シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年01月27日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 宗教の問題を根本的に考えると、人の下に人をつくる考えに問題があることがわかる。メーソンなんかは、世界を一つにするためと称して、人の下に人をつくるような身分制度をつくろうとする。御馴染みの三角形のピラミッド構造である。

 1つにするのなんて、真っ平御免で、人間には自由の意志がある。余計なお世話なんである。

 人間は既に自由の意志をもつことで1つにつながっているのであり、わざわざ1つにする必要などない。1つにしようと、1つを押し付ける際に、人の下に人をつくるようになる。

 我々は既に1つなのである。その1つとは、唯一神の愛である。その愛に気づくことが各々の人生の修行だろう。

 さて、世界を1つにしようと思い上がっている連中はニセユダヤに代表される輩であるが、連中がなぜか日本をターゲットにしてきたことになんだか意味があるような気がしてならない。

 そこで、シュタイナーが、日本について述べていることを、あるサイトから抜粋紹介したい。

 ☆  ☆  ☆

キリストと日本(改変)



 地球は人間に完全な自己意識の「私である」を与えるために存在している。それ以前の地球の状態(土星紀、太陽紀、月紀)は、この「私である」の自己意識を与えるための準備にすぎなかった。

 キリストとは全ての人間が、各々の個性的存在として、「私である」を感じとれるための認識を与える者のことである。

 地球という固体が生まれてはじめて、地上の人間を圧倒的な力で前進させる(自己)認識が与えられたのである。このことは、新約聖書と旧約聖書に載っている教えとの比較からも明らかにできる。

 旧約聖書のなかの人間の人格のなかでは「私である」をまだ完全には感じていない。古代の夢(潜在)意識の名残りを留めていたので、「私である」と感じないで、今日の動物が集合魂の一分肢であるのと同じように、神の一分肢であると感じていた。

 (組織の歯車的な考えのこと)

 集合魂から自立した個人となること、そして、「私である」を感じる存在になることが、人間の進歩なのである。そしてキリストは、この自由な「私である」の意識を、人間へともたらす力の総称なのである。

 〔シュタイナー「ヨハネ福音書講義」春秋社/P61-62〕

 シュタイナーの神秘学の基礎には、「自由の哲学」があり同時に、キリスト意識がある。そのことが、特に日本では、シュタイナーがあまり受け入れられない理由になっているのではないかと思う。

 (日本人の多くは、いまだに「神の一分肢である」というような動物と同じ感性をもっているからである。靖国参拝問題は、この悪しき典型である。唯物論の時代の科学者でさえも、英霊なんかを信じているからである。幽霊や魂がないという唯物論の学者が、英霊などど馬鹿げている。「こころ」と言って逃げているが、「こころ」を科学で証明すべきである。)

 それは、また、日本でのニューエイジ運動のなかに紛れ込んで、シュタイナーの説が受け入れられてきたことも大きく影響している。つまり、ニューエイジ運動には、アンチ近代という傾向があり、そこでは、どうしても「自我」を「利己」として罪悪視する傾向もみられるからである。「自我」をエゴと同一視してしまうわけである。

 「自我」は滅するのではなく、成長させていくべきものである。最近では、ニューエイジの延長線上にもあるトランスパーソナル心理学でも、例えば「自我の力動的基盤/人間発達のトランスパーソナル理論」〔マイケル・ウォッシュバーン著/雲母書房.1997.10.10〕のように自我の成長ということを重要視する動きがでてきているが、いわば「自我によって自我を超える」とでも表現できるような認識をもっと探究すべきであるように思える。



 この違いを、日本での魂の在り方について考えていくと非常に興味深いことがわかる。日本では「個」が育っていないとよくいわれる。勿論、西洋の近代の述語とでもいえる個人主義を、日本にもってきてそのままあてはめることで理解するのではなく、例えば、日本のもつ霊性について、一部で語られているような「日本は裏ユダヤである」という表現の意味を、いわば、旧約の集合魂のような霊性が封印されているという形で理解してみることで、見えてくるものもあるのではなかろうか?

 シュタイナーの神秘学を、西洋だけにしかあてはまらないと考える人もいるが、確かに、シュタイナーは西洋に対して述べているので、そのままでは日本が見えてこないという側面もあるが、日本にも当てはまる重要な観点もあることを忘れてはならない。

 西洋も東洋も霊魂の上では同じという観点なしで、日本でのシュタイナーの神秘学の意味を考えることは片手落ちになる可能性がある。

 これまでの日本でのシュタイナーの神秘学の解釈は、キリストの意味を省いて考えてきた。けれど、それでは、シュタイナーの神秘学の核の部分が欠落してしまう。キリストと日本というテーマがクローズアップされる必要性を感じる。勿論、キリストというのは、いわゆるキリスト教ではない。

 (自由な個性をもつ自己意識のこと。)



愛の必要条件(改変)

 一体、愛には何が必要なのか?

 或る存在が他の存在を愛するには、一体、何が必要なのか?

 愛するには、愛する存在が完全な自己意識を持ち、完全に独立していることが必要である。もし、愛が他の存在への自由な贈り物でなければ、完全な意味において、愛とはいえない。

 例えば、私の手は私の身体を愛してはいない。他の存在から切り離され、独立しているものだけが、他の存在を愛することができる。

 (男と女は愛するために分かれている。)

 愛すべき存在になるため、人間は自我をもつ存在になった。地球が、愛の使命を、人間を通して成就させるために、自我は、三重の人体(肉体、エーテル体、アストラル体)のなかに付与された。

 だから、キリスト教神秘主義の意味では、かつての土星紀の能力、太陽紀の能力、そして月紀の叡智を含め、神々の手で、それぞれ送り込まれたように、地球紀では、愛が地球に送り込まれ、その愛の担い手は、地球紀に形成される自立的な自我となるのである。

 〔シュタイナー「ヨハネ福音書講義」春秋社/P51-52〕

カナの婚礼(改変)

 ヨハネ福音書の2.1-には「カナの婚礼」の話がある。まず、この話を「新共同訳」から引用する。 

 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 しかし、母は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

 (略)

 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われた。召使いたちは運んで言った。

 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言った。

 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」

 この話は、普通に読めばイエスの単なる奇跡の物語のようにしか読めないが、シュタイナーは「ヨハネ福音書講義」で、その深い意味を述べている。ここでもテーマは「愛」であり「自我」なのである。

 「カナの婚礼」とは、ガリラヤでの或る結婚式のことである。なぜガリラヤで結婚式が行われたのか?

 それを理解するには、キリストの本来の使命を、再度、魂のなかに呼び起こす必要がある。キリストの使命は、完全な自我の自由な認識力、つまり内面的な独立性を人間の魂の中にもたらすことだった。

 個人個人の自我が独立し、完全な自己の中で自らを感じながら、自由なる愛の力を通して、人間と人間が結ばれ合わなければならない。だから、キリスト原則の完全に自由な自我を通して、愛が地上での使命に加わった。

 愛の使命は、物質を超えて、霊として次第に高まっていく必要がある。愛は低次の感覚と結びついた最下等の形態から始まった。古代では、血の結びつきにより結ばれたもの同士が、互いに愛し合った。血の結びつき、という物質的な基礎に、恐ろしく拘っていた。

 そこにキリストが来た。そして、愛を霊化した。従って、一方では、愛を血の結びつきから引き離し、他方では、愛に霊力と(個人的な)認識を与えた。旧約の信奉者たちは、集合魂への従属性を、集合自我のなかの個別自我の本質的な基礎である、と考えていた。

 〔「ヨハネ福音書講義」春秋社/P107〕

 このテーマに沿って「カナの婚礼」について見ていく。

 母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言うと、イエスは「婦人よ、〔わたし〕とどんなかかわりがあるのです。〔わたし〕の時はまだ来ていません。」と言う。

 (「わたし」というのは、個人的な自我(自己認識)のことで、キリスト原理のこと。だから、ぶどう酒がなくなったことと、個人的な自我とどういう関係があるのか?と聞いている。)

 この発言の意味を理解するには、キリストが、なぜ水をぶどう酒〔アルコール〕に変えたのか、つまり、ぶどう酒〔アルコール〕にはどんな意味があるのかを理解する必要がある。

 アルコールは人類進化のなかで、大きな使命を持っていた。アルコールは、人体に働きかけて、「私である」という個人的認識が生じるように、(集合魂の)神との関係を断ち切らせる働きをもつ。

 アルコールは、人間が以前包まれていた霊界との関係から、人間を分離する働きを持っている。

 (略)

 集合魂が人類に与えた役割(血のつながり)とは正反対の役割を、アルコールが人類の進化のために果たした。(P111)

 (集合魂から、個人的な魂への分離)

 もちろん、キリストはアルコールを賛美したわけではなく、キリストには時代に相応しい使命があるということが問題である。

 (個人的な自我に対する個別的な愛の付与) 

 イエス・キリストの授ける洗礼は、人間を過去(血のつながり)に向けるのではなく、人間の内の霊性(個性)を高めることで、未来に向ける。曇りのない「聖なる霊」を通して、人間の霊性を神性と関連づける。水の洗礼は(過去への)記憶の洗礼だった。

 (水の洗礼は、人間を過去に、つまり血のつながりへと誘導するため、集合魂への帰依を意味する。)

 しかし「聖霊」による洗礼は、未来を指し示す預言の洗礼である。水の洗礼は、現在では全く失われてしまった集合魂との関係を思い出させるが、その関係が失われたことを、ぶどう酒が、供犠を象徴している。

 ☆  ☆  ☆

 次に続く。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2014年01月27日 16時42分30秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: