シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年06月19日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き

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桶狭間の秘密

 「父道三さえ生きておりましたなら加勢してくれまするが、今となってはそれのかなわぬところ」奇蝶は悲しんだ。

 しかし百万石の駿河の今川に対して勝ち目はとてもなかった。「時よ、時節は変わろうとままよ、織田の信長は男じゃないか」あっさり諦めて、向こうの申し出によって人質を出すことにまでなった。尾張平和のためならばと男らし
く覚悟をつけたのだ。

 ところが、覚悟をつけるのと実行するのとは違うものである。もたついているうちに今川義元は進発してきて、なかなか信長が出てこないことに立腹し、丸根・鷲津の砦まで焼いてしまった。放っておけば清洲城まで火をつけられる。

 そこで 信長は佐脇藤八以下近習5名のみを従え 、せっぱつまって出かけていった。昼頃になって、今川義元は信長の母方の里の平手の庄へ押し寄せた、と伝わってきた。平手は今の中日球場の裏側で桶狭間の近くである。



 「にわか雨にやられて鉄砲の火縄が湿って使い物にならないと見てとるや、信長様は電光石火の変わり身の速さで戦見物に集まってきた野次馬を指揮、恩賞づきで鉄砲をかっぱらわせ、ついで義元をも倒しなされたのだ」

 と伴をしていった小姓頭岩室重休は言ったが、

「では‥‥裏切りではないのかえ」

 と奇蝶としては、この時割り切れぬものを感じた。

 が、信長には黙っていた。

 その翌年の永禄4年から信長はぶんどってきた鉄砲を使って美濃を攻めたが、先方のほうが強く、五年、六年と連戦連敗。だが永禄七年には美濃三人衆を手懐け美濃を占領してしまった。

 占領地の宣撫工作のために前美濃国主の娘である奇蝶は、井の口城を改築した岐阜城へと移ることとなった。昔のように夫婦仲がしっくりいっている時には、あまり感じなかったような事でも、間柄が冷めてくると疑心暗鬼というか、疑いっぽくなってくる。

 一つの城とはいえ、夫の信長は本丸。奇蝶は二の丸だから、まぁ別居のようなものである。そこへもってきて、奇蝶の死んだ母が東美濃明智城の娘だったから、どうしても二の丸へは美濃の者が集まってくるようになった。そして安藤伊賀がある時、

 「よもやと思われますが、先年斎藤道三様に伜殿が叛かれましたる真相は‥‥信長様が『親子ではない』と言いふらす者どもを放って騒ぎを起させたとの由。また、『まむし』『悪党道三』などとでたらめな噂を撒き散らしたのも、みな信長様の小細工とか。そないに申す者がおりますがのう‥‥」

 と言われて奇蝶は眼を白黒させたが、「まさか」てんで本気にはせず、「わが夫の事をとやかく蔭口をきくものはもってのほかぞ」と叱りつけた。

 が、 安藤伊賀守は言わねばよかった一言の後のたたりが大変で、天正8年に、この時の告げ口が信長に洩れ、美濃北方城六万石を召し上げの上に追放処分にされてしまうが、それは後の話

 さて、天正四年に丹羽長秀に作事させた安土城ができあがったので信長が引っ越す時、「我が亡き父道三入道の城だったところゆえ、岐阜城はわらわの異母弟新五郎改め斎藤玄蕃介にやって下されませ」としきりに奇蝶は頼んだが、信長は自分が生駒将監の後家に産ませた長子の信忠を岐阜城主にし、玄蕃介は家老にしただけだった。

 天正十年五月二十九日、信長が身の回りを見させるため小姓三十騎を従えて本能寺へ入った。武田征伐から引き上げた信忠の一行も京の妙覚寺にいた。この時かしこきあたりから皇女御降嫁の話が密かに広まっていた。

 本当のところは、武田の姫を嫁にしていた信忠だが、武田を攻め滅ぼすために離縁していたから、その後釜にというのが真相だったのだが、奇蝶はてっきり夫信長への降嫁で、自分は追われるものと勘繰った。嫉妬に目がくらんでしまった。

 さて、南蛮人の宣教師が火薬を輸入するバーター制に、日本人を奴隷としてマカオへ連れ去り、これを印度のゴアやヨーロッパへもっていくことに対し信長が激怒して、イエズス派京都管長オルガンチーノと当時はしきりとににらみ合っていた頃でもある。

 美濃三人衆稲葉一鉄の姪を妻とし、以前は信長の直臣として羽振りがよく、その妹を四国の長宗我部元親に嫁していた斎藤内蔵介が、天正八年の安藤伊賀守の失脚に巻き添えの形で、当時は明智光秀の戦目付にまわされていたが、それさえも危うくなっていた。



 「これを出してしまっては、妹婿の長曾我部の滅亡である」と内蔵介はあせったが、昔のような権力のない立場なので困っていたところ、当時の美濃人から女王様の如く尊敬されていた奇蝶から密かに命令が来た。

 また、次いで、「ある事情から信長様に命を狙われているから、何とか助けてくれ、なんなら徳川の家は内蔵介の血筋に継がせてもよいから」と二十九日に信長上洛の知らせを聞くや、すぐさま堺へと船を求めて逃げたが、堺代官松井友閑に船を押さえられ軟禁状態の家康から、本多忠信が密使として内蔵介を訪れた。

 信長のために銀の値が安くなるというので、母方の親類の角倉一族も内蔵介に旗上げをしきりに求めてきた。

 「纏めて面倒みよう」

 ということになって、そこで六月一日の夜に一万三千の丹波兵を、軍監の立場を利用して内蔵介は動員させ、これを率いて出発した。

 六月二日午前九時過ぎ愛宕山頂で雨に閉じこめられ下山できずだった明智光秀が、坂本衆三千を率い上洛したが、その時既に本能寺は2年前のスペインのフェリッペ一世によって新開発されたチリー硝石の強烈火薬でふっとんでいたし、信忠も爆死していた。

 十日たって急いで戻ってきた秀吉が、信孝を名目だけの大将にしてライバルの光秀を弔い合戦の名目をつけて山崎で破った。

 半月たった六月二十七日、終戦処理をするために清洲で会議が開かれた。

「信孝が明智を討ったから殊勲甲」と秀吉はしたかったが、勝家らは、「信長様殺しは光秀ではない」と反対し、明智秀満の兵が坂本へ引き上げた空っぽの安土城を六月十五日に焼き払って、中にいた奇蝶を焼き殺した次男信雄様の方が仇討ちの一等」と多数決で決まり、信孝は美濃一国だが、信雄には伊勢尾張二国の分け前となった。

 しかし、信長のやり口に対し、奇蝶のとった行動に同情する者が当時多かったから、六月二日より岐阜城主になっていた異母弟の斎藤玄蕃介も助命され、信孝が城主になると、また家老になった、とも伝わっている。

 そして 信長殺しが秀吉か家康か、はっきりさせられなかった時代では、奇蝶は「夫殺しの悪女」とされたままで、今も日本全国どこにも彼女の墓はないはずである

 だが、儒教が広まった元禄以降は、「信長ほどの男が女に殺された哀れな亭主ではおかしい」と、男の光秀にすりかえられてしまった。しかし、御霊社や御霊神社というのは無実の罪をきせられて殺された者の霊が迷って出るのを防ぐため、それを祀るものだったとは今では明白にされているが、京都福知山で一番大きな神社である御霊神社の祭神が明智光秀で、江戸、元禄後から今日まで大多くの信者を集めて毎年十月の例祭には何万人もの人が寄ってくるのは、「信長殺し」にされた嘘っぱちへの同情か、今でも多くいる悪女に悩まされる善男どもの姿であろうか‥‥

 ★   ★   ★

 次回に続く。秀吉も死後、北政所に裏切られた。八切史観では、秀吉の出世は北政所の貢献が大なので、裏切ったのは秀吉のほうかもしれない。信長の出世も道三の御蔭だから奇蝶の貢献大になる。秀吉も信長を裏切ったのだから、自業自得か。いずれにしろ女の嫉妬ほど恐ろしいものはない。         





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Last updated  2014年06月20日 10時59分02秒
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