シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年04月12日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 またまた久しぶりに書く。

 この掲示板でも何度となく紹介してきたドーリル(ドリール)の「療法の真義」という本を読み返しているが、訳が古い文体なので、意味が掴み取りにくいのだが、シュタイナーの人智学の知識からなんとか解釈している。

 この本には生命の意味が書かれているように私には思える。

 「病は気から」といわれているが、ドーリルは病はネガティヴな想念から生じると、この本で述べている。ネガティヴな想念をいかに克服するかが、人間がこの世に生まれてくる課題であるという。

 ネガティヴ想念は死後そのまま地獄を作り出してしまうので、それを克服するのは、生きている間しかなく、自殺はせっかくのその克服の機会を失うので、最もネガティヴな地獄に堕ちることになるわけである。

 ドーリルによると、自然界も、人体もプラスとマイナス、つまりポジティヴとネガティヴの二極性から生じ、そのバランスが崩れて、不調和に至り、ネガティヴに陥ると病気に罹るという。

 ポジティヴが強すぎても、かえってネガティヴを呼び起こし、逆にネガティヴが強すぎると、ポジティヴを呼び起こして、それに応じてネガティヴも増幅されるので、結局はバランスの問題なのである。

 つまり、足るを知ることが大切で、現代風にいうならば、動的平衡に保つ事が重要なのである。



 だから、ドーリル風にいうならば、あらゆるネガティヴを克服するポジティヴを備えることが、この世を生きる目的で、病気というのはその切欠を与えてくれる、つまり、ネガティヴを克服する機会を与えてくれるものというわけで、病気を治すには、自力でポジティヴを身に着けるしかないのである。

 この本を読めば、その極意が書いてある。はじめの章で、クンダリーニを松果体にまで上げるヨガの解説が載っているのに驚かされるが、クンダリーニを最上階の松果体にまで上げることが、病気などに現れるネガティヴ想念の克服法であり、そのために、人はこの世に生まれ、修行するのである。

 この本の冒頭には、はっきりと、病気の治療は、患者に病気の真相を教えることである、と述べている。つまり、あなたは、このようなネガティヴな想念をもっているがために、病気となっているのです、と告知することだと説いている。

 だから、よく医者が患者に共感すべきかどうかが、問題となるが、以上のことから、医者は、患者に共感してはダメであることがわかる。というのも、医者が患者に共感すると、患者のネガティヴ想念を自分自身に持ち込んでしまうからである。

 病気の治療は、患者自身がもつネガティヴ想念にあるので、患者自身のポジティヴ想念で対抗するか、ネガティヴ想念を捨てなければいけないわけで、確かに患者のネガティヴ想念を受け継ぐことで、一時的に弱まることはありえるが、ネガティヴ想念をつくる思考の習慣は捨て去ってないので、またつくりだしてしまい、その想念に共感してしまうと、患者から感染症のように感染してしまうわけである。

 譬えるなら、病気の治療とは、新興宗教に洗脳された信者を脱会させるようなものといえる。ミイラ取りがミイラになってしまってはいけない。

 というわけで、この世の宗教信者は既になんらかの病気に罹っているといえるから、既存の宗教から脱会して、自分教をつくることを推奨したい。宗教を学ぶことはいいことだが、その宗教に依存してはいけない。というのも、人間一人一人のなかに既に神がいるからで、その主たる神以外の神は神でないからである。

 だからいかなる宗教も必要ではなく、ただ自分があればいいのである。自分を極めるのが哲学であり、宗教なのである。

 というわけで、病気を知るために、人智学的医術の紹介を続ける。

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 今回は、人智学と医学の専門家からの次の発言からはじめたい。



 霊的な治療法を理解する困難をある程度認めなければならないが、また医学の面からの理解が容易ではないのも認めなくてはならない。しかし、この発言から究めて多くを学べる。

 そこで、霊的な治療法をわかりやすくさせる具体例を取り上げてみる。いまは2つ挙げられ、1つ目は、現代人にも比較的わかりやすい例で、2つ目は、現代人にはほとんどわかりにくい例である。

 1つ目の例とは、唯物論の現代故に理解し難い治療法である。この治療法を理解するのが人間でなく、ツグミならばすぐわかる。ツグミにはお馴染みの治療法で、しかも実践しているからである。

 ツグミは、禁欲的な鳥ではないので、ときどき、誘惑に負けオニグモを食べる。しかし、オニグモを食べると、必ず不快感を催し始め、ヒヨス(1)が近くにあれば、すぐに近づいて食べ、ヒヨスをその適切な治療薬とする。

 ツグミにとって、ヒヨスはオニグモ病の治療薬なのである。というのも、近くにヒヨスがなければ、ツグミはヒキツケを起こし、激しい痙攣と震えのなかで死んでしまうからである。


 ベラドンナ、マンドラゴラとともにナス科に属するヨーロッパの伝統的な毒草。古代から良く知られている。ルネサンス期のイタリアでは「歯痛草」として有名であり、歯痛の守護聖人にちなんで「聖アポロンの草」と呼ばれ、歯痛に用いられた。
 この植物は強い毒性を持つアルカロイド(植物中の、窒素を含む塩基性化合物の総称。ニコチン、コカイン、カフェイン等もこれにあたる)、ヒヨスキアミンを含み、これには強い鎮痛作用があって、現在も鎮痛剤、喘息の発作緩和、モルヒネ中毒の緩和剤などに使われている。
 http://kitola.hp.infoseek.co.jp/dokusou/hiyosu.html

 ツグミは自身の持つ治癒能力を通じて、ヒヨスが近くにあると、飛んで行って、啄ばみ、オニグモの毒を解毒する。このツグミの治癒能力は、現代人でも理解できる霊的な治療法である。

 しかし、現代人からは既に遠く隔たってしまっている、2つ目の霊的な治療法も、ツグミの治療法と親和性がある。つまり、太古の人間は、この治療法に似た治癒能力を発達させていたが、いずれにせよ、今ではヒポクラテス医学のなかに集約されている治療法を、太古人は既に幾らか本能的に、つまり治癒能力としてもっていた。

 理解困難という発言を顧慮しながら、ツグミと同様の治療法をもつ他の多くの鳥たちの叡智(治癒能力)を少し研究してみるのもよいだろう。

 では、ツグミがオニグモを食べると何が起こるのか?

 オニグモの生体は、地球外の宇宙との関係のなかに組み込まれている。そして、オニグモの四肢やその模様も、地球外の宇宙に由来し、紡ぎ込まれている。だから、オニグモは多くの惑星活動を行っている。

 オニグモは地球外の惑星活動を行っている。

 (オニグモは宇宙生物らしい。)

 ツグミは、この惑星体験から離れ、惑星活動を生体(エーテル体)内に移行させた。ツグミがオニグモを食べると、ツグミのなかで、この惑星力を感じ取るようになる。

 オニグモを食べたツグミのなかで、この惑星(エーテル)力はなおも生命(霊=アストラル)化する傾向をもち、ツグミに浸透しようとするので、ツグミは、この惑星力と闘わなければならない。

 ツグミは、オニグモを食べた瞬間、内からの欲求に従い惑星活動の模像(コピー)となる。

 ツグミは、解毒に必要なヒヨスを求めて飛んでいく。

 ヒヨスは、宇宙とは逆の、地面から生えることで、しかも惑星の影響力を完全に相殺するのではなく、毒として残すことで、惑星力に対立する地上力に類似した毒をもつ植物となる。

 ヒヨスのような植物を求め、ツグミのような鳥は飛んでいき、救済を求める。このような事実から、ツグミのなかで、オニグモの毒が作用する瞬間すぐに、それに抵抗する治癒能力が喚起され、治療法とも呼べる叡智に遡れる。

 これは毒の攻撃作用が、即座に生体の防御反応へと移行する現象である。だから、蝿が眼に止まる瞬間に、眼を閉じたり、反射的に手を動かしたりするような人間の防御反応と同じ現象が、眼の前で具体的に展開されている、とも考えられる。

 動物や植物での、このような現象の観察は究めて重要である。というのも、このような事実に通じれば、次のような教訓を得るからである。

 「知性や理性という叡智は、人間の頭のなかだけにある。」という過信から救われる。

 すなわち、知性や理性という叡智は、宇宙全体を飛び回っている。というのも、上述のような攻撃作用に対する鳥類の防御反応は、叡智そのものだからである。鳥に解毒を思い至らせるのは、外界を飛び回る理性と知性であり、人間は、ただ頭を用いて、知性と理性に参加する能力を持っているだけである。

 人間は宇宙を飛び回る叡智に参加できるが、もてるわけではない。人間が叡智をもつ、というのは間違いで、ナンセンスで、ただ叡智に参加できるだけである。鳥はまだ特別な体をもつので、人間のように、頭を使って、攻撃、もしくは防御の叡智に参加しないだけである。

 頭部を通じて理解する人間よりも、鳥は肺を通じて宇宙をよく理解している。そして、鳥はまた、肺を通じて、ヒヨスキアミン(2)に対する防御反応を呼び起こす。というのも、鳥は、人間のように、叡智に参加するのに、肉体の頭という回り道をせずに、肺という宇宙のリズムを呼吸で感じ取る器官で(本能的に)思考できるからである。

 (2)ヒヨスキアミン:ヒヨスに含まれるアルカロイド。(1)参照。

 人間は、思考を、肺、つまり律動器官から抜き出してしまった。だから、人間は、回り道した分、思考について思考でき、思考について、鳥よりも少しだけ(客観的に)詳しく述べられる。

 (鳥は議論できないが、人間は議論できる。鳥は議論せずに答を出すが、人間は議論しないと答を出せない。)

 しかしいずれにせよ、もはや、人間は、鳥のように本能的に(直観で)思考していない。つまり、もはや、鳥が宇宙(のリズム)とそのまま結びついて、思考するように、人間は宇宙と結びついて、肺や心臓などで思考してはいない。

 この肺や心臓による思考は、人間が再び修得すべき課題である。

 では、人間を、宇宙や自然と直接結びつけた、鳥の治癒能力のような叡智の、その最後の名残りを、人間から取り去ってしまったのは誰なのか?

 という疑問が浮かんだなら、次のような答えに辿りつく。

 「人間から、この治癒能力を奪い取ったのは、これまでの学校教育であり、その最後の名残りまで奪い取ったのは、大学教育である。」

 というのも、現代で行われている教育や、その関連全ての根本は、人間と自然との共生を妨げる性質を持っているからである。

 現代の教育は、ルシファー的な巧緻な知性偏重へと向かわせる一方で、他方では、アーリマン的な巧緻なセクシュアリティ(官能的な耽美性偏重)へと向かわせ、どちらか一方へと一面的に漂わせていく。

 太古の人類においては、まだ中心(本質=本性)にあった叡智(TAO=タオ)が、現代の人類においては、専ら、この両極端に分離している。

 さて、人間が、科学的な営みにおいて、再び健康になれるかどうかは、実際に正しい宇宙理解(関係)を再発見できるか、にかかっている。現在、残念ながら病んだ(唯物的)科学で研究されている事を、唯物病から回復し、健康になった科学で研究しなければならない。

 さて、以前、述べた事実に結びつけて、人間観察から、治療法を再発見する見方を少しばかり扱う。

 太古の人類では、この本能的な治療法が高度に養成されていた。太古の人間が何らかの異常を感じたら、即座に治療法も同時に思い浮かんだ。この治癒能力は、現代の人類からは失われてしまった。

 しかも、現代人は神通力を獲得しても、例えば、古代人の本能から思い浮かんだ治療法に到達するのは稀である。けれども、現代人は進化してきた。本能から主知主義を経て神通力の獲得へと再び向かう、のである。

 主知主義的な進化を通じて、損なわれた多くのなかに、生理学と医学も含めなくてはならない。1つ具体的な例として、糖尿病を取り上げてみる。

 そもそも一体、糖尿病が、その異常な進行として示す、のは何なのか?

 糖尿病を、霊視すれば、自我の弱さに起因するのがわかる。つまり、糖をつくる活動を制御できないほど自我が弱いのである。なので、その活動で生じる霊魂の働きを、正しく解釈できなくてはならない。

 糖尿病は、結果として、糖が血中に流出するのだから、自我が強すぎるせいだろう、と単純に考えるのなら、間違いである。糖尿病は、自我が弱すぎるのが原因である。

 というのも、糖尿病を進行させている自我は、糖が適切な形で人体をつくる要件を満たすように、他の3つの体(アストラル体、エーテル体、物質体)と共に参加できていないからである。

 この事が、糖尿病の本質である。最終的に、糖尿病の進行は、自我の弱さと関係している。例えば、過剰に甘味な食事と一緒にアルコールを飲むと、糖尿病発病の微かな兆候を体験できるだろう。

 このような兆候は、再び消滅することもあるが、自我が弱まっていることで、生じている活動の本質を、自我が克服できないと、糖尿病のような病気が現れてくる。

 重要なのは、自我や他の霊体に生じ得る活動全てに注目してみることである。これまでの霊的な観察ではまだあまり述べていないが、多くの人々が疑問をもつ、ある問題について述べたい。この疑問については、これから、もっと詳しく立ち入っていく。その疑問は、糖尿病で大きな役割を果たしている遺伝である。

 遺伝は、自我の弱さに原因がある。自我が弱く、自我が他の霊体(アストラル体、エーテル体)や物質体と共作用しなくなると、遺伝に依存し易くなる、という関係がある。

 というのも、単純に、人が皆、遺伝に依っている、と思い込むと、その言葉通りに、遺伝に洗脳されるからである。遺伝に依らない場合もあるのは、結局、自我が強く、良く機能している。

 ただし、注意すべきなのは、糖尿病の場合、かなり心理的な要素が関わり、興奮し易い人が経験する興奮が、糖尿病の病因とかなり関係していることである。というのは、自我が弱いために、他の霊体や物質体に入っていかずに、その周辺で活動してしまうので、脳を通じて、強固な主知主義を押し進めるために、肉体の活動を制限してしまうからである。

 自我が弱いと、他の霊体や物質体、つまり、蛋白質をつくる場所、つまり植物性蛋白質を、動物性蛋白質に変成させる場所にまで入り込んでいけない。自我が、その場所にまで到達できない。

 そして、自我がとどかない代わりに、その場所では、それだけ一層、アストラル体の活動が活発になる。というのは、アストラル体の活動は、主に胸部の消化-血液-呼吸の律動系の活動間で、最も活発だからである。

 この胸部の律動系の活動が、自我が弱いことで放任される。この放任された活動は、他の人体と関わりをもたずに、アストラル体を中心に、胸部独自の我儘な活動を進行させ始める。だから、糖尿病になり易いという遺伝は、自我が、アストラル体からしめ出されている事にある。

 さて、このアストラル体の活動、いわゆる分泌活動はまた、心情、感情と密接に関係している。しめ出された自我が、脳を通じて主知主義の活動を求めるので、分泌活動は、自我に管理されずに我儘になる。

 以上の事実は、感情に影響する、ある心理の制御を失うのに関係している。

 興奮させるような出来事が周囲で起こっても、平静さを保てるのは何故なのか?

 冷静でいるには、知性を腸にまで送り込まないといけない。知性が、頭脳だけでなく、人体全体に浸透すると、平静でいられる、のである。

 頭脳だけで色々思案すると、平静でいられない。頭脳が主知主義的な活動をはじめると、アストラル体は独自の活動を始める。すると、興奮し易くなって、興奮により、アストラル体が本来行なうべきことをやらずに、興奮を促進させてしまう。

 興奮の本質は、アストラル体で興奮を促進する事にあり、アストラル体はまず知性に浸透され、理知により興奮を和らげてから、感情に働きかけるべきである。

 さて、以上において、何が本質なのかを、はっきりと理解することが重要である。

 つまり、自我の無力にある。自我は、人体に最初に働く地球外(天)の力で、つまり地球に対立する惑星の力と親和性を持っている。

 だから、自我の力は全て、地球の外(天)からやってくる。

 従って、自我を強化するには、地球外(天)の、自我と関わり、親和性をもつ活動を理解しなくてはならない。そうすれば、その地球外(天)の活動に、適切に参加できるように、自我を転移すればよいとわかる。

 さて、自我が、他の人体(霊体や肉体)のなかで共に働く、のと同じように、地球外(天)から誘導される活動が、地上の様々な場所に存在する。この地上の場所に、地球外(天)の力が働き、地上の鉱物や植物に、いわゆるエーテルの油をつくる能力を与える。

 天の力が働き、エーテル油をつくる能力を与える、この地上の場所に、自我を導かないといけない。自我が、眼という、いわゆる肉体の外湾のなかで、実際に外界と接するように、自我を、地上のエーテル油をつくる活動に関係づけなくてはならない。

 恐らく、以上を可能にするには、霧状の微粒子の、エーテル油をつくって、エーテル油に浸る治療法を試みるのがよい。どのような微粒子をつくり、用いるか、何回浸るべきか、など試行錯誤してみる。

 以上のエーテル油浴法は、肉体を侵し、荒廃させる糖尿病を克服する治療法である。この治療法から、外界の活動を見抜く事と、外界と人体内の活動を共に考える事が、自然や人間や他の生命体の治療法ともなる生理学を現実に生み出すだろう。そして、この生理学は、いまだ途上で、将来、人類にとって完成すべき道なのである。

 さて、この事実からもわかるが、人間の本質は、環境と親和性を持つ、のである。

 再び、地球の植物全般を、霊視すれば、植物は地面から上方へと向かい、花のなかで、植物のエーテル体の活動が霧散し、果実のなかに再結集している様子がわかる。

 更に霊視を続けると、植物には、何千もの不思議で多様な生命活動が存在するのがわかる。種子をつくるために結集する多様な活動が、葉をつくるために、その一部を抑制し、草状に厚くなったり、また、全活動を閉鎖する前に、一部の活動だけを抑制し、種子の外皮を厚くしたりするのがわかる。

 植物の活動のなかに、ある一部の活動を抑制することで、可能な限りのあらゆる多様性がみられる。

 しかし、この植物の生命活動を、決して、例えば、地球の物質面から、或いは物質に対抗する光(エーテル)の面から、一面的に見るだけでは駄目である。実際、植物は物質体とエーテル体をあわせ持ち、地球外の力(天)が、地上の力とぶつかる処で、植物の物質体とエーテル体も、宇宙からくるアストラルと交わっている。

 以上から、次のような結論に至る。

 「植物は動物を目指して進化するが、到達できない。」

 地球内部は、植物のエーテルの生命活動に充分浸透されている状態で、また植物が成長していく大気圏は、動物のアストラルの生命活動に浸透されている。この動物のアストラルの活動は始まりも終わりもなく、植物は動物に向かって進化していくが、植物には到達できない生命活動なのである。

 動物の精神を担う動物のアストラル活動は、植物の上の方で織りなされる花を咲かせる活動でもあり、地球全体に対して円環の性質を持っている。そして、この動物のアストラル活動全体が、地球の動物たちの中心の自我に集められる。つまり、大気圏のアストラルの活動が動物内(精神)に移される。

 動物は、植物の上方で生じているアストラル活動を分化させ、自分の内部(精神)に移す。そして、動物がもつ、植物に勝るアストラル体は、通常は、地球の周囲の外界から、地上の植物に向けられているが、それを取り込むことで、動物は自我の為に用い、自我を中心に展開する。

 (動物の自我は、人間の自我と異なり、集団的であるという、人間は個的である。)

 さて、この動物のアストラル活動は、人間にもある。ただし、人間では物質体内にもっている。このアストラル活動は、消化から造血、そして呼吸活動を司る胸部に主に関わっている。だから、人間の消化、造血、呼吸活動については、同時代期の動物のアストラル体によく似ている。

 従って、人間の物質体内のアストラル活動は、植物のエーテル活動全般と親和性をもつので、植物のエーテル活動に有効な生命活動を用いて、人間の特に胸部活動を調整するのが期待できる。しかし、人間は、動物に優る自我を持っている。

 人間の自我は、動物がアストラル体を用いて、植物と行っているエーテル活動を遂行するだけでなく、アストラル体を超える意志を用いて、鉱物と行っている物質(エネルギー)活動を遂行する基礎となる。

 だから、次のような結論に至る。

 「現在の地球進化の人類の特徴は、鉱物の物質(エネルギー)活動を、地球と共に行なっている事にある。」

 動物のアストラル体のなかで、蛋白質の変成(植物→動物)が行なわれているように、そのアストラルの蛋白質変成よりも、更に地球の外側にある活動、いわゆる、天と鉱物との間で生じている活動が、人間の自我で行なわれている。

 以上は、科学には全く無視されている活動だが、これを表現するなら、その特徴に従って、脱塩プロセス(溶解過程)と呼べる。

 実際、人体では、絶えず脱塩プロセスが働いている。これは塩(鉱物)の生成を逆転させる傾向をもつ。そして、動物を超え、人間がもつ思考の本質は、この脱塩プロセスに基づいている。

 人間は、動物に似たアストラルの胸部ではなく、頭部で、塩の生成に逆らっている。通常、土(固体)をつくる植物のエーテル体に、動物のアストラル体が対抗するように、人間は思考することで、塩(鉱物)の生成に対して、脱塩プロセス(溶解過程)を対抗させている。

 (あまり思考しない人は、自我の溶解過程が弱いので、血中に糖を放出する糖尿病の傾向をもつ。)

 植物薬では治療できない、自我に関わる病気については、塩の生成に対抗する脱塩プロセスをもつ鉱物を探し求めなくてはならない。植物薬だけで治療するのは、人間を、専ら、単なる動物として見ていることになる。

 地球の周囲で、地球の鉱物化に対抗して行なわれている、この激しい脱塩化の闘いに、人間の参加が期待でき、実際に加わり、この激しい闘いへと自我を導くと、自我は祝福され、叡智を授かる。

 例えば、石英を用いた治療は、実は、石英を脱塩(溶解)させる自我の力、石英のような硬い鉱物を克服する自我の力に訴えている。鉱物薬での治療は、地上ではもはや全く起こらない、地球の外(天)で生じている闘いに、自我を参加できるような強さを与える。

 この闘いの場では、地上の固体を、熱で粉々にするほどの力が働いている。実際、宇宙空間は、惑星のなかで丸く密集している固体を、粉砕し、粉々に打ち砕く特性を持っている。

 日常生活では、人間は滅多に、以上の事を行わず、行うのは稀である。宇宙空間の以上の作業を、最も多く行うのは数学者で、特に、幾何学などの、図形のイメージを駆使し、その思考体験に慣れた、数学の思考に長けている人である。というのも、数学的思考は、鉱物を分解(溶解)する知識に基づくからである。

 対照的に、数学に反感をもち、むしろその反対の塩プロセス(鉱物化)に依存する人は、数学に似た設計図などを扱う技術者にはなれない。自我の脱塩プロセスの強弱により、数学的性質をもつ人と、数学的でない性質の持ち主との違いが現れる。

 このように地球の鉱物化の活動に対抗することは、治癒能力(治療理念)の根底を為す。

 以上の自我の強さと治癒能力との関係はまた、端的にいって、古代の人類の攻撃-防御反応のなかに含まれていた事でもある。古代人は、自我が弱くなり、自分が思考しなくなったと気づいたら、鉱物を摂取し、自我の力で鉱物を打ち砕くことで、地上から遥かに隔たった、地上を超えた宇宙空間から調和に至る能力を獲得した。

 さて、以上の事柄が正当だと、いわば手で掴めるほどはっきりとわかるように、外界の自然のなかに追求できる。自然の観察によって、良い検証が得られる。上述を検証するために、非常に興味深い植物、つまりベトゥラ・アルバ、シラカバ(3)を観察してみるとよい。

(3)シラカバ:カバノキ科。ハーブ療法でも、シラカバの葉の利尿作用が指摘されている。また、シラカバの精油(樹皮と小枝から抽出)には、関節部分の尿酸の蓄積を減少させる働きがあるので、通風、リウマチ、関節炎、及び筋肉痛一般に効果があり、また、膀胱と腎臓の結石を溶解させる力もあるとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%90

 シラカバは、二手に分かれる形で、植物をつくるエーテル体の通常の活動に抵抗している。シラカバは通常の植物をつくる活動には参加しない。

 つまり、シラカバの樹皮をつくるエーテル体の活動を、シラカバの葉、特にまだ褐色がかった綿毛のある春の若い葉をつくるエーテル体の活動と混合できたなら、通常の植物をつくるエーテル体の活動が出現する。

 シラカバの、この互いに分離された二つの活動を混ぜ合わせた結果、シラカバの樹皮の働きが、シラカバの葉の働きと、ある場所で一緒に働くようになれば、不思議な葉のような花をつけた草本植物が得られる。

 シラカバは端的にいって、蛋白質をつくるエーテル体の活動が、普通の植物よりも、余計に葉に与えられることで、葉のなかに蛋白質活動が集中し、逆に樹皮のなかには、アルカリ塩をつくるエーテル体の活動が集中することで成立している。

 シラカバのように、樹皮にはならずに、葉の状態にとどまる他の植物では、この両活動は融合し、根のなかの、アルカリ塩をつくる活動は、蛋白質をつくる活動に浸透されている。

 シラカバは、通常他の植物が混合しているエーテル体の活動を、根から、樹皮へと分離し、樹皮のアルカリ塩をつくる活動にした後で、今度は、葉のなかに分離し、蛋白質をつくる活動としている。

 以上により、シラカバを薬とすれば、人体に対して2つの方向に働きかけられる。

 シラカバのアルカリ塩を適度に含む樹皮を薬とすれば、人体が脱塩に導かれ過ぎて生じる病気、例えば発疹などに対して、シラカバでは、樹皮のなかのアルカリ塩をつくる(塩化の)働きが、脱塩の働きを抑制し、治癒に導ける。

 また、蛋白質をつくる働きが集中するシラカバの葉を薬とするなら、人体が塩化に導かれ過ぎて生じる、痛風やリウマチに対して、脱塩の働きの良薬として実証できる。

 この脱塩の働きを更に高めたいなら、シラカバ内の鉱物(物質)を取り出すために、例えば、木質部から、植物炭を調合すればよい。そして、例えば下腹部の腸での塩化の働き(便秘など)に対して、体外から湿布で塗り込むなどして、塩化を抑制する治癒力が得られる。

 人体の薬となりえる、植物の外界での生態を、霊視する術を学ぶ必要がある。ベトゥラ・アルバ(シラカバ)を研究すると、実際次のような結論に至る。

 「シラカバを、人体の薬となるようにイメージするなら、外界のシラカバのイメージを逆にしなくてはならない。

 樹皮や木質の塩化プロセスを、物質体の皮膚などの外への働きに一致させ、葉の脱塩プロセスを、物質体内のエーテル体への、内への働きに一致させるように裏返しにする。

 シラカバを、人体の薬にすると逆のイメージをもつ。」

 (シラカバの樹皮は、物質体の脱塩を抑え、葉はエーテル体の塩化を抑える。)

 シラカバの樹全体を、人体の働きと一致させ、以上のようにイメージするのが必要不可欠である。つまり、人体の本質に沿って、外界のシラカバの樹のイメージを逆転させ、薬のイメージをつくるわけである。

 また例えば、根の塩化プロセスを特に強く発達(発育)させ、根のなかに、アルカリ塩やナトリウム塩を沈殿するほどの植物を見つけたなら、この植物の葉のなかには、この根の強力な塩化を抑制する脱塩プロセスがあるはずなので、それぞれ、出血などの脱塩病には、この植物の根を薬にし、腎臓結石などの塩化病には、この植物の葉を薬にすれば、治癒に導ける。

 上記のような出血や、腎臓結石などの病気に良い薬となる植物は、カプセルラ・ブルサ・パストリス、ナズナ(4)である。

(4)ナズナ:ナズナ属アブラナ科。ハーブ療法でも、泌尿器系の殺菌、血液凝固作用があるとされ、いろいろな出血、膀胱炎、静脈瘤などに用いられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BA%E3%83%8A

 さて、例えば、日常にみられるトモシリソウ、コクレアリア・オフィシナリス(5)のような植物を考えてみる。このような植物も研究すると興味深い。この植物のなかには、硫黄の油が含まれている。

(5)トモシリソウ:トモシリソウ属アブラナ科。ヨーロッパ原産。西洋わさびの一種。葉の形は広心臓型でスプーンに似ている。薬草療法でも、消化不良、壊血病、口内や歯の痛みに用いられる。

 硫黄の油を持つことで、この植物は硫黄を通じて、蛋白質に直接働きかける。さて、硫黄は、鉱物のなかで、蛋白質をつくり、促進するように働きかける。蛋白質をつくる活動は、不活発になると、硫黄を添加することで促進される。

 硫黄の油とは、トモシリソウのような植物がエーテル体の活動により作り出した産物である。

 特別な生息地に生え、特別な形で自然に組み込まれることで、トモシリソウは、蛋白質をつくる活動が極度に不活発に運命づけられたが、素晴らしい自然の本能(治癒力)により、不活発な蛋白質活動を促進する硫黄の油をつくることで、その均衡がもたらされた。

 さて、この硫黄の油により促進された蛋白質活動は、他の植物がもつ蛋白質活動とは異なる。この違いを常に念頭に置く必要がある。勿論、数多くの植物に、トモシリソウと同じような蛋白質活動を見つける事ができる。

 しかし、活動が同じでも、トモシリソウのように硫黄の油により活発化された活動ではない。トモシリソウの生長では、元々不活発な活動が、硫黄の油により活発化されているわけで、これが例えば壊血病などの薬に用いるのを可能にする。というのも、壊血病で起こっている活動が、トモシリソウの、この活動に究めて類似するからである。

 さて、個人的に修練し、外界の自然の活動と、人体の活動を、共に考察することを身につければ、実際、かなりの治療法を獲得できるだろう。このような考察により、自然と人体との重要な親和性に到達するだろう。このような考察により、他では決して獲得できない人体の理解にも到達するだろう。

 というのも、何と言っても、人体以外のものを完全に理解するには、人体を通して理解できなくてはならないからである。だから、両方を一緒に研究できなくてはならない。

 更にもう1つ、人体のなかで脾臓が果たしている独特の働きについての話を付け加えるが、これは次回以降の考察に是非必要となる。

 脾臓は、非常に強い霊の傾向を帯びている。それ故かつて、「オカルト生理学」という連続講義のなかで、次のように述べた。

 「脾臓を切除しても、代わりにエーテル体の脾臓が容易につくられ、つまり脾臓は、エーテル体にとって最も容易な代替可能な器官である。」

 しかし、脾臓は下腹部の他の臓器ほど、新陳代謝の本質に関わっていない。脾臓は、新陳代謝にはあまり関係しないが、新陳代謝の調整には非常に関わっている。

 では、脾臓とは一体何なのか?

 人智学の研究により、脾臓は、物質的な新陳代謝と、霊化されたリズムとの間に、調和を作り出す使命を持つ、ことがわかっている。

 つまり、脾臓は、他の臓器と比べて、例えば、ある臓器は霊の傾向が高く、ある臓器は低いが、根本的に言って、高度に霊的な、潜在(無)意識上の臓器で、栄養摂取のリズムに究めて敏感に反応している。

 休みなく食べ続けるのと、適度に休んで食べるのとは、脾臓の活動が全く異なってくる。例えば、この事は、つまみ食いばかりしている子供の、落ち着きのない脾臓の活動に、みてとれる。つまみ食いばかりしていると、脾臓の活動に落ち着きがなくなってくる。

 また、以上の事は、栄養摂取がしばらくないと、眠くなり、しばらくしてから脾臓の活動が休止状態に入ることでも観察できる。勿論、脾臓は独自の形で、休止状態に入るが、つまり、脾臓は、人間の栄養摂取のリズムを霊化する為の知覚器官なのである。

 栄養摂取の際の、リズミカルでない有害な影響を、少なくとも和らげる為に、反作用として展開すべきことは何かを、脾臓は潜在(下)意識のなかで語りかける。

 この為、脾臓の働きは、肉体の新陳代謝よりは、リズミカルな霊(エーテル)体の活動の方に導かれ、その活動に関わり、肉体による栄養摂取と、霊体の呼吸リズムとの間に生じる必須のリズムに関与する。

 呼吸リズムと、特にリズムという性質をもたない栄養摂取との間に、リズムを挿入し、仲介するのが脾臓である。呼吸リズムを通じて、人間は厳密な宇宙リズムのなかで生きられるが、不規則な栄養摂取を通して、人間は絶えず、この厳密な宇宙リズムを侵害している。そして脾臓が(両者の)仲介者なのである。

 このような事実は、人体の観察から、簡単に確認できる。解剖学-生理学などに実際に見つけられる知見を、以上の事実に導かれながら、更に研究して欲しい。細部に至るまで全てが実証できるのがわかるだろう。

 外見(解剖学)からみても、上述した、脾臓が呼吸リズムと粗い代謝リズムの中間リズムであることが、脾臓の人体での配置、つまり、脾臓の動脈が、ほとんど直接大動脈とつながり、呼吸リズムと関わり、他方で、門脈へと進んで肝臓と直接関係する脾臓の静脈が、全体に行きわたっていることにより、栄養摂取に関わる代謝リズムの仲介を行うのが実証できる。

 脾臓では、外からの物質体の非リズムと、霊体のリズムとが共に合わされ、互いに調整されている。呼吸のリズムと新陳代謝の非リズムとの間に挿入されているのが、脾臓の働きである。

 脾臓の活動が病的に異常になったら、脾臓が仲介する呼吸器系と、新陳代謝系との関係、或いは血液循環系と新陳代謝系との関係に基づいて、調整しなければならない。

 脾臓の生理が、唯物論的科学から、疎かにされてしまったのは何ら不思議ではなく、唯物論的科学では、新陳代謝系、循環-律動系、神経-感覚系という人体の三分節化については、実際、何も知りえないからである。

1-15

 人体上部(頭部)と人体下部(腹部と四肢)が、人体中部(胸部)を基点とし、対極関係にあるのが理解できれば、次のような結論に至る。

 「自我が、シリカを用いて、四肢から作用するのと、頭から作用するのとの間には、対立があるはずである。」

 シリカを用いて、頭部から作用する場合、自我は集積されずに、いわばエゴイズムから解放されている。そして、この頭部からの作用を、人智学で研究すると、細分化(分裂)を行っている、のがわかる。

 ★         ★         ★

 病は気からというのは本当で、病はネガティヴ想念から、である。病気を克服するには、ネガティヴ想念を中和するポジティヴ想念を生み出すことである。





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Last updated  2017年04月12日 22時48分59秒
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