シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年09月26日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
現代でも権力者が歴史の書き換えを行っていることは、アホバカの森友加計隠し解散で明らかだが、この国の歴史は権力者による書き換えの連続であるのは、八切史観を知れば明らかである。

 今日、ほぼ毎日読んでいる日刊ゲンダイに「本能寺の変」について、秀吉、家康が書き換えたと思われる歴史を信仰している記事が載ってたので、反論するのもバカバカしいのだが、盲信や洗脳を解くためにあえて以下に反論する。

 本能寺の変のおかしいところは、大きく2点挙げられる。一つは秀吉の中国大返しで、二つ目は家康の伊賀越えである。

 現代でもほぼ不可能と思われていることがどうして本能寺の変のときだけ可能になったのか?

 生物統計の帰無仮説ではないが、有り得ない低い確率が起こったので、対立仮説を選ぶべきである。つまり、以上の2点は後で書き加えられたと考える方が妥当なのである。

 現代ではTVやネットが盛んだから、情報がほぼすぐに伝わるが、偽情報も沢山あるわけで、当時、すぐに本能寺の変が伝わるのはそれこそオカルトの神通力でしかない代物である。いまでも黒幕が明らかでないのに、なぜ光秀の犯行だとすぐに伝わったのだろうか?

 それこそすぐに光秀の犯行にみせかけた人物が黒幕である証拠である。

 権力者、特に独裁者というのは、北をみれば明らかだが、有り得ない事を権力によって正当化してしまう宣伝を行うと考えれば、以上の2点は後で盛った話であることはほぼ疑いがない。

 秀吉は、八(サンカ)の出と、安国寺恵瓊が手紙に書いているし、家康も、いまの日光市近くの徳川村の部落民だったことがわかっていて、秀吉はひえよし、家康は二郎三郎という名で呼ばれ、姓はなかった。



 そんなものを盲信しているのは、一種の宗教で、歴史教ならぬ歴史狂だろう。

 つまり、秀吉の大返しと、家康の伊賀越えがインチキであるからこそ、後で歴史を書き換えたわけで、この2人が本能寺の黒幕であることは明らかで、実際に権力を握っていることでも明らかである。

 そのことを八切史観は、目から鱗のように解明してくれる。

 本能寺の変で大きく宣伝されているのは、謀反人明智光秀ということだが、光秀は、義昭の室町幕府では、信長と同格で、義昭の命令で、信長に与力しているので、義昭が信長に追放されたとはいえ、光秀の主君は義昭で、信長を討ったとしても謀反にはならない。

 義昭が、信長を討てと諸家に手紙を出しているのは、当時の仏教カースト体制が反信長であって、信長が当時の朝廷や幕府にクーデターを起こしていたのである。義昭と信長はお互いに利用しあっていたといえる。

 そこで、信長と義昭の違いをはっきりさせないといけない。信長は、仏教カースト制度の破壊であって、革命だが、義昭は、室町幕府の再興であって、仏教カースト制度の維持なのである。

 だから、信長は比叡山焼き討ちをしているし、仏教徒を弾圧して、新しい王朝をつくろうとしたのである。その象徴が安土城なのは、切支丹の宣教師たちも、異教として伝えているところである。

 信長が、切支丹を利用して、仏教を弾圧し、新しい王朝をつくろうとしたと考えれば、本能寺の変が起こるのは必然といえるだろう。

 ちょっと長々と脱線してしまったが、光秀謀反人説を流したのは、後に太閤となった秀吉であろう。本能寺の変の前に、毛利と勝手に和睦してしまった秀吉が、信長が中国に来てもらっては一番困る立場だったからである。まして、光秀が援軍に来るとわかったら、その前に、毛利との和睦を隠さなければいけないわけで、秀吉が、信長自身が援軍に来てくれるように手紙を出したのは、そのせいと考えられる。

 もし万が一、信長が来たら、義昭を囲んでいる毛利と組んで、信長を挟み撃ちにすることも可能である。毛利の兵と秀吉の兵を合わせれば、信長を十分に上回る。明治維新の長州は、実際、似たように戊辰を戦った。秀吉の兵は薩摩の兵になったが。



 秀吉も毛利と通じていたことが、中国大返しの盛り話で隠されているわけである。吉川が秀吉を背後から襲わずに、逃がしたのは小早川の口添えと語り継がれているのも怪しいところである。

 清水宗治が殺され損という反論があるかもしれないが、山中鹿之助のように、毛利に対して何か高額な金銭を貸し付けていたのかもしれず。名誉な戦死というのは、本家にとって都合の悪い証文を握っていたせいとも考えられる。

 秀吉の後の家康が、関ケ原で味方したのにも関わらず、毛利を徹底的に弾圧したのも、そのせいと考えられる。関ケ原で味方したら恩賞何々という証文を残していたのだろう。現代だって、都合の悪い文書を隠すのに、当時なら猶更焼却処分である。

 有名な話では、黒田官兵衛が竹中半兵衛に、秀吉の証文をみせたところ、半兵衛が直ちに焼却してしまって、こういう証文を残すと後々攻められますぞと助言したというのがある。

 秀吉が、信長をなんとも思っていないのは、信長の跡取りを有楽以外、ほぼ根絶やしにしていることであきらかである。信長の妹の市が柴田勝家についたのも、秀吉の権力欲が凄まじかったせいであろう。黒田如水は、秀吉が晩年、自分の次は官兵衛だと言ったことから、すぐに隠居したことが、秀吉の権力欲の凄まじさを物語っている。



 さて、家康が黒幕というのに動機がないと、日刊ゲンダイの記事に書かれているが、八切史観では明らかである。家康は、松平元康ではなく、元康を殺して、成り代わった人物で、徳川村で生まれ、人買いに売られて、浜松に来て、サンカの野武士として、旗を上げて、元康とも実際に戦った伝承が残っているそうである。

 つまり、松平元康と徳川家康は別人で、家康は、桶狭間の戦い(信長の騙し討ち)後で、元康を殺し、元康に成り代わったというのである。だから、元康の妻の築山と子の信康が邪魔になって、武田信玄と内通したと言って殺してしまったのを、信長のせいにしたというのである。

 大体、跡継ぎを人質に出すのはあっても、自分で殺すなどは戦国時代でも有り得ない話である。寝返らないための人質なわけで、自分で殺してしまうなどというのは不審も甚だしい。

 荒木村重が信長に謀反したときに、黒田官兵衛が説得にいった後、内通を疑われ、信長は、その子の長政を半兵衛に殺せと命じたが、官兵衛の内通も嘘だと伝わり、半兵衛が殺さずに匿っていたことを不問にしている。

 三方が原の戦いは、元康に成り代わった家康が、浜松から出ようとしなかったのに不信に思った三河衆が、武田家に内通し、信玄も攻めにはきたが、三河衆を独立させると、引き返してしまったというのが本当らしく、無論、信玄には上洛の意志などなかったらしい。

 だから、信長と信玄が敵対していたというのも、後世の家康による辻褄合わせかもしれず、それは伊賀越えのときに武田家の跡継ぎの穴山雪梅を殺したことでわかる。

 詳細は八切史観に譲るが、信長が築山と信康殺しについて、信康の妻で信長の娘の五徳から聞き、家康を問い詰め、家康を殺そうとしていたことは、本能寺を攻めた兵たちが、家康を殺しにいくものと思っていたという手記も残っていることから、ほぼ明らかであろう。

 つまり、家康の動機は、信長に安土城に招待された事で、自分の命を狙っている事を悟ったようである。だから、信長を殺さないと、自分が殺されるので、これが十分な動機なのである。





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Last updated  2017年09月26日 21時45分58秒
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