シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年08月11日
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カテゴリ: 神秘体験空間
もうりさんとのコメントのやりとりから、お金は人を癒すために使うのがよいことがわかる。

 では人を癒すとはどういうことなのか?

 改めてその指標となる考えを、以前紹介したチベットの聖者から、学ぶために再度紹介する。

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むやみに治さないチベットの聖者

 『チベット永遠の書』に、人を癒す力があっても、むやみにその治癒力を施さない人間がいることが書いてある。チベットのとある聖者である。

 「チベットの聖人たちは、自分の治療法が完璧と宣伝しないが、奇跡としかいえないほどの見事な治療法を現に心得ている。彼らは治療を職業にする人とは違って、報酬を得るために治療しない。そして、自分のもつ驚異的な治療法を世間に広めたりはしない。」

 と『チベット永遠の書』にはある。 聖者は、なぜむやみに治療しないのか? その理由が本書に、著者と聖者との会話として述べられている。

 「さて、わしが食べ過ぎで体を悪くした者を治すのは、その者が治されたときから過食をしないようになる、と判断したときのみなのだ。世の中には、さらに悪事を働き、自分の哀れな体をもっと酷使するためにこのような助けを悪用する者たちもいる。だが、例外はある。わし自らが人を癒やしたことは、おまえも見たとおりじゃ」

 「 われわれに降りかかる不運はすべて、身から出たさび、悪念と悪行の結果なのだ 。 われわれは蒔いたものを刈り取るのだ 。岩が落ちる定めにあった男は、今回は救われたが、早晩同じ状況に陥るだろう。もし今生ではなくとも、来世には」

 「 戦争は人間の利己心、悪念の産物じゃ 。 多くの者は心の中で戦争を起こしている 。 彼らは、絶えず色々な方法で隣人と戦いながら、同時に平和を語る 。戦争が怖いという理由で戦争に対抗するのであれば、そのような抵抗に何の意味があろうか。症状に反発してはならない。心を変化させることだ」

 病気とは、確かにカルマもあるかもしれないが、私は、人間の心と体が宇宙のリズム、宇宙の法則から外れたときに生じると感じている。そして、その「ずれ」を気付かせ、 宇宙の法則を知らしめ、学ばせるために生じるのではあるまいか ? 

 そうすると、もし私に万病を癒す力があったとしても、むやみに誰彼かまわずに治せば、確かに、病と共に、その人の学びの機会もとりさることにもなろう。しかし、苦しみ助けを求める人々をほおっておくことも冷酷なように思える。

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 以上のように、病気とは、宇宙の法則、つまりカルマの法則を知らしめ、学ばせるためにあるものとわかる。で、カルマの法則とは何か、自分の心が表出され、自分の行為となるから、上の聖者の言葉のように、

 「 われわれに降りかかる不運はすべて、身から出たさび、悪念と悪行の結果なのだ。 われわれは蒔いたものを刈り取るのだ 。」

 つまり、われわれは、われわれの過去の自分の行為を、自分とは別の立場になって、体験することで、自分の心を、みることになる。

 だから、治療家は、過去にその病気の患者でもある。つまりは、 癒す人は、過去に癒しを求めた人なのである。過去に癒しを求めた結果、癒す立場になるのである。

 つまり、カルマの法則とは、「求めよ! されば与えられん!」というわけなのだ。

 これは、『新約聖書。マタイ伝』の山上の垂訓にある言葉で、「求めよさらば与えられん、叩けよさらば開かれん」である。

 だから病気に罹ることは、将来、その治療家の立場にたつことで、良いことなのだ。

 さて、問題は、上の聖者が語るように、無闇矢鱈に求めること、限度をしらないことにある。身の程を知らないことである。 

 病気に罹っているのに、休養しないことで、これは利己心から生じる。

 利己心から生じることは手の施しようがない、いわば千日手である。利己心を本人が自覚し、心を入れ替え、なくさない限り、堂々巡りを続けるだけである。

 俗に天狗病ともいわれるが、利己心という病気に治療法はない。

 このことを上の聖者は、

 「 戦争は人間の利己心、悪念の産物じゃ 。 多くの者は心の中で戦争を起こしている 。 彼らは、絶えず色々な方法で隣人と戦いながら、同時に平和を語る 。戦争が怖いという理由で戦争に対抗するのであれば、そのような抵抗に何の意味があろうか。症状に反発してはならない。心を変化させることだ」

 と語っている。

 これはキリストの「汝の敵を愛せ、隣人を愛せ」である。

 利己心を癒すには、愛しかない。それは、奪われたら、与えたと思えばいいのである。愛さえあれば、いずれいくらでも創り出せるからである。

 人は1人では生きれない。だから利己心を癒すには、限度をしらないといけない。

 限度をしるには、自分以外の他の全てを、自分を通じて、知らないといけない。  

 だから、お金は、限度を知るのに使うべきである。

 しかし、お金で買う、ということは、カルマの法則でいえば、今度は、買った分の創造行為を自分に要求することになり、それに見合う労働を課すことになる。

 だからモノを買うほど、今度は将来、そのモノを生産する働きが要求される。

 さてまた、もうりさんとのコメントのやりとりから、経済は足りないものを補い合い、法律、政治は、平等な自分探しの舞台や機会を提供するもので、その頂点に、自由な精神活動が核として君臨すべきなのがわかる。 

 自由な精神活動の水準を推し量るには、その国、その社会のジャーナリズムが挙げられる。

 ジャーナリズムにおいて、表現されるのは、結局は、悲劇と喜劇、つまり、涙と笑いであると思う。

 というわけで、シュタイナーの笑いと涙の話を再度紹介する。  

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 人智学に関する連続講義の中でも、今回のテーマは確かに重要でないように見えるかもしれないが、高次の霊界へと導く考察において、毎日の細事や身近な現実を切り捨てることは間違いである。

 永遠の生命や魂の至高性、或いは宇宙や人間の進化についての大いなる疑問を講義で取り上げると、聴衆は満足し、喜んで、今回検証するような明らかに陳腐な事柄を放っておく傾向に甘んじるが、霊界への正しい参入法に従うなら、既知のものから、未知のものへと、一歩一歩前進することが健全な道であることを確信するだろう。

 更に言えば、傑出した人たちが、「笑いと涙」を決して陳腐なものと見なしてきたわけではないことを多くの例を挙げて示せる。

 いずれにしても、東洋文化にとっては途方もなく重要な、偉大なるゾロアスターで有名な「ゾロアスタースマイル(ゾロアスターの微笑)」を与えた意識、すなわち人類の偉大な伝統と伝説の中から将来達成される神霊意識(個人の意識よりも遥かに賢い)が、微笑みながら、この世にやって来た、という事実は特に意義深い。

 世界史についての深い理解から生じた伝説からわかることは、この微笑みのために、地上の生物たちが狂喜する一方で、地上の全ての邪悪な霊と敵対者たちは、この微笑から逃げ出した、ということである。

 もし、これらの伝説や伝統から、一人の偉大な天才の仕事に目を移すなら、ゲーテが多くの感情や考えを注ぎ込んだファウストという人物像が思い起こされる。

 あらゆる存在に絶望したファウストが今にも自殺しようとするとき、イースターの鐘の音が響き、「涙がわき出て、再び地球が我を抱く。」という叫びが聞こえる場面の、この涙は、ファウストが最も苦しい絶望を経験した後、この世に戻る方法の発見を可能にする霊魂の状態の象徴として、ゲーテに用いられた。

 このように、ただ、その事実を考えてみるだけで、「笑いと涙」が大いなる意義を持つ存在に関係することが理解できる。周囲の身近な世界に現れる霊魂を追求するより、内面を様々に考える方が容易だが、内面にある霊魂を見つけるのを可能にするには、他でもなく我々人間が「笑いと涙」と呼ぶ、魂の仕草のなかにある。

 それらの仕草は、人間の内面の霊魂による表現である、と見なさなければ理解できない。しかし、その仕草を行うには、人間を、霊魂の存在として受け入れるだけでなく、霊魂を理解する必要がある。

 これまでの連続講義全てを、霊魂の存在を受け入れ、理解するという、このような目的のために費やしてきた。なので、今はただ、人智学から見た人間の存在について、大まかに語るだけにするが、これは「笑いと涙」についての理解を築く上での基礎となる。

 人間を4つの体をもつ、その全体性において観察することで、4つのうちの1つの肉体を鉱物界と共有し、また1つのエーテル体もしくは生命体を、植物と共有し、そして、また1つのアストラル体を動物と共有することがわかる。

 アストラル体は楽と苦、喜びと悲しみ、恐れと驚き、そして、人間が起きてから寝るまでの日中の間、魂の中に流れ込み、もしくは流れ出る、あらゆる霊から発信される、考えをも担っている。

 これらは人間の永遠なる三つの鞘であり、その中には人間をして、創造における最高の自我が生きている。

 自我は、アストラル体である魂の三つの構成要素である感覚魂、悟性魂、意識魂に働きかける。そして、人智学徒は、いかに自我が人間をして、益々、その成就(完成)へと近づけるために働いているか、を見てきた。

 では、人間の魂のなかの、自我の活動の基礎とは何なのか? 

 それがどのように作用するか、幾つかの例を見てみる。

 自我、すなわち人間の最も奥深い精神生活の中心点が、外界では何らかの対象、もしくは存在に出会うといま仮定する。

 自我は、その対象、もしくは存在に対し、無関心のままで済ますことはない。自我はその出会いが、自分を喜ばすか、或いは不機嫌にするか、によって何らかの反応を示し、何かを内面で体験する。

 何らかの出来事に狂喜し、また最も深い悲しみへと落ち込むかも知れない。恐怖で尻込みし、またその出来事の中心人物を、愛情を込めて見つめ、抱きしめるかもしれない。そして、自我は何であれ、出会いに関係するものを理解し、或いはまた理解しない、という経験を有する。

 起きてから寝るまでの間の自我の活動に関する観察から、自我がいかに自らを外界との調和へともたらそうとしているか、がわかる。もし、何らかの存在が自分を喜ばし、ここには何か、自分を癒すものがあると感じさせるなら、その対象との絆を織りなし、自分の何かがそれに結びつく。

 人間が、外界の環境全体について行うのは以上のことである。起きている時間全体を通じて、内の魂の生活について、人間は、自我とそれ以外の世界との間に調和を創り出すことに関わる。

 外界の対象や存在を通して、自分へとやって来る経験、そして、それは魂の生活の中で反射されるが、自我の住居である魂の三つの構成要素だけでなく、アストラル体、エーテル体、そして肉体にも働きかける。

 自我と何らかの対象、もしくは存在との間に、自我により確立される関係が、アストラル体の感情を掻き立て、エーテル体の流れと運動を正すだけでなく、いかに肉体にも影響を及ぼすか、ということについて、既にいくつかの例を挙げた。

 恐ろしいものが近づいて来るとき、青くなるのを、知らない人がいるだろうか?

 これは、脅かす存在と、その防御に走る自我との間の絆が、肉体に作用し、青くなるように血流に影響を与えたことを意味している。

 その逆の、つまり恥ずかしさで顔を赤らめる、についても触れた。周囲の誰かとの関係から、しばらく身を隠していたいと感じるとき、血は顔へと上って来る。

 これら2つの例によって、自我と外界との関係により、一定の影響が、血に対して生じることが分かる。自我がアストラル体、エーテル体、肉体の中で、いかに自分を表現するかについて、他にも多くの例を挙げることができる。

 自我は、外界の環境との間に調和、もしくはある一定の関係を求め、何らかの結果をもたらす。ある場合には、対象或いは存在との間に正しい関係を打ち立てたと感じるだろう。

 たとえ、ある存在に恐れを抱く正当な理由があっても、なお、自我は、その恐れを含む環境と調和的な関係にあったと(後でなければ、白日の下にさらすことができなくても)感じるだろう。

 自我が外界の中で、何らかの事物を理解しようとして、最終的に成功するなら、その環境と特に正しい調和の中にあると感じる。

 そのとき、自我はその事物との一体性を、あたかも、その事物が自分から抜け出し、その事物のなかに浸っているかのように感じ、その事物と正しく関係づけられていると感じる。

 言い換えれば、自我が他の人々との愛情に満ちた関係の中で生き、周囲との調和の中で、幸せと満足を感じる。このような満足の感情は、次いでアストラル体、そしてエーテル体の中に移行する。

 しかしながら、自我が、この調和の確立に失敗し、ある意味、普通と呼べる状態に達しないことが起こるとき、困難な状況にある自分を見い出すだろう。

 そのとき、自我は、何か理解できない対象、或いは存在に出会う。つまり、自我が、その存在と正しい関係を見い出そうと努力するが、うまく行かず、それでも、はっきりした態度を取らなければならない状態である。

 具体例として、自我が、外界の、その対象の中に浸透するほどの価値をもたないように見え、理解したいとは思わないような存在、つまり、そのような対象の本性に浸透することに、あまりに知識と理解力を消費させるような感じを与える存在に、遭遇する場合を仮定する。

 そのような場合、その対象から、自身を自由にするために、その対象に対する一種の障壁を打ち立てる必要性が生じる。その対象から理解力を逸らすことで、その対象を意識する一方で、自意識を高める。

そのときの自我にやってくる感情は、解放の感情である。

 この解放の感情が生じるとき、超感覚(霊)的観察には、自我が、環境、或いは、その存在が与える印象から、アストラル体を引き揚げるのが見える。勿論、目を閉じたり耳を塞いだりしない限り、その印象は肉体に記録される。

 アストラル体に比べて、肉体は自我の制御下にあることが少ないために、アストラル体を、肉体から引き離すことで、外界からの印象に曝されないようにする。もし引き離せなければ、肉体に関わり、アストラル体はエネルギーを消耗してしまうので、アストラル体を引き離すことは、超感覚(霊)的観察には、アストラル体の膨張のように見える。

 すなわち、アストラル体は、肉体からの解放の瞬間に拡張する。

 自我は、ある存在よりも、上昇するとき、アストラル体を弾力のある物質のように押し広げ、緊張を緩める。そうする事で、顔を背けたいと思っている存在との絆から、自分を自由にする。

 いわば自分の中に引きこもり、その状況全体から、自らを超越させる。アストラル体の中で生じる全ては、肉体で表現されるが、このアストラル体の拡張の肉体的表現が「笑い」、或いは「微笑み」となる。

 従って、この「笑い」や「微笑み」の表情は、周囲で生起する事象からの超越を示すが、そうする理由は、自らの理解力を、その対象に適用したくないからで、自我の防御の立場から、正しい態度とみえるからである。

なので、理解したくない存在に出くわすと、アストラル体を拡張させ、その拡張により、笑いを生じさせる、というのは真実である。

 風刺新聞が、著名人をよく巨大な頭と小さな体で描写するが、この表現は、その時代の著名人の理解不能な重要性を、グロテスクに表現しているのである。この表現に意味を見つけるのは無駄である。何故なら、巨大な頭に小さな体を結びつける合理性など存在しないからである。

 (地獄にいる多くの霊魂が、このようなグロテスクな姿をしているという地獄の話を以前紹介した。頭でっかちで、現実を知らないエゴイスト馬鹿の典型である。)

 そのような対象に理性を適用する、どんな試みもエネルギーと精神力の無駄使いとなるだろう。

 「笑い」において唯一満足できることは、肉体に記録される印象を超えて、自我を上昇させ、自由になり、アストラル体を拡張させることにある。というのも、自我の経験は、最初にアストラル体に手渡されるが、それに相当する表情が笑いだからである。  

 ところが、「笑い」とは逆に、環境に対する関係を、自我が見つけられない状況が生じる場合もある。

 日常生活と密接に関係するだけでなく、親密な愛情から生じる特別な経験と結びつく誰かを長い間愛してきた場合を考え、この人物がしばらくの間、自分から引き離されたと仮定する。

 この喪失と共に、魂の経験が奪われる。つまり、自身と、その存在との間の絆が断ち切られる。この人物との関係により創り出された経験のために、魂は、当然のことながら長い間培われてきた、この絆が断ち切られたことにより苦しむ。

 自我から何かが奪われ、奪われた自我に対する影響が、アストラル体に移行する。この場合、アストラル体は、その喪失の為に収縮する。或いは、もっと正確にいえば、自我がアストラル体を圧迫する。

 この事は、何かを失った誰かが、苦しみや悲しみを被るときに、常に超感覚(霊視)的に観察できる。

 拡張したアストラル体が緊張を解き、肉体の中に「笑い」、或いは「微笑み」という表現を創り出すように、収縮したアストラル体は、肉体の中に更に深く浸透し、肉体と共に自らを圧縮する。この収縮の肉体表現が、「涙を流す」ことなのである。

アストラル体の膨張→肉体の笑いの表現
 アストラル体の収縮→肉体の涙の表現


 アストラル体はいわば自我に奪われた隙間に取り残されたため、収縮によって、隙間を埋めようとするが、そのとき、周囲にある物質を利用する。それは肉体をも縮小させ、そして、その物質を涙の形で絞り出す。

 では、この涙とは何なのか?

 自我は、その悲しみと剥奪の中で何かを失った。自我は乏しくなり、通常よりも弱く感じるために、この感情は、その周囲の世界での経験の豊かさと関係するので、再び自我を通して、周囲との経験を引き寄せようとする。

 我々人間は、愛するものに何かを与えるだけでなく、愛することにより、自分の魂を豊かにしている。

 愛が与えた経験が取り去られ、アストラル体が収縮するとき、自我が失った力を、アストラル体に対する、この圧力(涙)により再び取り戻そうとする。自我が貧困にされたと感じるために、再び、自我を豊かにしようする。

 涙というのは単に流れ出るだけでなく、打撃を受けた自我に対する一種の補償となる。自我は、失われる前には、外界により自分が豊かにされたと感じていた。そして、失われた今度は、涙を流すことにより自我は強められるのを感じる。

 自意識の衰弱に苦しむ人をみると、涙を流すことで表現される内の創造行為へと自分を駆り立て、その衰弱を補おうとするのがわかる。涙は無意識的に、健康の感情を自我に与えるが、これによって一定のバランスが取り戻される。  

 人々が悲しみと悲惨の深みにあるときには、涙の中に一種の補償、慰めを見い出していることを、誰でも知っている。また、泣くことができない人々にとっては、悲しみと苦しみが、遥かに耐え難いものであるのを知っている。

 なので、もし自我が外界と満足のいく関係を達成できない場合には、「笑い」を通して内面の自由へと自我を上昇させるか、或いはまた剥奪された後、力を獲得するために、自我は下降し、沈み込む。

 「笑いと涙」の中で、自分を表現するのは自我、すなわち人間の中心点であるということを見てきた。この事から分かるように、ある意味、自我が「笑い」と「涙」の必要な前提条件ということが容易に理解できる。

 もし、新生児を観察するなら、生まれてからの何日間かは、心の底から、真に「笑ったり、泣いたりする」ことができないことが分かる。本当に笑ったり、泣いたりするのは36日か、40日程度経ってからである。以前の受肉状態の自我が、その赤子の中に生きるとしても、外界との関係を直ちには持とうとしない理由による。

 人間は、内と外の2つの面から構築される形で、この世の中に置かれる。人間は、一方では、遺伝により獲得される、あらゆる性質や能力を、父、母、祖父他から引き継ぐ。これら遺伝全ては、個性すなわち魂の性質を自ら担い、転生を重ねる自我の作用を受ける。

 自我が、誕生により、子供の中に入っていくとき、最初は、不確かな表情しか見い出せない、そして、全く不確かなのは、後になって現れてくる才能、能力、そして特殊な性格も同様である。

 しかし、やがて、自我が、いかに絶えず、過去生(前世)から携えてきた進化の力をもって、幼児期の組織に働きかけ、遺伝された要素を作り替えるかを観察できるようになる。遺伝された性質は、自我により、こうして、ある受肉から別の受肉へと移っていく性質と混ぜ合わされる。

 自我は、子供の中でこのような形で活動的だが、自我が、肉体と魂を変化させ始めるのには、幾らか時間がかかる。誕生後、最初の日々においては、子供は、遺伝された特徴のみを示す。

 その間、自我は、過去生(前世)から携えてきた性質を、子供の不確かな表情に刻印づけられるようになり、そして、日毎に、年毎に発達(成長)するのを待ちながら、深く隠されたままに留まる。

 子供が、自我に属する個性を、肉体に表現できるようになるまでは、「笑いと涙」を通して、外界との関係を表現することはできない。というのも、それには、自分という人間を、外界との調和の中に置こうとする自我、もしくは個性が要求されるからである。

 自我だけが、「笑いと涙」の中で、個人という自分を表現できる。だから、「笑いと涙」について考察するときには、人間の最も奥深く、最内の核心にある精神を扱うことになる。

 人間と動物との間の真のいかなる相違をも否定する人たちは、動物の世界の中にも「笑いと涙」に似たものを指摘するだろう。しかし、人間と動物の相違を正しく理解する人は、「動物はせいぜい吠える程度で、泣くまでには至らず、歯をむいて見せることはできても、決して微笑むことはない」と言ったドイツの詩人に同意するだろう。

 ここには深い真実があり、その事を「動物は人間の中に住む個性へと、自らを引き上げることはない」という言葉で表現できる。

 動物は、人間の自我に類似するようにみえる法則に支配されているが、その法則は、動物では、その生涯を通して物質的な形姿に留まる。

 人間と動物との間の、この本質的な差異については既に、ここで触れている。すなわち、動物に関する限り、自我は、種属から構成されている、ということを以前述べた。例えば、ライオンとその子孫との間には、人間の両親とその子供たちとの間に見られるような大きな差異はない。

 動物の主な特徴は、その型、或いは種の特徴である。人間にあっては、各人の個性と自分史を持ち、これが我々人間の関心を引くが、動物にあっては、それは種の歴史となる。確かに、犬や、猫の飼い主のなかには、ペットの伝記を書けると断言する人もいるだろう。

 また、かって、生徒たちに一本のペンの伝記を定期的に書かせていた校長を、私(シュタイナー)は知っている。どんな事柄にでも、ある考えが適用できるという事実が重要なのではない。問題は、ある存在や事柄の本質に理解を持って、浸透する(貫き至る)ことである。

 人間にとって、個人の伝記は重要だが、動物にとっては、動物史などに興味はない。何故なら、人間の本質は、前世から今生へと生き続け、発展(進化)し、個性的であるのに対し、動物では、生き続け、進化するのは種という形姿のみだからである。

 人智学においては、それら動物の種に情報を伝え、持続する要素のことを、動物の集合魂、もしくは集合自我と呼び、霊界での実在と見る。このように、動物は、その自我を、肉体の外にもつ。動物が自我を持つのを否定するのではなく、動物を、外から方向づける集合自我について語っているのである。

 それとは対照的に、人間に関しては、魂の最奥の中心へと貫き至り、周囲の存在たちとの個的な関係へと入っていけるような形で、それぞれの人間を内側から方向づける個人について語ることができる。

 動物が外的な集合自我の指導を通して確立する関係は、一般的な性格をもっている。動物が好んだり、嫌ったり、恐れたりするものは、その種に特有のもので、家畜や、人間と共に生きる愛玩動物においては、僅かに修正されているに過ぎない。

 人間においては、環境との関係で愛や憎しみ、恐れ、同情や反感として感じるものは、個的な自我から湧き出してくる。

 だから、人間が、自我により、環境の中から自分を解放し、その解放を笑いの中に表現する特殊な関係、或いは逆に、人間が見い出し得ない関係を求め、その失望を涙の中に表現する全ては、人間にだけ生じる。

 子供の個性が、動物の段階を超えて、自身を明らかにするほど、それは益々、その人間性を「笑いと涙」の中に示すようになる。

 もし、人生についての真の観点を獲得するなら、人間と動物における骨や筋肉、或いはその他の器官の類似性といったような粗雑な事実に、第一義的な重要性を置くべきではない。人間が地上存在の中で最高の地位を占めていることの証明として、人間の本質的な特徴となるものを、その性質の隠された内面において追求すべきである。

 もし、人間と動物との間の相違を明らかにする点で、「笑いや涙」のような事実の重要性を理解できないなら、その精神性において、人間を理解できるようになるために、上記のような最も問題となる事実へと上昇できない人は救い難い。

 今、人智学の光の下に考察している事実は、ある種の科学的発見を照らし出すこともできるが、但し、それは、その事実が人智学的文脈からなる全体性の中に置かれたときに限られる。

 笑う人、或いは泣く人を観察するなら、それぞれ、その呼吸に変化が生じているのが分かる。嘆きが涙にまで深まり、アストラル体の収縮を導くとき、その収縮により肉体も収縮し、吸気が益々短くなり、呼気が益々長くなる。

 笑いの場合は、泣くのとは反対のことが起こる。つまり、吸気が長く、呼気が短くなる。笑っている人のアストラル体は緩み、同時に、肉体の繊細な部分が緩むとき、肉体中の全ての空気がポンプで排出され、空虚な空間となった中に、直ちに外気が流れ込むのに似ている。

 笑いでは、肉体にも一種の解放が生じるが、そのとき息が長く吸われる。泣くときには正反対のことが起こる。アストラル体を押し縮め、同時に肉体を押し縮めるが、その収縮が一回の呼気を長く続くようにさせる。

笑い;呼吸の呼気が短く、吸気が長くなる。
 泣き;呼吸の呼気が長く、吸気が短くなる。


 また以上の事も、自我により、魂の経験が、物質的な現象へと関係づけられる例で、つまり、人間の肉体にまで、自我がもたらす1例である。  

 これらの生理学的事実を取りあげるなら、太古の宗教的文献の中に、象徴的に記録されている出来事に素晴らしい形で、光をあてることになる。

 つまり、ヤハウエ、もしくはエホバが生命の息を人間に吹き込み、人間に生命を授けたとき、人間を神の子の地位に、いかに引け上げられたか、を告げる旧約聖書の一節を思い出す。

 それは、自我の誕生が、我々人間の意識に刻印される瞬間である。このように、旧約聖書の中で、呼吸が、真の自我性の表現として示され、人間の魂の個性との関係へと言及されている。

 「笑いと涙」が自我の独特の表現であることを知るとき、呼吸と人間の魂の個性との密接な関係を直ちに理解できる。そのとき、深い真の理解が、我々の中に浸透すべきであるという、謙遜の気持ちをもって、太古の宗教的な文献を、このような知識の光の下で眺めることができるようになる。

 人智学にとって、これらの太古の文献は不可欠ではない。大災害により、太古の記録全てが破壊されても、人智学的探求にとっては、それらの根本に横たわるアカシャ年代記を、自分で発見する手段がある。

 しかし、このような手段によって真実を確認し、その後、紛れもなく、その同じ真実が太古の文献の象徴的で絵画的な言葉により描写されていることを発見するとき、その太古の記録に対する理解が、大いに高められる。

 人智学的探求者により発見される真実に精通していた預言者には、その真実は起源をもつように感じるだろう。霊的洞察が、霊的洞察と何千年のときを超えて出会う。そして、このような知識から、これらの記録に対する正しい態度が獲得できる。

 神がいかに人間の中に神自身の生きた息を吹き込んだか、神が人間に息を吹き込んだことによって、いかに人間が、自身の内に住む自我を見い出せるようになったかが語られるとき、これらの記録に残された出来事が、人間の本性にとって、いかに真実であるかを、「笑いと涙」についての探求に基づいて理解できる。

 もう一点触れておくことがあるが、ただ簡単に触れるだけにする。でないと、あまりに手を広げすぎることになるからである。誰かが、次のように言うかもしれない。

 「あなたの出発点は間違っている。あなたは外的な事実から出発すべきである。精神的要素は、純粋に自然の事象として現れる場所に求めるべきで、例えば、人が擽(くすぐ)られる場合である。擽られるような場合が、笑いに関する最も基本的事実である。あなたは、この事実とあなたの想像力豊かなアストラル体の拡張他との折り合いをどのようにつけるのですか?」と。

 アストラル体の拡張が生じるのは正に、人が擽られるような場合で、ただし、低いレベルだが、生じるのである。もし、自分の足の裏を、自分で擽るなら、擽られた本人は自分なので、擽られる行為を良く知っているので、笑いが起こることはない。

 しかし、擽る人が、知らない誰か他の人なら、見知らぬ者の侵入として、理性では理解できない対象として拒絶するだろう。それから、彼の自我は、自らを解放し、アストラル体を自由にするために、超越しようとするだろう。

 このような不適切な接触から、アストラル体を自由にすることが、動機のない笑いの中に、自身を表現する。それは正に、解放を、つまり、足を擽るという攻撃からの基本レベルにおける、自我の救出を意味している。

 冗談や、何か滑稽な事に対する笑いも同レベルにある。冗談を聞いて笑うのは、笑いが、対象との正しい調和関係をもたらすからである。冗談は真面目な生活において、遠く離れている存在を相関させる。もし、それらの間の関係が、論理的に把握できるなら、滑稽にはならない。

 冗談は理解ではなく、(混乱状態にない限り)単に一種の遊びを喚起するような関係を打ち立てる。すぐに、その遊びの主導権を握っていると感じ、自我を自由にし、その冗談の内容から超越させる。この解放、すなわち、自我を何かの上に上昇させることは、「笑い」が生じるときに、常に発見できることである。

 しかし、外界に対する、この「笑い」の関係が正当な場合もあるし、またそうでない場合もある。笑いを通して、正しく自我を解放しようとする場合もあるが、或いはまた、対象に向けられた自我が、そこで起こっている事を理解したくないか、もしくは理解できないような場合もある。

 そのとき、「笑い」は事物の本性ではなく、自我の限界に起因することになる。この事は、未発達な人間が、ある人物を理解できないために、笑う場合である。もし、未発達な人間が、ある人物の中に、通常みられる、ありきたりな俗物的性質を見逃すなら、その人物を(多分、理解したくないために)理解する必要がないと考えるだろう。

 だから、笑いを通して、自らを解放することは、あらゆる場合に容易に習慣になり得る。本当にある種の人々にとって、全てを笑ったり、愚痴をこぼすだけで、とにかく何も理解しないことが当然のことになっていることもある。彼らはフワフワとアストラル体を膨らまし、そして笑い続ける。

 或いはまた、何か日常的思考で、対象を理解しようとする、いかなる努力にも値しないという態度が流行になっている場合もある。そのとき、人々は、様々な対象に対して優越感を感じ、思わず、ニンマリするだろう。

 この事から分かるように、「笑い」は常に正当な留保の感情を表現するわけではない。留保が不当である可能性もある。しかし、「笑い」に関する基本的事実が、その事によって影響を受けるわけではない。

 或いは、この人間の表現形式を、予め想定して利用する、という事が起こるかもしれない。聞き手に対して、話し手が、自分の言葉が持つ効果を、予め見積もり、聞き手が、話し手に賛同するかいなかに関わらず、利用する場合を考える。

 さて、聴衆のレベルに比べて、あまりにも陳腐で、あまりにも程度が低いために、聴衆の魂といかなる密接な結びつきも織りなさないような形で、話し手が語る場合がそれである。

 実際、そうすることで、話し手は、本当に理解すべき主題の周辺を取り巻く些細な事柄から、聴衆が自由になるのを手助けしている。しかしまた、常に笑いを自分たちの側に取り込みたいと思う話し手もいる。

 そのような話し手が、次のように言うのを、以前、聞いたことがある。

 「私が勝利をおさめるには、笑いを巻き起こし、笑いによって、笑った人たちを、味方につけなければならない。何故なら、笑った人たちを味方につけていれば、勝利をなかばおさめられるからだ!」と。

 このような者の発言は内にある不誠実から出て来る。

 というのも、笑いを利用する人は、聴衆(の気分)を、(何らかの対象を超えて)上昇させ、昂揚させることを意図するような反応を引き起こしているからである。

 しかし、話し手が問題を提示する際、もし、その問題がただ単に取るに足らない些細にみえるレベルにまで引き下げたという理由だけで、聴衆が理解しようとせず、笑えるような形で、提示するなら、たとえ聴衆がその事に気付かなくても、話し手は人間の虚栄心を当てにしていることになる。

 だから、この事から分かるように、このような笑いを演出し、虚栄心を当てにすることは、ある種の不誠実を含んでいる可能性がある。

 同様に、いま述べたような笑いや涙に結びついた満足や幸福の感情を、人々の中でかきたてることにより、話し手が、人々を掌中にすることも、ときとして可能である。

 それは例えば、人前に、想像の中だけで何らかの喪失感を持ち出すような場合である。そのとき、その人は、その喪失感を見い出せないのを知りつつ、それを渇望することに耽るだろう。

 そのとき、その人は、自我を収縮させることにより、自我が強められるのを感じる。そして、この種の感情への訴えかけは、本当は人間の利己主義への訴えかけなのである。

 このように、これらの訴えかけは、酷く乱用される可能性がある。何故なら、涙や笑いにつきものの苦しみや悲しみ、からかいや、蔑みは全て自我の強化や解放、従って、人間の自我に関係しているからである。

 だから、笑いや涙のような訴えかけがなされるとき、その標的となるのは、我々人間の利己主義であり、その利己主義が人と人との結びつきを破壊する。

 以前、別の連続講義の中で、自我が感覚魂、悟性魂、意識魂に働きかけるだけでなく、その働きを通して、自我が益々強化され、成就に向け、近づく事を見てきた。この事から、「笑いと涙」が自我の自己教育とその力を強化するための手段になり得ることが容易に分かる。

 だから、「笑いと涙」の中に表現される魂の力を刺激する、演劇の創作が人間の発達(進化)に向けて、大いなる教育の源泉の1つとして位置づけられるのは確かである。

 悲劇的なドラマを体験するということは、実際、本当にアストラル体を押し縮め、それにより、自我に確かさと内的な凝集力を与えるという効果を有している。逆に、喜劇はアストラル体を拡張させる。喜劇は、見る人が、愚行や偶発の一致から、自らを超越させるからである。

 この事から、芸術的な創作行為を通して、魂の前にもたらされる悲劇や喜劇が、いかに人間の発達(進化)と密接に結びついているかを見る事ができる。

 人間の本性を、その最も詳細な面に至るまで観察する人は、毎日の経験が、偉大な事実の理解へと導くことを見い出すだろう。

芸術的作品、例えば、人生には「笑いと涙」の間を行ったり来たりする一種の振り子があるということを、教えるだろう 。

 自我は運動の中にあることで、発達(進化)できる。もし振り子が静止しているなら、自我は拡張したり、或いは発達(進化)したりすることができず、内的な死に屈することになるだろう。人間が発達(進化)する上で、自我が笑いを通して、自らを自由にし、一方では涙を通して自らを追求できるのは、正しいことなのである。

 確かに、これら2つの極の間に、バランスが見い出されなければならない。それは、つまり自我がバランスの上で完成を見るからで、決して、狂喜と絶望の間を行ったり来たりすることの中ではないからである。

 自我は、一方の極端へと同じく、別の極端へも振れて行く可能性があるような、両極端の静止点でのみ自らを見い出す。

 人間は、徐々に自我の発達(進化)を導く指導者にならなければならない。もし、「笑いと涙」を理解するなら、笑いと涙を、精神の顕現と見ることができる。

 というのも、いかに人間が内的な解放を、外的な表現の笑いの中に求めるかを、そして一方では、その自我が、外界の中で、ある喪失を被った後、いかに涙の中で内的に強められるかを経験し、認識するとき、人間はいわば透明になるからである。

 「笑いとはそもそも何なのか?」、というような問いに対して、次のように答えることができる。

「笑いとは、人間が、自我の育成に値しない対象に巻き込まれることなく、決して虜にされるべきでない対象から、笑いと共に超越するために、自我の自由な解放に向けて苦闘していることの精神的な表現である」、と。

 同様に、涙は、他の誰かと外界において結びつけていた糸が断ち切られたとき、それでも、その涙のただ中で、同様の結びつきを求めている、という事実の表現なのである。

 泣くことを通して、自我を強化するとき、実際、自分に次のように言っている。

「私はこの世に属している。そしてこの世も私に属している。何故なら、私はこの世から引き離されるのには耐えられないから」、と。

 さて最後に、いかに、この解放、つまり、あらゆる下劣で邪悪なものからの超越が、それを見た地上の全ての生き物が狂喜し、一方、邪悪な精神が逃げ出した「ゾロアスタースマイル」の中に表現されたかを理解できる。

この微笑みは、邪悪な精神を窒息させるような全ての存在からの自我の超越を世界史的に象徴するものなのである 。

 そして、「存在には価値がない、もう世界とは関わりたくない」というような場面に、自我が遭遇し、その後、「世界は私に属し、私は世界に属す。」ということを肯定させるような力が、魂の中に湧き上がって来るなら、そのとき、この感情は「涙が溢れて、地球が再び我を抱く。」というゲーテの言葉に代弁される。

 この言葉はある確信を、つまり、我々人間は地球から締め出されることはない、という確信を意味している。

 我々人間は、涙の中にさえ、世界との密接な結びつきを有し、この結びつきが正に、我々人間から取り上げられたようにみえる瞬間こそ、再び、この結びつきを主張するという確信を、声にしたものが涙なのである。

 そして、この涙の主張は、世界との密接な結びつきの正当性を、世界の深い秘密の中に有しているのである。

 人間と世界との結びつきを人間の顔を流れる涙から、あらゆる下劣なものからの解放を、人間の表情に浮かんだ微笑みから、以上のように知ることができる。     

 ★         ★         ★

 モナリザの微笑みは、見る者全ての自我を自由に解放させる。人類は、笑いと涙で既に一体となっている。 





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Last updated  2016年08月11日 18時56分09秒
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