シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2019年07月03日
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カテゴリ: 神秘体験空間
もはや月一のブログと化してしまったが、月一なので、そろそろ書きます。

この国は相変わらずの体たらくだが、それは特に政治家に「哲学」が欠けているためである。哲学を粗末にしているから、背骨が歪み、腰痛を起こし、精神が、クラゲのような軟体動物に退化しているのである。

脊椎動物がなぜ生まれたか、それは生命の樹をみればわかる。脊椎ができ、その上に脳ができたのである。知性体には基盤が必要である。言語である。言語は音階ともいえる。古代の哲学は音楽でもあった。

哲学といっても、現代に残っている哲学は、古代ギリシア時代の遺産のようなもので、枝葉末節のような知識の破片でしかない。例えば、クラッシック音楽の断片的な、ある譜面でしかない。とてもシンフォニーを演奏できる代物ではない。

浮世に流れていくクラゲのような騒音でしかない。いまでいうなら、ウイルスのRNAでしかない。とても高等生物の精神を表現できるものではない。

だから哲学は高度に、形あるものではない、音楽は演奏者により、変幻自在である。

私がいうのもなんだけども、哲学は本来は、形がないものなので、これが哲学というのはおかしいのである。簡単にいえば、形がないという意味で、無学のことである。

無といっても、無いわけではなく、なんでもありだから、これこれと限定できないという意味で、無というしかないのである。だから、無なんだけど、完全でもあるが、また完全というと限定されてしまうので、無制限の完全なので、無としかいいようがない。

ぶっちゃけ、無とは何かというなら、宇宙は無からできているわけで、人間の知性を超えるのである。ソクラテスが無知の知といったのは、人間の知性を超える存在を知りなさい、ということなのである。



例えば、野球に関して、イチロー選手が言ったことを、野球をはじめた人には全く理解できないのと同じで、簡単にいえば、経験量が違うわけである。イチロー選手に到達するには、それだけの努力の蓄積と経験量を必要とするわけで、それと同じように、人間の知性では、宇宙の真理は理解できない「無」なのである。

どういうことかというと、天才という存在がいるが、これは前世から今生に、その能力を携えてきたことを意味する。そういう天才的才能は、今生の努力、つまり秀才では理解できない、無なのである。

だから、何べんも何べんも輪廻転生して能力を磨き上げて、より無に近づくことが、一回の人生だけには当てはまらない、形をつくらない、変幻自在の能力を身に着ける学問が、哲学なのである。

だから、すぐに理解できてしまっては、哲学足りえないのである。理解できるには、それだけの経験と努力が必要なのである。

だから、自分を大きくみせたり、欺いたり、ウソなどついてたら、それだけで台無しなのである。常に真剣に真善美を研ぎ澄まし、磨き上げないと、とても無には到達できない、ただ束の間の満足でしかないのである。それは頭だけでなく、全身全霊でである。

早い話、無とは、神のことである。哲学は、古代ではフィロソフィといわれ、これは何度もこのブログで紹介してきたが、フィロとは、共鳴や共感、同調の意味をもち、ソフィは、ソフ-エアからきていて、エアとは、古代(アトランティス時代)の女神のことで、ソフは接頭語、冠詞で、浸透する、という意味をもち、女神は古代では叡智とも呼ばれたので、浸透する叡智に共鳴する、という意味になる。

つまり、宇宙をつくっている、人間の知性ではとらえられない、無である神と共鳴する学問のことである。だから神学は古代の哲学でもある。

宇宙は神の創作物だから、人間もそうで、すべての根本には神の無の原理がある。無の原理に到達する方法が、哲学なのである。

ソクラテスは、神との対話を自分のなかで確立せよと説いている。例えば、自分の行いが、相手にどう捉えられるか、自分と相手の根本に神の無の原理が潜在しているから、自他の共鳴の内在に神の無の原理がある。

だから、ソクラテスは、相手の意見の反対を説いた。この行為はヘーゲルによって正反合の弁証法で示された。

その弟子プラトンになると、理念=イデアが生まれる。イデアとは、この世から捉えた、あの世の存在とでもいうべきものである。覚醒意識から捉えた、潜在意識の存在のことで、プラトンは、洞窟の人間の話で説明している。



アリストテレスとなると、演劇論になり、つまり霊魂を、この世に降臨させて現出する方法を、現代科学の実験に近い手法で、説くわけである。

現代人は霊能力を失ってしまったから、潜在意識の目を奪われ、この目は、眉間のチャクラで、昔は、一つ目や三つ目、第三の目で、表記された。その名残りが、いまでも頭頂部の緩い部分=大泉門として残っている。

この三つ目とは、霊能力再獲得で現れる松果腺の輝きのことで、ある密教の呼吸法により、いわゆるチャクラ開眼となると、仏法でいう、仏像の眉間の「白毫」が現れるのである。

オカルトで有名なフリーメーソンの三角形のなかの眼とは、この松果体の眼をシンボリックしたものである。生命の樹でいうなら、叡智の実のことで、旧約聖書で有名な、アダムが食べてしまったので、つまり、肉体に転生したために、人間は潜在意識の眼を失い、代わりに覚醒意識をもったので、自分が裸=無知だとわかったのである。

これ現代の物質洗脳教により、単なる「毛」とされているが、オカルトでいうところのアストラルの眼のことである。仏法の心眼のことで、この心の眼で、相手のなかの潜在意識を見通せるということなのである。



だから、逆に三次元から四次元へと昇華し、仏教で開眼したら、霊能力をもたなければウソつきである。だから死者と会話できなきゃウソで、死者と会話できないで、適当な戒名とかつけるのはボッタくりと同じで、地獄におちますよ。神殿で商売してはいけません。必ず地獄におちます。

地獄におちても、地獄から這い上がれる能力があれば、地獄も苦にしないわけで、そのために、この世の地獄で、訓練しているのである。だから俗世から解脱というのは、そのまま地獄から脱出ということなのである。

仏教徒は、この世の地獄を味わい体験しないといけないわけで、そのために修行が苦行としてあるわけですね。これ全部とどのつまり、哲学なんですね。

だから、哲学とは、この世での体験談を集めた図書館で、それは十人十色の様々な人間の霊魂のなかにそのまま書き記されているわけで、現代風に一言でいえば、価値観学でしょうか。

もっと自分を大事にしましょうよ。今生だけで終わりじゃないんだから。悪いことをすれば、必ず報いがあるのである。因果応報は御釈迦さんが説いていますよね。道のりは果てしなく長いのですよ。

特に政治家は地獄におちてもがき苦しむだけですよね。もうすでにもがき苦しんでいるけどね。みんなにバレバレで軽蔑されてます。そのうち誰も相手にしませんよ。哲学を疎かにしたツケですよね。

四次元とは、自分のしたことが、自分にかえってくる世界なんですからね。簡単にいえば、哲学の一つの、仏教は四次元の世界を説いているのです。





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Last updated  2019年07月03日 22時18分38秒
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