シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年02月05日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回は、シュタイナーの説く世界経済の形態が、少数として日本にも現われていることを紹介した。その代表例がエシカルビジネスという言葉だった。

 エシカルビジネスの究極の理想は、人間愛という相互理解を、生産というなんらかの形で、地球全体に広げることにある。

 しかし、その対極の、いわゆるニセユダヤ系のブラック企業が行なっている現実の支配の究極が少数の特権階級による人間の獣化、つまり人間奴隷工場であり、その最大のブラックビジネスが麻薬であり、戦争であったわけである。

 ニセユダは性懲りも無くいまだに続けようともがきまくっているが…。

 この背後には、相互理解など無視した自国の利益を他国におしつける国際的な消費、つまり国際的な要求がある。これに法が絡むと現状のように互いに法でもって束縛しあい雁字搦めになり、身動きがとれなくなり、やったのやられたので、足の引っ張り合いでおかしくなってくる。

 この代表がTPPなのである。

 つまり、ニセユダが目論んだシオンの議定書などの悪法により自由な精神が束縛されているのが現状なのである。有体にいえば、国家が自由な個人を束縛し、国家の奴隷としているのが現状なのである。

 どうしてそんなことになってしまったのか?といえば、戦争をして大量殺人を行いながらも、足ることを知らない国際的な物質的要求にある。原爆をつくり大量殺戮しても、原発事故を起こしてもなおも再稼動するといった、自分たちの行為を反省しようとしない霊(精神)的な不感症の馬鹿になってしまったのが現代人の実体なのである。

 そのような糞の連中にも覚醒を促すために、シュタイナーの話を続ける。



 永遠とデフォルト詐欺を続けているのがその証拠だ!

 いつ壊れても不思議ではない積み木をつみあげているわけで、積み上げれば積み上げるほどますます脆くなり、しっぺ返しを食らうからアホである。 

 ☆  ☆  ☆

アジアの背教者(改変)(1)

世界問題(1921年8月28日 週報「ゲーテアヌム」第一巻二号)

 11月に開かれるワシントン会議の結果に世界中の関心が集まっている。西洋列強のこの会合の議題として、軍縮と太平洋問題が挙げられているが、真剣に考えているのは後者だけで、前者は一種の道徳的な装飾品と思わなければならない。

 事実、北アメリカ、イギリス、日本という、今日の世界史が依存する三大強国の視線は、太平洋に向けられている。その際、何に関心が向けられているかを調べてみると、その関心の中心になっているのが経済問題であることがわかる。

 経済上の利益に見合った軍縮を行なうか、利益に応じた軍備増強を行なうかしかない。各国の経済上の利益に応じて、軍事問題も対処していかざるをえず、他の問題は経済活動の光の下でしか、扱われざるをえない。

 しかしヨーロッパとアメリカのような考え方は、従来の各々の歴史によってもたらされたままのものである限り、アジアでは、この上ない抵抗を受けることになるだろう。ロンドンの英連邦会議での南アフリカ連邦首相スマッツの発言は、多くの人にとって大変に重要なものであった。

 彼は、「未来の政治はもはや大西洋や北海にではなく、今後の半世紀間は太平洋に目を向けなくてはならなくなるだろう」と語った。

 しかしそうであったとしても、この方向で為される西洋人の行動は、アジア人の意志と衝突するに違いない。ほぼ50年前から始まった世界経済は益々発展していき、アジアの諸国民をも、その活動圏内に引き入れることになるだろう。



 純粋に経済の地盤においてだけでは、或る程度の信頼しか得ることはできない。経済だけではアジアの人々の意図に充分応えることはできない。アジア人の魂を掴む事ができなければならない。そうでなければどんな対応も不信感により覆われてしまうに違いない。

 このように考えると、今日の世界問題は最大限の射程距離をもって迫ってくる。西洋人は数世紀の間アジア人の不信感を呼び起こすような考え方をし、感じ方をしてきた。アジア人がこれから西洋の科学とその技術成果をどれ程知るようになろうとも、それは彼らの心をひきつけず、反発させるだけだろう。

 彼らが同じアジア人仲間である日本人の中に西洋文明への傾斜を見るとき、日本人を真のアジア精神の背教者と見做すだろう。彼らはアジア人の魂の内面の豊かさに較べて、西洋文化を低次のものと見做している。

 彼らは物質的進歩の点で立ち遅れていることに注意を向けない。ただ魂の努力だけを見る。そしてこの努力の点では東洋人の方が西洋人よりも優位に立っていると思っている。西洋人のキリスト教に対する態度も、彼らの宗教体験の深さにまで達しているとは見ていない。

 この点で今彼らの知るもとなったキリスト教などの宗教は、彼らにとっては宗教的な唯物論でしかない。そしてキリスト教体験の真の深さは今、彼らの目の前には現われていない。



 これまでは夢想家のイデオロギーにすぎない、と思ってきた事柄の中に、実際力を認めることを学ばなければならない。

 そして西洋はこの発想の転換ができる筈なのである。これまでは西洋の本質の外面だけが発達してきた。アジア人が理解しないこと、決して理解しようとしないことを、西洋人は達成した。しかしこの外面は、これまでその本質をあらわさなかった内面の力から生じたものである。

 この内面の力を発展させることができなければならない。そうできたときには、物質生活の上で、アジア人にとっても世界的な価値を示すような成果があげられるであろう。

 このような主張に対しては、勿論、次のようにも応じることができる。

 「野蛮なアジアに較べれば、西洋には内面化した深い心情(個性)があり、高次の(個性的な)文化がある。」

 そういう発言も確かに正しいが、西洋人が深い魂の本質(個性)を更に発達できる、ということが大切なのである。それなのに、これまでの西洋の歴史は、個性をもつ魂を公的な社会の中にはもち込まないように仕向けてきた。

 アジア人の魂は確かに、(個性という面では)子どものようであるかも知れない。表面的でさえあるかもしれない。しかしこの魂をもって彼らは公的な社会生活を営んでいる。

 いま言う西洋と東洋の対立は、倫理上善か悪かということとは無関係である。同様に美しいか醜いか、芸術的か非芸術的かということとも関係はない。

 いま言いたいのは、アジア(東洋)人が外界の感覚界の中でも彼らの感性や精神を共体験しているのに対し、西洋人が世界に向き合うときには魂を内部にしまい込んだままにしている、ということなのである。

 (東洋人は外界に応じて感情表現を行なうが、西洋人は外界とは切り離して感情表現を行なう。それは東洋人が風景画を親しむ傾向にあり、西洋人が人物画を親しむ傾向に現われている。)

 アジア人は感覚を働かせているときにも精神(感情)を発揮する。しばしば悪しき精神をも発揮するが、精神であることには変わりない。西洋人は内面においてどれ程精神と密接に結びついても、感覚が、この精神を逸脱して、機械的に考え出され、秩序づけられた世界に向かって努力していく。

 (アジア人が、西洋人をみて、冷酷に感じるのは、このせいである。)

 勿論、西洋人はアジア人のために精神的な考え方や感じ方を身につけようとはしないだろう。そうするなら、もっぱら自分自身の魂の要求から行なうだろう。決してアジア問題がそのための動機となることはない。

 しかし西洋の物質文明は、その中に留まり続けることに満足できない段階にまで達した。その内部で自分の人間性が内的に空虚になり荒廃していく、と感じさせられている。西洋人の魂は、存在の内面化を達成するために、精神的な生活態度を求めて努力しなければならない。そうでなければ、進歩の現段階に立つ自分を本当に理解しているとは言えない。

 この努力は西洋が現代という時代から要求されている進化の課題なのである。その要求が、タイミングよく、世界政治上必要となった東洋への眼差しと一致するのである。

 魂を改革しようとする意志がなければ、これ以上の人類の進歩は不可能ということに、西洋人が気づかぬ限りは、時代の大きな課題について救いがたい幻想に陥り続けるであろう。

 アジア人が偉大な魂と呼んでいる存在の前に西洋人が立たされたとき、魂が羞恥心に震えないでいられるだろうか。

 そして西洋人が物質上の成果の見返りとして、古代東方の精神性や魂の遺産を受け取ろうとするのは、錯覚でしかない。西洋人が自分の科学、技術、経済能力を真に人間に相応しいものにできる精神内容は、西洋人自身が自分の中で発展させた能力から来るのでなければならない。

 多くの人々が「光は東方より来る」と語ったが、外の方からやってくる光を、内なる光が受け取らなければ、光は知覚できない。

 (知識を授けても、その知識を理解できなければ、猫に小判である。)

 魂のない世界政治は魂のあるものにすべきである。確かに魂の発達は人間の内密なる要件だが、内面化された魂による人間の行為は、既に外界の秩序の一端でもある。アジア人がヨーロッパ人から学ぶコマーシャリズム(商業主義)は東洋においては退けられる。

 精神内容を開示する魂だけに信頼が与えられる。中国を西洋列強に利益を提供する経済領域にするにはどうしたらいいか、という問題に答えるのが現実に思うなら、それ自体が古い思考習慣以外の何ものでもない。

 アジアに住む人たちの魂とどうしたら理解し合えるのか、というのがこれからの真に現実的な問題なのだ!

 世界経済とは、相互理解を見つけなければならない魂にとっての外(物質)的な身体(媒体)であるにすぎない。

 いまこの時代考察がワシントン会議で始まり、魂への相互理解の要求で終わるのは、唯物論者にはイデオロギー的な態度に見えるだろう。

 しかし現代のように、価値観がめまぐるしく移り変わる忙しい時代では、今の理念蔑視の唯物論者がいつ見解を改めて、魂を無視することは現実的ではない、と言い出す可能性は高い。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2014年02月06日 12時09分23秒
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