シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年09月08日
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カテゴリ: 神秘体験空間
この世に刑務所があるように、あの世にも地獄がある。地獄がないと人間が改心する機会がないからで、悪いことし放題になるからである。

 地獄に堕ちることがわかっていたら、人間は悪いことしなくなるだろうが、それでは条件つきの善であって、少なくとも自分で選択し自主的ではないので、ニセモノになるから、地獄があることはわからなくなっている。

 以前、地獄を紹介したように、そもそも地獄に堕ちた人は自分がいる場所が地獄とすら思っていないようであり、それはブラック企業で働かされている人が思考力を奪われ、洗脳されていることに気づかないのと同じである。ブラック企業はいわばこの世の地獄で、カルトの働け教である。

 ブラック企業などは、いわば生き地獄なわけだが、地獄の予備校ともいえる。

 このような地獄があるように、天国もある。天国がなければ人類の理想もないからである。人類が目指す場所がなければ生きる意味もない。

 こんなにわかりやすい道理がわかっていない人が多いのはどういうことだろうか?

 人間何のために生きるのか?

 これと同じような洗脳が、「ガン」である。なぜ人はガンに罹るのだろうか?

 ガンは洗脳の一種である。人間はいつか死ぬ。死を唯物論は「無」と捉えているから思考力を失うのである。死が「無」であるのなら、生は無からの創造になり、どうして無から生になるのか説明しなくてはいけない。



 人智学では、死は霊魂が肉体から離れたことを意味する。簡単にいえば霊魂の脱皮である。霊魂が生まれ変わるために死がある。

 脱皮とは何だろうか?

 限界を超えることである。将棋でいえば千日手を続けないために、これまでの道程全てを転換することである。

 いま人類には、「ガン」についての脱皮、つまり発想の転換が必要である。例えば、以下の「ガン治療のウソ」という本なども参考になる。

「がん治療」のウソ
 https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%8C%E3%82%93%E6%B2%BB%E7%99%82%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%BD-%E5%AE%9D%E5%B3%B6%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E8%AA%A0/dp/4800223237

 以前紹介したが、人智学では、ガンとは簡単にいうと、エーテル体が物質体に浸透していない障害部位を指す。物質体がなんらかの異常な進行を示し、その進行にエーテル体が浸透できない状態を意味する。

 だから、治療するには物質体の異常な進行を正常に戻し、エーテル体がそこに浸透できるようにしないといけない。物質体、エーテル体というと、いかにもオカルトチックなので、物質体とは、可視の肉体で、エーテル体は不可視の光と考えればある程度イメージできるだろう。

 不可視の光とは、俗にいわれる霊光のことで、人体は太陽光を霊光につくりかえているそうで、この霊光が異常になると、物質体にも伝播し、異常な進行を及ぼす。霊光が充満するのを元気とかポジティヴと呼び、乏しいのをネガティヴと呼んでいるようである。

 霊光を充満させるのに、いわゆるスピ系が呼ぶ、パワースポットなるものが重要となり、霊光が乏しいと、幽霊などを呼び寄せてしまうような悪因悪果となるようである。



 さて、十分にオカルトになってしまったが、洗脳を説くために、続いて、人智学的医術を紹介する。

 ★         ★         ★   

 人類にとって有益な形で医学研究を続けていくなら、この連続講義で示唆した事実について、健康、もしくは病気の人体を、外界の物質や様々な外力と共に探求し、その知見を実際に広めていくのが望ましい。

 人体の内外の関係を探求することで、病気の診断を目指す自然科学の方向性と、薬や人体の自然治癒力を生み出す努力との間に、益々一層、橋を架けることができる。しかし、このような探求法から成果をあげるには、人間を包括的に観る霊的な洞察力を獲得し、現代人がもつ外界との物質的な関係に、人智学的な光(叡智)を当てることが必要不可欠となる。

 外界との最先端での関係は、外界との相互作用や知覚のなかに現われてくるが、例えば、視覚においては、外界の物質の影響は、物質の表面しか認識できず、本質的にほんの僅かしか受け取っていない。



 腸の働きによって、摂取した栄養分が、人体内を形作る血液の働きへと変換される地点までは、また、この変換も、根本的に言って、低次であるほど、内へと継続もしくは変化した知覚活動なのである。

 従って、本質的には、栄養分が、血液に変換される地点までの消化活動は、味覚という内へと継続もしくは変化した知覚活動なのである。

 上記のような事実を正当に評価できれば、必要な治癒力を発見したり、食事療法の基礎知識を獲得できる。また、逆に、有害なものを、系統立てて、少しずつ見究められるようになる。

 というのも、次のようなことを考えてみればよい。

 例えば、アンモニア塩の人体への作用を調査すれば、今日の自然科学の信奉者は次のように言うだろう。

 「塩化アンモニウムの形で与えられたアンモニア塩は、まず、心筋の運動神経に作用を及ぼす。」

心筋細胞の異常興奮と細胞内各種イオン濃度の相関
 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-02257207/

 さて、ところが、運動神経という呼び名はナンセンスである。随分と強調してきたように、知覚(感覚)神経と運動神経との間に違いはない。だから、「運動神経」というような名称はナンセンスである。重要なのは、そのような名称とは、本質的に異なる性質(役割)にある。

 重要なのは以下である。

 食物摂取から血液の形成にまで達する消化活動において、アンモニア塩が影響を及ぼしているうちは、味覚が働き、この味覚は、同時にアストラル体の活動でもあり、アストラル体のなかに、例えば、発汗などの反射的な活動を引き起こす。

 消化活動の初期の味覚を調べると、汗や尿の分泌の背後にあるアストラル体による反射的な活動を霊的に洞察できる。実際、味覚をくまなく調べると、外には体液の分泌を通じ、その内では、栄養摂取が行われていることがわかる。

 だから、汗や尿の分泌の本質は、味覚を通じた栄養摂取にある。

 この栄養摂取という現象は、本質的に、固体の食物を液体に変える働きに還元できる。この溶解作用には反作用がある。反作用は、肝臓や脾臓の活動のなかに現われる。

 従って、肝臓や脾臓の活動も、本質的には、液体の働きに分類する必要がある。しかし、最初の溶解作用とは逆に、肝臓の活動には、最初になされた溶解物を包み込み、覆い、変化したものを再び元に戻す機能をもつ。

 例えば、塩をお湯に入れる場合を考えると、実際の栄養摂取のイメージが得られる。お湯のなかで、塩は溶けるが、これは、食物が、血液に摂取(吸収)されるイメージと考えられる。

 そのとき、塩が溶けたお湯の脇に、球形に閉じた水銀を数滴置いた場合と比較すれば、これは食物から血液へとつながる消化活動を支配する肝臓での物質体とアストラル体のイメージに相当する。

 実際に体内で起こっていることを、上述のようなイメージから、洞察することが必要である。というのも、このようなイメージから、体内での塩の形成や、水銀の形成が、外界のどの状態に相当するのか、という探求に導くからである。

 そうすれば、人体内の活動を、文字どおり、外界の状態から読みとれる。人体を常に、外界との関係から観察する必要がある。

 さて、アンモニア塩の血液への移行(転換)を考える場合、アンモニア塩を追跡すると、血液をアルカリ化することがわかる。アンモニア塩は、人体下部から上部にまでアルカリ化の作用を及ぼし、上部に反作用を引き起こす。

 興味深いことに、下部から上部へ反作用を生じさせる、という人体での完全な反転が起こる。この反転は、例えば以下のように特徴づけられる。

 人体下部の消化活動において、上部の知覚に相対する味覚が関与するが、下部が味覚を過度に呈しはじめると、逆に、人体上部では、知覚に向かう傾向を呈し始める。

 すると、知覚を司るアストラル体から上部に反作用が発せられ、結果として、下部から、上部に反作用が生じる。

 その結果、(横隔膜より)上部では、例えば、[Flimmer epithelien](顫動?)上皮が刺激され、激しく活動するようになって、肺の分泌が促進される。

肺
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%BA

 上部の肺では、下部の消化とは、逆の活動が行なわれる。消化の溶解を通じて、肺の活動が刺激される。すなわち、溶解物を球状に包み込む肝臓の働きを通じて、肝臓の上に位置する肺の活動が刺激され、結果として、消化に次いで、肺の分泌が引き起こされる。

 この一連の過程が、消化という塩(物質)の溶解作用、すなわち、物質の溶解(液化)を基点とした、肝臓の活動と、その反作用として肺の分泌に至る経過である。この肺の分泌は、次のような気化と呼ばれる蒸発と比較できる。

 例えば、水銀の縁で蒸発(気化)している液体と比較すれば、この活発に蒸発(分泌)する液体の働きは、硫黄、もしくは燐の作用と、錬金術では呼んでいる。

 この硫黄=燐の作用は、硫黄によって炎症を呈する場合に捉えられるが、これを液体の蒸発(気化)に喩えることができる。このようなイメージは、上下で対極となっている器官、つまり下部の肝臓と、上部の肺との間で展開する活動像を得るのに有効である。

 このような人体内の活動像を獲得できれば、器官の活動を正常に戻すために、外界から、治癒の原理が獲得できる。このような治癒原理を推し進めれば、以下のような水準に到達できる。

 以前、述べた講義の内容を思い出せば、歯の形成が、人体の末端の活動から生じることが洞察できる。だから、人体の末端の活動も、これまで特徴を述べてきたように、外界の鉱物化の活動と一致するが、是非、この意味を誤解しないで欲しい。

 この意味は、些か誤解を招きやすい。歯の形成は、末端の活動の結果なので、歯の形成のなかで鉱物化として現われてくる事象、例えば、歯の悪化が問題となるなら、外からの物質的な技術、いわゆる歯科技巧的な治療を通じて、歯の改善に働きかけられるのは当然といえる。

 つまり、人体末端部での鉱物化は、やはり機械(物質)的に扱うのがよく、歯の改善等は、機械(物質)的な治療に含まれる。つまり、歯が悪くなったときの歯の補填等については、機械(物質)的な処置を第一に考慮するのは当然で、歯についていえば、ある段階から、もはや人体内からの処置等はできない。

 けれども、歯の鉱物化の根底にある、フッ素の生成過程は、人体内から処置する必要があり、人体にとって必須の過程である。だから、歯が健康である限り、歯の活動と共に、フッ素の生成過程が補完されなければならない。

 このフッ素の補完は、ある方法で行える。ただ、先ほど特徴を述べた逆転(反転)を正しく考慮する必要がある。

 では、そもそも一体、歯の生成とは何なのか? 

 霊視すれば、歯の生成とは、人体の内から外への鉱物化であることがわかる。永久歯が総て生え揃ってしまうと、この外への鉱物化は、ある目標に到達する。

 すると、この到達に対して、今度は逆に、人体内へと反転する性的な成熟化が現われてくる。この歯の生成と、性的な成熟は、人体のリズムとして相互に作用しあう対極の過程なのである。

 歯の生成の完了と同時に、同程度で、その対極側から、性的な成熟が起こる。このような事実を配慮すれば、歯の生成の対極に配置され、歯の生成とは逆の人体内へと後ろ向きに進む、性的な成熟と関係する、また別の過程が洞察できる。

 この別の過程とは、腸の蠕動運動[peristalsis bewegung]である。

 歯の形成と、腸の蠕動運動は相互に密接に関わり合っている。つまり、この蠕動運動は、他方では、歯の形成と密接に関わり合っている。つまり、この腸の運動は、人体のフッ素の利用と密接に関係する。

 だから、次のような結論に到達する。この腸の運動が、個人に相応しい状態よりも速く、集中的に行われると、特にフッ素を利用しすぎ、働かせるようになり、歯を損なうような効果を及ぼす。

 従って、歯が損なわれていることに、歯科医師などが気づいたら、消化運動が、あまり速く、集中しないように指示を与えるべきである。腸の過度な蠕動運動を抑えるために、可能な限り、安静を命じるか、消化を鎮める薬などを与えるなどの指示が必要となってくる。

 消化活動の調整には、特別な意味があり、この消化活動は、すでに示唆した、四肢、つまり腕や脚、手、足の規則正しい活動などでも調整できるが、特に、オイリュトミー的な運動を通じて調整するのがよい。

 オイリュトミーの運動は、魂の営みからもたらされるからである。単なる機械的な体操をしすぎると、いわば魂の営みからくる振り子(リズム)が間違った方向に揺れてしまい、調整とは逆の方向へと容易に影響を及ぼしてしまう可能性がある。

 例えば、特に女子たちに支持されている一般的なダンスが、(機械的な動作に移行しすぎると)歯の形成に害を与えることも十分に考えられる。

 盛んに踊る女子たちの歯が、あまり踊らない男子たちよりも悪いのは何故なのか、というような疑問に陥ってはならない。重要なのは、この機械的な踊りが、魂の営みを妨害し、消化の調整を揺るがし、偏らせることにある。

 また編み物や鉤針編みのような手の運動などが度を越すと、正しいのとは反対の影響が生じてくる。

 つまり、機械的な運動の影響から、実際に消化の調節とは逆の反転が起こる。

 人体上部の歯の形成が、下部の消化に反映する。また全般的に、前方に動く能力、つまり前進運動に反映するのが消化活動であるのは特に重要である。

 消化活動には、人間を生存せしめる多くの構成要素、自我、アストラル体、エーテル体などが複雑に絡み合っている。消化活動が、人間を前方に歩けるようにしている。

 また逆に、消化活動への刺激が、人体を後方に向けて運動することから生じるのは、更に重要である。消化が不活発な人に、後ろ向きに歩く体操などの習慣をつけることで、消化活動を向上できる。

 後方に歩くなどで、消化活動が促進される。このような事実などを、いわゆる経験などによる記録を蓄積することで、霊魂への理解へと浸透させるには、人体の構造や構成について、人智学の光を当てることが必須である。

 更にまた、別の事実にも注目して欲しい。消化活動において、何と言っても驚くべき作用を現わすのは、マチン(馬銭子)である。このマチンの作用は何によるのか? 

 マチンを詳細に研究すれば、その驚くべき作用に遭遇し、その精神(感覚)への作用を見通すことができる。

マチン(ヌックス・ホミカ:Nux vomica)
 インドなどを原産とするフジウツギ科の馬銭(まちん、英名ポイズンナッツ、ストリキニーネの樹とも言う)という樹木の種子。これはアルカロイドを含み猛毒で、殺鼠剤、また興奮剤などを製する。古代のホメオパシー療法でも二日酔いの薬として、ワクチン接種と同じように人体の調整に用いられた。

マチン
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%B3

ヌックス・ホミカ
 http://home1.netpalace.jp/sahho/room/room.cgi?mode=koumoku&no=195

 二日酔いの際に、マチンを投与して、その作用を研究してみれば、このマチンの効果がわかる。二日酔いの際に、このマチンの作用を観察すると、マチン以外の他の作用はほとんど隠れて、見過ごされやすくなる。二日酔いは、器官活動全体が、外から内へと逆転するからである。

 実際、二日酔いとは、消化活動の最初期に生じる味覚が持続(進行)してしまう状態なのである。ワイン、ビール、もしくはシャンパンに耽溺した場合、二日酔いになるのは、それらのアルコールを含む物質が、分解され、摂取される経過が持続して進行し、分解された成分が、血液をつくる過程にまで進んでしまうためである。

 すると、本来、溶解が使命である消化器官が、一種の知覚器官にまで変化する。通常、主要な知覚活動を、外界に向け、外界と交流し、地球上に起こる様々な出来事に眼を向ける代わりに、人体内を知覚するような破目に陥る。

 (アルコールが「スピリット」、つまり「霊的な」という意味の言葉で呼ばれるのは、知覚活動に、影響を与えるからである。)

 すると、外の地球活動に究めて類似する知覚活動を、人体内にもつので、地球の自転などを、人体内に感じ取るようになり、寝ているベッドなどが回転し始めるように感じる。腸の消化活動とは反対側にある血液の活動のなかに、人体内での一種の地球活動、いわゆる、内的な外界とでも呼べる現象が現われてくる。

 酔っ払いは人体内を自らの外界とし、外を知覚していた場合には、妨害しなかった現象を、恐ろしいことに人体内に知覚するようになる。人体内が、地球となるのには全く相応しくなく、本来、地球から、身を離している(一定の距離を置く)のが望ましい。

 ところが酔っ払いは、人体内に、正真正銘の地球をつくりだす。人体内に、地球をつくりだそうとする要素を、人体内から完全に取り出してしまい、外の周囲から、その要素を観察できるような、本来の知覚に戻すことが相応しいが、二日酔いにより、本来は外に感じていた現象を、人体内に知覚するように誘導される。

 マチンは、二日酔いによる逆転である、体内の知覚に対抗する作用をもち、体内では第一に、大抵は強い自然治癒過程として、内と外の知覚の逆転が現われてくるが、その逆転から生じる体内への知覚過敏が、マチンによって抑えられる。

 (例えば、人体内に、地球の自転などを感じる敏感さが抑えられる。だから、アルコールは一種の麻薬といえる。アルコールを飲みすぎると、人体が地球化、いわゆる硬化していくわけで、肝硬変などになりやすくなることがよくわかる。)

 外界に代わる体内への敏感さが抑えられることで同時に、体内に移行した知覚が妨げられ、マチンは一種の治癒を及ぼす。

 このマチンによる治癒の基になっているのは、味覚の継続、つまり、消化活動の知覚への進行を抑え、味覚の反対側の知覚活動を生じさせないことであり、この消化の進行を抑制することにより、一種の治癒を引き起こす。

 さて、では次に、マチンの作用とは、逆の作用を探求する。人体下部へと継続した味覚、つまり食物の溶解活動が活性化せず、不活化し、溶解物が周囲に充分に行き渡らない場合を考えてみる。

 つまり、外界から摂取された食物が適切に溶解されずに、継続して起こる塩形成である血液形成に組み込まれるには、あまりにも不活性な場合を考えてみる。このような場合と同様に、消化活動の最初期に、マチンを与えた場合、マチンの消化抑制の性質に基づき、消化が抑制され、十分に溶解されないままの物質が残る。

 未消化の物質は、消化の出口まで辿り着けなければ、消化活動と血液形成との間にある障壁を乗り越えられないので、未消化の物質は、逆方向に経路を探すようになり、その場合、溶解を抑制するマチンとは逆の溶解を促進する作用、未消化を克服できる治癒をみつける必要がある。

 このような間違った消化の経路を探すようになった未消化の物質に対して、ニオイヒバ[Thuja]を用いれば、消化を促進し治癒効果を与えることができる。

ニオイヒバ
 http://www.ponnitai.com/database/thuja/occidentalis.shtml

 このように、マチンとニオイヒバの両極的な対立は、人体のなかで展開されている。また、この両極性を、人体全体にわたって、常に見ていく必要がある。人体のなかの、この対立は重要な意味を持っている。

 特に人体下部において生じる作用を、上部へと送り込む活動全ては、睡眠中に高められる。睡眠の特徴を述べるには、慎重を要する。というのも、睡眠が最良の薬の1つなのは確かだが、個人が必要とする睡眠時間が適切な長さであるときのみ効力を発揮するからである。

 必要以上に長すぎる睡眠はかえって病気を引き起こす。睡眠が長すぎると、上記に示した、消化活動と、血液形成との間にある障壁が穴だらけになり、消化の最初期から血液形成活動へと多くの物質が侵入し、人体は、いわばニオイヒバを投与した状況に曝される。

 実際、人体下部は絶えず睡眠状態にあると言えるので、上記の障壁が穴だらけだと、下部を通じて、血液が絶え間なく病に曝される。とはいえ、人体も自前の治療薬をもち、正常な人体へと適合しようとしているが、自前の治療薬を投与し過ぎると、かえって自らを絶え間なく病気に曝すことになる。

 けれども、この自らを病気にしようとする傾向は、血液中の鉄によって完全に相殺される。鉄は何よりも人間にとって最重要な金属であり、人体内の、この病気への方向性を相殺するように作用し、過剰な適応化で起こる異常さを、正常化させる。

 今述べたように、血液中の鉄不足による病気の発症を理解できるように、また、鉄を、人体内の血液中に充分に行き渡らせるように投与すれば、その都度生じる上部への毒化を抑制するため、人体を助け、下から上と生じてくる有害な作用を克服できる。

 人体にとって考慮すべき他の金属も、これまで見てきたような人間の様々な活動によって補われる。

 これまでの講義の内容から生じてくる事実を、以上のように、再度手短にまとめてみたい。再度、血液形成活動を示唆する。この活動は、鉱物化の過程で現われる銅の働きと対極を成す。従って、この過程は銅と親和性をもっている。

 この銅と親和性をもつ過程は、下部の最上位に属するため、地上で見られる銅の生成力と対極的な親和性をもつことを、くまなく理解することが課題となる。というのも、人体下部の過程全般は、地上の経過と関係しているからである。

 従って、銅の投与から、血液形成活動を正常にし、治癒を導くなら、次のような黄金律が重要である。つまり、銅を、人体内で希釈させず(消化させず)に、つまり地上の状態に近い形で、勿論、害になるほど多量に用いることなく、人体内に投与する処方である。

 (「銅は必須金属になっていて血液を造ったり、血管の壁を若々しく保つ働きがあります。」
日本銅センター;http://www.jcda.or.jp/qa/qa2.html)

 さて、血液の形成が、銅と親和性を持つのと同じように、消化活動の進行から血液による体内の知覚化へと促進する働きは、肝臓や水銀と親和性をもつ。

 いわゆる鉱物化が、銅と親和性を持つように、消化活動の進行による血液の知覚化は、水銀と親和性をもつ。ただ、水銀の場合、水銀が球形で、調停力を持つように、いわば両方の過程の相互作用に関わることに注意を払う必要がある。

 従って、二日酔いのアルコールのように、消化物が血液中に移行しすぎないように抑制する働きは、マチンによって生み出され、そのマチンの働きは逆に、ニオイヒバにより抑制され、水銀によって調停される。

 さて、ここに至って新しい探求分野が開けてくる。外界の自然を、様々な経過や過程に従って探究し、自然を、人間から放出された存在として捉え、人間を、健康状態と病的状態において、自然環境のなかで捉え、人体下部を通じて密接に関わり合う自然環境のなかに、人体との親和性を探求する分野である。

 つまり銅に親和性をもつ過程を通じて人体下部から上部に上昇する作用は、それとは対極に位置する鉄によって調整され、相殺される。

 銅の作用と、鉄の作用の対極性から、人間が鉄を必要とし、常に鉄の作用や、化学的にいえば、鉄が有り余るほど十分に必要なことがわかる。その他の金属は、人体のなかに、作用として存在している。

 人間はいわば7つの金属の作用から成る。鉄だけが、外界の金属として存在し、その他の金属は、人体内では、作用として存在している。

 血液の活動が銅と親和性をもつように、肺から発し、喉頭へと外に向かって開いていく活動は、鉄と親和性を持つ。

 更に、人体上部での脳の活動と関わり、いわゆる下部での脳の消化活動とでもいうべき働き、つまり腸から血管のなかへと消化物を移行する働きと対極的な働きは、錫と親和性をもつ。

 錫は、下部の腸が食物を満たすのと同じように、上部の脳が、魂を満たすことにより、いわば消化活動として調整される。

 対照的に、神経繊維と関わる上部の様々な知覚器官の働きは、鉛と親和性を持ち、下部では、汗、あるいは尿の分泌などに対応する。

 以上のように、人体にくまなく光を当てることが重要であり、そして同時に、外界の周囲の物質から、人体とは対極の作用を捉え、いかにして人体の治癒力を引き出すか、が課題となる。

 いわゆる精神病と診断された疾患の多くが、肉体の様々な器官に病因をもち、逆に、器官に直接現われる疾患の多くが、霊-魂の働きと密接な関係がある、ということをはっきりと理解すべきで、他ならぬ人智学が、その事実を示唆しなければならない。

 確かに、困難であるが、いわゆる肉体の病気の場合、まったく機械的、もしくは化学的に進行するので、人間を一個の器械のように扱う唯物論では、精神病のような疾患を特徴づける場合、心理を記述するにとどまる。というのも、唯物論からは、霊-魂と物質-肉体との関係に対する概観が失われてしまっているからである。

 霊-魂と物質-肉体との密接な結びつきは、魂と肉体が入り交じって生じる事象を具体的に調べれば、実際に示せる。

 そもそも、精神病を促進させるものは一体何なのか?

 人間が病気になると、痛み等などの主観的な病態が現われる。これらの病態は、病気が急性の場合、究めて明確に認識できるが、慢性の場合は異なり、器官に何か悪いところがあるため、霊-魂が萎縮し、つまり霊-魂が、その器官から後退するので、認識困難になる。

 だから、痛みとは、自我とアストラル体が、物質体とエーテル体から後退することに他ならない。勿論、エーテル体の後退も生じる場合もあるが、痛みを知覚する本質は、何と言っても、アストラル体と自我に由来する。

 通常、自我が健全な場合、自我は、それとは反対の物質体(肉体)のなかで生じる経過を認識できるが、病気が慢性化すると、次第に自我が、物質的な経過から後退し、その結果、魂の活動が、アストラル体だけに限定され、つまり自我が、アストラル体やエーテル体とともに生じる物質体の経過に参加しなくなる。

 自我が、肉体の経過から後退することで、急性の病気が慢性に移行し、慢性の疾病が生じる。慢性疾患は、だから、意識や心が後退することで生じる病態である。

 以上のような病態学から考えれば、意識や心のなかの深い闇の部分へと入り込んでいく必要がある。例えば、病人に、どういう容態で、どこが傷むか、を尋ねるだけでなく、よく眠れるか、眠れないか、仕事に喜びを感じるかどうかなどを尋ねる必要がある。

 つまり慢性疾患の場合、長期間にわたって広がる、精神に多く関わる因子を、病態として見る必要がある。他方、急性疾患の場合、そのときの主観的な感情から、病態を探ることができる。慢性的な事態に発展した場合、これまでの当人の人生経験から、病態を探らないといけない。

 さて、慢性病になるのは、自我から離れた、アストラル体とエーテル体が、通常の活動に参加し、必要以上の作用を送り込み、その経過が物質体内に保持される場合である。

 病人のアストラル体が、エーテル体のなかの迂回路を通って、異常な作用を物質体に与え、それに耐え得るような体質の場合、その病人のアストラル体は、肝臓との異常な関係を、均衡点を越えさせるような性質をもつため、そのアストラル体は、肝臓に正常に働きかけていないことに気づかないので、肝臓の活動がそのまま促進され、異常なアストラル体の働きかけに慣れてしまう。

 この異常な働きかけが長期間にわたって充分に進行すると、今度は、アストラル体へと逆の経路を作り出す。肝臓の本来の物質摂取活動を、アストラル体へと押し返すために、抑鬱症になる。

 つまり、慢性病を、特定の均衡点を越えて、持ち越すと、アストラル体との異常な関係に到達し、いわゆる精神病といわれる要因をもつようになる。

 以上のように考察できれば、病態学[Pathographie]を越え、霊魂状態学へと発展できる。今日では、病態や意志の活動に関する不規則な経過などについて非常に多くの主張がなされている。

 しかし、人間の魂の最高な形として現れる意志が、本来、いかに下腹部の肝臓、脾臓他の器官の違いによる共同作用により支えられているか、を知らない限り、病態学に相応しい物質的な対応像を実際に見つけ出すには至らない。

 いわゆる精神病といわれる疾患に対してこそ、物質的な治療法の導入を考えるべきである。

 人智学により、いわゆる精神病に対する物質療法に通じていくべきで、逆に、肉体的な病気に対する治療に際しては、霊魂との共同療法を考慮すべきである、ということは一見、矛盾にみえるが、同時に、このことは、人体下部と上部の強力な対立とも関係している。

 この関係は、外界に対して始まる知覚活動が、味覚が継続した消化活動として、人体内の知覚活動になる場合と、逆に人体内の腸の蠕動運動などが、外界に向かって放出される場合に現われる歯の形成としての鉱物化という対極関係とも関係する。正しく見通せば、治癒へと導くこれらの関係が、この対極関係のなかにある。

 さて、これまでの連続講義において、より多くの事実を展開して披露しようと苦心してきた。この講義にあたり、考慮すべき全てを前もって概観すると、このような講義がいかに困難で、一体どこから始めればよいのか、と考え込んでしまった。

 基本から始めると、応用が効く十分な認識にまで到達できないのは当然で、曖昧で漠然とした治療法を示唆するだけにとどまってしまう。かといって、最上段の霊魂から始め、いわゆる純粋にオカルト的な事実を持ち出せば、今日の医学に橋を架けることは難しくなり、そのためには、もっと時間が必要となる。

 今日遥かに進歩した唯物論の弊害が見つけられるところではどこでも、今度は別の面から、この弊害に対抗して働きかける必要性にも気づいている。これまで述べてきた事柄を、どうかイデオロギー的でなく、客観的に受け取って欲しい。

 とは言え、次のような警告は許されるだろう。今日のアロパシー的な医学を概観すると、細菌論を用いて、感染の途上で出現し、前面に出てくる副次的な作用に従って、患者を診断する傾向が、頻繁に見られることである。

 細菌感染学が、単なる病態の識別を助けるために用いられるのなら、実際、非常に役に立ち、細菌の性質から、多くの病状を知ることができる。というのも、まさに、細菌の性質は、特定の主因のもとに必然的に現われてくるからである。この性質を見つけるのは充分な機会があれば容易い。

 しかし、細菌の性質のような副次的な要因を主因とみなす傾向、例えば、人体が、どの程度、細菌の繁殖に適するのか、というような調査の代わりに、細菌が、器官にどのぐらい作用を及ぼすのか、というような調査を行うなかに、アロパシー医学の細菌論的な傾向が前面に出るだけでなく、それに類似する医学的な考察法のなかにも現れ、弊害を引き起こす。この弊害はあまりに頻繁にみられるので、いちいち取り上げて示す必要はないだろう。

 しかし、だからと言って、ホメオパシー的な医学を試しに概観しても、満足できる状況にあるわけでもない。というのも、確かに、ホメオパシー医学は、いわば人間を包括的に捉え、全体像に言及し、薬の作用へと橋を架けようと努める、といった長所をもっているが、ホメオパシー医学の文献には、また別の問題が登場するからである。

 ホメオパシー医学の文献を取り上げてみると、ほとんど絶望的な気持ちになる。例えば、薬物治療に言及した文献では、薬が次々と順番に列挙され、それぞれが大半の病気に効く、と書かれている。こんな列記では、文献から、個別的な疾患に辿り着くのは決して容易ではない。

 確かに、結果的には、どの薬物も、大半の病気に効くので、薬物を列記する以外の説明が困難であることは充分承知できる。とはいえ、このような説明も誤解を生む素となる。この誤解を克服するには、この講義で、基本的に、示唆的に最小限提示した説明から進むしかない。

 そのため、基本を選び、最上階とでもいえる霊魂については、この連続講義では省いた。人間および人間の外にある自然の観察を通して、いわば薬の適用範囲を同定すること、薬の(作用の)範囲を見究めるよう、ホメオパシー医学を向上させるとき、誤解を改善できる。

 誤解を改善するには次のような点に留意すべきである。健康、もしくは病気の人に、実際に薬剤を投与することで、生じる作用を研究するのではなく、宇宙万有を、いわば1つの統一体とみなし、例えば、以前示唆したように、アンチモン化の過程を探求し、その過程によって、アンチモンが外界で成し遂げる事象を観察できるようにすれば、同時に、この過程から、アンチモンによって、人体内で成し遂げる事象も洞察できる。

 このような探求法で、人間を研究するように、少しずつ努力することが、ホメオパシー医学の誤解を解く鍵となる。

 このような探求法によって、特別な場所とでも呼べる霊界が、更に人間とも関係をもつが、そのような霊界域が外界においても同定できる。

 これまで説明してきたように、この連続講義では、まず基本を前面に打ち出したのは、以上の理由による。

 自然治癒が、この基本を不可欠とするのも勿論で、つまり、自然治癒は、再び自然に即して、人間自身の持つ治癒力のなかに、人間を置き、この人間自身の治癒力の根拠が、人間のどこにあるかを指摘し、自覚させようとする衝動に仕えている。

 実際、自然治癒力は、地球と地球外(霊界)との相互作用に基づいている。だから、自然治癒は、唯物論では解明できない根拠に依存している。唯物論では無視されることから、今日の医学が、いかに様々な党派的な主張の方向性を帯びながら、益々唯物論へと向かっていることが見受けられる。

 唯物論は、ある特定の形で、全てに関与している。したがって、重要なのは、この医学分野全体の霊化である。とは言え、今日の世界は、霊魂や霊化という事柄に真っ向から対立している。だからこそ、まさに専門知識、専門職の側からも、唯物論に対抗する治療法が出現することが不可欠となる。

 というのも、この講義で試みたことは、いまはまだ、その端緒にあるが、何らかのオカルト的な趣味的関心の奨励と取り違えられることは、古代叡智の大きな損失を招くからである。

 最も重視したいことは、科学的活動のために、人智学では努力が尽くされていることを認める人たちが、この講義で説明されたことを、オカルト趣味的関心の奨励と取り違えるような、有害極まりない偏見を克服するために、協力している現実である。

 他ならぬ現代科学が提示できることは、既に全て利用され、考慮もされてきたが、本質的な意味を捉えている人は皆無である。そのため、相変わらず、本質を捻じ曲げて解釈する事態が起こる。

 ここで最後に例として挙げておきたい。例えば、オイリュトミーが、人間の体にとって、いかなる意味を持つか、実際に、建築物が建っている意味と同じように、医師にも、きちんと説明できる。この連続講義において詳述したような、人体の内面全体を、外面だけを見通せる医師にも、説明できる。

 今日、まさに素人の唯物論と、因習的な時代遅れの方向性に対して、これまでのように抵抗する霊的な叡智の基盤から語る必要がある。真に考慮に値するのは、いわば専門的な方面から克服すべきで、さもなければ、次のような偏見が増えていくばかりである。

 昨日出発したフォン・M氏は、「新チューリヒ新聞」に、ドルナハ建築(第一ゲーテアヌム)とオイリュトミーについての記事を提出することで、人智学の意図を実現しようとし、貢献できることを確信していたが、彼がもらった返答は以下のようなものだった。

 「拝啓。地方を侮辱するので、ゲーテの名を付した人智学的建築物は除きます。オイリュトミーについてはこちらで調査中です。ご送付に感謝します。 H. トローク、学芸欄編集者」

 このような霊界から、世界に入り込んで行く叡智の基盤を、これらの唯物論的な餌桶が大変奇妙な妨害をすることがわかる。このような差別が、今日起こっているので、注意を向ける必要がある。このような唯物論的な腐敗した餌桶の中身から、私たちの鼻のなかにまで侵入してくる悪臭が汚染を広げていることに気づくべきである。

 この連続講義の最後に是非述べておきたい。この連続講義を、寛大さをもって受け取ってほしい。このような講義は、まだ始まりにすぎない、と見てほしい。この連続講義のはじめに、今挙げたような世間の偏見から、講義が困難に感じたが、終わりを目の前にして、このような講義を終えるのはもっと困難であると述べたい。

 というのも、実際、まだ言うべきことがあるのに言わないことの方が、私(シュタイナー)にはもっと辛いからである。だから、この講義の結びに残したい、「始めるのは困難だが、いま、やめるのはもっと困難である」という言葉に象徴される内容全てを、寛大な評価のなかに取り入れていただき、主観のみならず客観的な根拠があることをわかって欲しい。

 ★         ★         ★

 唯物論そのものがガンなのである。物質は増殖すればするほど重くなり自らを支えることが難しくなり崩壊する。ガンの性質そのものである。





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Last updated  2016年09月08日 22時45分07秒
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