シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月27日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

 文久二年(1862)四月十日大島から戻ってきて50日なのに徳之島へ流罪処分にされた。「妻子のいる大島へ」と願い出た処、さらに遠い沖永良部島へ八月には送られた。大島の時とは違い久光の憎しみをかっていたから、孤島なのに牢を作って入れられた。

「先祖代々にわたり知行をやって食わせている家来が、島津の為ではなく御所の為とは不届である」と久光は、奈良原たちを寺田屋ヘさしむけ、家来の、有馬新七ら九名を斬殺させた 。

 さすが大久保もぞっとし身震いを覚えた。が久光は「お小納戸頭取」と待従長にした。文久二年(1862)八月二十一日大原重徳卿と島津久光の行列が横浜生麦へ掛かった時、イギリス人四人が騎馬で横切った。供頭が斬った。

 一人を殺し二人に怪我させた生麦事件である。徳川家では10万ポンドの詫び金を承知したが、久光は下手人の処刑と賠償金を拒絶。交渉に六月末イギリス艦隊は薩摩へきた。東郷平八郎15才山本権兵衛。

 七月二日鹿児島湾内の三隻が奪われた為、「撃ってよか」と大久保は砲台を指揮した。薩英戦争は翌日も続き鹿児島は焼払われた。久光はへこたれず逆に家来を密航させた。あくまで九州を独立させんとする肚だった。

「姉小路公共卿によって征夷の勅をえた島津は、それを大義名分に征夷大将軍たらんとしている」と伝わると、長州では毛利慶親が、「わしかて勅は貰っとる」とあせって出兵

 「先を越されてなるものか」と競合意識で、会津と共に薩摩は長州加坦七卿を追払った。元治元年(1864)二月二日エラブユリの花さくサンゴ礁の沖永良部島へ、一年半ぶりで赦免船がきた。

 西郷は、鬼界が島へよらせ流罪中の村田新八をつれ出し大島へもよって愛子と一夜をすごし大きくなった菊次郎と、初めて見る娘の菊子へ頬ずりして涙を流した。山川港から上陸すると京へ向かい3月18日に久光にお目通りすると、大久保が側にいて、「おいどんば殿さまと帰国す、後はよかに」まるで命令するごとくに口にした。京に残った西郷は元治元年七月に蛤御門で長州軍と戦い吉田松陰の妹婿久坂玄瑞らを戦死させた。

 将軍家茂が大阪城で病死。休戦となった。勝海舟が和平の密使とし安芸宮島へきた。長州側は広沢兵助や井上聞多が会見した。 西郷は英国公使パークスやアーネスサトーの力をかり、英国式砲兵隊の軍隊に変えた。大久保は岩倉具視と共同謀議にあけくれた。

 「征長軍総参謀」の、肩書へ、かつての庭番の西郷吉之助は選ばれた。彼は村田新八や益満休之助といった連中を密偵に長州へ送った。戦わずに勝つ方法を西郷は仕掛けたのだ。長州は三家老に自決させ首級を届け降服。

 「これでよか」西郷は作戦勝ちに満足した。「薩摩も独立の肚じゃ共に手を組まんと西郷さんば申しとるでごわす」のちの黒田清隆は、桂小五郎にあうと正面きって申しこんだ。長州も一国では心許ないから承諾をした。西郷は約束を守って弟二次征長軍への派兵は拒んだ。だからか20万の兵でも攻めあぐんだ。

 久光の考えかどうか、家老小松帯刀より、「岩山八郎太の娘いとと祝言せい」と、慶応元年一月二十八日39才の西郷は新郎にされた。「今度が三度の上の目か」未体験のおごじょの嫁を、いとおしむよう優しく扱かって、「おいどんの上へ跨がるがよか」といった。

 久しぶりに新婚気分を味わっているのに、「京へ来ちょくれ」と大久保がいってきた。「長州が割拠というて独立ばすると、高杉とか桂らが騒いどる、また長州征伐だそうな」物騒な知らせが入ってきた。西郷はすぐ、「おはん長州へ行け」と黒田了介をだした。

 その結果が、松平容保を親任されていた孝明帝の急死となった。少年の帝がたたれた。「今でごわす。出京して九州独立のため京坂を国境にして、長州に守らせたらよかでごわそ」大久保に言われた通りを久光へ報告した。

 「念願のハヤト国か」と島津は開戦をきめた。なのに坂本竜馬の進言で、土佐山内容堂が、徳川慶喜に大政奉還させてしまった。

「ふらちなやつだ、殺したれ」と大久保は怒り、西郷には内緒で刺客をむける算段をさせた。が、和平気分が京の御所を支配しだした。「弱り、もうした」西郷も首ひねってしまった。

 「長州へ落ちのび今では九州大宰府の三条卿以下の復位。正式に岩倉具視の処分解除」そして、その日、新帝の母方の中山忠能卿は、土佐の陸援隊へ高野山を占拠するため出動させて、御三家の紀州藩の牽制をさせていた。

大村益次郎のごとき単細胞は、「・・・・まったく訳が分らん。御国〔長州〕はどないになるんじゃろ」と眉をいかめ考えた 。

 12月9日。徹夜の会議がすんで徳川慶喜が退出した後、岩倉具視が参内して、はっきりと、「王政復古」を奏請した。帝はまだ幼少。

 朝までは和平会議だったが、恐い顔をした岩倉具視に奏上されると、脅えたように、「あッ、そう」とだけ言われたという。大阪から御所へ参内した徳川慶喜は、なんとかして平和的にと会議している間に、薩摩の大久保と岩倉がどんどん戦争の用意をした。

 「まるで平行線じゃ。どうなるんじゃろうな」と大村益次郎も双方の情報をきき迷っていた。しかし 岩倉と大久保は三井に命じて銀の有るだけを出させ、土佐だけでなく安芸の広島から尾張、越前といったインフレで困惑している雄藩に、みな金のクツワをかませた 。

義理とは困った時に金を貰ったり、その金で助かることである 。人情とは単なる感情である。つまり 感情より勘定の方が重いというのである 。雄藩連合が三井の銀で成功した。

小栗上野介の信任をえて弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した 。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。

「土佐の山内容堂侯は内ゲバせんとなんとかまとめようとしたというが、西郷が凄い目つきで、文句があるなら徳川より土佐を先に血祭りにあげると脅かした。海援隊はあっても坂本が死んでは何も期待できんし、陸援隊も中岡なき後は薩摩の傭兵化して中山卿についている。土佐も仕方なくうなづいたそうだ。いったい、どうなっとるぞなもし・・・・」

「西郷や大久保といった薩摩っぽは恐わい。どこまで彼らはやるか見当もつかんでいかん」とせっかく兵庫まできたが、大村にはどうしようもなかった。桂小五郎も同じだったろう。なにしろ御所でも、大騒ぎだったから。

いつの世でも黒幕の力はもの凄いもの。京の二条城に会津桑名の兵と共に一万の精鋭はいたが、徳川慶喜はやむなく京を引き払い大阪城へ入った。もはや京には幕軍の手の者は新撰組すら伏見へ追われていなかった。

 「このまま、もたついては如何でごわすか」と西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。

「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。

「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は、「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷大久保岩倉ラインにのせられた。

「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」とあまり気の進まぬ大村益次郎は、「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。

「大村さん・・・・とうとう来るところまできたぞな。ああたは三兵塾で育てた士官らに歴戦の諸隊の兵を、薩摩の言いなりに出して味方してつかあさい。それしかあかへんぜ」と顔をしかめつつも、桂小五郎は口にした。

「うん、しかしそうせなお国の長州が、後で西郷や大久保にどない目に逢うか分らん。まあ品川弥次郎が来とるけん。あれに指揮させて、薩摩の尻にくっついて行くしか、他には何もあり申さん」と桂小五郎は神経質に目をまたたかせ、ぶすっとした大村を諫めた。

 その頃、 岩倉具視も大久保一蔵や西郷へ「おはんらの薩摩の殿さまが、〇に十の字の旗をたてて天下統一したら、公家は一体全体どうなるんじゃ」とやはり危惧していった 。

「まあ、そのことなら西郷どんに任せて貰わな、いかんでごわしょう」と大久保は薄笑いを浮かべて、ぬらりくらりとしてみせた。「すると次のえらい様は徳川に代わって、薩摩の殿さまが天下をとり、鹿児島がお江戸にとってかわるんですかのう」とずんぐりした身体を折りまげるようにして率直に大村は尋ねた。しかし桂小五郎は蒼い顔で無言だった。

当の西郷も、ただ笑って大きくうなずき、「よかしますでごわしょう」力強くいった。「なら一国一城は貰えるな」と岩倉も答えた。

 しかし島津の殿さまは、二百五十年続いてきた主従関係をあくまで信じきって疑いをもとうとはしていなかったので、「西郷や大久保は世が世なら目見得以下の下賎な者らであるが、このたびの天下創業の働きはアッパレじゃなかか」と口にして、笑った。

 「天下平定のあかつきには西郷には10万石大久保には5万石ほどの城持ち大名に取立てやるに、ヤブさかではない」といった。「有難き仕合せ・・・・」小松は平伏して答えた。

 慶応四年1月3日。討薩表をもって島津の本陣へ向かおうとした滝川土佐守は、鳥羽伏見で薩長兵に阻止された。随行の旗本共は、「将軍家に対し奉って非礼である」と息まき実力で強行突破しようとした。が、「ババーン、ババーン」と伏せの構えをしていた散兵線の餌食にされてしまった。

 侍どもは「イモや長州の木こりに負けるな」と先祖伝来の槍のサヤをとって突入したが、近づく前にバタバタみな撃ち倒されてしまった。なにしろ薩長兵は三千余りでも、銃は南北戦争でグラント将軍が押収した南軍の元込エーゲー銃。硝石も新しい払い下げ火薬である。てんで戦いにもなにもならず滝川土佐は「かくなる上は斬りこめ」と叫ぶのみだった。

 処が 滝川土佐についていった旗本共が持っていたのは江戸から担いで来た火縄銃。火薬は大阪天満に積んであった寛永時代からの湿気をおびたもの。撃っても鉛玉が転がるだけ、まるで小石をぶっつけているみたい 。

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 次回に続く。





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Last updated  2013年12月27日 16時52分22秒
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