シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月14日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 私は俗物なので、これまで生きてきて聖人といわれる人物に巡り合ったことがほとんど皆無である。聖人らしく振る舞う俗物には枚挙に暇がないほど遭遇してきたが、偉そうな奴ほど、この手の類であることは経験からわかる。だから聖人は間違いなく謙虚である。その謙虚がどこからくるのかが次の問題である。

 逆に俗物を見抜く方法が意外と簡単で、自分ができないことを他に押し付けてくる輩などである。ではどうしてそうなのかを以下に説明する。

 裸の付き合いと日本ではよくいわれるが、これを字句通りに肉体を丸裸にして付き合うという意味に解釈しているアホバカがいて、それを他者に強要するセクハラ紛いの俗物がいるから話がややこしくなる。これも唯物論の洗脳のせいである。

 アダムとイブが肉体を得て、なぜ恥ずかしく思い、肉体を覆い隠したのか? 深く考えてほしい。

 それは魂が隠れてしまったからである。思っていたイメージと違うからである。例えば、自分の声を録音してはじめて聞くと誰もが恥ずかしいと思うだろう。そして、「これは自分の声ではない」というだろうが、他者は間違いなく「君の声だ」と証言するだろう。

 この違いこそ主観と客観の違いである。

 つまり、本当の裸の付き合いとは、主観と客観を超えた付き合いという意味なんである。無我の境地に達したときのつきあいのことで、自己を捨てたときの、肉体に囚われない、霊魂そのものの付き合いという意味である。

 自己を捨てた無我の境地からみると、自己を恥ずかしいと思うから、自己の源となっている肉体を隠したくなるのである。

 このことから考えれば俗物というのは、自己と他者を差別する人間であることがわかる。だから、自己と他者の分け隔てなく差別しない人は、自己=他者と考えるので、自分のできないことは他者もできないことが少なくともわかっている。



 さて、八切氏の西郷さんの話から人間臭い西郷が浮かび上がるので、続けたい。

 ★          ★           ★ 

 「 土佐の山内容堂侯は内ゲバせんとなんとかまとめようとしたというが、西郷が凄い目つきで、文句があるなら徳川より土佐を先に血祭りにあげると脅かした。海援隊はあっても坂本(?)が死んでは何も期待できんし、陸援隊も中岡(?)なき後は薩摩の傭兵化して中山卿についている。土佐も仕方なくうなづいたそうだ。いったい、どうなっとるぞなもし・・・・ 」

 (この話は嘘くさい。この話が本当なら、土佐が才谷=坂本、石川=中岡を殺すはずがない。つまり薩土盟約を結ぶはずがない。「ぞなもし」の伊予弁なのは、この発言者が伊予出身なのか?)

 小栗上野介の信任をえて弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。

 「西郷や大久保といった薩摩っぽは恐わい。どこまで彼らはやるか見当もつかんでいかん」とせっかく兵庫まできたが、大村にはどうしようもなかった。桂小五郎も同じだったろう。なにしろ御所でも大騒ぎだったから。

 いつの世でも黒幕の力はもの凄いもの。京の二条城に会津桑名の兵と共に一万の精鋭はいたが、徳川慶喜はやむなく京を引き払い大阪城へ入った。もはや京には幕軍の手の者は新撰組すら伏見へ追われていなかった。

 「このまま、もたついては如何でごわすか」と西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。

 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。

 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷-大久保-岩倉ラインにのせられた。



 「大村さん・・・・とうとう来るところまできたぞな。ああたは三兵塾で育てた士官らに歴戦の諸隊の兵を、薩摩の言いなりに出して味方してつかあさい。それしかあかへんぜ」と顔をしかめつつも桂小五郎は口にした。

 「うん、しかしそうせなお国の長州が、後で西郷や大久保にどない目に逢うか分らん。まあ品川弥次郎が来とるけん。あれに指揮させて、薩摩の尻にくっついて行くしか、他には何もあり申さん」と桂小五郎は神経質に目をまたたかせ、ぶすっとした大村を諫めた。

 その頃、岩倉具視も大久保一蔵や西郷へ「おはんらの薩摩の殿さまが、〇に十の字の旗をたてて天下統一したら、公家は一体全体どうなるんじゃ」とやはり危惧していった。

 「まあ、そのことなら西郷どんに任せて貰わな、いかんでごわしょう」と大久保は薄笑いを浮かべて、ぬらりくらりとしてみせた。「すると次のえらい様は徳川に代わって、薩摩の殿さまが天下をとり、鹿児島がお江戸にとってかわるんですかのう」とずんぐりした身体を折りまげるようにして率直に大村は尋ねた。

 しかし桂小五郎は蒼い顔で無言だった。当の西郷もただ笑って大きくうなずき、「よかしますでごわしょう」と力強くいった。「なら一国一城は貰えるな」と岩倉も答えた。



 「天下平定のあかつきには西郷には10万石大久保には5万石ほどの城持ち大名に取立てやるに、ヤブさかではない」といった。「有難き仕合せ・・・・」と小松は平伏して答えた。

 慶応四年1月3日。討薩表をもって島津の本陣へ向かおうとした滝川土佐守は、鳥羽伏見で薩長兵に阻止された。随行の旗本共は「将軍家に対し奉って非礼である」と息まき実力で強行突破しようとした。が、「ババーン、ババーン」と伏せの構えをしていた散兵線の餌食にされてしまった。

 侍どもは「イモや長州の木こりに負けるな」と先祖伝来の槍のサヤをとって突入したが、近づく前にバタバタみな撃ち倒されてしまった。なにしろ薩長兵は三千余りでも、銃は南北戦争でグラント将軍が押収した南軍の元込エーゲー銃。硝石も新しい払い下げ火薬である。

 てんで戦いにもなにもならず滝川土佐は「かくなる上は斬りこめ」と叫ぶのみだった。処が滝川土佐についていった旗本共が持っていたのは江戸から担いで来た火縄銃。火薬は大阪天満に積んであった寛永時代からの湿気をおびたもの。撃っても鉛玉が転がるだけ、まるで小石をぶっつけているみたい。

 鳥羽伏見での敗戦が伝わってきても、「味方は三万から四万」「敵は僅か数千なり」と大阪城内にあふれた幕兵はいきまいた。しかし徳川慶喜は、硝石が古くて不発と呑みこむと、夜にまぎれ小姓に化けて乗船。

 (アメリカの船に乗って品川に逃げたという説がある。)

 「追手に帆かけてシュラシュッシュ」とは、蒸気船ゆえ言わずだったろうが品川へ帰航。もちろん表向きは火薬で勝負にならぬ故とは発表せず、恭順のためと引きこもった。

 12月18日になると桂小五郎は「徴士」の名で上洛を求められ、総裁局顧問を拝命した。薩摩は、島津の殿さまの命令なりと、「徳川慶喜を死罪」と強硬に西郷は主張。「ならば現在の八百万石を全額没収すべし」と大久保は言いはったが、桂小五郎は「それは酷である。せめて百万石」と主張。

 しかし 薩摩派は、島津の殿さまを棚上げすることを桂に認めさせる事によって妥協した 。

 つまり長州も殿さま抜きで桂藩となり、西郷藩みたいな薩州と、黒幕の岩倉や大久保の指示で動いた。大村益次郎は呆れ返った。

 「新撰組が陣地にしたから大半が焼けとる」とご親兵士官にするために、伏見奉行所で各藩よりの徴兵教育をいいつけられた大村はくさっていた。当人としては桂小五郎がもうちょっと良い役をつけてくれても可といった不満はあった。

 しかし5月に入ると桂から、トウケイと改名された江戸へと急使がきた。なんだろうと単身品川へゆけば、「上野の山に浮浪がたてこもっとる。おまさんが退治するようとの桂さんの意でごわす」と迎えにきていた者から突然もち出された。小男の大村益次郎は肉体的に圧迫感を催おすのか西郷をさけていた。話もせずだった。

 西郷は金持ち息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と皆殺した冷酷無惨な男と怖れていたのだ。

 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」と 西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した 。

 西郷一人にやらせたら後で長州の立場がのうなると桂は京から大村を至急よばせた。死んだ高杉同様に西郷嫌いの大村益次郎は「ハヤト国独立の手伝いなど・・・・」と嫌がるので桂が西郷と交渉し彼を司令官にした。それでも大村はむっつりし不愛想だった。

 雨の中でワラジがけで出陣する西郷を見送ろうともせず、大村は江戸城の中にいて「薩摩苦戦・・・」と伝わってくるとニヤリとし、「鍋島のアームストロング砲ばうたせえ」と命令し一瞬にして上野を焼野原にした。

 西郷の面目を丸潰れにしてしまった。「東北の総司令も長州側となった」と桂は喜び大村益次郎の手を握りしめた。西郷は面白くない。そこで、有村俊斉こと海江田信義はやがて京三条小路の大村益次郎を襲撃させた。下手人共が粟田口刑場で斬られる寸前、「弾正台より御命令だ」と彼らを逃がしたのだ。

 大村暗殺の一月前の明治二年六月に二千石。ついで西郷は功により正三位。四年には、政府参議翌年七月には薩軍元帥近衛都督に昇進。

 ★          ★           ★

 この話から戦国時代の権力闘争と中身は変わっていないことがわかる。戦国時代には信長の部落解放と秀吉のイエズス会による人身売買禁止など少なからず民衆に自由な面も与えられたが、自身も部落出身の家康により中途半端な身分制度に改められ、幕末に権力闘争から独立国を誘発する顛末となった。

 明治以来の四民平等は形だけで、長州を公家の中心とし、薩摩を裏切り長州についた薩摩閥を武士として、中世以来の精神を引き継いでいるようにみえる。中世以前の公家は唐からきた藤原氏で、藤原氏が雇った百済の傭兵が武士である。

 元々藤原氏は仏教徒で、先兵が坊主と呼ばれたことがわかれば、仏教徒により日本史は書き換えられてきたのである。だから、なんでも英雄は仏教徒になっている。次回に続く。





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Last updated  2015年04月15日 11時12分52秒
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