シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年02月03日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 昨今の謝罪ブームともいえるほとんどの日本人が謝罪と感じていないパフォーマンスをダマスゴミが流し洗脳することについて、先日BSで、その日本の謝罪についての外国人記者の意見を聞く番組をみたが、非常に失望した。

 日本人の不勉強な御用学者が日本の文化などと述べていたのは怒りを通り越して呆れてしまった。

 不祥事だらけの昨今に、一連の意味不明な謝罪、特にSMAPの謝罪を謝罪と認めるのはダマスゴミに洗脳されている無責任な連中だけである。一体、何に謝罪しているのか、いまだ不明であるし、なぜアイドルグループが解散問題で謝罪なのか意味不明である。

 昨今は謝罪屋という謝罪を商売にする者まで現われ、人心が退廃している。騒動の大きさが似ているからといって、なかには汚職と不倫を同レベルに論じるのもあり、呆れてしまう。

 あまりに報道が稚拙なので、謝罪の意味を改めて調べる必要性を感じてしまう。

 「世間をお騒がせしてすいません」という建前の謝罪をそっくりそのまま解釈するのなら、騒いでいるのは騒動で視聴率を稼ぐダマスゴミなので、ダマスゴミの経営者が世間に謝罪すべきである。

 世間は騒動の終息よりも、道義的な解決を求めているわけで、謝罪の仕方などは本末転倒なんである。一連の謝罪をみていると、ダマスゴミの匙加減であることに気づく。要するに、ダマスゴミに、この件で、あまり騒がないでくださいと謝罪しているわけで、ダマスゴミの自作自演臭が漂ってくる。

 汚職の徹底追及よりも、芸能人のどちらかというとプライベートな問題で騒ぐのは、道義的というよりも、ダマスゴミの視聴率稼ぎや宣伝のカネ目当ての騒ぎではないのか、という気がしてくる。

 また、その謝罪パフォーマンスをみていると、いじめやバッシングや村八分などの陰湿性を感じざるえない。その多くが謝罪して、ある程度のバッシングを受ければ問題が解決しなくても、騒動はいつのまにか忘れ去られ、無責任なままで終わっている。



 土下座外交というネーミングはあるが、実際土下座しているわけではない。その実、金儲けのために税金をばらまいて、日本企業の海外誘致を推奨し、そのマージンを掠めとっているだけである。土下座というよりも口利き外交というべきだろう。

 つまり謝罪とは所詮、国内向けの体裁を保つパフォーマンスにすぎない。どこか、不幸にあって喪に服す習慣にも似ている。

 いまでは土下座が謝罪の代名詞になっているが、はじまったのは大正時代らしく、世間に知られるのは、ドラマ「水戸黄門」の印籠パフォーマンスからであるという。それも本来の土下座は、謝罪の意味はなく、貴族への臣従を表すものらしい。

 恐らく藤原氏に国を滅ぼされた日本原住民が被差別民として隔離され、藤原氏に反抗し反乱できないように、顔をみられないように地べたに顔をつける姿勢を強要したことに端を発するのではないかと思われる。

 ドラマの「水戸黄門」では、黄門が貴族の設定なのと、裁判官のような役回りだったので、土下座が誤って伝わり、いつのまにか謝罪になったようである。副将軍が他大名などの代官の裁きを行うのもおかしいのだが、そもそも江戸幕府には副将軍などは存在しない。

 水戸黄門が有名になったのは、幕末の徳川斉昭が征夷大将軍になるための朝廷への猟官運動の宣伝工作だったようである。実際に勅使を受けたという説もあり、水戸藩は斉昭を将軍とみなしていたようであるが、江戸本家にも将軍がいるので、辻褄合わせで副将軍と呼んだのだろう。

 八切史観によると、ハラキリ、つまり切腹も土下座と同じ虚構だという。長州の方言の、背中と腹がくっつくくらい毛利家に尽くし、精進しろという意味が間違って伝わり、切腹となったという。だから、切腹は虚構で、実際は、打ち首である。

 だから切腹や土下座は明治政府の故意に歪められ、間違った歴史認識から端を発しているわけである。欧化政策と同じで、ビーフシチューが日本では「肉じゃが」になったわけである。

 だから例えば、「肉じゃが」が日本の食文化などというと、西洋のビーフシチューが間違って伝わったものが文化になってしまうわけで、西洋の間違ったモノマネが文化になってしまうので、西洋からしてみると、甚だ滑稽というわけなんである。

 なんでも文化にするという風潮は大きな間違いで、土下座や切腹のように単なる間違えの歴史認識に端を発しているので、騙されてはいけない。恐らく土下座や切腹も、唐からきた藤原氏が、それまで住んでいた日本原住民を差別するのに用いた風習が形骸化し、姿を変えたものに思われる。

 例えば、切腹は、ハラキリ=ハチキリ、つまり八切りで、「八」といわれ差別された部落民を斬首する表現なのだろう。「八つ裂き」も同じである。ちなみに「村八分」というのは、八のように差別するという意味からきているという。



 このように日本の謝罪は謝罪になっていないばかりかほとんどが晒し者にして嫌がらせしているどこか意味不明のものなんである。

 意味不明なことが独り歩きしている昨今に騙され、洗脳されないために、シュタイナーの話の紹介を続ける。 

 ★         ★         ★

 鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分であるために、摂取や排泄で体内に蓄積できません。その代わり、鳥は飛翔しながら排泄できます。鳥は食べた残りを体内に蓄積できません。鳥にはそのような機会が与えられていないのです。

 もし鳥が食べた残りを体内に蓄積したら、即座に病気となり、体を駄目にしてしまうでしょう。人間の物質体は、ダーウィンの進化論の見解に沿うなら、鳥よりも進化したわけですが、正確に表現するならば、鳥よりも地上に降りてきたと言えるのです。



 けれども、より高次の活動というべき、太陽光を変容させ、エーテルに導く活動については、人間も鳥と同じ進化段階にいるのです。

 人間は物質体に膀胱と大腸をもっていますが、これらの器官に関与するエーテル体については、鳥と同じで、貯蔵できないのです。実際、エーテルの器官は、宇宙では、動(非線形)的に存在しないのです。エーテルの器官は、光を受け取ったまま、直接加工し、すぐに排泄物として排出せざるをえないのです。

 (光をそのまま貯蔵できない)

 エーテルの器官に支障がでると、この支障を修復する器官をもたないために、健康を損なうしかないのです。ですから、小さな脳を備えた鳥という生物を観察する際に明確すべきことは、鳥は、人間がもつ、より精妙な人体、つまりエーテル体という、マクロコスモス(大宇宙)の複写である、ということです。

 したがって人体の、鳥よりも地上に降った粗雑な物質体に写し取られた、より精妙なエーテル体について研究するなら、まさに鳥の世界の出来事を、マクロコスモス(大宇宙)の視点から研究しなければならないのです。

 もし、人間が、鳥類と比較して、物質体でもつ特性を、エーテル体でも持っていたら、人間の生活は実際、非常に悲しむべきものになったでしょう。というのも、エーテル体は、物質体のようには、外界から遮断できないからです。

 そうなると変容させた光を貯蔵する際、それを感じとる臭覚器官をもっていたら、腐敗した変容光が至る所に溢れ、人間の共同生活は異臭だらけでかなり悲惨な状態になるでしょう。羊を死後解剖して、体内の臭いをかいだときに経験するのと同じことが起こってくるわけです。

 しかし、エーテル体が貯蔵能力をもたないので、、実際の人間の共同生活は、例えば、腐肉を食する鳥でさえも、解剖した後に、体内に不快な匂いを出しませんが、このような全く不快でない臭い程度で済んでいます。

 といっても、この不快ではない臭いとは、例えば、反芻動物、馬は正確には反芻動物ではありませんが、馬を解剖する際の体内から出る臭いと比較して、そう言えるだけですが、とにかく反芻動物の体内の臭いよりは不快ではないのです。

 つまり重要なことは、外界の植物と動物に起こっていることと、人体内の腸内の動物と植物に起こっていて、克服しなければならないこととの対応を調べていくことなのです。

 そして何らかの薬と器官との関係を確定するために、これまで展開してきた一般的な特徴から、個別的な特徴へと進んでいかなければなりません。

 植物化に対抗する戦いを、腹部の循環系のなかに見つけることで、人体内の、つまり腸内の動物及び植物がもつ生命力の克服へと進んで行かなければならないのと同じように、頭部の神経=感覚系にも進んで行くのです。

 この頭部の神経=感覚系の働きは、人間にとって、通常考えられているよりも遥かに重要なのです。科学が抽象論に高められたために、次のような事実を適切な方法で考慮する可能性が全く失われてしまいました。

 頭部の神経=感覚系を通じて、人体内に、例えば光と光に結びついた熱が入り込んでくるわけですが、この神経=感覚系は、人間の内面の精神活動と密接に関係しています。

 というのも、光とともに入り込んでくる不可視の熱=エネルギーは、諸器官のなかで変化されねばならず、この不可視の熱は、可視の光と同様に、器官をつくるのですが、不可視の熱=エネルギーを評価する可能性が全く失われてしまったのです。

 神経=感覚系が人体にとって特別な意味を持っていることが、全く考慮されておりません。

 人体下部へと下降していくと、腸内植物をつくる生命力から、腸内動物をつくる生命力へと下降していくのですが、逆に、人体上部へと昇っていくと、人体内の植物化を克服する領域から、絶えざる鉱物化、いわば硬化を克服する領域へと上昇するのです。

 このことを、いわば外からみると、頭部の硬化(骨化)が他の部位よりも顕著であることから、上へ向かって進化するほど、人体の器官は、鉱物化の傾向が強まることが研究できます。

 この鉱物化は人体にとって大きな意味をもっています。

 というのも、人体を次の三つ、すなわち、頭、胴体、四肢にわけるなら、それらが独立に並行して、空間を占めていると考えては困るのです。質(機能)的にわけるなら、人間は当然全くの頭の存在で、頭の機能が全体に行き渡っています。

 頭の機能が人体全体に拡がっていて、その主要部が頭にあるという感じです。他の部分の、つまり胸部の循環系と、四肢及び腹部の新陳代謝系も同じで、人体全体に拡がっています。

 このため、当然のことながら、頭部にある神経=感覚系の機能、つまり鉱物化の素質が人体全体にも拡がっているのですが、この鉱物化の素質を克服しなければならないのです。

 まだ遺伝され、残っていた霊能力を使って記述していた古代の著作を、今日の人間が読んでも、もはや何も理解できない分野というのは、まさに、上述の鉱物化の話で、つまり錬金術なのです。

 というのも結局、パラケルススが自らの書物「オープス パラミールム」で述べている「塩化(塩プロセス)」についても、その意味を現代人は(唯物論に染まってしまったので、)読み取れないからです。

 ところで、この塩化(塩プロセス)というのは、上述の鉱物化、つまり頭部にあたり、「硫黄化(硫黄プロセス)」は、その前に述べた生命力で、つまり腸内フローラなどの腹部にあたります。

 ★         ★         ★

 頭を下げるのは、硬化した人体を活力ある生命体に戻し、また硬直化した社会を、柔軟にし、活気溢れるものにすることなので、社会の頭といわれる上層部が責任をとり、謝罪しないと社会の差別はなくならないどころか、ますます深刻化するだろう。

 上にいくほど頭が固くなるのは頭が固いことでわかる。

 なぜかこの国では上層は無責任で、下層ばかりが虐げられ、末期症状のパワハラ国家になっている。

 「実るほど頭が下がる稲穂かな」は至言に思える。





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Last updated  2016年02月04日 16時26分37秒
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