シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年03月08日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 いつから演歌が日本の伝統文化になったのか不思議である。私は演歌はほとんど聴かない。世代の違いを感じるのもある。演歌が流れる場所はなんだか陰湿さ、古臭さを感じてしまう。

 八切史観によると、以下のように、演歌は怨歌の当て字だという。消費税増税の怨歌というのなら、どんどん歌うべきだが、いつの時代かわからない内容が古い演歌よりも、ラップ調で、「保育園落ちた日本死ね」とか、「財務官僚の子は保育園より動物園へ入れろ」とか韻を踏んで謳うほうがストレートで現代的な怨念の歌といえる。

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演歌は怨歌の当て字
http://matome.naver.jp/odai/2142937145668774001

我ら庶民の悲痛な叫びがこめられている 。

 「女町エレジー」にある「生駒は哀しいおんな町」のフレーズが典型的。宝山寺の門前に広がる遊里で働く女性の哀歌らしい。初めに歌ったのは宇多田ヒカルのお母さんかな? その後、いろんな人がカバー

 生駒は夷駒の当て字。駒は馬。つまり源氏の民が収容された地区。



 というように、八切史観によると、差別された日本原住民の怨念、呪いの歌というべきものらしい。そういう意味では確かに、原住民の怨歌なら、日本の伝統文化といえるかもしれない。

 そもそも歌というのは世の中を斬新にするもので、反体制でなければ意味がない。体制に癒着して金儲けなど動物に堕落するものでしかない。

 唐からきた藤原氏にしてみれば、日本原住民は、夷狄で、日本列島は大陸からみれば、中華思想の東夷にあたる。だから、征夷とは、日本原住民の討伐のことになる。

 中華思想からするとまた、北狄がモンゴルの遊牧民、西戎がチベット、南蛮が東南アジアということになるが、例えば、宣教師を南蛮人と呼んでいたのは、東南アジアのマカオから来たからだろう。

 このような呼称からもわかるが、この国には明治以前、国という概念がなかったのである。

 八切氏の姓の法則からわかるように、国というよりも、民族別の村落をつくっていたと言った方がわかりやすい。だから幕府というのは、異民族を征伐し、監督する機関で、朝廷などのお上に反旗を翻すことはできないので、徳川幕府は女を送って朝廷を乗っ取り、大奥を朝廷のようにして公武合体を図ったわけである。

 演歌は古くは原住民による失地回復、討幕運動の怨歌だったはずである。お上にたてつく反抗心が徳川幕府によりすっかり骨抜きにされたが、幕末に外国船がやってきて、幕府の腰抜けが露わになり、再起奮闘して、討幕したって「ええじゃないか」となった。

 前回も少し紹介したが、この日本列島には、多神教のツラン系民族と一神教のヘブライ系民族が到来し、主にツラン系が藤原氏などの貴族に、ヘブライ系が原住民になっていることが、八切史観からわかる。

 中華思想をもつ藤原政権などは、ツラン民族の影響が濃くでているので、集団主義のカースト制度をつくったことがわかる。この国の上下関係は、この集団主義に端を発しているようである。

 前にも、この国の体育教育に、この集団主義というか、歪な上下関係が色濃く反映している話を紹介したが、この歪な上下関係、すなわち、お上は何をやっても無責任で、ゆるされるが、下は奴隷の如く、お上の言うことをきかないと虐げられるというのが、ツランの中華思想というか、この悪しき差別思想にあることがわかる。



 それは多神教の連中が一神教を酷く憎むところにも現われている。イスラム教やユダヤ教、キリスト教などの一神教を深く勉強したことがないのに、俗に「多神教は良いが、一神教は悪い」というネトウヨ紛いの相手に責任をなすりつけるレッテル貼りのような意見をよくみかけるが、前回紹介したように、多神教崇拝は、古い霊能力獲得法であることにすら気づいていない。

 なにより多神教崇拝の仏教徒がほとんどのこの国でどうして無神論の唯物論が主流となるのか不思議である。

 はては、多神教なのに、どうして上下の身分が生じるのか? 戒名の違いで成仏が異なるのか?など、戒名や仏壇やお墓で商売しておいて、その説明が一切できない糞坊主が沢山いるのはどういうことなのか?

 多神教はなんでもかんでも悪魔でも神にしてしまう弊害がある。地獄に行ってから気づいたのでは後の祭りである。多神教も一神教もどっちも無神論に陥れば悪いのである。 

 しかし、最近、このような歪な上下関係が通用しなくなったという話をみつけたので以下に紹介する。



20代社員が上司にタメ口をきいてしまう社会学的理由
http://diamond.jp/articles/-/86886?page=3

 (省略)

なぜ20代は上司に“タメ口”なのか
 世代論から導いた答えは…


 仕事に対する考え方、年上の人に対する態度や連絡方法など、40代のミドル世代から見れば“非常識”と思える行動をする20代。なぜこのようなギャップが生まれてしまったのでしょうか。この理由を日本生産性本部客員研究員である岩間夏樹さんは、こう語ります。

 「(入社時期が)1993年~99年頃を境に、世代間の高い壁があり、大きなギャップが生まれています。ですから、今回で言えば特に40代後半以上の人と今の20代はギャップが大きいと言っていいでしょう」

岩間さんが語る最も大きい世代間ギャップは「高度経済成長期の前後」。それが終了してもバブル崩壊前までは、高度成長期に築かれた「終身雇用」の定着する多くの会社で引き続きムラ意識が生まれ、あらゆる世代も会社に入れば、会社に染まっていきました。ムラ社会ですから、当然上下関係があり、序列意識を持っている社員がほとんどです。

 (ムラ意識やムラ社会とは、集団主義の歪な上下関係のこと)

 ところが、 この終身雇用に裏打ちされた「会社の将来性」が、見えなくなったのがまさにバブル崩壊後の93年~99年頃の第一次就職氷河期 。これをきっかけに、会社には頼れないと判断した団塊ジュニア世代以降は、 上下関係を意識して「会社ではチームプレイを重視」する傾向から「個人プレイを重視」する傾向に移っていきました 。

 (多神教から一神教に変わってきた。若者が、無神論なのに、「神(かみ)」という言葉を頻繁に使うことがその証拠)

 「もともと団塊ジュニア以降の世代は核家族で育っている人が多く、家庭や地域社会でも上下関係を意識することが難しい状況にあります。ですから彼らはもともと人間関係を『上下』ではなく、親しいか疎遠かの『親疎』で見る傾向にあります。だからこそ、最近の若い世代は親しいと感じる上司に対して友達のようにタメ口で話してしまうのかもしれません。もし敬語を使われているとしてもそれは丁寧語にすぎず、むしろあなたが若手から遠い存在だと思われている証拠かもしれません」(岩間さん)

仕事のコミュニケーションも若い世代になればなるほど、会社単位から個人単位を意識するようになります 。今のバブル世代以上の年代の人たちも、メールを使うことにはそれほど違和感を持っていませんが、一方でLINEには強い警戒感があります。それはメールではアドレスが「会社のドメイン」である一方、LINEは完全に会社を離れた個人としてのツールだからではないでしょうか。

 今はLINEを仕事で使うのは言語道断、と言う40代以上の人は多いかもしれません。しかし、本当にダメな理由を合理的に言えるでしょうか。単に『○○会社の人間』という背景がなくなるのが不安なだけではありませんか?

 現在、多くの会社では大量のバブル世代が40代後半~50代を迎え、団塊ジュニア世代以下の数が社内でボリュームを増してきています。しかも昨今の新卒・中途採用市場は売り手優位にあります。

 「売り手市場だと、『入ってやった』という意識があるから若手社員はホンネを言いやすい。だから、バブル世代以上と数が増えて勢力も年々増す団塊ジュニア世代以下との世代間ギャップがこれからより顕在化しやすくなり、争いが深刻になるかもしれません」(岩間さん)

 (ダイヤモンド・オンライン編集部 林恭子)

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 終身雇用というのは、昔でいうところの師弟関係であって、師が認めれば、いずれ弟子に全てを譲ることを意味する。終身雇用が崩れれば、上下関係も無意味になり、欧米のように独立心が持ち上がるのは当然の成り行きである。

 縦関係というのは上が下の土台となるかわりに、下が上に従うことで成り立つが、上が下の土台とならなければ、下は上に離反し、崩壊するわけで、横関係にならざるを得なくなるが、横関係は女性が得意とする関係なので、女性的な時代ともいえる。

 しかし、女性は子を産む場合は、特に子育てには、親子の上下関係が必要となるから、昔は乳母という子育て専門の女性がいた。女性には上下関係が希薄だが、その代り上への信仰心が強い。女性は子を天から授かったものと暗黙糧に感じていて、子を産むことや子育てによって上下関係を学ぶので、女性の上下関係は母子の関係に近い。

 同じ上下関係でも、嫁姑関係よりも母子関係を優先するのはこのためである。女性にとっては産みの苦しみが何よりも優先される。

 とどのつまり、上下関係とは世代間の違いを解消するための、つまり、真実の探求法の違いを捕捉するために必要となるものである。

 真実探究の世代間の違いを見究めるために、シュタイナーの話を紹介する。

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トンデモ話は奥で繋がる 「第152夜」
 -弟子のクッテネルがお送りします。

http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-885.html

≪キリスト意識(6)(改変)≫

★ナタン系イエス

 『ルカによる福音書』の示す、ゾロアスターのアストラル体を受け継いできた(トートの)ナタン系イエスについて、シュタイナーは、まずこのように記しています。

 「ナタン系イエスは、内面(精神)を豊かに育てていきます。少し不器用で、外界の物質的な智慧や知識を身につけるのは下手でしたが、限りなく純粋な内面と心情、愛情を持っていました。

 人がまだ地上に受肉せず、霊界で、神の言葉のエーテルにより生きていた時代から引き継いだ力そのままが、このイエスのエーテル体の中に生きていたのです。神の言葉が無制限の愛の力となって生きていました。

  (…中略…)

 人が地上の生活を通して身につける言葉を、この少年は初めから身につけており、誕生直後から人々に理解できる言葉を語ったのです。

 何世代にもわたって、地上で身につけなければならない外界への適応力について言えば、全く不器用でしたが、精神性、道徳性に関しては、限りなく偉大だったのです。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p152 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 つまりナタン系イエスは、最初からゾロアスターの完成したアストラル体を受け継いでいましたから、第146夜でお話ししたように、本当なら、大体21歳頃から現れてくる(言葉を基にした)客観的な判断力を、生まれながらにして持っていた、ということです。

 (超天才)

 その代わり、地上生活については、古代アトランティス時代の霊能力に近かったため、現世に対する適用力については、むしろ劣っているように周りの人々には感じられたことでしょう。

 (異端児で、集団生活が不得手。喩えるなら、映画「シックスセンス」の主人公のような感じか。)

★2人が1人に

 こうして同時代に、ゾロアスターの別々の体を受け継いだ2人のイエスがこの世に生を受けました。そしてさらに、この2人のイエスの間に、トンデモない出来事が起こります。シュタイナーの言葉を続けましょう。

 「かくして、実にすばらしい出来事が生じるのですが、このことを理解しなければ、イエス・キリストの偉大な秘儀は把握できないのです。

 ゾロアスターの自我は、『マタイによる福音書』のイエスの肉体とエーテル体の中で、12歳までの時を過ごしました。

 実際、この自我は、当時の風土もあって、現代人の14、5歳に相当するエーテルの完成期がやや早く生じます。

 12歳までに、ソロモン系の肉体とエーテル体を用いて成し遂げるべき進化は、全て完成し、そして12歳の時、ゾロアスターの自我は『マタイによる福音書』のイエスの肉体とエーテル体から離れ去って、『ルカによる福音書』のイエスに移ったのです。

 (ゾロアスターの自我は、ソロモン系のイエスの肉体とエーテルの御蔭で、外界への適応力を完全に獲得した。)

 (…中略…)

 ルカが述べている、神殿での12歳のイエスの物語は、次の出来事を意味しています。

 『ルカによる福音書』の少年イエスは、突然両親の前に現れても、両親は自分の子なのに気づきません。

 彼は全く(以前とは)別の存在になっており、彼の精神内にはゾロアスターの自我が入っていたのです。この自我は、その時まで、ソロモン系のイエスの肉体とエーテル体の中で成長したのです

 (…中略…)

 12歳のイエスは、神殿で学者達の間に座り、非常に注目すべき言葉を語ります(学者たちに説教をはじめた)。ナタン系のイエスは、どうしてそのようなことができたのでしょうか。

 何故ならその瞬間に、ゾロアスターの自我が彼の中に《入り込んだ》からです。

 ですから、性格を一変させて学者達の前で説教していた子を、両親は自分の子と認めることが出来なかったのです。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp151-152 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 まさに《合体ヒーローの世界?》です。或いは宇宙人を扱った超常現象では《ウォーク・イン》と呼ばれている現象に近いでしょう。さすがに聴講者の理解の範囲を超えると思ったのか、シュタイナー自身も、このように付け加えています。

 「今日の唯物論の考えでは信じ難い出来事でしょうけれども、人生にはこのような奇跡もあるのです。霊魂が、或る肉体から別の肉体へと移行するのです。

 ゾロアスターの自我もまた、それまでの肉体を離れ、特別な自我の担い手であるアストラル体を用意した『ルカによる福音書』のイエスの中へ移ったのです。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p152 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 我々は《1個の肉体という単位》でしか人間を捉えていません。従って、たとえ当時の人々が、時代を超越した事実の実在を目撃したとしても、後世に語り継がれる歴史は、後世の《常識》に照らしたものになってしまいます。

 (現代の出鱈目な日本史をみれば明らかである。)

 しかし《常識》といわれているものは、我々が起きているときに《日常の生活の覚醒意識》で受け止められる事象の集まりに過ぎません。それどころか、別の時代に現実の現象と解っていることでさえ、現代人の視覚や聴覚では、(唯物化されているので)受け取れる範囲は限られているのです。

 これまでに述べてきたように、我々を構成している4つの体のうち、肉体を除き、それぞれが単独で存在することが出来ます。そうであるならば、それぞれが、ある肉体から別の肉体へと移ることも可能なのです。

★太陽叡智

 ところで、ゾロアスターの自我が移り去った後の『マタイによる福音書』のイエスのその後については、シュタイナーは次のように解説しています。

 「自我が去って、肉体とエーテル体とアストラル体だけが後に残った人も、一定期間は生き続けることができます。しかし、ソロモン系イエスの、後に残された3つの体は、やがて衰弱し、死を迎えました。

 『マタイによる福音書』の冒頭の数章に出てくるイエスは、12歳で死んだのです。こうして初めは2人のイエスがいたのですが、12歳の時に2人が1人になったのです。

  (…中略…)

 ゾロアスターは、後にキリストと呼ばれる宇宙意識を受容するために、肉体、エーテル体、アストラル体という3つの体を、聖杯となる高次の段階にまで高め、(宇宙意識を受容する)供犠に捧げるのが可能になるまで進化させたのです。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp156-157《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 なんと、『自我』を失った方のイエスも、その後もしばらくは生きていたのです。しかし、その状態は、第138夜でお話ししたように『自我』を持たない『動物』と同じような状態だったでしょう。

 まさにその使命のみを持って生まれた存在と言えます。

 一方、ナタン系イエスの方へ移ったゾロアスターの『自我』は、30歳になるまで育った後、今度は完成した自らの肉体を、キリストに捧げることになります。

 そして、その瞬間こそが『ヨハネの洗礼』であったとシュタイナーは言います。

 (この洗礼の日が12月25日で、24日がイブ=エヴァといわれるのは、キリスト=アダムの先にエヴァが受肉したから。イエスの誕生日は、ソロモン系が1月6日で、ナタン系が12月25日。)

 「ヨハネの洗礼の瞬間に、キリスト意識がゾロアスターの準備した人体の中に入ります。肉体、エーテル体、アストラル体という3つの体がキリスト意識に浸透されたことで、この3つの体が再び天国に昇天できるように再生するのです。

 ヨハネの洗礼は、ゾロアスターに育てられた人体の再生なのです。これが地上でのキリストの誕生の意味です。今やキリストは、人体の中に、3つの体の中に生きます。

 特別に用意された人体の中にです。その人体は、完全だったが、もしもっと不完全な体であれば、他の人々が持つ体と同じものです。

 地上に生きる至高の自我(霊我)となったキリストは、今でも、人体の中に生き、そして新しい秘儀参入法となる霊能力獲得法の完全なる見本(規範)を、すなわち肉体とエーテル体へのキリスト意識の下降と、キリスト意識の故郷であるマクロコスモスへの人間の覚醒意識の上昇という、秘儀参入の2つの究極の側面を人々に示すのです。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp174-175 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 この時、キリストの秘儀の準備が整ったわけです。ところでこのキリスト意識とはどのような存在なのでしょうか。これについてシュタイナーは、別の箇所で次のように述べています。

 「ナタン系イエスには、地上では無く、天上との関係が現れています。『ルカによる福音書』は、イエスのアストラル体と自我のなかで働く神霊の意識を記しています。」

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp142-143 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 恐らく、何の前知識も無くこの部分だけを読んでみても、ごく《常識的》な感覚の持ち主には、幾多の聖人的伝記の常として、イエスの神聖さを抽象的な言葉で表現していると受け取るにとどまることと思います。

 しかし、秘教学者であるシュタイナーがこのように述べる時には、もっと深い意味をもっています。それは、《2人のイエスがいた》という驚きさえブッ飛んでしまう程のトンデモ話なのです。

 先に第149夜で、ゾロアスターが《アフラ・マズダーの意識が、後にキリストとなって地上に降臨する》のを、人々に示したと述べました。その意識こそが、ナタン系イエスの中に降臨して、彼のアストラル体と自我に働きかけた、ということなのです。

 つまり、ナタン系イエスも、キリスト意識のただの受容体(子)であって《キリスト自身》(父)では無く、キリストとはあくまでも《神霊意識》の本体(父)を指す、ということなのです。

 無論、この世を去った『マタイによる福音書』のイエスもまた、キリスト(父)では無いのです。

 それではこの《神霊意識》(父)とは何なのか。

 シュタイナーの説くところによれば、それはゾロアスターが《太陽霊=太陽の背後に存在する叡智》と呼んだ存在であると言います。ゾロアスターが弟子達に伝えた教えを、こう述べています。

 「太陽を見るがよい。熱と光の恵みを大地に送っているのがわかるであろう。

 しかし、おまえ達が高次の霊器官を発達させ、霊能力を持つことができれば、目に見える太陽の背後にいる太陽霊を知ることができよう。

 その時には更に、天空の音楽が聞こえ、音楽のなかで生命が躍動するのを感じ取れるであろう。」

 (キリストは人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉により生きる、と言ったが、神の言葉が太陽霊によるキリスト意識のことである。つまり人間の個人的意識=自我のこと。)

 ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p76 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載

 《キリストは太陽だった。》などと言うことは、各方面のキリスト教研究者からのバッシングは元より、一般大衆や、彼を理解しようとする者からさえ、変人としてそっぽを向かれる見解だと思います。

 しかし、今日のスピリチュアリズム的な見解を総合的に考えてみると、これがキリストの本性であるという可能性も、あながち信憑性の低いことではないように思われます。

 次回第153夜はその辺りについてお話しします。

 ★         ★         ★

 上下関係とは聖杯つくりを目的とした師弟関係でなければならない。  





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Last updated  2016年03月09日 08時39分28秒
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