シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年12月19日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 不正をしてはいけないのは自らの身を滅ぼすからである。

 そんな単純な原則すらもわからないアホバカが巷には多いようである。不正をすることで、利益を上げようとするアホバカは、そのような利益が一時的でしかないことに気づいていないアホバカだから始末に負えない。

 そもそも不正とは一時的な効果を狙ったものである。一時的な効果を狙って行われるから不正なんである。嘘と同じで、一度不正を続けるとその後もその効果を長引かせるために果てしなく不正を積み重ねていくことになる。

 ほんの一時の不正が、雪崩のような不正へと連鎖していくのだ!

 最初は隠して取り繕っても、雪崩のようになっていくから、取り返しがつかないことになる。だから不正は一時でも恐ろしい。生涯ストーカーのようについてまわることになる。

 ある意味、人生も永遠の輪廻転生から考えれば一時的なものである。しかし、ほんのわずかでも不正をすれば、人生総てが不正塗れになってしまうのである。だから、永遠に比べて一時的な人生であっても、不正塗れになれば、もはや永遠に不正塗れになっていく。

 ということは永遠の生命の源泉である天国(エデンの楽園)に二度と戻れなくなるということなのである。楽園から永遠に追放される。

 不正をするような輩への警告のために参考となる話を以下に紹介する。

 ★          ★          ★

私たちは自分の外に「神」を「愛」を探すよう教えられてきた(改変)
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-ccae.html

 第一の幻想は、あなた方の誰もが、自分は愛を知っていると思っていることだ。

 この幻想は途方もなく有害だ。なぜならあなたは、すでに知っていると思っているからには、それに到達する努力や、それを目覚めさせる努力を決してしないからだ。あなたは気づいていないだろうが、ホンモノの「愛」には、神が宿るということを。

 つまり、 あなたが愛だと思いこんでいるのは、愛ではなく単なるニセモノということだ! 。

 あなたは何か別なものを愛と呼んできた。そしてこうした幻想を抱いている限り、どうしてホンモノの愛を探求し、探し求めることができるのか? 

あなたが誰かに「愛している」と言う時は、実は愛を与えているのではなく、愛を求めているのだ! 。

誰もが愛を求めている。しかし自ら愛を求めている者が、どうして愛を与えることができるのか?

あなた方はみな、お互いに愛を求め合っている。

あなたの本質は、「愛してほしい」とねだっている乞食だ! 。

 妻は夫に愛をねだり、夫は妻に愛をねだっている。母親は息子、娘に愛をねだり、息子や娘もまた愛をねだる。友人は友人に愛を求めている。あなた方はみな、お互いに愛をねだっている。自分が愛を求めている友人もまた、愛を求めていることに気づかない。あなた方はまるで、空(から)の器を持って向かい合い、施しを求める2人の乞食のようだ。

愛を求めている限り、愛を与えることはできない。

 なぜなら、外に求めるのは、自らの内側に愛の源泉がないという証拠に他ならないからだ。そうでなければどうして、外側に愛を求める必要があるのか? 

愛とは分かち合うもので、ねだるものではない。愛は与えることしか知らず、求めることを知らない。

乞い求められた愛は、愛ではあり得ない。

 そして覚えておきなさい。 愛を求める人は、決してこの世で愛を手に入れることはできないことを! 。

愛を求める人は、決して愛を得ることがない 。 愛は、愛に対する欲望が消え去った家にしか訪れない 。愛は、愛を求めるのをやめた者の家にやってくるが、ねだる心にはやって来ない。なぜならねだる心には、愛の訪れを可能にするオモテナシがない。しかし分かち合う心、与える心には愛が訪れるほどのオモテナシがある。

 これまでに、愛があなたの扉をノックしたことがあっただろうか?

 いや、なかっただろう。なぜならあなたはこれまで、愛を与えてこなかったから。そしてまた 何であれ、あなたが与えたものは自分に戻って来る、ということも覚えておきなさい 。

生命の永遠の法則の一つは、何であれ自分が与えたものは自分に戻って来るということだ 。

全世界とは、反響する木霊(こだま)に他ならない。

 憎しみを与えれば、憎しみが返ってくるし、怒りを与えれば、怒りが返ってくる。人を罵倒すれば、別の人を介して罵倒が返ってくる。棘を差し出せば、忘れた頃に棘が戻ってくる。与えたものはすべて間違いなく、さまざまな形で自分に戻り、自分に返ってくる。そして愛を分かち合えば、愛もまたさまざまな形で自分に返ってくるのだ。さまざまな形で愛が戻ってきていないのなら、自分が愛を与えてはこなかったから、と理解しなさい。

誰もが愛の乞食

 あなた方はみな乞食だ。

 しかも別の乞食に向かって、ないものねだりをしている。そしてそれが手に入らないと悲しみ、涙を流し、自分は愛を得ることはできない、と惨めになる。愛は外に獲得するものではない。

愛は、あなたの内にある心のハーモニー(調和)なのだ!

 だから誰もあなたに愛をあげることはできないし、外側から獲得することはできない。

 愛はあなたの内側に生まれるものだからだ!

 愛は内なる開花であり、それは内側で眠るエネルギーから生まれ出る。にもかかわらず私たちはみな、愛を外側に探す。私たちはみな、それを恋人のなかに探そうとする。それは完全に間違いであり、徒労でしかない。

愛を自分自身の内に探しなさい!

 しかしあなたには、自分の内に愛があろうなどと想像もできない。なぜならあなたが学んできた愛は、常に恋人を連想させるからだ。その愛は常にあなたの外側にあり、外側の誰かを連想することでしかない。だから愛が自分の内側にどのように生まれ得るものなのか、想像もできない。あなたの内なる愛のエネルギーは眠ったままであり、 すでに自らの内にあるものを、あなたは外に求めていることに気づかない 。ゆえに外に求めている限り、内側を見ることはない。

 実のところ、それは決して探し求められるものではない。

 でもあなたは愛が欲しいから、他人の扉の前で手を差し出して乞い続ける。全世界に存在する欲望はただ一つ、それは愛だ。そして全世界にある不平もただ一つ、自分は愛をもらっていない、という思い込みからくる。そして自分が愛をもらっていないのは、相手の責任で相手に落ち度があるから、といって他人を責める。妻は夫に言う、「私のことなんかちっとも考えてくれない」。夫は妻に言う、「俺の身にもなってみろ」。

 あるとき、素晴らしい劇作家で、しかも詩人であった俳優が亡くなった。

 彼の葬儀には、大勢の人々が火葬場へ集まった。私も彼の葬儀に出席していた。そして彼が勤めていた映画会社の重役も出席しており、その重役は次のような短い弔辞を述べた。

 「私がこの男を俳優にしたのです。彼を裏道から見つけ出して連れ出し、出世街道へ乗せたのは私です。映画で最初に彼に役を与えたのは私で、彼の処女作を出版したのも私でした。彼が世界的に有名になったのは、私のおかげなのです!」

 彼はそれだけを述べた。

 あなた方の誰もがそのような場面に似た記憶を思い浮かべるだろう。重役がそのような自慢を述べ終えると、驚くことに突然、皆の前に横たわっていた遺体が起き上がって叫んだ! 

 「失礼ですが、これから埋葬されるのはあなたですか? それとも私でしょうか? あなたは誰のことを話しているのですか?」

 その重役は、「私が」彼を有名にし、「私が」彼の本を出版した。「私が」映画で彼に役を与えた・・・「私が」全てしたと言った。この「私が」という騒音に、遺体ですらも耐え切れなかったようで、遺体はついに起き上がって叫んだ!

 「失礼ですが、一つ教えてください。この葬式で埋葬されるのはあなたですか? それとも私ですか?・・・」と、皮肉をいった。

 このような死者でさえも自慢の餌にする重役のような人は常に、この「私が」という騒音を生み出し続けている。

 あなたの中には二つの声しかあり得ない。

 つまり、「私(が)」という声でいっぱいの人の中には、「愛」という声はない。そして「愛」という声に満ち溢れている人の中には、「私」という声はない。しかもその二つは、決して同時には見つからない。それは闇と光が同時に存在するのと同じくらい不可能なことだからだ!

 同じように、エゴと愛は共存できない。

 エゴとは闇のようなものであり、それは光である愛の不在だ! 

 あなたの内側には愛が欠如している。だから内側で「私」という声が鳴り響いているのだ!

 この「私」という声を強めて大きくしていけばいくほど、内に愛を見出す可能性はなくなっていく。エゴが強くなればなるほど、愛はますます存在しなくなっていく。そしてエゴが全てとなるとき、愛は完全に死にたえる。

 「私」というエゴ

 あなたは言う。これは「私」の服だ。これは「私」の家だ。

 これは「私」の地位だ。これは「私」が寄付したものだ。あれは「私」の援助によるものだ。「私」は○○大学出身だ。「私」の家柄は・・・、「私」の経歴は・・・。この「私」という周りに築かれた砦により決して愛を知ることはないだろう。

 あなたの「私」がいかに強く、どれほど根深いものであるかをしっかり理解することだ。

 またそれを毎日さらに強め、さらに根深くさせようとしているかどうかを、はっきり見極める必要がある。そうしたものが必要でさらに強めようとしているなら、内側に愛が生まれる望みは完全に断たれることになる。

 エゴから生まれる愛は、完全に偽りだ!

 だから私はあなたの愛はすべて偽りだと言う。なぜならそれはエゴから生まれたものであり、エゴの影だからだ。そして、良く聞きなさい、エゴから生まれた愛は憎しみよりも危険だ。なぜなら憎しみは明快で直接的で、単純だが、偽りの顔を装った愛はそれとは違って見分けにくいからだ。

 エゴから生じた愛によって恋人から愛されているなら、やがてあなたは優しい手ではなく、鉄の鎖で繋がれているような感じがしてくるだろう。釣りに行くと、人々は釣り針に餌を付ける。エゴが主人になっている人は、他人を所有したがる。釣り針に愛という餌を付け、彼らをプスリと突き刺すのだ。こうして愛という幻想のゆえに、最終的には実に多くの人が傷みと苦しみに陥るはめになる。

 地獄でさえ、こんなに大勢の人々が苦しむことはない。

 そしてこの愛という幻想のゆえに、全世界が、全人類が苦しんでいる。しかしそれにもかかわらず、あなたはエゴから出た愛は偽りであることを未だに理解しない。だからこんな地獄が生まれてしまったのだ。

 嫉妬は、エゴを伴う偽愛の一つの形だ!

 だから恋人たちほど嫉妬する者はいない。 エゴを伴う偽愛は、他者を所有しようとする陰謀であり策略だ 。ゆえに「あなたを愛している」と言う者ほど、人を息苦しい思いにさせる者はいない。こうした状況は、エゴから生まれた偽愛から生じるものであり、ホンモノの愛とエゴは両立しない。

 『インナー・ジャーニー』 OSHO 市民出版社

 ★          ★          ★

 不正=偽愛である。キリストは、「求めるな、与えよ」といったはずである。神の愛はあなたのなかにすでに光となってあるからだ!





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Last updated  2014年12月19日 15時52分37秒
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