シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月21日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回はもはや国家としての意味を失っている米国資本社会の話を紹介した。もし1%に99%を救う意志があったなら、格差社会など生まれないはずである。

 つまり逆説的にいえば、資本主義などというレッテルは1%の連中に他の99%を救う意志のないことを隠す正当化でしかない。単なる差別にすぎないのである。その証拠に1%の多くが白人で、ホームレスの多くが黒人であった。

 もし平等であるなら、その比率が同じでないとおかしい。つまり逆説的にいえば、白人が黒人を救ってないことの証明となる。だから奴隷制度はまだなくなっていないのである。

 米国人はつくられた光を求め、つくられた平和に甘んじている、といえる。このような国を誰が信頼できるだろうか?

 はっきりといっておく、米国のキリスト教がやってきたのは単なる略奪にすぎない。米国の格差社会をみれば明らかである。米国は間違った堕落の道に進んでいる。それを変えられるのは米国人自身である。

 そこで悔い改めの話を紹介する。

 ★          ★           ★

マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ(改変)
http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html

 (三)シュタイナーが語ったマニ教の本質

 マニの教えは、光の神に闇の神が反抗する、という経緯を語っており、その意味では先にご紹介したミトラ神話に類似しています。

 しかし、シュタイナーはマニ教ではこの世の起源は光の国の霊が自らの国の一部を取って、闇の物質の国に混ぜたことに起因する、としています。そして、この光の国の霊が闇の中に光を混ぜたことは、闇の国の悪霊にとっては、光の国を侵略しようとしたことによって生じた「負のカルマを清算する目的」を兼ねているというのです。

 それによって、闇の世界は、その中に絶えず自分を消耗し、自分を破壊する芽を担うことになり、それに伴って生と死が生じたのだとしています。

 そして、 人類はその闇を克服するために、光の国から善悪が混ぜられた国に送られる存在となったわけです 。



 つまり、人間においても「善は悪を追放するのではなく、寛大さによって悪を克服すべきである」ということになります。

 例えば、シュタイナーは、こうした悪の寛容について次のようにも述べています。

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に目を向けてみましょう。この絵を前にすると、地球の意識を目のあたりにしているようです。この絵にはキリストが描かれています。『最後の晩餐』の意味を理解するために、マタイ福音書の次のキリストの言葉を思い出しましょう。

 『供犠の死を避けて通ろうと思えば、私に全ての天使の長を呼び寄せられないことがあろうか。』(第二十六章・五十六)



 ―神々が太陽紀に放棄(無欲)を通じて敵対者(アーリマン)を生起させたように、キリストはユダを使徒に加えていなければ避けられた死を、諦念(無欲)のうちに受け入れるのです。放棄(無欲)の行為が繰り返されるのです。キリストは十二使徒とともにあり、十二使徒の一人ユダが裏切り者として立ち上がるのです。

 あたかも宇宙の諸力への反逆者の出現のようにです。人類の進化にとって非常に価値のあるもの(自由)を導入するために、キリストは自らの敵対者を作る必要があったのです。」

 【薔薇十字会の神智学】

 このように、マニの教えは悪に屈するのではなく、キリストがユダの裏切りを受け入れたように、悪を寛容し受け入れることによって悪を克服することを意図していたのです。

 では、キリストが敵対者を作り、悪を受け入れることによって導入できる 「人類の進化にとって非常に価値のあるもの」 とは何でしょうか。

 それは、神の光という恩恵を受けながらも、悪によって自我には自由が与えられ、その自由の中で悪に対する寛大さ、つまり「愛」や「赦し」を学ぶはずです。同時に、悪を克服して「愛」と「赦し」を獲得できるまで人間が無制限に悪に落ち込まないようにするためにカルマの法則がある、といえます。

 シュタイナーは次のようにも述べています。

 「自由がなければ、愛の行為が崇高さを示すことはできません。衝動に無条件に従わねばならない存在は、まさにその衝動に従って生きています。身勝手な振る舞いのできる存在にとって、従わねばならぬ衝動とは唯一愛のみです。自由と愛は、互いに結び合うことのできる両極です。

 私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、すなわちルツィフィル(ルシファー)を通してのみ可能なのです。そして同時にまた、人間の救済者であり、ルツィフィルの克服者でもあるキリストを通してのみ、両極が結びつくのが可能なのです。」

 【霊的宇宙論・進化の目標】

 そうして、人間は善悪、正邪、美醜、真偽といった多様性を保持しながらも、自らの意志によって善悪を理解するようになり、自分の意志で善を愛し、道徳を重んじるようになり、最終的には善悪を超越した存在としての「大きな愛」なる神に近づいてゆく、と捉えることができます。

 それでは、悪とは何なのかと問うならば、シュタイナーは悪に対する認識を次のようにも語っています。

 「ある時に非常に優れた善をもつ存在が、更にその自己を変わらず保持し続けようとするなら、それは硬直化したものとなり、進歩を妨害し、来るべき善に反抗し、疑いもなく悪になってしまいます。

 たとえば、月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうなら、その諸力は、その後の発展にも介入し、そのことから、地球紀の進化の中で、悪を現すようになるのです。

 そのように、悪は元々は神のもつ能力以外の何ものでもありません。なぜなら、場違いな悪は、古き時代においては、完全で、神的な存在の表現であったものだからです。」

 ここで「月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうなら……」というのは、月紀において運動霊ディナミスが、天上の戦いによって太陽と月の霊に分裂した経緯を示しています。

 これによって、月紀には進化から取り残された霊が出現し、その霊が地球紀のレムリア時代から堕天使ルシファーという悪魔の働きをするようになったのです。同様にアーリマンも、太陽紀において堕天使となった存在なのです。

 一方、霊界物語十三巻の「モノログ」には、「仁慈無限なる神様の方より、天地間の万物を御覧になった時は、一さいの神人禽獣虫魚草木にいたるまで、一として善ならざるはなく、愛ならざるはないのであります。ただ、人間としての行為の上において、誤解より生ずる諸多の罪悪が不知不識のあいだに発生しそれが邪気となり、天地間を汚濁し曇らせ、みづから神をけがし道を破り、自業自得的に災禍を招くにいたるものであります。」 としています

 そう考えることができるなら、ディナミス(運動霊)以上のヒエラルキアにとっては、こうした悪の存在は人間の自我を成長させ、愛と赦しによって真の自由を獲得させるための存在であり、究極的には至善至愛の神意が秘められているともいえるのです。

 それは、第一章で取り上げた素盞鳴尊の多様性が善であることをも意味しているはずなのです。王仁三郎は、昭和十九年三月に「神は偽悪だ。悪に見せて大善をなす。」と語ったといいますが、この言葉もこうした洞察によるものから発せられたのかもしれません。

 実際、シュタイナーも神と悪の存在について、次のようにも語っているのです。

 「神々が放棄していなかったらなら、ルツィフィルは神々に反逆できなかったでしょう。

 ――中略――

  悪の原因は悪魔の中ではなく、神の中にあるのです。神が放棄(無欲)することによって初めて、世界に悪をもたらす霊が出現したのです。

 ――中略――

 神々は悪を斥けませんでした。悪のみが自由を与えることができるのです。神々が悪を斥けていたなら、世界は単調な、変化に乏しいものになっていたでしょう。自由を賦与するために、神々は世界に悪を出現させねばなりませんでした。そして、悪を再び善に戻す力を獲得しなければなりませんでした。この力は放棄や断念によってのみ得られるのです。」

 【薔薇十字会の神智学】

 そして、シュタイナーは、黙示録の講義の中で、マニについて次のように語っています。

 「いつか偉大な教育の課題を解決するために、このような教えによって魂を準備された者たちが、マニ教という精神の方向性をもつ弟子たちとなるのです。

 マニ教は一般には誤って理解されています。マニ教について聞いたり、読んだりすると、紋切り型の話しを聞くことになります。マニ教徒たちは世界の初めから善と悪という二つの原理があったと信じていた、というのです。そうではありません。

 マニ教は未来において、悪を善に変えるものであり、マニ教の弟子たちは、将来の受肉において、その課題をなしとげることができるのです。マニはくりかえし地上に受肉する高次の人物であり、悪を改心させるために存在する人々の指導者なのです。人類の偉大な導師たちのことを語るとき、悪の改心という課題を担ったこの人物のことも考えねばなりません。

 現在では、霊についてはわずかしか理解されていないので、マニの原則は背後に引っ込んでいますが、霊や精神についての生活に対する理解が深まれば、この偉大なマニ教の原則は多くの弟子たちを獲得していくでしょう。」

 【黙示録の秘密】

 この講義では、ポストアトランティス時代から、次の第六根幹人類期に移行するまでの間、善人が霊的な道徳性に貫かれ、悪人が内面の悪を外見的な容貌として露出させる時代が到来する、とも語られています。

 さらに、マニとその弟子たちに代表される者たちは、この時代に「悪を善に改心させるための準備」をしている存在としているのです。こうしたシュタイナーのマニに関する洞察は、霊界物語の中で善と悪が繰り広げる一連のストーリーを連想させます。実際、霊界物語では神の教えを人々に伝える宣伝使の言葉は、悪を善に変えるために改心を即するのです。

 ★          ★           ★

 善の光を外に求めるのではなく、内の悪のなかに求めるべきである。 





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Last updated  2015年04月21日 16時30分59秒
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