シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年06月25日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き

 ★   ★   ★

 さて、二年たった天正七年の事である。五年がかりで丹波八上城を明智勢は落とした。捕虜にした敵の波多野兄弟を安土へ送った。その護送行列に弥市父子もついていった。ところが、戻ってくるなり夫の弥市は改まって、

 「われら父子は斎藤内蔵介様同心衆になるで」

 と佐伊子に報告した。何でも、賑やかな安土の城下や七層建築の金銀を散りばめた安土城の壮観さに肝を潰し、他の内藤党のように、いつまでも織田信長を怨んでいてはもう時代遅れであると父子で相談し合ったのだそうだ。

 「だから信長様の方につくには誰につくがよいか、明智の殿によく奉公するのが上策だが、というて、どうも戦した相手に取り立ててもらうは気が引ける。よって知り合いの取り持ちで斎藤様の手下にとりあえず父子で入れてもろうた‥‥よいか、妻としてその方も心するがよいぞ」

 『この話からも、斎藤が光秀配下ではないことがわかる。』

 と戻ってきていた弥市は熱心にあれこれ話を聞かせたが、(好きでもない男がどうなろうと知ったことか)と佐伊子はあまり耳を貸さず、ただ「それは、それは」とばかり空返事したものである。

 ところが、 秋になって四国土佐の高知の浦戸城主長宗我部の跡目に、斎藤内蔵介の妹が乞われて嫁入りする事になった

 『上は前回紹介したヤフーに載った書状(四国征伐回避説)に関係する話』

 父の弥一右は風采は芳しくないが、丹波者にしては弁口がたつという点を買われ、その嫁入り行列の伴をして行った。伜の弥市もついていった。

 さて、どんな手柄があったか判らないが、四国へ渡ってから重宝され、色々と役立つ事をしてきたらしい。戻ってくるなり佐伊子に、「喜べ、ついに同心衆から寄騎扱いに昇進ぞ」と弥市は勇んで褒められようと知らせに来た。

 なにしろ内藤党の旧亀山衆は降参した時助命はされたが、扶持は半分以下に減らされていた。だから弥市父子も二十貫どりの水呑み武者の身分に零落れていた。が、それが寄騎並となれば、これは馬にも乗れる身分。一躍百貫どりに抜擢されたのである。早速官舎も北向きの一間きりの萱葺きの棟割長屋から、東に面した板屋根の住居へ引っ越せる事となった。

 「この城に居つきの亀山衆で、そなた様の所の父子殿のように出世された方は初めてじゃ‥‥」

 とみな羨んで弥市の許へ祝いに訪れてきた。

 「そもそも夫などというものは、嫁の目から見れば、なにも自分が腹を痛めた子でもない、よその女ごが産ましゃった者じゃ。それを喰わせて寝かせて、いくら亭主じゃからと面倒みるは、こりゃぁ大儀なこと。少しは出世でもして埋め合わせしてもらわな、たまりませぬ」

 と、心安い嚊衆には佐伊子は肚の中の気持ちをぶちまけた。そして、(本心を遠慮のうしゃべるは気持ちがええのう)と、つい心が浮ついた。だから、止せばよかったのに、

 「この蘇芳の薩摩木綿はわしは派手じゃと思うに、亭主殿が見立てて買うてきなされたのじゃえ‥‥」

 などと、持ち出してきては拡げてみせたりした。そして、「へぇ」と寄ってきた女達が唸るのをみると、(妬いとるな)とわかったから、つい口から、「ええ亭主殿よ」声を弾ませ洩らしてしまった事もある。そして云ったあとでは自分でもはっとして狼狽もした。(いつの間に夫の弥市を好いてしもうたか‥‥)自分でも変な気がしてきた。

 この事を自分一人の胸にはしまっておけず、夫に打ち明けてみたくなった。しかし、「今まで嘘で、これから本心」と断った上で、「好きよ」と改めて言うのはちょっと照れ臭くてどうにも難儀だった。



 この年の三月十一日に武田勝頼が田野で生害した後、甲斐の武田領の配分に五月まで携わっていた光秀の殿は、安土の信長様から「在荘(いまでいうところの休暇)」つまり賜暇中と聞いていたので、突然の帰城を「すわっ、何事」と亀山城の者は面食らった。佐伊子も心配した。

 すると、「 なんでも備中攻めの羽柴秀吉様軍勢が、毛利に逆包囲され、危ないと使者が来て、信長様が御自身で出馬。それまでの騒ぎに斎藤様を軍目付にして光秀の殿は名代に御出陣じゃ

 『上の話は、通史とは全く違う』

 と弥市が斎藤内蔵介のところから教わってきて話をした。



 そして、その話しを裏書するよう、内蔵介の兵が煙硝倉の玉薬を叺(かます)に詰め替え、上から桐油紙で厳重に荷拵えされた。とりあえず百駄あまりが荷駄奉行の宰領で縄掛けが始まった。それゆえ城内は慌ただしい空気が渦をまき騒々しくなった。

 「戦となれば、お前も出陣。無事に早よ戻ってもらわねば、待つ身は辛うてやり切れぬえ」

 と何かしら胸騒ぎがするというのか、佐伊子は槍を研がせ戦仕度に余念のない弥市の背に、そっと甘えるように話しかけてみた。好き合って契った仲は、熱が冷めればすぐ仲互いをするというが、佐伊子のように嫌いで一緒になって、知らぬ間に心引かれだした妻の身は、まるで夫が(想い人)のようにも慕わしくなり始めてきているのである。だから、出陣ともなればとても胸が疼くのだった。

 それなのに弥市ときたら、前と変わらず、「心配すんな。大丈夫じゃ」とあっけらかんと黒い顔を突き出しては唸っているのである。前はこんな表情を見せられると吐き気がしたが、今では頼もしゅうて頬ずりでもしたくなる。

 せめてゆっくりしたい一夜を佐伊子は持ちたいものと心に念じてみるようになった。それゆえ、その願いが神に届いたのか、その夜は陣触れもなく、翌朝、 光秀の殿だけが城からも眺められる愛宕山へ行った 。(山頂の勝軍地蔵への祈願だけではなく、実は愛宕権現に軍資金の借出しだ)と弥市は教えた。

 道理で、殿は夜になっても戻らなかった。だからして、「‥‥ 信長様は行けと御指図はされても銀は下されぬで、仰せを受けた殿様は、金繰り算段が大変にござりまするな ‥‥」と寝物語に佐伊子が尋ねれば、

 「 采配や刀などは下さるが、軍資金は自分で賄い、あべこべに信長様へ占領地から色々な貢物を届け、ご機嫌をとるのが殿様衆の仕事。まぁ武力に秀でていても金繰りのつかぬような者では当代ではひとかどの武将にはなれぬ

 と弥市は教えてくれて、「 愛宕権現で貸出しする銀は、京の吉田山の吉田神道のもの。じゃによって丹波の細川藤孝様などは金融をつけるため長女の伊也姫を一色左兵衛から取り戻し、今では吉田神社の兼治に嫁にやっとるほどだで ‥‥」とも密かに打ち明けてくれもくれた。

 次いで、一日おいて、二十九日、煙硝の火薬を入れた叺や長持を積み出し、二百人程の供揃いで西国向けに輸送隊が馬を曳いて進発した。だが、三草山を越えたあたりで、沛然と大雨が降ってきた。俄雨のような激しい降りだったが、ずうっと止みそうになかった。「荷駄はどうじゃろ。こりゃ幸先が悪い」と亀山城の者は、雨に叩かれながら備中へ向かった者達の事を心配した。降りとおしのまま、二十九日は終わった。

 この年、つまり天正十年は陰暦ゆえ、この日が月末である。翌六月一日も雨は止まなかった。

 「 愛宕山へ登られたままの光秀殿は、こない降り込められては馬の藁沓が滑って山から降りられもせず 、難儀でござりましょう」と伊左子は光秀の下山が明六月二日になれば、出陣もそれからの事じゃろうと思い、(今宵も夫に可愛がってもらおうぞ)と心を弾ませていた。ところが、暗くなりかけた頃合、「ボオウ」「ボオウ」と陣貝が立った。

 『光秀は愛宕山で足止め状態のアリバイがある。』

 しかし、雨はようやく納まったが、ぐっしょり濡れた山坂を、まさか五十五歳にもなる光秀の殿が血気にまかせて頂上から逆落としに一気に駆け降りて戻って来ようとは考えられもしなかったから、「愛宕から殿はまんだ戻ってみえんじゃろに」と佐伊子は不足がましく云ったが、「出陣の陣ぶれの貝が立っては、愚図ついてもおられまいが‥‥」と弥市は慌てて父弥一右の許へ駆けつけてしまった。

 丹波一万三千はその夜、亥の刻(午後十時)亀山城外から陣立して進発。雨は納まったとはいえ、上流からの落水でかさの増した桂川の激流を渡っていった。

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 次回に続く。





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Last updated  2014年06月25日 14時40分53秒
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