ってくる」と、当てにしていたが何の沙汰もない。どうなっとると吉之助は考えてしまった。

 「久光さまの母御とはいえ、かつては今の殿を亡き者にせんとしたゆえ、奸婦お由良の方は御成敗あってしかるべきではないか」と、のち海江田になる有村俊斉は激昂し、「今なら叩っ斬っても罪にはなりもっさん」とまで口にしたが、皆が諫めて止めさせた。



 「どうも、あれはおかしい年頃のせいかも」父吉兵衛は気をきかして伊集院の俊子を、「うちの嫁にと・・・・」貰いうける事にした。

 かぼそい娘だと重いといわれるかと案じ、「おいどはでかごわすか?」と西郷は前もって、器量よりも娘の体の尻を気にし尋ねた。

 「ずんぐり胴ばしとる。あれなら飯くわんでもやせはせん、経済的な、嫁ごじょでごわそ」子沢山で食わせるのに苦労している父は、俊子のことを賞めた。それゆえ吉之助も、「なら、よかでごわしょ」と逢ってもない娘だが、女なら誰でもと親の言いなりにした。

 余裕はなくとも嫁とリとなればイモ焼酎で宴をもうける。大久保や有村もきて酔った。西郷も花嫁はそのままで仲間と騒いだ。やがておひらきとなった。が、気の優しい彼は、「よかでごわしょか?重たうなかか?」そればっかりを気にして嫁をいたわった。

 「天は二物を与えたまわずとは、この事か」と次の日の朝、初めて嫁の顔をみて唸った。西郷の巨躯を浮かせ盤石のごとく頑張り、「重い・・・・」と悲鳴をあげぬのは良いが、アバタだらけの面相は桜島の噴火で海面にブカブカしている軽石みたいな風情だったからだ。



 「・・・・後悔は先にたたず、というが、どうも軽石を抱くと変な気分になるんでいけ申さん」 せっかく嫁とりをしたのだから、早く帰宅ばしろと言われても西郷は戻りたがらずに、「御用繁多でごわそ」と郡代詰所に夜遅くまで居残りし帳面を見ている事が多くなった。

 初めは時間つぶしの恰好で古帳面をめくっていたのだが、どうも、帳尻が、変だった。ためしに算盤を入れてみると計算が合わぬ。片っ端から調べてみれば呆れるばかり。

 「これでは百姓も無茶に取られて困ろうが、御国の方も大損をしている」と発憤した。「殿さまへ、かかる不正がまかり通っていますと上申書をかこう」と、軽石の妻の顔をみたくない一心から意見書がきを始めだした。

 「・・・・あなたさま」嫁が声をかけて来ても、「わしは役所では出来ぬ仕事を家へもち戻ってしとるんでごわすぞ」寄せつけずだった。

 〔はたして殿のお目にとまるかどうか〕と吉之助は余り当てにしていなかったけれど、「来る参勤交替には供の数に入れる」と、郡方の書役へは破格の通達がきた。父吉兵衛は、「なんでじゃ」と不審がった。が当人は喜び、「わしの殿は読まれたのだ」と感激した。

 安政元年(1854)一月十六日、南国薩摩を後にし行列の江戸到着は三月六日だった。「中小姓」の身分に郡方書役から昇進した吉之助は、嫁の軽石顔を、みずにすむだけでも有難いと生れて初めての高輪藩邸へ入った。「やるぞ・・・・」すっかり当人は張りきった。

 「庭番を命ずる」と沙汰されたのには驚き、「・・・・・えッ」と吉之助は聞き返した。なにしろ中小姓役で恰好よく出府したからである。「お庭番と申せば公儀でも伊賀者の賤役とされているが、殿は、こまめに書いて差出す其方を見込まれたのだ」と上役からいわれた。軽石の妻が厭やで連日のごとく書いて出した意見書で、西郷は江戸へ来られたのだ。

 「そうでごわすか・・・・」確かにこまめに意見書はかいて出している。だから庭へ出られた時の殿の側へゆき、命令をされた通り探索し詳細報告書でだす役にされたのかと唸った。

 「まあ加冶屋町の者の身分では庭番であれ、殿に直接にお目もじができ御言葉を賜れるのは、実質的には将来の為によかごわす」樺山三円のちの資之が慰めるより励ました。

 「そういうもんで・・・・」先輩の言う事ゆえ、西郷吉之助も渋面を作ったが承知をした。己れの郡方役所の不正をあばいた内容よりも、丹念に書いて出したレポートの書きぶりだけが認められたのではスッキリしなかった。

 なのに殿から与えられた最初の仕事は、「水戸の藤田東湖や、前の橋本左内について知りたい。詳しく調べい」との任務だった。

 「行ってあうがよかでごわすが、一人では」と人見知りする西郷に樺山が付き添った。東湖の父は古着屋の小僧だったのを、水戸の斉昭が拾い士分に取り立てたと聞いていたが、「庭番として御奉公か。大きいですぐ見つかりますな」と身分を軽蔑せず優しくいった。

 〔身分をいやしまれるのでは・・・・〕と、大きな身体を縮めていた吉之助も酒を出されて、「まあ一緒にやりましょう」すすめられて、「ハァっ」と受けている内に気がなごんだ。

 「君のような純情な青年はよい」いわれて、「おいどんも先生が好きです」口に出した。一度あったきりにすぎなかったが三日がかりで、藤田東湖こそ天下一等の人物なり、と西郷は殿への報告書には賞めちぎった。

 しかし橋本左内のような才子肌とは西郷は合わなかったらしい。軽薄である。医の出ゆえ東光派の賤しい者と始めはこき下ろした。

 「越前の松平春獄と提携する」と殿がいい、やむなく西郷は橋本左内と会合が多くなり、「彼は当代まれにみる英才」と後には、賞めるようになるが、当初は、橋本も西郷の事を、「大男総みに知恵が廻りかねる愚直者」と帰った後で妻に話した程で、かっていなかった。

 七月に入ると殿が急病、世子の虎寿丸も病気になった。幸い大人の方は助かったが、六才の若君は亡くなった。そこで西郷らは集まり、「お由良の方が殿父子を一緒に呪いにかけたのでごすぞ」と、国許へ使いを飛ばせた。

 「奸女斬るべし」と暇をと殿へ願いでた。そして殿はすぐ、「由良の子の久光の忠義を、虎寿の代わりに世子にする」と争いを防ぐために宣言した。

 「・・・・何しに薩摩へ行くか」と聞かれた。正直者の吉之助は問い詰められて答えた。「由良を斬って虎寿が生き返るか」と、単細胞めがと叱りつけられた。

 安政二年(1855)十月二日、東海大地震。大きな西郷吉之助が庭の泉水へドブーンと落ち、大きな水しぶきをあげ大騒ぎした。高輪の藩邸も傾き三田へ新築となった。江戸の大半がぺしゃんこに潰れてしまった大地震で薩摩屋敷でも20名も圧死がでた。

 「えッ先生が・・・・」と樺山三円にきき西郷が濡れたまま水戸上屋敷のあった今の後楽園球場までゆくと惨状はここも同じであった。

 「東湖先生は母者を助けようとして代わりに、ご自身が天井の棟木の下敷きになられた」と聞いて西郷はワァワァ泣きに泣き通した。

 「遠山の金さんこと前町奉行の左衛門尉も、やはり棟木につぶされ山内家出入りの相政が駈けつけ助け出していたが圧死していた」というように色々と話しが聞こえてきたが西郷吉之助は、「東湖先生に死なれては、わしも死にたい」とたけり狂うように引きこもり泣き喚いた。

 薩摩では伊集院から嫁にきた俊は、西郷から近く戻るとの手紙で帰りを待っていた。しかし殿さまに問い詰められ反対されて、戻ってこられずになったとは知らないから、「私の事を嫌っていなさったからじゃろう」と親元へ戻って怨みごとをいってきた。

 「あの軽石め、何を怒っちょる」と西郷は藤田東湖の死で胸も頭も一杯で放っておいた。だから、俊は返事もこないのに、ますます立腹したらしい。自分では書いてよこせぬから実父から江戸へ離縁を求めてきた。西郷も「仕方ごわせん」とあっさり承諾をなした。

 「次の将軍家には水戸の一橋慶喜をたてるよう画策せい」と、呼びつけられ命じられた。殿さまの鶴の一声である。庭番としては、「かしこまってごわす」と、すぐ行動開始。しかし77万石でも薩摩は外様大名である。

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 次回へ続く。





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Last updated  2013年12月27日 16時22分07秒
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