シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年10月14日
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カテゴリ: 神秘体験空間
CIAインチキ通信がジコウ大勝という情報を流したのがどうも怪しいと思っていたら、どうやら、やはりインチキ選挙マシンのムサシを使うみたいである。

 この国に民主主義などないのは、開票と同時に当選速報が流されるインチキでわかる。厳密な公正の選挙を行うのなら、開票作業が終了してから、そして開票作業を情報公開してから、当選を流さないとおかしい。

 開票と同時に騙すゴミが当確情報を流せるのは、選挙に介入している証拠だからである。

 この国の情報取り扱いのインチキぶりが、選挙からもわかるが、今日、旧ソ連やロシアの偽情報工作をTVでやっていたが、国際社会では、英米が先の大戦で、アジアを蹂躙し騙したように、騙される方が悪いという厳しさがある。

 騙されないように過去の教訓から賢くなるしかないのである。

 賢くなるには、知性を磨いて、最悪のケースも考えないといけない。謀略論をバカにする雰囲気を醸し出すのも、詐欺師たちの手口がばれない為で、謀略論というのは、百パーセント真実ではなくても、嘘に誘導するために、何パーセントかの真実を混ぜておくのである。

 そもそも、嘘を流すのは、真相を隠すためで、火のない所に煙は立たないわけで、嘘も嘘と見破れて、嘘の出所を調べれば真相に近づけるのである。

 単なる民衆のヤジに切れて暴言を吐くのは、国政を任せられるほどの、とても余裕のある人物とはいえず、ヤジに怯えてステルス演説し、それもダメだと、ヤジ対策をアベラ―ユーゲントにやらせるというのは、イカレタ独裁者のなによりの不誠実さといえる。

 なにより嘘は必ずばれるのである。嘘を流す愚かさを知るべきである。嘘で対抗者を蹴落としても、それは実力とはいえない。そういうのは不正でインチキなので、必ず報いを受ける。



 嘘だとわかる能力を身に着けることである。そのためには歴史を学ぶのが一番の近道である。

 このブログでも、権力者による歴史の書き換えなどを紹介してきたが、一番問題なのは、上からの情報を盲信することである。揺らぎない個人の価値観があれば、どんな情報でも盲信することはなく、どこかおかしいと感じ、具体的に指摘できるようになる。

 例えば、モリカケ問題などは、誰がどうみてもおかしいと感じ、アホ総理は国会で説明すればいいのに、その責任すら負わず、野党のせいにして、解散してしまった独裁者であることがわかる。

 インチキムサシを使って、ジコウが与党になった顛末が、この国の破壊、GDPマイナスである!

 まさしく詐欺師であるという話をお馴染みのサイトから以下に紹介する。

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選挙結果がどうであれモリカケは続くよ何処までも♪
http://my.shadowcity.jp/2017/10/post-11987.html





アベシンゾーが国連の選挙監視団を拒否したそうで、三度目の拒否だそうで、今回も三度目のムサシ捏造選挙ですw

 安倍晋三首相が11日夜のテレビ朝日の番組「報道ステーション」で、学校法人「森友学園」の前理事長の籠池泰典被告(64)について「詐欺を働く人物」と語った。籠池被告は詐欺罪などで起訴されたが、裁判の判決はまだ出ていない。法曹関係者から「無罪推定の原則を無視した発言だ」との批判も出ている。

 元検事の郷原信郎弁護士はブログで首相の発言を批判。取材に対し「三権分立の一角をなす行政の長が、起訴されている被告のことを、司法の場で裁かれていないのに『詐欺を働く人』と決めつけた。無罪推定の原則をおかしており、大変な人権侵害だ」と話した。

 そもそも「前回は存在しなかった政党」なので、票が入らなくても不思議に思われない。そんなもんか、と思われてしまう。ムサシに要注意。

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 ジコウが大勝しても、モリカケ問題が終わることはない。インチキ政治をしようとも、インチキはいずれインチキしたものに襲い掛かっていく。

 偽情報を流せば流すほど、流した側は流した分だけ疑心暗鬼になるものである。インチキをすれば、地獄に堕ちていく。それはどんな宗教にも教えられている戒めである。

 政治はどうやら堕ちるとこまで堕ちないとダメみたいなので、せめて医療について唯物論から脱するために、シュタイナーの人智学的医術を紹介する。

 人体を正しくみるには、宇宙全体の活動から、人間を捉えないといけない。つまり、病気をみるには、患者の全生涯をみないといけない。それには、やはり人智学が提唱してきた霊認識が必要で、そのためには、宇宙の人体への作用を認識できなくてはならず、物質への影響から、その作用を推測できなくてはいけない。

 病気に罹るのも、人生の選択である。人智学によると、遺伝病は存在しない。遺伝は、前世の経験から、今生において、カルマの解消のために必要な選択を行った事にすぎない。だから遺伝は人生において克服すべき課題である。

 わかりやすくいえば、貧弱な肉体に生まれれば、それを克服し、強化しなくてはならない。それには病気に罹って、病因を肉体を通じて掴み、抵抗力をつけなくてはいけない。だから病気に罹ることは、それ自体は悪であっても、善導には必要なのである。

 今回の第八講は、特に内容と意味を掴むのが難儀で、非常に苦労した。内容は、現代物理学で解釈するなら、ファインマンの経路積分を理解していると、要点を掴みやすいかもしれない。

 人体を素粒子の集合体として、経路で解釈するのである。それにはネットワーク理論が有用である。

 続けて人智学的医術を紹介する。

ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」第八講
1920年 3月28日     ドルナハ 


 人智学の理念を単純明快にするには、「エーテル体」、「アストラル体」などの用語で表現せざるを得なく、「エーテル体」、「アストラル体」などで、いまのところは、物質界に現れている天体(宇宙)の作用を表現し、翻訳するしかない。

 ただ今日では、物質界に現れる作用を、真に正しく霊や霊界に関係づける方向にあるとはいえないが、医学的思考には、直観的な霊視が是非とも必要となる。例えば、エーテル体と、物質体の相互作用は、そもそもどのように起こっているか、といった疑問にも是非関わって行くべきである。

 この相互作用は人体に生じているが、前回、霊的な相互作用の一つの、アストラル(天)体の作用が複合体をつくる事を述べた。つまり、この相互作用は、外の自然でも生じている。

 さて、以上のような霊的な思考を、正しく最後まで追求していくと、人間と外の自然との関係を実際に、根本から見通せるようになる。外の自然を眺め、周囲に多様な植物が拡がるのを、包括(全体)的な感覚で捉えれば、これらの植物に共通な霊性が知覚できるようになる。

 このような多様で、包括的な感覚から眺めれば、植物の霊性が知覚でき、その霊性とはじめに関わる、地球の大気、次いで、地球の大気圏外の、惑星(天体)、つまりアストラル(星)との関係が少なくとも予感できる。

 地球から多様に生える全植物の霊性を観察すれば、いわば大気のなかから、アストラル(宇宙)に向かっている、のがわかる(下図)。このアストラルへの志向は、全植物が、地球外(天体)の星々を目指して生長(展開)する、という意味をもつ。

 神秘学を理解できなくても、差し当たり、次のように予感できる。

 「外界の植物のなかにある、つまり、花を咲かせ、果実を実らす結果として現われる生長力と、遥かな宇宙からの作用との、活発な相互作用が霊視できる。」

 (植物の花は、宇宙への憧れを表現したものなのである。宇宙を模写した絵画といえる。だから、銀河や天体に似る。)





 更に、自然から目を転じ、つまり、外界から人体に、霊的な思考を転じると(幾分直観力が必要で、既に述べたが、医学には直観力が必須である)、外界との親和性が見つかる。

 (人智学では直観力をイントゥイションと呼ぶ。仏教でいう神通力。簡単にいえば、宇宙の働きや、宇宙からの作用を読み取る能力。だから占星術には、直観力は必須である。

 古代では、占星術から暦を決めた。宇宙の働き、天体の軌道からリズムが生まれ、そのリズムを基にして、生活の基盤となる暦を決めなくては、宇宙の働きに沿って、人類が進化できなくなるからである。)

 結局、次のような結論に至る。

 「植物では、エーテル体と物質体は密接に結びついているが、その結びつきと、人間のエーテル体と物質体の結びつきの、つまり、この両者の結びつきにも親和性がある、のが予感できる。」

 さて問題は、このエーテル体と物質(肉)体の親和性について、外(物質)的に具体的に、どのように説明できるか、という疑問に答えないといけない。まず、抽象的には次のように考えられる。

 「エーテル体は、上方に向かって開いているので、物質体よりもアストラル体と親和性がある。」

しかしまた、「(植物からわかるように)エーテル体は、物質体にも親和性をもつ。」

 すなわち、以上のようなエーテル体の二重の親和性、一方では物質体、他方ではアストラル体に導く要因を探究しなければならない。ではどのようにして、二重の親和性に導けるか、出来るだけ具体的に考えてみる。

 いま花盛りの菩提樹の並木道を歩くのを想像してみる。花盛りの菩提樹(西洋ボダイジュ、シナノキ科)の芳香のなかの並木道を、どんな具合に通り抜けていくか、具体的に想像してみる。

 花の香りを、自分の鼻のなかの神経に伝え拡げていく活動と、香りが外界に拡がる活動との間に結びつきが生じる。

 更に、香りを知覚する活動に注目すると、その匂いについて、体内に嗅覚力が発現する。すると、次のような考えが浮かぶ。

 「花の匂いにより、体内の活動が、外へと導かれる。(人体の)内と外とが、匂いの親和性によって共鳴しあい、共同で活動する。」

 更に次のような考えが浮かぶ。

 「外界に発散される花の芳香、つまり宇宙に向かう植物の生長力と、宇宙からの作用との相互作用が、人間の嗅覚という知覚活動のなかにある。」

 人間は知覚によって、体内のエーテルを、アストラルに導く。これは疑う余地のない事実である。この導きがなければ、人間は知覚できず、単なる機械でしかないだろう。

 嗅覚という知覚器=鼻が、アストラルへの関与を実証している。しかし、外界との親和性を示す、花の匂いは同時に、嗅覚活動と親和性をもつが、その対極となる。

 実際、菩提樹の花の、拡がっていく甘い香りのなかに、植物の-エーテル体と、その周囲の宇宙空間を充たすアストラルとの相互作用を霊視できる。従って、人間は「匂いを嗅ぐ」活動を通じて、植物が、地球外(天)のアストラルと親和性をもつ活動と関わる。

 では次に味覚、甘い香りから連想するなら、例えば甘草の味、もしくは甘い葡萄の味を考えると、嗅覚と同様の活動がみえてくる。味覚は、嗅覚と大変な親和性を持っている。

 だから、すぐに思いつくのは、自然のなかでは、味覚と、嗅覚が、互いに親和性を持つ事である。しかし、味覚は、嗅覚よりも、より内側の、エーテル的-霊的な活動なのを明確にする必要がある。むしろ、嗅覚は外側の、表面での活動である。

 嗅覚は、外の自然の、エーテルを拡張し、空間に拡がる活動に関与しているが、味覚は異なる。味覚は、むしろ物質の特性となる実質に到達できる。嗅覚よりも、味覚から、物質や植物の特性がわかる。

 だから、霊的な直観力の助けを得れば、次のような結論に至る。

 「植物の硬化は、味覚を通じて、特性として姿を現わす。」

 しかし、植物のエーテルの生長力は、硬化に抵抗する。この抵抗は、植物が芳香を放ち、アストラルへと誘う活動に現れる。だから、逆に、味覚は、エーテル体が物質体に関わる活動なのがわかる。

 さて、今度は、嗅覚と味覚を同時に考える。植物の匂いを嗅ぐか、味わうかで、(植物の)エーテル体が、アストラルか、物質体かに向かう様子がわかる。嗅覚や味覚を通じて、エーテル体の活動がわかる。

 すなわち、嗅覚や味覚の根本は、エーテル体がアストラルや物質体と関わり、物質界に現れる事にある。だから、嗅覚と味覚の根本を捉える事で、人間の霊魂は、外界に対して人体の知覚の最前線にいる事になる。

 しかし、実際、重要なのは、人智学から、真の科学の結実に向けて、これまでの抽象的な神秘主義を脱し、霊を具体的に捉え、理解する事である。相も変わらず、「人間のなかの神性を理解すべき!」と語るだけでは、何の役にも立たない。

 このような人たちが、「神性」という言葉で理解しているのは、せいぜい、何か抽象的な(漠然とした)神性にすぎない。

 このような考え方に果実をもたらすには、具体的な現象を追跡していき、外界の活動(経過)を、具体的に人体で観察しないといけない。

 つまり、例えば、嗅覚や味覚と親和する、外界のエーテルを、実際に観察し、いかにエーテルが、人体に作用するか、

 つまり、人体上部の、最も粗雑な(物質的な)感覚活動(嗅覚や味覚)のなかに、外のエーテルの活動が直接浸透していく様子を観察しないと(本当の神性は)わからない。

 現代において究めて大切なのは、抽象的な神秘主義を脱する事である。

 さて、これから明らかになっていくが、自然では、全てが何か新しい別のものへと絶えず移行していき、自然のなかの全ては、ある事象が別の事象へと移り変わる傾向、別の出来事へと変化していく傾向にある(諸行無常)。

 では、この変化の原理から再考してみる。嗅覚は人体の表面にあり、それより内にあるのが味覚である。そして、嗅覚や味覚はそれぞれ、エーテルが、アストラルに向かって拡がるか、もしくは物質へと硬化するか、の活動を捉える。

 つまり、植物は、外界に芳香を放ち、気化する事で、外に向かって進むか、もしくはまた、人間等に食べられ、味覚により知覚される事で、芳香とは逆に進み、外では、硬化の物質体に至るエーテルの活動が、体内では内のアストラル体に向かう。

 嗅覚と味覚を探求すると、エーテルを通じて、内外で共に変化する、のがわかる。

 自然では常に、ある活動が別の活動へと移行している。植物が、芳香を放つ事で、いわば硬化を免れ、素人じみた表現だが、霊性を大気中に発するが、この霊性に感覚を向けると、大気中の芳香には、幾らかまだ植物の実質が含まれている、のがわかる。

 植物の香りのなかには、なおもその幻影[Schemen](霊性)が存在している。植物が、香りの幻影を送り出し、硬(固定)化を回避するとき、つまり、植物が、花にはなるが、花のままにとどまるのを回避し、香りを放ち、気化するとき、外界には一体何が生じるのか?

 植物の香りの素は、つまり、抑制された燃焼活動に他ならない。この芳香の発生という植物の変化を、連続的に考えていけば、次のような結論に到達する。

 「芳香の放出の本質とは、抑制された燃焼活動である。」

 つまり、燃焼活動が一方にあり、植物の芳香の放出が他方にある。すると、両者に共通する統一体の、2つの変化形態(メタモルフォーゼ)が認識できる。言うなれば、芳香の放出は、燃焼活動の別段階といえる。

 では今度は、味覚を刺激する植物の素を考えてみる。植物の味覚の素は、深くにあり、幻影として周囲には放出せずに、植物内部の統合に使用される。

 人間は味覚によって、この植物の内部統合を捉えるので、硬化の下位の変化形態、つまり塩化の活動(プロセス)に到達できる。勿論、いまは植物の話なので、植物の塩化活動である。

 これまでの話から、人間は嗅覚と味覚により、植物に独特なエーテルの変化を捉えている事がわかる。植物の匂いを嗅ぐ事で、上方に向かうエーテルの芳香の放出を捉えている。これは抑制された燃焼活動であり、花から芳香を放出させずに燃焼活動を始める事もできる。

 というのも、花を咲かせるエーテル体の活動は、芳香の発生のなかに既に組み込まれた燃焼活動だからである。逆に、植物の下方に向かうと、エーテル体の硬化や塩化活動が見つけられる。だから、植物の味覚の素は、抑制された塩化活動なのである。

 植物のなかに塩が組み込まれ、植物を食べると、植物塩を感じるが、それは、植物が進化を逸脱した(脱植物化した)活動なのである。植物塩は、植物が、幻影を特性に押し込めた証である。

 以上の活動から、治療薬を獲得するための理性=理念=原理(ラチオ)を認識できる。この理念が、植物に光を当てる。植物のなかの神性を具体的に掴めるからである。繰り返し強調するが、神性=宇宙の活動を、具体的に観照する事が肝要である。

 さて、更に進むには、次の事を思い出せばよい。

 神性に具体的な意味を持たせるように、臨機応変、柔軟に思考を展開し、今日の唯物論的科学の功績と結びつけて考察する事である。

 以上によって、人智学が与える知識と、外(唯物)的科学に橋を架ける事ができるようになるだろう。当然、これから議論する事も、人智学がもつ霊認識の方向に特徴づける事もできるが、現存する今日の科学でも通用する考え方に、あえて関係づけていく。

 今日の生理学者は、眼に見える物質だけを語るが、人智学者は、特に眼に見える物質だけを語るのではない。同じ意味で、人智学者は、人体などを解剖する必要がないが、今日でも通用する考え方になるべく関係づけていく。

 実際、肉体を解剖するなどの暴挙を行う必要はないが、既に、もう解剖学が存在し、その成果を提供している事実は、やはり考慮に価する。物質のみを記述する自然科学が、人智学によって、息吹きを与えられ、豊かにされれば、人体解剖のような暴挙を止める事ができる。

 では1つ試してみる。視覚と、嗅覚、特に味覚との関係から、つまり、視覚神経の拡がりと、味覚神経の拡がり、という点で、親和的な関係が成立しているのが人智学から明白になる。

 この両者には、非常に密接な親和性が成立し、視覚活動の特徴を示したいなら、味覚活動との類似から、実際多くの共通点を探し出せる。勿論、味覚神経の拡がりは、精緻な視覚形成の眼とは、結びついていないので、視覚とは、全く別物で、味を見る事はできない。

 しかし、物質を捉える眼の精緻な構造の背後の、視神経から始まる視覚活動は、内的に味覚活動と親和性をもつ。

 つまり、両者の類似から、視覚は、味覚を変化させる活動なのである。この変化は、味覚の前に、眼の精緻な構造から生み出される視覚を置いた為に起こる。

 (食べ物の色で、味が変わる。)

 さて当然、いかなる意味でも、人体から外に向かう活動と、外から人体に向かう活動とを区別しなくてはならない。例えば、いま血液が眼に流れ込む事で、霊=自我が眼に働きかける活動に注目する。

 (血液は自我の物質面)

 この活動は、人間と同じような眼を持つのに加えて、目のなかに房室や剣状突起のような血液の器官を持つ動物に強力に起こる。このような血液の器官を通じて、眼球のなかに自我(エゴ)が多く送りこまれる。

 人間では、自我(エゴ)は、眼から後退し、眼球を自由にしているが、血液が全身を巡る事で、自我は、眼の視覚を通じて、全体の感覚に働きかける。

 だから、視覚により、味覚が変化するので、視覚を、「味覚を変える感覚」と呼べる。だから、味覚を変える感覚として、味覚や嗅覚の上位に、視覚が位置づけられる。

 つまり、視覚が、内の味覚を変化させるように、味覚は外の視覚に対応している。つまり、味覚は、上位の感覚に合わせて進化しなければならない。だから視覚は、味覚が進化した感覚である。

 (梅干を食べた後で、梅干をみると、唾液が出る。食べなくても、見るだけで味がわかる。)

 更に今度は、下位にも、味覚は変化しなくてはならない。視覚が、味覚の外に向かって上昇していく進化である一方で(眼は頭蓋骨の窪みに嵌め込まれ、外に向けてつくられる)、反対に下降していく変化、つまり退化も考えられる。

 このように、視覚の他方の極に相当する内側の感覚活動に到達できる。この活動は、次のような考察から夥しい光を放つ。

 では、下に向かって、味覚の変化を追求していくと現れる活動とは、一体、何か?

 つまり、その活動とは、消化を前提とし、その消化のなかに、感覚活動をもち、視覚を、味覚の上位への変化と捉えたように、消化を、味覚の下位への変化と捉えないといけない。

 この下位への味覚の考察から、消化を、外に向けられた視覚と対極の内向きの感覚活動として理解できる。外に向けられた視覚は、いわば外界に対する消化活動で、周囲のエーテルを体内に吸収する消化活動という認識に導く。

 また他方で、消化が、味覚に親和性をもつのに気づくだろう。消化活動を、次の様に味覚のような感覚活動と考えないと、肉体のなかのエーテルの活動、もしくは消化活動だけに見られる局所のエーテルの活動を洞察できない。

 「良い消化とは、消化が味覚となる感覚活動で、悪い消化とは、感覚活動になっていない活動である。」

 (良い消化とは、消化=味覚で、悪い消化は、味覚しない消化、つまり機械的な消化。)

 さて、いままで考察してきた感覚(認識)活動は、味覚と嗅覚に分けられる。このように、1つの感覚活動が分かれて、一方では、エーテル体と物質体との相互作用を捉える味覚活動となり、他方では、エーテル体とアストラル体との相互作用を捉える嗅覚活動となる。

 また、味覚の後の変化も同様に分けられ、つまり、一方では、腸による排泄、いわゆる糞便に進む消化と、他方では、腎臓による排泄、つまり排尿に進む消化に分けられる。

 以上から、上位と下位の対応、つまり、2つの相対する対極が得られる。味覚と嗅覚、更に腸の消化と、腎臓の消化とを区別する事で、味覚-嗅覚と同じ上-下の相対する対極が得られる。

 以上のように、皮膚で隔てられた体内の活動は、外の物質を内の精神(霊)に翻訳する作業として観察できる。というのも、感覚活動を上位に継続していくと同時に、外の物質をアストラルへと変化させ、霊化していくからである。人間は、外界に向けて開いている。

 さて、感覚活動を追求していくと、霊魂の活動のなかに、唯物論的な意味でなく、霊的な意味で肉体と結びついて、視覚を変化させる[ein metamorphosiertes Sehen]活動があるのがわかる。

 また、視覚を変化させる活動を、思考やイメージにまで追求すると、イメージをつくる根底の器官として、頭のなかの器官の脳が、視覚を変化させる器官である、と考えられる。

 思考のなかのイメージのほとんどが、そのまま視覚に継続する。生まれつき盲目(目の不自由)な人、もしくは生まれつき耳の聞こえない(不自由な)人の霊魂の活動、つまり思考について比較するとよい。思考のなかに、肉体に向けて継続する視覚をもつ事がわかる。

 以上から、頭や脳の解剖学的構造と、思考活動との独特な相互関係に一筋の光が投げかけられる。

 例えば、思考活動について正しく追及し(医学の学位請求論文となるだろう)、統合的な思考、つまり観念と、脳との関係を調べたなら、不思議にも、観念が、嗅覚神経の構造を変形させるのがわかる。

 従って、次のような結論に到達する。

 分析的な思考(知識)は、物質=肉体で見ると、その対極の視覚に類似するが、統合的な思考(見識)、つまり観念は、エーテルでみると、嗅覚に類似する。

 つまり、この類似性が、脳の解剖学的な構造にも現われている。以上のように霊視すれば、イメージや思考の物質面に辿り着く。

 では更に内(精神)へと活動を探究していくと、どこに到達するのか?

 視覚からイメージとなるのは、これまで(自我が)外界として捉えてきた活動で、このイメージは、思考活動によって再度、肉体へと投影される。思考活動は、視覚を、逆向きに、つまり、再び肉体に導くように努めている。

 従って、その視覚を逆向きに導く活動は、内へと霊的な変化を継続するのではなく、外の物質に導くように努めている。つまり、視覚が、味覚の上位への変化で、味覚が下位に変化した消化は、排泄へと継続し、排泄は、以上の事から視覚を逆向きに導く、イメージによる思考活動の対極となる。

 以上のように、この講義のはじめに、比較解剖学で示した事実を、別の、霊的な観点から捉えた事になる。そのとき示したのは、脳による思考(霊)力と、腸による排泄の制御との間には親和性があり、腸の構造、特に腸菌群落の生態系のなかに、思考力となる生命力が示唆されている、という事実だった。

 いまは霊的な面から捉えている。つまり、いま示しているのは、内の霊性に向かっては、思考のなかに、視覚が継続し、外の物質に向かっては、排泄のなかに、消化が継続している事である。

 さて、少し前の、霊的な観察からわかった事、つまり、芳香の発生は、燃焼(アストラル→エーテル)の抑制で、植物の硬化は塩化の抑制(物質→エーテル)である、のに戻るなら、再び、人体に光を投げかける。特に、エーテルへと反転が生じる、のを明確にしないといけない。

 人体の上位では、視覚において物質からエーテルへと内に反転し、下位では、消化から排泄において、アストラルからエーテルへと外に反転している。従って、上位では、塩化の抑制との親和性が認められ、下位では、火[Feuerwerden]、もしくは燃焼の抑制との親和性が認められる。

 つまり、植物での芳香の発生や、燃焼の抑制に相当する活動を、人体の下腹部に導けば、下腹部の働きを支援できる。また、植物での塩化の抑制、もしくは塩化をエーテル(霊)化する活動を、人体上部に導けば、頭部の働きを支援できる。この事を更に個別に応用していく必要がある。

 以上のように、植物を含む外界が、再び人体のエーテル体に現われる、のがわかる。だから、体内に参入していくほどより一層、エーテル体など霊魂のなかに、外界の物質の痕跡などを探究しなければならない。

 消化器官、特に腎臓のなかで生じる活動のなかに、芳香の発生、もしくは燃焼に親和性をもつ対極の活動を探究する必要がある。

 更に、肺から始まり、喉頭や頭へと上に向かう活動のなかに、植物の塩化の活動、もしくはエーテルと親和をもつ対極の活動を探究する必要がある。以上から、次のような結論に到達する、

 「植物の塩を蓄積する活動を理解したら、それに相応する人体の活動を探せばよい。」

 今回は、以上のように一般的に探究したが、次回以降、個別に追求していく。

 以上から、植物薬を用いた治療法が、とりあえず治癒原理から特徴づけられた。少なくとも植物による治療法が何を根拠にしている、のかがわかる。人体の外と内との相互作用で生じている実際の活動全体を(包括的に)見通す事が肝要である。

 しかし、また、同時に、特殊な活動にも目を向ける必要がある。例えば、「嗅覚」よりも、むしろ「味覚」に特徴を持つ植物、つまり、食べて味わう事で、「香り」と「味」の統合を知覚できるような植物、つまりメリッサ(メリッサ、レモンバーム、西洋ヤマハッカ)やカキドオシの「香り」を考察してみる。

 すると、そのような植物には、既に、多少の塩化があり、芳香の発生との共同活動があるのがわかる。この事から、メリッサ等のような植物と親和性を持つ人体の器官は、アストラルからエーテルへと外に向けた活動なので、胸から下位にあるはずで、特に芳香を放つ菩提樹や薔薇のような植物と親和性を持つ器官は、下腹部周辺の位置にある、のが示される。

 さて、人体上部の嗅覚や味覚の領域に位置する器官を、エーテルから観察すると、より深い意味で、人間にとって重要な、ある別の活動が組み込まれている事に気づく。この別の活動とは、呼吸である。

 この呼吸についても対極の活動が探せる。この呼吸の対極は、消化が排泄に通じ、人体上部のイメ-ジ活動の対極となっているので、消化とは別の活動である。

 呼吸が、エーテル(機能)的に見て、嗅覚-味覚活動の近くの内側に別の活動としてみつかるように、消化の近傍にも、別の活動がみつかる。これは消化から内のエーテル体へ向けて進む、つまり、リンパ腺-血液の活動である。

 以上のように、2つの対極の活動がみつかる。1つは消化から分かれた活動、もう1つは、外界に向けて配置された感覚から分かれた活動で、すなわち、感覚の背後にある呼吸活動と、消化が排泄に通じる前に、消化から分かれたリンパ‐血液の活動である。

 本来は、以上のように宇宙全体の活動から、人間や人体を考察していかなくてはならないのに、奇妙にも、今日では通常、目の前にある器官=臓器だけしか観察しない(現代では、細胞や核酸の遺伝子や蛋白質)。なので、この講義では、宇宙の活動に通じ、人間と、外界との関係から、人間を認識し、人体の洞察を試みる。

 そして実際、直接、宇宙の活動の写像である、人体のエーテルの活動の諸関係がみつかる。というのは、いままで探究してきた事は、結局、人体のなかのエーテルの諸作用に他ならないからである。そして、呼吸活動と血液の活動の、2つの活動は再会する。

 この再会は、心臓で起こり、外界の作用も含めると、外界からの作用が人体の二重性を生み、心臓で堰き止められ、心臓において、均衡状態を目指す二重性となって現われてくる。

 (最近読んだ記事によると、血管に炎症が起こる川崎病が進行すると、冠動脈に動脈瘤をつくりやすくなるらしい。呼吸と血液の二重性が、心臓に至る例といえる。)

 以上のように、ある特別なイメージ、心臓の霊的なイメージに到達できる。この心臓のなかで、人体全体にわたって、外の宇宙からの作用の統合(融合)[Synthetisieren]がなされ、心臓から、その統合が、外界に対して、拡大(分化=増殖)[Analysieren]していく。

 つまり心臓のなかの統合=融合が、外界では拡大、分化していく(下図参照)。





 以上から、重要な考えに到達する。例えば、次のように表現できる。

 「宇宙を円として見渡し、自問する。この円のなかに何があるのか? この円から働きかけてくるものは何なのか?

 この円と親和性のある、同じものを、私のなかのどこにみつけられるか?」

 自分の心臓を覗いてみる! 

 すると、心臓には、反転された円があり、心臓は円と対極に配置されているのがわかる。

 心臓という(円の)対極からみると、心臓という点から、無限の彼方に続き、周囲に拡張された宇宙の円が、心臓では1点に集中している。宇宙全体が、この心臓という点のなかに集約する。

 また大雑把な比喩を使うなら、次のように表現できる。

 「山の上に立って、遥か彼方を見渡し、宇宙の広大な円を見るのを想像する。それから、小人を心臓のなかに置いて、この小人が、心臓を通して、何を見るのか、を想像してみる。

 この小人は、心臓のなかの循環のなかに、宇宙の全体像が縮小され、統合(融合)される、のを見る。

 この想像は、単純で具体的なイメージにすぎないが、正しく解釈すれば、正規の制御=調整のイメージ、調和の原理として働き、個別的な認識を、正しく総括する手引きとなる。」

 以上のように、個別の観察のための大体の基礎ができた。また、提出された様々な質問に答えるための土台にもなるだろう。

1-8

 人体を波動で捉え、霊視する為に、人体の第2の部位に移る。この部位を大雑把に胸部と呼んでいるが、胸部は人体では、リズム=律動を包括し、以下のような図を描いて、呼吸リズムと、循環リズムに区分する。

 この第2の部位全体に注目するなら、次のように表現できる。

 「この図の、広義の呼吸リズムとして示した部分(下図の右上参照)は、自我とアストラル体の制御記録部=ソフトウェアである。

 つまり、頭部が、自我、アストラル体、エーテル体の制御記録部であるように、胸部のこの呼吸リズムは、自我とアストラル体の制御記録部で、主として自ら独立して働く部分(下図の左上参照)=ハードウェアでは、物質体とエーテル体が共鳴している。」





 「頭部では、主として、自ら独立して働くのは物質体だけである。エーテル体も制御記録部になる。しかし、呼吸リズム系では、物質体とエーテル体の相互作用が主で、制御記録部は自我とアストラル体である。」

 この呼吸リズムは、本質的に循環リズムでも見られるが、代謝が、循環系に押し入っていくので、呼吸リズムよりは弱くなる。しかし、既に、この部分で、四肢-代謝系にも当て嵌まるリズムが始まっている。

 この四肢-代謝系に関わるリズムは、本来の循環活動のリズムの他に、代謝として入り込むリズムに伴う四肢のリズムがあり、本質的に、自我の制御記録部と、物質体、エーテル体、アストラル体の共鳴部分である(下図の下部分参照)。

 だから、次のように言える、

 「胸部に注目すると、胸部の霊的本質のうち、自我とアストラル体に限って、リズムの制御がなされ、その効力(影響)が現れるのは、物質体とエーテル体の共鳴部分である。」

 この共鳴部分は、呼吸リズムに、より強く浸透し、循環リズムでは、代謝系によって別のリズムが入り込んでくる。








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Last updated  2017年10月14日 20時06分07秒
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