「しくじり先生」という番組は毎回見ているのだが、「日本のお笑いはオワコン」といった脳科学者の講義をみた。自分でお笑いをつくりだす能力に著しく欠ける私がお笑いを評論するのもお笑い沙汰なのだが、日本のお笑いがオワコンなのではなく、テレビ局が上下関係を重視して、時の政権に忖度してお笑いを自粛するのがオワコンといいたかったのだろうと、解釈した。
改憲の答弁に「読売新聞を読んでください」といったアホ総理は、泣きじゃくって世界的に有名になった地方議員ほどのお笑いの北のミサイル並みの題材なのに、何も取り上げないのは非常に残念である。
せめて、「読売新聞を読めない人はどうすればいいのでしょうか?」とか、「漢字が読めない総理はしっかりと読んでいるのか、ここでテストさせてください」との切り返しがほしいと思うのは私一人だけだろうか?
憲法よりも御用ゴミ売り新聞が大切なアホ総理の無責任発言は、フランス革命の要因となった「空腹ならケーキを食べればいいじゃない」というマリーアントワネットの発言とされた人類の最低おバカ発言として記録されるだろう。
脳科学者は物質的な脳でしか話せないので、自称霊科学者であるつもりの私が霊魂の解釈から弁護しようと思う。他の人を笑わせるのは苦手だが、他の人と違う考えをするのは得意だからである。
日本では、権威に歯向かったり、厳粛な空気の重い雰囲気を壊すお笑いはタブーである。それは葬式で悲しくなくても、悲しい表情をしなければならないし、決して歯をみせてはいけないのと同じである。
これはお笑いだけではなく、この国では古くから、お上に盾突くことはタブーで死罪とされてきたからで、特にキリスト教が禁止されたのは、古くからの伝統的な教えを壊されるのを何よりも怖れたからである。
反抗者を死罪にして斬首しても、あの世から祟られるのを畏れて、鎮魂するために弔いの神社を建てるほどおそれてきた国民性といってもいいだろう。
それはお上に盾突いて死罪になった代表というべき平将門のイメージが独り歩きしているのもそのせいといえるだろう。
この国には、相手を考える思いやりという美徳があるが、それが行き過ぎて騙すゴミのように権威の提灯持ちを進んでやったりして、個人攻撃や弱い者虐めをするのをよくみかける。
そして、この国には、業界にそれぞれ天皇がいて、その悪口や茶化しを公にいうことは侮辱ととられる風習がいまだに根強く残っているのである。つい最近もそれを言った芸人の発言が問題視された。
ナイナイの岡村氏が、茶道をお笑いにしようとして、茶道の先生から説教されたというような本人は真剣だが、お笑いの話もあるし。
つまり、お笑いの問題ではなく、そのようなお笑いの需要が少なく、お笑いに寛容ではなく、お笑いがまだ平等に市民権を得ていないのが問題なんである。
比較の問題ではないが、しかしまだ北よりも遥かにマシかと思われるが、北化しているようにみえる。
さて、日本のお笑いについて考える話だったが、何度もいうが、私は人を笑わせるのは苦手だが、お笑いをみるのは得意というか大好きなので、コメディは人並み以上にみてきたという自負心はある。
日本ではやはり三谷幸喜氏が最高のお笑いクリエイターに思うし、彼の作品はほとんど見たし、笑わされた。北野映画では、子どもを連れて親に会いに行く作品は大笑いしたし。他にも漫画から出たテルマエロマエも面白かったし、最近のピコ太郎の世界的ヒットでもわかるように、日本のお笑いはオワコンではなく、まだまだ可能性が眠っているだけで、日本の国内では需要が少ないのが問題なんだと思う。
人がなぜ笑うのかといえば、人智学からわかるが、笑うことで自尊心を高めるからである。笑いの簡単な例を出せば、ライターで火をつける文明人が、マッチで火をつける非文明人に優越感をもつようなものだからである。
この国には、つねに上層が下層を笑う優越感をもたないといけないようなルールがある。だから、笑いも、上の人が笑ってから、下が笑うというような、笑いにも上下関係があり、米国のテレビから始まった観客の笑いを入れる技術を、巧く日本に輸入してから、この国にも笑いの需要が増加したといえるだろう。
しかし、昭和の家庭では、ドリフの笑いについては下品で、家庭教育に影響があるとして、子どもには見せない家庭も多かったし、そもそも笑いを下品と上品に見分けられるほど大衆がお笑いに精通しているわけでもないほど、お笑いの需要が低レベルであったことは確かである。
子どもにとってみれば、親から禁止されるほど密かに闘争心がわくともいえ、隠れてほとんどがみていたようである。だから、当時の子どもは隠れキリシタンならぬ、隠れドリフタンなんであった。逆に文部省選定など糞くらえという子どもも多かった。
だから、この国の住人がお笑いを求めないのが問題で、上下関係を重視しすぎて、過労死になるよりも、もっと生活にお笑いを求めるべきに思われる。
脳科学者の舌足らずで、誤解を生んでいるが、ピコ太郎のヒットでもわかるが、この国だけに拘らずに、海外にはお笑いの需要があるはずなので、特に米国だけでなく、お笑い需要開拓のために、南米やアフリカなどに行って、お笑いで商社をつくって、お笑い外交してもいいのではないか、と思うわけである。
それには特に、海外での日本人のイメージというのを考えるべきに思う。昔、米国の「サタデーナイトライヴ」というお笑い番組で、ブルースブラザースで有名なジョンベルーシが、サムライデリカテッセンっていうのをやっていたが、見る人によっては、日本人を茶化していると捉えるかもしれないが、私は大好きだったし、大笑いした事がある。
日本人を笑うだけでなく、エディマーフィがいかにもアフリカからきたイカレタ恰好のミュージシャンに扮し、「白人を手当たり次第殺しまくる」と過激な音楽を歌ったりするのもあったし、とにかくサタデーナイトライヴは過激さを売り物にする笑いだったのを記憶している。
サタデーナイトライヴではないが、日本人のイメージは、メガネに出っ歯でカメラをもって集団で歩くというのもあったが、それは、日本でも、ポンチョをきたメキシコ人や、昔の長髪の丁髷をした中国人の「○○アルネ」の言い方など、どこの国にもある虚飾で、ゆるキャラの一種と考えればよくわかる。
しかし、この国では白人の真似をするときに鼻を高くする恰好をするとクレームが入るし、どうもお笑いへの寛容さに乏しいように思える。
確かに人生を真面目に生きるのも大切だが、休憩時間というのも必要で、神様は休息日を指定しているわけで、何より、笑いは、人間だけに与えられた特権なのだから、動物は笑いにみえる鳴き声もあるが、笑っているわけではないのだから、人間に生まれたのだから、大いに笑いを楽しむべきである。
私自身は、もちろん、日本の笑いも大好きだが、特に80年代の米国の笑いが好きで、ファミリータイズのような、古くは「奥様は魔女」のソフトな笑いで育ったので、米国の多様な笑いを求める需要の違いなどを比較してみるのがよいと思う。
米国には差別的で過激な笑いもある位に自由で、それは芸人の問題というよりも、国民性の問題にあると思う。日本人は笑うのをまだどこかハシタナイと思っている節があるし、職場で笑い声は禁止な雰囲気もある。
それに関東は保守的で、関西の進取の気性を嫌い、関西弁のせいか、関西人をどこかお笑い芸人のようにみるイメージもどこか残っている。東西のお笑いの違いは明らかである。東京は特に笑いに慣れていない。
というわけで、笑いについては、米国との比較がわかりやすいので、パックン氏の話が参考になるので以下に紹介する。
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「まず名刺を配って」マルチタレント・パックンのキャリアを支えた日本の慣習
しかし、日本ではこれらのネタは規制されています。性的なジョークを言ってはいけません。政治的なジョークもダメです。これらのネタを生業とする芸人は、非常に少ないです。彼らは、小さなステージで、観客を前にしてネタをします。テレビに出ることはありません。その理由は、後ほどご説明します。
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ピコ太郎のPPAPは足し算だが、引き算版、もしくは入れ替え版もでてきてほしいと個人的には思って期待している。
例えば、爆笑問題が、漫才でやっていた北のキムと米のトラを交換しても、同じって感じで、あんまり需要ないかもしれないが。昔、ミュージシャンのPVで、米のレーガンと、ソ連のフルシショフだったか、プロレスさせたのもあったしなぁ。お笑いサーカス、オリンピックなんてあっていいと思うが。
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