シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年01月15日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前の続き。

 ☆  ☆  ☆

 かつて 国際連盟が開かれていた頃、その会合の開催される前日にかならずユダヤ会議が開かれ、その予備会議で決定されたとおり本会議で議決されていた事実は、会議に参集していた各国の情報官によって伝えられている

 ユダヤと利害をともにすることができなかった国家群が、国際連盟を脱退しなければならなかった原因もここにあったのである。 キリスト教とユダヤ・フリーメイソンとコミンテルン、これらをつらぬく敵性が、歴史と伝統とを保持する国々に革命を起こして滅ぼし、これら敵性に拮抗して自国と民との自立共栄を念願していた国々を地上から抹殺しようとした理由もまた、この「主の道を直くする」ということのなかに意図されていたのである。

 「主の道を直くする」というユダヤの寺の教理はその後も永くキリスト教伝道の基調になってきたのであるが、日本における「神の国運動」も、ユダヤの王の再臨を準備するということであって、 賀川豊彦らがアメリカ共産党からの資金によって主唱していたものであった

この運動も日本に敵国の内応者を養成する企みからなされたものだ 。キリスト教の単なる信仰上の運動なら問題はなかったのだが、陰に隠された企みがあったのである。



 「日本人がユダヤの王の前に立つためには、日本という国家を背負った驕り高ぶったままの姿であってはならない。悔い改めによって遜らなけれぱならぬ。日本人はそう簡単には国を捨てない。国を捨てさせるには、国そのものを無くしてしまえばよろしい。それは戦争によって日本を負かすしかないのだ。日本が戦争に敗れて打ちのめされて初めて遜るようになるのである。そうなれば天皇の神格も地に落ち、国民も拠りどころを失う。それによって日本も共和国となりうる」

 というのが密議の主旨であった。

 回顧すれば、昭和六、七年頃からユダヤ・キリスト教はすでに日米戦争を予定して計画を進めていた。中国・日本に差遣された宣教師らも、その使命をおびての伝道であった。マッカーサーによる来攻の目的もここにあったと断ずることができる。

 いつか 賀川豊彦の近親の者が、「何が理由で収監されたのかわからない」と雑誌に書いていたが、収監を進言したのは私なのである。その理由は前述の密議の内容に基づいて、賀川が収監直前まで日本敗北の運動を鼓舞していたからだ。

 米国共産党のユダヤ人サムエル・ゴンバース[Samuel Gompers]との関係を保っていた賀川豊彦らが、日本を「反戦ではなく戦争によって敗戦させ、それによって革命を実現する」というユダヤ・フリーメイソンの敗戦テーゼに従ったものであった。賀川らが米国系共産党員としての本性を発揮して、日本の敗亡を目指した神の国運動を展開し、日本の革命を図ったという理由での収監であった。

「迫害」という言葉で惑わす切支丹布教(83P)

そもそもキリスト教の日本への渡来は、天文18(1549)年にフランシスコ・デ・サビエルによって始まったものである。彼らが何をしに来たのかといえば、黄金の国ジパングをポルトガル王やローマ法王の領土にするための尖兵として来日したのである。

  サビエルはカトリック教会の主であるローマ法王の僧兵団の一員であり、東方渡来はジョアン三世の要請によるものであった。彼はローマ法王パウルス三世から聖使に任ぜられ、インドにおける法王の代理としての全権を与えられ、ポルトガルの東方植民地の官吏のすべての上に、一切の俗権を行使できる権能を与えられて来たのである。

 インドにおいて土民をキリスト教に改宗させるために宗教裁判を実施し、改宗を強制し、従わない者は惨殺・焚刑に処した。富裕の者の財産は強奪して僧兵団の手に没収し、僧院・教会を建設した。

  天文18年夏、日本は黄金の国であり、数百万の人口を有するジーペンの人たちを改宗させれば、巨億の富が入ると思い定め、日本の首都を目指してマラッカを出帆したのである。 彼の後、各派各団の宣教師らが渡来した。いずれもサビエルと大同小異の心組みで訪れてきたのである。

 日本の富と国土を狙って来た者であり、日本人を奴隷として売り渡したり、一国の領主に金を貸して領地を担保にして取り上げたりし、ついには島原の民百姓を煽勤して大乱を起こさせている。



 しかも原城に立て籠もって死んだ遺骸には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招来したイエズス会士も、一人のバテレンの遺骸も見つからなかった。煽るだげ煽りたてて死にいたらしめ、自分たちはとっくに逃げうせてしまったのである。

 (島原の乱はメーソンによる威力偵察みたいなもので、徳川体制が意外と磐石なので、徳川家に憎しみを抱く長州を使って、後に政権乗っ取りを画策する。)

  これに対し豊臣・徳川は布教を禁圧し、宣教師らの国外退去の策に出た。これが国法であり、国禁であり、国をあずかる者の当然の施策である。国禁を犯し、国法を蔑〔なみ〕する者はこれを罰する。

 キリスト教が宗教裁判で異端・異教を焚刑・傑刑に処したように、徳川もまた同じことを行なったまでのことである。それを「切支丹殉教」とか「切支丹迫害」などと称するのはおこがましいかぎりである。日本人自らが発するべき言辞ではない。

 彼らバテレンたちは日本の金山・銀山を狙って金堀師らを帯同してきていた。今日でも鉱山の鉱脈の露頭に彫り刻まれた十字の印が見られる。そこには異人の堀り師が潜み、隠れ切支丹らの祈祷所としていたのである。

山本五十六フリーメイソン説(144P)

 山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、 山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた

 (略)

 山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴〔まみあな〕にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。

 (略)

 山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり…、

国全体がユダヤ諜報網の中に(146P)

戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく

またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた

 日本に張りめぐらされていた敵国のスパイ網は、ミッドウェーの完敗を喫したように、誰かが写真に撮り、誰かが盗聴し、それを集めて誰かが通報するようなスケールの小さいものばかりではなく、はるか以前から計画的に仕組まれ、長年かかって出来上がった全日本的なものが多く、単に一回的なものだけではなかった。

大川に接近した甘粕正彦の真意(156P)

 満州の赤化が満鉄の調査局を中核としてようやくその激しさを増してきた頃、時の満鉄副総裁・八田嘉明は、赤化防止の方策を立て、安田生命問題のとき、北一輝とともに大川と袂を分かった島野三郎氏を東亜経済調査局長の椅子に据えようとしていた。このポストを狙っていた大川周明が、河本大作を操って自分が局長になる工作をし、それが実現して大川の局長就任となったのである。

 だが、それによって満鉄内には赤色勢力が滔々として流れ入り、防共の策も立たぬほどになったのである。このあたりの経緯については、戦時中、成城の島野氏の自宅を訪ねて詳しく聞いたところである。後になってから大川周三氏〔周明実弟〕に確かめたが前述のとおりの経緯ということであった。

 満鉄を赤の巣窟にし、大川に甘粕を加え、さらに黒川を足して満州協和会を作り、さらに石原莞爾が加わり、それに支那問題研究所とソルゲ・ルートの昭和研究会及び国際問題研究所まで取り入れた頃には、ユダヤの企てていた中国を中核とした一連による極東攻略の陰謀も、ほぼその実現の域に達していたのではなかったか。

 それゆえにこそ尾崎秀実は獄中にあって、「日本の革命準備は、九分どおり成れり」とうそぶいていたのではなかったのか。

 大杉栄殺害に関係した甘粕が、満州に渡る機会を得たのは参謀本部の人選による。甘粕が大川に師の礼をとり、大川の周辺に身をおこうとした真意が何であったかは不明だ。

 甘粕が金を出し、大川が人選にあたるということで、私の友人・香川文雄君が偶然にも選ばれてドイツに留学することになったことがある。満州からわざわざ東京・渋谷の私の下宿まで、渡独留学のことについて相談に来たのであったが、今さらドイツにまで出かけて勉強でもあるまい。ドイツで出来る勉強なら日本でも出来る。

 つまらぬ真似はしないことだということになって、留学の件を甘粕に返上した。だが、機縁というのは不思議なもので、香川君の代わりに選ばれたのが、やはり知人であり、同郷の★斉藤信治氏であった。留学先はカイロであった。

 日独交換学生を望んでいたのだが、同輩に出し抜かれて失意のうちにあったときの朗報であった。東北大学の小山教授の人選で、大川が甘粕に推薦したのである。★留学の目的は回教研究ということであった。もちろんこれは甘粕の特務機関用務であったと思われる。

 大川の弟の周三が、特務関係の仕事で南方に行けるつもりでいたところ、それが沙汰止みとなり、東京の近親のもとに身を寄せていた頃、その南方行きの沙汰止みは単なる甘粕の邪魔くらいにしか考えていなかったが、それは周明の行動に疑いの持たれるふしがあって、達識の士が周明の行動を調査させていたからであった。

 この調査にあたった者たちは中野学校系であった。行動に移る前の事前説明において、その説明にあたった人物が甘粕正彦その人だったのである。 甘粕はその説明のなかで、大川がユダヤ財閥と特殊な関係を持って行動していることを明確に指摘したというのである

鮎川義介、大川周明、石原莞爾らが、ユダヤ利用論者であったことは周知の事実であった

 甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその一連の者として厳重に監視するよう指示したことは、一体どう解釈したらよいのか。表面は大川の指示によって動いていたように見せて、裏では大川の動きを封ずる策に出ていたとみるべきであったであろうか。

 石原莞爾が戦後、郷里の山形に仮寓していたとき、私の友人でかつて石原の秘書であった桐谷誠君を使って、石原の対ユダヤ観を徴させたことかあった。桐谷君に石原は「利用論者」と告げたということであった。これで石原将軍もユダヤ利用論者であったことが明確になったのである。

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 次に続く。





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Last updated  2014年01月15日 13時57分50秒
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