シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月08日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 この国の歴史が権力者により出鱈目で塗り固められてきたことを紹介してきたが、偉人のなかでも最たる出鱈目なのは「乃木希典」である。

 司馬氏の小説が出鱈目と批判されているのは、「乃木希典」を無能と書いた「坂の上の雲」に対してのものが多いが、例えば、以前紹介した以下のような非難である。

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司馬遼太郎の罪
http://forkn.jp/book/2880/page/9

 彼の小説の舞台は戦国から幕末、明治の日清、日露戦争までに及ぶ。

 当然、使用する史料は膨大な数にのぼる。とてもこれだけの多量の史料に詳細、正確な検討を加えることなど無理な話である。資料の原書にあたるなど不可能であろう。

 勢い人の書いた小説や、珍説、俗説の類を取り入れることになる。小説であるから、正確さや真実よりも面白さを選ぶ。

 そうして、物語としては面白い作品ができあがるが、これはあくまで話としては面白くはあっても事実ではない。



 問題はその内容である。創作であり小説であるものを、何を勘違いしたものか自分の小説をあたかも歴史的事実であったかのような論評を加えている。

 河井継之助はこうだ、坂本龍馬はああだと勝手な解説をいれる。これが、いわゆる司馬史観というものであり、後世、政治家や経済界、マスコミ関係者に多くの信奉者を出した。

 問題なのは、この部分である。歴史上の人物をその結果から逆算し、推論して物語を組み立ている。おまけに、終戦後特有の自虐史観で評論を加える。

 まるで自分が神様にでもなったつもりなのかと思わせるような断定的な語り口には、正直行って辟易させられたものだ。

坂の上の雲では、乃木希典をまるで戦術的能力のないボンクラとして描き、児玉源太郎を戦術の天才としてもちあげる 。

 坂本龍馬に至っては何をやらしても天才的能力を持ち、剣術は強く、女は身を挺してこの男に尽す。

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 一般的に司馬史観と、八切史観は正反対の性質をもつが、例えば、それは坂本龍馬(司馬氏は「龍」でなくて「竜」)について、司馬史観では上述のように英雄視された竜馬も、八切史観では、以前紹介したように、才谷梅太郎をモデルとしてほとんどが創作とされている。

 しかし、龍馬については全く正反対で、他の人物についても多かれ少なかれ見解が全く異なるが、こと「乃木希典」については、この正反対の史観が一致しているのは、両者が口裏を合わせていたのでなければ、やはり信憑性が高いことを意味する。

 そこで、「乃木希典」についての話を紹介する。



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聖将・乃木希典

 皇国史観が一世を風靡した際、待っていたとばかり水戸人は、水戸光圀が弘道館で編纂に着手したと称する処の「大日本史」全十六巻をもって水戸学はこれなりとし、これらの著述こそ勤皇の先鞭だったと主張した。

 それに対して長州人は、吉田松陰を持ち出してきて、松下村塾精神で対抗し、「乃木大将も松下村塾で学んだ一人である」と歴史家がこぞって宣伝したから乃木は軍神になる前に聖と言う呼称が出来た。つまり<聖將>と言われるのである。

 確かに吉田松陰の伯父玉木文之進が、松陰の処刑後は松下村塾で教えており、その息子に当たる大将も乃木家へ養子に行くまでは塾で生まれ育ったのだから、学んだというより「生え抜き」である。 だが大将は長州人にはあまり人気がないという

 しかしこれには訳がある。当時は江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、旧会津藩士の思案橋事件、ついで九州の秋月の乱から熊本の乱と、ひっきりなしに内乱が各地で起きていた。さて、早死にした高杉晋作と並んで、吉田松陰門下の三羽鴉と言われたのは、広沢兵助と前原一誠の二人である。

同じ長州人でも桂小五郎はコンプレックスというか、松陰門下の連中を毛嫌いして頭ごなしに、軽輩達なりとしていた 。

だから桂は、鍋島のアームストロング砲で上野を焼き払った後で東北を征圧した大村益次郎を兵部大輔にしたものの、薩摩から陸海軍の統帥権は此方へと言われると、周防人を唆して襲わせた。が、薩摩の海江田信義が下手人達を六角の牢で処刑する直前に放免してしまった 。

 余りにカラクリが見えすぎ、大村の後任に直ちに薩摩人を直ぐともゆかず、とりあえず人望のある前原一誠をもってきて据えた。しかし大久保利通が早く入れ替えろと催促するので、桂は伊藤博文や井上馨をやり、「長州で奇兵隊が解散を拒み内乱を企てているから鎮撫に行って貰いたい」と、まことしやかに、君が行かねば収まらぬと嘘の情報で前原に兵部大輔をやめさせ、西下させた。

 だが、 広沢兵助が妾宅で暗殺され、前原も戻って直ぐ何者かに拳銃の乱射を受け襲われたので、「こりゃ桂小五郎の手下共が、我ら松下村塾出身者を目の敵にして始末しよるんじゃ。こうなりゃ二十一回猛子の故松陰先生の御意志を継ぎ、われらは決起すべきである」と国許では主張 。

 奥平謙輔が憤って塾の旧士族八十名を率い、殉国軍と名乗って山口県庁へ押しかけようとすると、前原一誠を総大将に玉木文之進の息子で当時の松下村塾で松陰の遺訓を教えていた玉木正誼が在校生百名を集めて第一大隊を結成した。

 そこで薩摩の大久保利通の内命を受けた桂小五郎改め木戸孝允は、腹心三浦悟楼陸軍少将を討伐司令官に任命した。玉木正誼の実兄乃木少佐が小倉から先発隊長となって長州へ戻り、松下村塾出身の第二大隊と己が弟の第一大隊を萩で包囲して捕捉し、撃ち殺してしまった。

後に水戸学に対抗のため、松下村塾精神をおおいに謳歌させたのは、彼らを滅ぼした木戸だが、「聖將」「軍神」と明治軍部に追従するマスコミからおおいに讃えられても乃木に長州人が冷やかなのは、松下村塾の建物は残したが、実の弟をはじめ皆殺しにしたせいなのである 。

 (極悪人が桂小五郎なのだが、罪の意識故に改名して木戸孝允にしたのだろうか?)

 軍人ゆえに命令には絶対服従とはいえ、肉親を撃ち殺した悩みは酷かったろう。四国丸亀の連隊にいた頃は、女郎屋に流連していて、そこから人力車で通って副官に諫められると、「人間の人格とはへそから上の話しである」と言い放った。

 (乃木は長州の秘密を握っていたのだろう。)

 有名な言葉だが聖將とか軍神に祭り上げられてしまってからは、読み人知らずではなく言い人知らずに今ではなっている。何しろ酔うと軍刀を直ぐ引き抜き暴れたのは、 一般には隠されているが陸軍部内では知れ渡っていたことらしい 。

 今は 東北と称せられる当時の満州公主嶺の料亭で、酒乱の中尉が芸者の生首を叩き斬って憲兵が来ると「軍神の真似をして何が悪いか」と道路へ出ても、なおも居丈高になって、血塗れの軍服姿で大声で喚いているのを実際に私(八切氏)は見ている 。

 (なんだか、漫画「はいからさんが通る」のインネン中佐のような人物が思い浮かぶ。)

 乃木大将が有名になったのは二○三高地攻撃である。息子を二人まで戦死させたことを同情されて、あまり世間から非難されてないが、故福岡徹の考証によると乃木は前線から五里も遠ざかった司令部で、寛永三馬術などの講談本を読んでいただけで、酒浸りになり前線視察にもあまり出なかったという。

 といって乃木大将が怠惰だとか臆病だったというのではない。

 日本では黒色火薬の主要成分の硝石が鉱石として産出しないので、一発ずつ大事をとって小銃を撃つか、さもなければ弾薬を使わずに斬込み隊で突撃するなどの攻撃を繰り返しているのに、敵は機関銃を持っていて掃射をくり返し寄せ付けぬ戦況ゆえ、 乃木大将としては策もなく匙を投げていたと見るのが正しかろう 。

 しかしハバロフスクの陳列館の二階への改段口に面した硝子戸棚の中に、当時使用された青銅製の機銃と、原爆にあった広島の被害者の山積み光景に似た日本兵の死骸の拡大写真が展示されていて、説明文は、「愚かなる敵司令官は我々の機銃の目印にする為か、わざわざ白布で胸部の位置を明確にした兵士を次々に送り込んできて全滅した」と大きく出ている。白襷隊の事である。

 当時の葉書は一銭五厘だったが、いくら赤刷り召集令状で集めた兵を送り込んでも全滅するゆえ、全国的に召集令状が次々と乱発された。

 二○三高地攻撃の乃木大将の方え廻されぬようにと、家族が「死線(四銭)を越えて」と当時の五銭玉を千人針の布に縫いつける習慣も始まったのである。しかし旅順をバルチック艦隊来航前に、何としても陥落させねばならぬ陸軍は、応召兵はみな片っ端から消耗の激しい乃木軍へやむなく投入した。だから五銭玉のついた千人針の白布で襷がけさせられた彼ら応召兵は屍体の山に突進、自分らも次々とその上積みの死骸になっていった。

 よって参謀本部の児玉源太郎がたまりかね、「とても乃木には委せておけぬ」と密かに満州へ渡った頃、横浜の関門に露天の占師をしていた高島象山が、それまでの腰掛け式を止め「あいや御通行中の皆さん」と大道の真ん中に立ちはだかり、桜の太いステッキの先で地面に姓名を書き、集まってきた群衆に向かって、「お国のために出征なさっても、無事に凱旋なさる方もいれば武運つたなく戦死の方もいる。

 運不運の分かれ道はこうして姓名の中央に線を引き、左右同じになるのは弾丸がさあっと通り抜けていって吉運。そうでない方はお気の毒だが改名せねば運が開けない」と、今日で言う姓名判断を字画で数える型を創始した。

 溺れる者は藁をも掴むというが、夫や倅を生還させたい人々は争って行列を作って並んだ。江戸時代にはなかった姓名判断や高島易断の名が、明治三十八年から日本全国に広まったのは乃木大将のおかげなのである。

「庭にひともとナツメの樹、弾丸跡もなまなましい・・・」という、ステッセル将軍と乃木大将が水師営で会見した唱歌が、文部省の国定教科書にのせられ普及した。

司令部からあまり外へ出たがらなかった乃木大将が何故に水師営まで行ったかといえば、児玉源太郎によって解任され、司令部には児玉やその幕僚が入り、大口径要塞砲を陸揚げ、それによって小銃や斬り込み隊では突破出来なかった機関銃座を吹っ飛ばし、ついに陥落させてしまったからである 。

 が、乃木大将を内地へ戻せば、前代未聞の戦死者を出した原因が彼に有ったことになり、長州軍閥にとっては大変な結果になる。そこで 無任所司令官のような恰好で乃木大将は残されていたから 、暇つぶしに水師営の捕虜収容所へ行き、ステッセル将軍に会っただけの話しなのだろう。

 山下奉文大将がパーシバル将軍に「イエスかノーか」と卓を叩いて凄んだのとは全く別個のものである。しかし唱歌では仁愛の大将が敵の大将を労ったように優しくなっているので、浪花節の辻占い売りの少年に優しくした乃木大将の話しが作られ、本当らしく広まったのである。

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 英雄の実体は単なるそこらへんにいる一人の人間にすぎなく、話が大きく盛られた虚像にすぎない。次回に続く。





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Last updated  2015年04月08日 16時58分29秒
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