シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年03月09日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 この国のアホバカたちにより神聖な平和の祭典のオリンピックが穢され、税金パクリンピックの私利私欲の舞台となってしまったのは戦争屋の犬GHQの3S政策がこの国の精神を堕落腐敗させ、3S政策洗脳アホバカを増殖させ、国民を騙し、奴隷化洗脳してきた成果ともいえる。

 一体なんのための平和の祭典なのだろうか?

 国民にとってみれば、平和の祭典どころか私利私欲の災難というべきだろう。

 私利私欲の糞塗れの連中の話をお馴染みのサイトから紹介して警告とする。

 ★         ★         ★

日本史上最悪の失敗政権
http://my.shadowcity.jp/2016/03/post-8976.html

 消費税を5パーセントから8パーセントに上げた分、確実にGDPが下がってますねw そらそうだ、給料が上がってないんだから、それだけ買えるモノが減ってしまう。消費を冷え込ませる原因w 税金を払うために、消費行動を控えなきゃw それが気に食わないと言われても困りますw

■GDP改定値、年1・1%減に上方修正


 2月に発表した速報値(年率1・4%減)からは上方修正された。

 主な項目では、GDPの約6割を占める個人消費が0・9%減、設備投資は1・5%増、輸出は0・8%減などとなった。

 消費税、どんどん上げればいいよ。それにつれて、どんどんGDPが下がるw 相関関係にあるんだからw

 ★         ★         ★

 私利私欲でやれば物事がうまくいかないのは道理である。というのは私利私欲をなくすために、この世に生まれてきたからである。

 私利私欲のない人を聖人と呼ぶが、聖人になるために生まれてきたということになる。しかし、この世のほとんどの聖人ぶってる糞味噌の連中は私利私欲塗れの偽善者なので注意すべきである。自称聖人はインチキである。

 聖人の話ではないが、面白い作り話をお馴染みのサイトでみつけたので、本史の教科書ではなく、偽善の教科書として紹介する。

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日本人が語り継いできた「日本人の器量」
http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/Page/2/


知的共同体教科書 2

 (省略)

 『蠅(ハエ)は金冠(キンカン)を選ばず』  小名木善行
 木村重成(しげなり)といえば、慶長20(1615)年5月の大坂夏の陣で、豊臣方の主力として東大阪市南部方面に進出し、藤堂高虎の軍を打ち破ったものの、井伊直孝との激戦に敗れて戦死した武将です。

 日頃から冷静さと勇気と仁愛にあふれた武将として名を馳せ、首実検のときに頭髪に香が焚きこめてあり、家康が「大切な国の宝を失った」と涙をこぼしたという逸話があります。

 討ち死にしたとき、若干22歳でした。

 若い武将ですから、まだ戦場での実践経験がない。
 教養があり、人柄が立派で、美男子・・・となれば、やはり中には妬(ねた)む者もいます。

 大坂城内の茶坊主の山添良寛(やまぞえりょうかん)もそのひとりでした。
 良寛は、茶坊主とはいっても、腕っ節が強く五人力の力自慢だったそうです。
 「まだ初陣の経験もない優男(やさおとこ)の木村重成なんぞ、ワシの手にかかれば、一発でのしてやる」と仲間内で自慢していたのだそうです。

 おもしろいもので、人というものは、分もわきまえずに日頃からこのような低レベルな自慢話をしていると、だんだんと周囲から押されて、本当に対決しなければならないような気分になってくるものです。

 本当は、大切なことは、自分自身を高め、成長させていくことなのであって、いたずらに対立したり対決したりすること自体が、程度の低い、人間の品性を落とすものです。

 けれど人というのは、ときにこうした歪みに陥り、間違いを犯します。

 ある日のこと、大坂城内の廊下で木村重成に出会った良寛は、わざと手にしたお茶を木村重成のハカマにひっかけました。

 「気をつけろい!」と、良寛が重成をにらみつけました。

 良寛にしてみれば、喧嘩になればしめたもの。

 木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくと思ったわけです。

 すくなくとも、評判の良い木村重成が茶坊主と喧嘩したとなれば、なるほど良寛には仲間内でのハクがつきます。

 ところが木村重成、少しも慌てず、
 「これは大切なお茶を運ぼうとしているところを失礼いたしましました。お詫びいたします」
 と、静かに頭をさげるのです。

 もともと良寛の目的は重成に喧嘩を売ることです。
 嵩(かさ)にかかった良寛は、「そんな態度では謝ったことにはならん。土下座して謝っていただこう!」と声を荒げました。
 良寛にしてみれば、怒らせて手を出させればこっちのものです。

 ところが木村重成は、
 「それは気がつきませなんだ」と、膝を折り床に膝をついて、「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げたのです。

 喧嘩にはならなかったけれど、木村重成に膝をつかせたことですっかり気をよくした良寛は、「木村重成など喧嘩もできない腰抜けだ。
 ワシに土下座までして謝った。
 だいたい能力もないのに、日頃から偉そうなんだ」と、
 あることないこと木村重成の悪口を大坂城内でふりまきました。

 日頃、たいへんな人気があり、尊敬を集めている重成です。
 誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、武将としても凛としてたくましい風情です。
 それだけに良寛のまき散らしたウワサは、たちまち広がりました。

 立派だと思われている人に関して、これをこき下ろすような論評に接すると、人は自分が思っているイメージと、ウワサの落差から、自分の中でその情報を消化できなくなります。
 すると不安になり、その不安を埋めようとして、かえってその情報を強く認識してしまうというものです。
 こうしてウワサが、一層広まるのですが、これを「認知不協和」といいます。

 なまじ日頃から評判の良いしっかり者の重成だけに、茶坊主に土下座したという貫禄のなさは、大坂城内の、まさに笑い者として語り草となっていったのです。

 この時代、まだ戦国の世の中です。
 大阪の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからない。
 まして戦国武将といえば、常にある程度の武威を貼らなければ、敵からも味方からも舐められる。
 舐められることは、それだけで武将としての沽券にかかることです。

 そんなウワサは、重成の耳にもはいってきました。
 登城すれば、周囲からは冷たい視線が重成に刺さります。
 心配して周囲の人が、「よからぬウワサが立っていますよ」と忠告もしてくれます。
 けれど重成は、まったく取り合いません。

 ウワサは、重成の妻・青柳の父の耳にも入りました。
 実はこの父親、とんでもない大物です。
 重成の妻は青柳(あおやぎ)という名のたいへんな美人なのですが、この妻の父親は大野定長(さだなが)といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長(はるなが)の父親であり、戦国の世で数々の武功を立てた猛者です。

 可愛い娘の旦那が「腰抜け」呼ばわりされているとあっては、大野の家名にも傷がつきます。
 「よし、ワシが重成のもとに行って、直接詮議してくれよう。ことと次第によっては、その場で重成を斬り捨てるか、嫁にやった青柳に荷物をまとめさせ、そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」と、カンカンに怒って重成の家を尋ねました。

 定:「重成殿、かくかくしかじかのウワサが立っているが、茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。
  なぜその場で斬って捨てなかった。
  貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、ワシが代わりに斬り捨ててくれる。
  何があったか、説明せよ。
  さもなくば、今日この限り、娘の青柳は連れ帰る!」

 重:「お義父様、ご心配をおかけして申し訳ありませぬ。
  お言葉を返すわけではありませぬが、剣の腕なら私にもいささか自信がございます。
  けれどお義父様、たかが茶坊主の不始末に城内を血で穢したとあっては、私もただでは済みますまい。
  場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。
  いやいや、腹を斬るくらい、いつでもその覚悟はできておりますが、
  仮にも私は、千人の兵を預かる武将にございます。
  ひとつしかない命、どうせ死ぬなら、秀頼様のため、戦場でこの命、散らせとうございます」

 と前置きしたうえで、
 「父君、『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。
  蠅には、金冠の値打ちなどわかりませぬ。
  たかが城内の蠅一匹、打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする」
 と、こう申し上げたのです。

 これを聞いた大野定長、「うん!なるほど!」と膝を打ちました。
 蠅は、クサイものにたかります。
 クサイものにたかる蠅には、糞も金冠も区別がつきません。
 そのような蠅など、うるさいだけで相手にする価値さえない。

 たいそう気を良くした大野定長、帰宅すると、周囲の者に、
 「ウチの娘の旦那は、たいしたものじゃ。『蠅は金冠を選ばず』と申しての、たかが茶坊主の蠅一匹、相手にするまでもないものじゃわい」
 と婿自慢をはじめました。

 日頃から生意気な茶坊主の良寛です。
 これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が、大坂城内に広まりました。

 挙げ句の果てが、武将や城内の侍たちから、良寛は、「オイッ!そこな蠅坊主、いやいや、良寛、お主のことじゃ!。
 そういえば、お主の顔が蠅にも見えるの。 蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主!」と、さんざんからかわれる始末です。

 ただでさえ、実力がないのに、自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。
 「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。
 「かくなるうえは、俺様の腕っ節で、あの生意気な重成殿を、皆の見ている前で、たたきのめしてやろう」と、機会をうかがいました。

 その機会は、すぐにやってきました。
 ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。
 いかに裸で、背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。
 正面切っての戦いを挑むほどの度胸もない。
 良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。
 なにせ5人力の怪力です。
 殴った拳の威力は大きい。

 ところが。。。。

 「イテテテテ」と後頭部を押さえ込んだ男の声が違う。
 重成ではありません。
 そこで頭を押さえているのは、なんと天下の豪傑、後藤又兵衛です。
 体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。

 いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤になって怒ると、脱衣場に大股で歩いて行くと、大刀をスラリと抜き放ち、「いま殴ったのは誰じゃあ!、出て来い!、タタッ斬ってやる!」と、ものすごい剣幕で怒りました。

 風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守ります。
 そこに残ったのは、洗い場の隅で震えている良寛がひとり。

 「さては先ほど、ワシの隣に木村殿がおったが、そこな良寛!、おぬし、人違えてワシを殴ったな!何。返事もできぬとな。
 ならばいたしかたあるまい。
 ワシも武士、斬り捨てだけは勘弁してやろう。
 じゃがワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。
 拳には拳でお返しするが、
 良いか良寛、そこになおれ!」と大声をあげると、拳をグッと握りしめました。

 戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。
 腕は丸太のように太く、握った拳は、まるで「つけもの石」です。
 その大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。
 又兵衛にしてみれば、かなり手加減したつもりだけれど、殴られた良寛は、一発で気を失ってしまいます。

 又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの湯船の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、浴槽からあがると、倒れている良寛のもとへ行き、「あわれな奴。せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」と、ひとことつぶやき、「エイッ」とばかり良寛に活(かつ)を入れ、そのまま去って行きました。

 さて、気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、「イテテテて。後藤又兵衛様では相手が悪かった。次には必ず木村殿を仕留めてやる」

 そのとき、そばにいた同僚の茶坊主が言いました。
 「良寛殿、あなたに活を入れて起こしてくださったのは、その木村重成様ですぞ」

 これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりません。
 「ただの弱虫と思っていたのに、ワシを助けてくれた? なぜじゃ?」

 彼は、そことハタと気がついたのです。
 「重成殿は、ワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、城内という場所柄を考え、自分にも、重成殿にも火の粉が架からないよう、アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだ。
 そうか。俺は間違っていた。
 木村殿の心のわからなかった。ワシが馬鹿だった」

 良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。
 この年、大坂夏の陣のとき、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死して果てました。

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 現代社会は宣伝の時代と言われています。
 その宣伝に際して、「認知不協和」はとても都合が良く、影響力の強いものです。
 誰もがかっこいいと思っている者を、おもいきりショボく扱う。
 権威あるものを貶める。

 かっこよくて、子供たちの憧れだったウルトラマンをCMに登場させ、失恋させたり、欲しいものを誰かに横取りされたりなどのシーンで、ウルトラマンを徹底的にこき下ろしますと、人々自分の中で、「あのかっこいいウルトラマンが、失恋? えっ?何?どうしたの?」となって、何の話か興味が引かれ、印象が残り、話題を呼ぶわけです。

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 話を壊すようで悪いが、戦国時代に城にお風呂はありませんし、土下座や切腹の習慣もありませんから、江戸時代の恐らく幕末か、明治期につくられた美談のように予想できます。

 そもそも戦国時代の城は住居ではなく、領土の防衛拠点なので、通常は城下町に住み、敵が襲ってきて籠城するときに城に集まったようです。いま残っている城は江戸時代に改築されたものらしいから、戦国期とは城の概念が異なる。

 実際、江戸城の本丸は火事焼失にあって以来、「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という理由で再建されなかったことでわかる。この一件から、信長が大陸渡来の朝廷を廃し、原住民の王になろうとしていたことがわかる。だから信長は朝廷の中華思想の官位を拒んだ。

 お風呂は江戸中期以降らしく、戦国時代は温泉。土下座は藤原氏などの貴族が原住民に強制した応対儀礼で、謝罪ではない。謝罪になったのはドラマ「水戸黄門」の影響で昭和から。戦国時代の武家の謝罪法は不明だが、蟄居や暇乞いを願うことなどが考えられる。切腹は、長州藩のやりとりが間違って伝わり、奇兵隊の処罰法になったもの。戦国時代は磔か斬首。

 とはいえ、幕末から明治にかけて、上述のような人物が理想とされてきたことが講談の伝承によりわかる。

 しかし、理想を語れど実践できないのなら、語るだけ無駄というものである。それだけ悪人が巷を跋扈していたということなのだろう。

 まさしく老子の「大道廃れて仁義あり」である。

 この言葉は孔子の仁義を否定したものと考えられているが、私の解釈は少し違う。

 というのは、昔は人間に自我がなかったので、自由はなく、神=族長に従うしかなかったので、道を踏み外すことはなく、大道しかなかったが、人間が自我に目覚めるとともに、族長が神から離れ、霊能力を失い、神の啓示を下すことができなくなって形骸化し、廃れてしまったので、人間が自我をよく制御するために、代わりに、仁義が説かれるようになる、という預言と捉えることもできるからである。

 なにより、このような言葉は戒めというよりも、時代に応じて精神を向上させる教えと捉えるべきである。

 老子ではないが、大道が廃れてしまえば、仁義を語るしかなくなる、というわけで、仁義を語るのによい話を紹介する。

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○顧東橋(ことうきょう)
http://www1.bbiq.jp/chikoshima.com/log/somo-somo-ningen-gaku-toha-nani-ka-youmeigaku-to-bappon-sokugen-ron.html

 この顧東橋(ことうきょう)は、名は?(りん)、字(あざな)は華玉、号を東橋といい、蘇州のたいへん篤学の士であります。

 陽明先生より確か四歳くらい歳下の人です。

この時代は世の中が非常に俗化し、学問、教育、政治というものが非常に通俗的、功利的になり、堕落の著しい時であった 。

 その時に顧東橋が陽明先生に手紙を書いた。

 その手紙の中にたいへんいい言葉がある。

 「近時学ぶ者、学者(この場合の学者というのは「学ぶ者」という意味で、日本のいわゆる学者ではない)は外を務めて内を忘る。広く知りて要少なし」

 インテリはいろんなことを知っているけれども締め括(くく)りがない(要少なし)。

 これを陽明が非常に感心しまして、

 「君は時弊を洞見(どうけん:洞察と同じ)する。時代の弊害、悪いことを見抜いている。時弊を洞見することかくのごとし。また、まさに何を以ってこれを救わんか」

 こういうことを言って、それから延々十二段にわたる長論を書いた。

 その終わりの結論がこの「抜本塞源論(ばっぽんそくげんろん)」です。

 顧東橋の指摘するとおり、 今日でも学ぶ者は外を務めて内を忘れている 。

みんな外ばかり問題にして、どういう思想、どういう風俗が流行している、中共がどうだ、アメリカがどうだというような外のことばかりわいわい言って、肝腎の内を忘れている。日本を忘れ、自分を忘れ、心を忘れている 。

 そうして、「いろんな雑識は持っているけれども締め括(くく)りがない」という顧東橋の意見に対して、王陽明は「それは時弊を洞見したものだ。それなら、どうしてこれを救うか」と、答えであると同時に質問し、縷々意見を述べ、その締め括りにこれを書いた。

 それには時弊(時代の弊害、時代の悪風)の本(根)を抜き源(水源)を塞がなければならない。枝葉末節のあるいは淵源から遠く離れた末流を問題にしていては駄目で、思い切って抜本塞源をやらなければならない。

 この「抜本塞源」は、もともと『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』の昭公九年に見える言葉で、「根を抜き、水源を塞ぎ、悪いことの根源を絶つ」ことである。後に、この論が非常に有名になったので「抜本塞源」という言葉の出所を知らないままに多くの人がみな使っている。

 (イシハラ、ナカソネ、ナベツネのような極悪人を処罰し、アホバカを刑務所に入れること。本来なら早々と引退していないとおかしい。)

 ---引用はここまでです---

 ここからは知古嶋芳琉が書いています。

 安岡先生が「抜本塞源」という言葉の出所を『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』

 だと教えてくださったのは幸いでした。それは、他にもここから出たという有名な言葉があるからです。それにしても、これを現実の現場に導入しようとすると、必ず大騒ぎになり攻撃されます。それを怖がっていては君子とは言えません。

 ---ここからは日本語訳の引用です---

 そもそも抜本塞源の論が世に明らかにならないと、世の中の聖人を学ぼうとする人も、学ぶべき事が日に日に繁瑣困難になって、人間でありながら禽獣・夷狄(いてき)に等しいほどに堕落してしまい、しかもなお、それを自分では聖人の学と思い込むことになるであろう。

 私の学説も一時世に知られることがあっても、結局は西に解ければ東に凍り、前に霧が消えれば後ろに雲が集まるというように、いつまでたっても本当には明らかとならず、危難と困窮のうちに死んで、しかも少しも世を救うことにならない。

 さて聖人の心というものは、程明道の言ったごとく、天地萬物を一体とするもので我と人との間に区別を設けないから、天下の人を視ること、内外遠近を問わず、およそ生きとし生けるものに対しては、みな自己の兄弟赤子同様の愛情を持って、これを保全し教化養育して、その萬物一体の念を達しようとせぬことはない。

 世の中の人の心も、最初は聖人と異なるところがあるのではないが、ただ自己本位の私心に妨げられたり、物欲の壁に隔てられるために、大きな心も小さくなり、他人に通じた心も塞がってしまい、各人がそれぞれ別の考えを抱いて共通性を失い、その結果、自分の親子兄弟を見ること、まるで仇敵のような者さえあるに至った。

 聖人はこれを心配して、そのため天地萬物を一体とする仁の心を広く推し及ぼして天下を教え、人びとがみな、利己心に克(か)ち、心の障壁を去って、各自共通の心の本体に復帰させようとしたのである。

 その教育の大いなる手がかりは、堯・舜・禹の三王が伝授したところの、いわゆる「 道心は微弱であるから、心を精一にして、天理を明らかにし、その中(ちゅう)をよく守れ 。」であり、その細目は舜が契(せつ)に命じたところの、いわゆる「 父子の間に親(しん)、君臣の間に義(ぎ)、夫婦の間に別(べつ)、長幼の間に序(じょ)、朋友の間に信(しん)がなければならない 。」の五つのことだけであった。

 堯・舜から夏・殷・周三代の時代には、教える人はただこれだけを教え、学ぶ人はただこれだけを学んで、他に無用の知識を求めることがなかった。また当時は、人によって意見の相違があることもなく、家によって習慣を異にすることもなかった。

この状態に安んじ得た人を聖人といい、これを勉め行なった人を賢人といい、これに背いた人は、たとえ聡明なこと丹朱のような人でも、これを不肖の人としたのである 。

 かくて上は勿論のこと、下は町村の農工商人の賤しい者に至るまで、みなこの学問をしない者はなく、ただ各自の行ないをよくし、徳行を完成することだけに努力したのである。

 というのは、当時は今日のように、雑多な見聞、煩瑣な暗誦、華美な文章、功利の競争がなかったので、容易に、親には孝、長上には弟(てい)、朋友には信(しん)ならしめて、彼ら共通の心の本体に復(かえ)らしめることができたのである。

 これらは要するに、各自の本性に固有しており、外から借りてくるものではないから、人間ならば誰でもできないことはないのである。学校の中では、ただ人格を完成することを任務としたが、特異の才能を持っていて、あるいは礼楽にすぐれ、あるいは政治教化にすぐれ、あるいは水利開墾にすぐれた者があるときは、その出来た人格の上に、さらにその才能を学校において磨かせたのである。

 人格者を登用任命したら、一生涯同じ職において転職をさせず、いつまでも適材を適所に留まらせた。任用する側では、皆心を同じくし、徳を一つにして、協力して 天下の人民の生活を安定することを考え 、その人の才能が仕事に適するか否かは注意するが、 地位の上下で人間の価値の差をつけたり、仕事の繁閑によって人物の良否の評定をすることはなかった 。

 役について公の用をする者も、ただ心を同じくし、徳を一つにし、協力して人民の生活を安定することだけを考え、もし自己の才能がその仕事に適していたなら、 一生涯激職にいても過労とせず、低い地位、煩瑣な仕事にも満足して、自らを賤しむことはなかった 。

 この時代には一般の人は、心から楽しみ和(やわ)らいで、みな、互いに一家の者のごとく親しみ合い、才質が劣って役人になれない者は、農工商賈(こ)などの身分に満足し、 各自その職業に精を出し、相(あい)助けて衣食し、高い地位を望んだり、他の境遇を羨んだりすることはなかった 。

 才能の特にすぐれた皐陶(こうよう)や?(き)や后稷(こうしょく)や契(せつ)などは、進んで各自の能力を発揮したが、いずれもみな一家の仕事をするのと同じで、ある者は衣食を作り、ある者は物資を交易し、ある者は道具を作るというように、みなが智慧を集め力を併せて、仰いでは父母に事(つか)え、俯しては妻子を養うなど、人間としての自然の願いを遂げることを求め、ただ他人がその職分を怠って、自己に負担のかかってくることだけを恐れたのである。

 このようであったから、后稷(こうしょく)は農事に精を出し、教育に通じないことを少しも恥とせず、契(せつ)がよく教育を行なうのを自分がよくするようにみた。?(き)は音楽を職分として、礼に関して通じないことを羞じず、夷が礼によく通じるのを、自分ができると同じにみていた。

このように各自がそれぞれ自己の本分を尽くして、他の才能を自分のもののごとく見ることができたのは、要するに彼らの心学が純一無雑であり、萬物を一体と見る仁心を全(まっと)うし、精神の交流、志気の通達が行なわれ、人と我、自己と物との隔てがなかったからである 。

 これを一人の身体に譬(たと)えると、目は視、耳は聴き、手は持ち、足は歩く、というように、それぞれ一身の役目を果たすが、目は声の聴けないのを恥としないばかりか、耳の向かうところは必ず応ずるし、足は物を持てないことを恥としないばかりか、手の探るところには必ず進む、全く一心同体の関係であった。

 いわば、一身に気力が充実周流し、血液がよく循環して、そのため痛痒も、呼吸も、すべて感応すると同様に、口に出して言わなくても、直ちに心に悟る微妙な関係にあったのである。

 これが聖人の学問の、至って簡単で、知り易く従い易く、学問は上達し易く、才能は完成し易かった理由であり、その根本は、 何びとにも共通な心の本体に復ることにあり、知識技能は問題ではなかったからである 。

 夏・殷・周の三代が衰えてからは、王道やんで覇術が盛んになり、孔子・孟子が亡くなって後は、聖人の学問が分からなくなり、異端邪説が横行し、教える者はもはやこの徳を成すべきことを教えず、学ぶ者もまたこれを学ぶことをしなくなった。

 覇者の連中は、先王まがいのことをひそかに行なって外面を飾り、内実は自己の欲望を遂げ、天下は一斉にこれに追随するようになり、聖人の理想は遂に荒草に埋もれ、それからは互いにこの風潮を模倣し、日日に富強を図る説のみを要求するに至った。

 そこで他国を覆し欺く謀略や、攻略の計画など、天を欺き人を騙して、ただ一時の効果を貪り、それによって不当の名声利益を獲得する方策を説く、管仲・商鞅(しょうおう)・蘇秦・張儀らの仲間が、数えられない程になったことはもう久しい。闘争強奪、人びとはその惨禍に堪えず、遂には禽獣夷狄に堕(お)ちて、覇術さえ行なうことができなくなった。

 世の覇者は、この有様を悲しんで、昔の聖王の典籍や法律制度を集め、戦火や焚書の灰燼の残余を拾い出して補ったりした。その心は、これによって先王の道を復活させることを希求したのであるが、聖人の学問は既に遠い過去のものとなり、覇術の伝わること長く、その影響が深かったので、聖人知者といわれる人びとも、そうした習弊の感染を免れなかった。

 そのため、彼らが義理を講明し、文書を修飾して、世の中に聖人の道を宣揚回復しようとしたことも、結果的に見れば覇者の領分を増したに止まり、その装飾には役立ったが、聖人の学問の外廓も門口も再び見ることはできなかったのである。

 かくて新たに生まれて来たものは、まず本質を離れて古い文字の解釈を研究する訓詁(くんこ)の学で、これを伝える者は名士とされ、次には古文を記憶暗誦する記誦(きしょう)の学で、これを語る人は博学とされ、次には文章を巧みに作る六朝隋唐の詞章の学で、これを多く作る人は美文家とされた。

 この種の学問が雑然と天下に群がり立って、幾学派あるとも知れず、まことに萬径千蹊で、どこを歩いてよいかわからぬ状態であった。

 そこで世の学問に志す人は、まるであらゆる娯楽場に入ったようなもので、あっちからもこっちからも、面白おかしいものばかり、前を見たり後ろを見たり、応接に暇もないため、目は眩み、耳は遠くなって、精神朦朧として、昼となく夜となく遊び続けて、ぼけてしまい、やがては帰るべき家も仕事も忘れてしまう。

 君主も彼らの雑説に迷わされて心も顛倒し、生涯役に立たない虚文を作って、何のことか自分でも分からぬ有様であった。このような大勢の中にも、稀にはそれらの無内容・誤り・でたらめに気づき、勇気を奮って天下の風潮に抗し、それを実際の行動に現そうとした人びとがないではなかったが、それも行き着く所は、富強功利五覇の仕事をすると同じ結果になってしまった。

 かくして聖人の学問は、日に日に遠ざかり、日に日に分からなくなっていき、功利を求める風習はいよいよ激しくなり、いよいよ低下してきた。

 その間に佛教や老荘思想に盲目的に惑うても、その説も人間功利の心に勝つことはできず、また多くの儒者の論をあれこれ比較参考しても、それら儒者の論も結局かの功利的見解を破ることはできず、今日に至っては、功利主義の害毒は、人の心臓骨髄にまで沁みわたり、その習慣が遂に本性のごとくになってしまったこと、ほとんど千年にもなるのである。

 そのため、世の中は知識を誇り、勢力を軋(きし)り、利益を争い、技能を高ぶり、名声を取り合うものばかりである。出仕する官吏は、もし財政を司る任にあれば、軍事や司法の職まで兼任したがり、儀礼音楽を司る役であれば、人事を支配する地位に関係しようとし、また地方官として郡や県におる者は、一段と高い藩司や梟(げつ)司の位を狙い、天子を諫める役目にある者は、宰相の要職を望むという状態である。

 しかし、いくつかの 官職を兼ねるためには、やはりそれだけの能力が必要であって 、それができなければ兼官は得られないし、学説に通じていないと、世間の名声を求めることはできない。

 そこで経典を博く暗誦していることは、彼らの威張る助けとなり、知識の多いことは悪事をはたらくに好都合であり、見聞が広く経験の多いことは演説に役立ち、文章力のあることは、ごまかしを飾るに便利となる。

 このため昔、皐陶(こうよう)や(き)や后稷(こうしょく)や契(せつ)なども兼ね通じることのできなかった仕事を、今日では駆け出しの若者でも、その理論に通じ、その技術を研究しようとしない者はない。

 彼らがこのように多方面に知識を持ち、それを振り回すについては、表向きは共に天下のために働くのだと言わぬ者はないが、その偽らぬ本心は、このようにしなければ、自己の目的を達し、欲望を満足させることができないからなのである。 

 ああ、このような長年積み重ねて来た悪習と、このような下劣な精神の上に、さらにこのような俗悪の学術である以上、私の言う聖人の教えを聞いても、現代には無用のものであると考えるのは、無理ならぬことである。そして良知だけでは不十分だとか、聖人の学問は役に立たないとか言うのも、そうなるべき必然の勢いであるとしなければならない。

 ああ、かような悪い時代に生まれて、なおどうして聖人の学を求めようか。

 なおどうして聖人の学を論じようか。このような時代に生まれて真の学問をしようとするのは、苦労で困難なことではないか。差し障りが多くて危険なことではないか。まことに悲しいことである。しかし幸いなことに、天理は人の心中にあって永久になくすることができないし、良知の明は萬古一日のごとく変わることがない。

 私のこの抜本塞源論を聞けば、必ずや感激して、悲しみ、痛み、憤起して、堤防を決して江水の奔流するごとく、これを防ぐことのできないような人物のあることを信じて疑わない。しかし、このようなことを期待できるのは、かの孟子の言う通り、全く他人に頼らずに、自己の独力で立ち上がる豪傑の士以外に、誰に望むことができようか。

 ---ここまでは日本語訳でした---

 ---ここからは再度本文の引用です---

○猶興の人物

 王陽明は、この終わりがいいたかったんですね。この最後の「かの豪傑の士の、待つ所なくして興起する者云々(うんぬん)」、はこれは心ある人びとの常識になっていいる。 「猶興(ゆうこう)<なお興る>」の出典である。

 『孟子』尽心上篇に、「文王(ぶんのう:周王朝の始祖)を待ちて興る者は凡民なり。」誰か偉い指導者がいて、それにくっついて、その褌(ふんどし)で相撲をとるなどというのは凡民です。「夫(か)の豪傑の士の若(ごと)きは、文王無しと雖(いえど)も猶(なお)興る。」

 本当の優れた人物というものは文王なしと雖も猶興る。こういう場合に「猶」をわざわざカナにしては面白くない。やはり猶の字を書かないと本当の注にならない。

 要するに有象無象では駄目。体制順応、付和雷同の人物では駄目で、天下の形勢、周囲の状況がいかにあろうが、自分の良心に顧みていわゆる「文王なしと雖も猶興る」という、そういう豪傑の士でなければ、こういうことを言っても何にもならない。とても望むべき相手ではないと。

 猶興の人物、そういう豪傑の人でなければ、私(陽明)がいくらこういうことを論じても何にもならない。結局、貴方のような猶興の豪傑が自分の頼みである。

 こういう陽明の心血を傾けたというか、実に堂々たる名文であり名論です。

 これを読んでいると、体がしゃんとするというか、気が晴れるというか、楽しくなりますね。これは古来非常な名論であり名文でして、『伝習録』といえば、この陽明の「抜本塞源論」といわれるほど、天下の志士仁人に感激を与えた一文です。

---本文の引用はここまでです---

 ★         ★         ★

 以上のように、聖人の話つながりで、やはりシュタイナーのキリストの話を紹介せねばなるまい。

 ★         ★         ★


 -弟子のクッテネルがお送りします。

http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-891.html

≪キリスト衝動(7)(改変)≫

★もし星が神ならば

 まず、一冊のSF小説の話から始めようと思います。この『もし星が神ならば』は、小生が若かりし頃、第128夜でお話しした『幼年期の終わり』に端を発したSF小説のマイブームのさ中に読んだ本のひとつです。

 ちょうどその頃は『ソラリスの陽のもとに』のスタニスワフ・レムの一連の作品に見られるテーマ~宇宙には、地球上の生物の型に囚われることなく、無機質的な金属や惑星そのものに意思が存在する可能性だってあるのだ~的な小説にはまっていた頃でした。

 そしてその頃の小生にとっては、このSFはまさにキャッチーなタイトルだったと言えます。ただし、6部構成となっている前356頁のうち、本タイトルのエッセンスを示すのは第2部の76頁のみで、それ以降は主人公レナルズの、第2部の体験後の宇宙探検話が主体となっています。

 ちなみに当該作品は、1974年に『第2部/月』の部分が、G・ベンフォードとG・エクランドとの共作により、独立した中篇として発表されたもので、同年のネビュラ賞を受賞しており、その後他の部分を追加して本作品となったものです。

 従って、当時の小生が期待したような《未知との遭遇》的要素はほとんど無く、大きな印象を残す事無く、いつしか忘れ去ってしまった類のSF小説でした。しかし、今こうしてキリスト意識について書き進めてゆく中で、俄然違った輝きを放ちつつあります。

★太陽の慈悲深さ

 最初に、こんなSF小説など聞いたことも無い方がほんんどでしょうから、第2部の簡単なあらすじをお話ししておきます。

 2017年に、突如として月に降り立った巨大な恒星間宇宙船上の異星人は《太陽についての情報が知りたい》とのメッセージを発し、天文学者であり、火星探索でも勇名をはせたレナルズは、引き換えに宇宙旅行のテクノロジーを得る任務を負って月へ向かいます。

 一見キリンに似た外観を持つ異星人ジョナサンは、レナルズに《我々の主星と違って、同じ兄弟星である太陽系の主星―太陽は非常に力強く、慈悲深い。我々が直接太陽と話す前に、 あなた方地球人が、太陽とどんな関係を築いているのかを知りたい》と言います。

 ジョナサンの話では、彼等の惑星は、主星を巡る極端な楕円軌道上にあり、またしばしば地軸の傾きさえ変えるため、種族全体で頻繁な大移動を余儀なくされる苛酷な環境にあり、恒久的な技術はほとんど所有していないといいます。

 また、彼等の乗ってきた宇宙船は、かつて別の生命体の訪問を受け、贈ってもらったものであり、ただ自分達の叡智を高める目的のためだけに使用している。無論、彼等自身にはそのメカニズムがわからないため、それを伝授することもできないと言います。

 そして、彼等の主星の性格について、ジョナサンはこのように述べます。

 「最も強烈な交感がある時期には、彼―彼女?―はその叡智を過つことがありません。
 時には―あなた方の主星と違って―怒りを発することもあります。
 しかし、それは滅多に無い事です。
 あったとしても、ほんの僅かの間しか続きません。

 その怒りの時期に、彼は、2度に渡って私達の文明の絶滅を予告しましたが、その予言を実行に移すようなことは一度もありませんでした。彼には、怒り以上に思いやりが、暴力以上に優しさがあるのだと思います。

 我々を、真実、心から愛していてくださる、私はそう信じます。宇宙に数ある星の中では、大した位置を占めている訳では無いでしょうが、故郷の星である以上、私達は彼に仕えなければならないのです。

 もちろん、現にそうしているのですが。」

 『もし星が神ならば』pp65-66《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載  

 レナルズは、当初、ジョナサンの質問に当惑します。太陽について現に人類の知っている事といえば、無機質(唯物的)な天文学的知識のみでした。無論、地上の科学者や政治家にこれらの話が真面目に受け取られる筈もなく、かれは次第に孤立します。

 しかし、レナルズ自身は次第に彼等の真摯な思いに共感を覚えるようになり、彼自身も《太陽と話がしたい》と思い始めます。そして何度かの訪問の時、ジョナサンとは別の異星人を紹介をされます。彼は既に太陽と話をしており、彼の手助けができるといいます。

 2人きりの空間で、その異星人は歌を歌い始め、その響きと音階は他の全ての知覚を締め出してゆき、遠い深みへと旅立たせます。レナルズも、気がつかぬ間に共に歌い、やがて2つの歌声が溶け合う頃、彼は《太陽》を感じます。

 強く、偉大で賢い、熱とエネルギーの球体としての神との邂逅に、本能的な恐怖を感じたレナルズは、地球のある場所を探しますが、その異星人に引き戻され、やがて太陽に隠された、不可侵の闇に行き当たります。

 「果たしてこれは邪悪なものだろうか? 思考は意味をもたなかった。
  何も考えることなく、その代わり、知覚し、感じることで、彼はこの存在―ひとつの恒星―太陽―の全体性を体験し、それが邪悪でないことを悟った。

 ぽっかり口を開けた虚無を、隅から隅まで、まるごと感じ取った。
 寒さ以上の寒さ、憎悪より恐ろしく恐怖よりも惨めで、悪よりもよこしまなもの。
 その広大な内部の、無であり同時に全てでもある全体。もうたくさんだ!」

 『もし星が神ならば』p107《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載

 気がつくと、レナルズは宇宙船の床に横たわっており、やがて現れたジョナサンは彼にこう語ります。

 「(これで)私達の探求の目的もおわかりでしょう。何世紀もの間、我々の主星は優しく親切でした。それが、今では―あなた方の星のように―変わってしまったのです。(それで新しい故郷を探しているのです。)

 (…中略…)

 結局、どこへ行っても同じことです。私達は9つの恒星を見て、その全てを訪ねてみました。いずれも役に立ちません。
 (…中略…)

 私達は、今度こそ成功したと思っていました。あなたに会った時、そう思ったのです。あなたは、この主星とはちっとも似ていなかったものですから。

 あなたや、あなたの種族を生み出せるのなら、(太陽には)きっと慈悲があるはずと感じたのです。ところが、その慈悲は、もう無くなっていました。

 私達が行き当たったのは暗黒だけです。

 さらに深い核まで到達しようと、我々は努力しました。そして、失敗したのです。」   

 『もし星が神ならば』pp108-109《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載

 この《慈悲を失った太陽》の虚無を知る、レナルズや異星人の悲しみのシーンが第2部のクライマックスとなっています。この後、地上の科学者や政治家の思惑をよそに、ジョナサンらは次の目標に向けて旅立っていきます。

★どちらが患者なのか

 さて、この小説が書かれた1970年代当初と言えば、第七十二夜でお話ししたように、プレアデスとのコンタクトは始まったばかりですし、ドランヴァロがトトからの初めての交信を受け始めたのも、ようやく1971年になってからの事です。

 つまり、アセンションに関しての情報はもちろん、スピリチュアリズムという言葉さえ、まだマイナーの域にも達していません。そんな中で、《太陽の兄弟星》、《地軸の変動》、ひいては《恒星の波動》等々、まるでその方面のインスピレーションを受けたかのような小説になっています。

 そして、最大のテーマが《太陽の慈悲》です。正直言って、この頃の小生は《惑星ソラリス》の類のように、《そのような性質を持った恒星があってもよい》とは思っていましたが、我々の《太陽》がその類であるなどとは考えもせぬまま、本を閉じてしまいました。

 しかし、第四十七夜でお話ししたように、《精神分裂病》と診断される患者の中には、現に太陽を生命あるものと感じる人もいて、ユングはそれを、人類が共通に持つ原始的な心象の表れかも知れないとし、「元型」と名づけたのです。

 むしろ逆に、そのような「元型」が見える患者こそ、我々の古来の力を持って、太陽の《本性》を見出しているのかも知れません。その意味では、それが見えない我々こそが、知覚器官に損傷を負った患者なのかも知れないのです。

★三位一体とは

 第138夜でお話ししたように、シュタイナーによれば、動物や植物のみならず、鉱物も神界に《自我》が存在します。ならば、エネルギー体である《太陽》自身にも《意思》 があってもおかしくはありません。

 さらにそれらの《自我》は、我々とは違って《集合的な自我》であり、それぞれの成員である個体は同じ《意思》を共有することになります。つまり、同じ《意思》を持った個体に分化(分霊)させることができるはずです。

 ところで、以前、第五夜でお話ししたように、キリスト教の最大の教義にして、その解釈により諸派が分裂してしまった程の謎のひとつが《三位一体》の教義です。

 簡単に言えば、

 『父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三者は、等質で不可分』

 というもので、この三つは別の存在ではあるが、同じ「実体」を持つもので、うち「聖霊」とは「復活」後に使徒たちの前に現れた「神霊意識」のことを言います。

 ちなみにウィキペディアによれば、もともと《三位一体》とは教父のテルトゥリアヌスによる造語で、『ヨハネによる福音書』の以下の一説の解釈を示すものとされています。

 「神である父が神である言葉(=子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「救世主」なる聖霊を遣わす」

 しかしここで、前夜でゾロアスターが弟子達に示した言葉―《太陽》の正体の《アフラ・マズダ=キリスト》を文字通りに捉えれば、この難解な《三位一体》の本当の意味がみえてくるのではないでしょうか。以下、小生なりの解釈を述べてみます。

 《神である父》とは我々の太陽の正体であり、天界にある集合的な自我です。
 《聖霊》は時に応じて太陽から分化(分霊)して、地上に降り立つ自我です。
 《子》はその自我が受肉し、目に見える肉体となる時の姿です。

 まさにこれらは別々のものを表してはいますが、同じ《集合的な自我》から生じたものであり、同一のものです。

 《三位一体》の意味だけを考えるのであれば、ここまでで『ヨハネによる福音書』の件は《証明終わり》とすべきです。

 キリスト教が問題としたのは、この存在が《神》なのかどうかで、その解釈をめぐってアリウス派とアナスタシウス派が分裂したわけですが、小生の考えからすると、こんなことは全く不毛の議論のように思えるのです。

 まず、《三位一体》の主体が《太陽の正体=アフラ・マズダ》である以上は、宇宙の唯一の至高の存在と思われる《神》とは別の存在ではあります。

 ただし、第140夜でお話ししたように、全ての存在はアフラ・マズダも含め、至高存在が自らを知るために、そして恐らく自らの孤独感から逃れるために、自身を分化(分霊)させて創り上げたもの、と小生は思っています。

 つまりアフラ・マズダも唯一絶対神そのものではないが、それが分化(分霊)したものだということです。それがもとの《神》と等しいかどうかなど、《西の空》は《東の空》と同じか否かといっているようなものだと小生は思います。

 ……………………………………………………………………………………………

 ちなみに、『もし星が神ならば』の第2部の終わりの会話の部分で、ジョナサンは、レナルズの考えていることを察知して話します。不思議に思っている彼に対して、ジョナサンは次のように答えます。

 「星の話に耳を傾けるのです。星は生きており、私達にはその本当の姿を見ることが許されています。あなた方は違います。あなた方はまだ若い。

 あなた方の元を訪れる時、星はあなた方にも見えるような仮の姿を取ります。そういう風にして、この宇宙での時を過ごすのです。星の姿は扉のような物だと思ってください。」

 『もし星が神ならば』p127《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載

 そして、レナルズを含め一般の地球人は、その《扉》を開けれないと言います。

 作者が何を意図して《扉》としたのかは不明ですが、その話を使うなら、《太陽が地上の人類を訪れた時、キリストの姿を取った》と読めないこともありません。

 ウィキペディアによれば、作者の一人であるG・ベンフォードは《無神論者》としてあります。この台詞の発案者がG・ベンフォードなのか、G・エクランドなのかがわからないので何とも言えませんが、少なくとも2人の納得の上の言葉でしょう。

 とすれば作者のうち、少なくとも一人は、既存の《神》の捉え方に不満足ではあるけれど、何かしら超越的な意思の存在は認めているのではないか、場合によっては、シュタイナーの説に共感していた可能性さえ感じてしまいます。

 さてしかし、我々の肉体は、キリストでさえも、悪魔の誘惑を受けるものでした。

 次回第154夜は、その辺りの話から始めます。

 ★         ★         ★

 日本語では、聖人は星人ともいえる。ゾロアスターが、アヴェスター語で、「光り輝く星」という意味をもつように、聖人は星と関係する。 





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Last updated  2016年03月09日 19時25分12秒
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