シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年03月12日
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カテゴリ: 神秘体験空間
先日、BSNHK番組で、現代科学での、宇宙人探索をみたが、相変わらずで、科学的思考も吟味せずに、全てを物質で捉えようとする愚かさに呆れてしまった。現代人の知性が、生命に対して未完成なのに気づかず、生命をそのまま理解できず、物質の構造変化でしか理解できず、しかも覚醒意識においては、破壊に基づく、部分的な分類でしかないのを、その根底から理解しない限りは、宇宙人などみつかるわけがなく、無用の長物と化すだろう。

見つかると言う根拠が曖昧で、曖昧さ故の確率論で、みつかるはずなのに、みつからないのは、探索方法が無駄なのが少なくとも明白である。そもそも、みつけようとする人類の目的が明確でない限り、高度な知性の宇宙人が、地球人などの探索にかかるはずがないだろう。我々人類同士だって、ヒトと会うには、なんらかの目的を共有しないとはじまらない。

あてづっぽうにやられても、迷惑千万なだけである。詐欺の偽メールと同じである。高度な宇宙人が、低次の地球人の詐欺に引っかかるほうがおかしい。宇宙人にとっては、害獣や害虫のように、巷の、大谷選手の結婚相手を探索するパパラッチやストーカーのようなマスコミのような煩わしい存在にすぎない。もしみつかるとしたら、地球人よりも低次な知性の持ち主で、それらは、地球人に敵対する可能性が高いだろう。寝た子を起こすようなものだろう。

巷で話題となった、都会に出て食物を探すクマ騒動と同じだろう。宇宙人と遭遇して、殺されるのがオチである。人類のような低次な獣に襲われては低次な宇宙人ですら迷惑千万である。馬鹿な地球人は、侵略している気持ちすらないから、地球圏外を出れば、宇宙への侵犯になるわけで、アホである。ロシアのプーチンと同じ思考でしかない。

結局、現代人の探索方法が、人間の未完成な知性の、土台に基づいているのだから、砂上の楼閣なんである。はっきりいえば、現代人の知性とは、真逆の方向に進まない限りは無理なんである。いってみれば、我々人類も、高度な宇宙人の手足だからである。高度な知性の基に、低度の知性が築かれるから、つまり、創造力の基に、破壊力が生まれるのだから、破壊からは何も生まれず、絶えず、破壊という低い知性から、それ以下の低い知性しか生まれない。

現代人は古代人よりも遥かにアホ馬鹿で、だからプーチンのような究極の馬鹿が生まれてしまい、ヨハネの黙示録では、賢い善人と、アホ馬鹿な獣のような悪人に分かれると預言されているわけなんである。どんなに生きる気でいようが、高齢には勝てずに、結局野垂れ死にし、死後に、自らが殺めた霊魂たちに寄ってたかって八つ裂きにされ、復讐されるのがオチである。無間地獄が待つだけだ!

宇宙人探索よりも、死を解明する方が先であろう。死後の世界も知らないで、宇宙人探索などできるわけがない。高度な文明を、他の天体に求めるのも無意味である。なぜ現代が最も進んでいる、と思うのか?その思い上がりと、プーチンの侵攻とどこがどう違うのか? 地球の自然破壊すら食い止められないのに、なぜ現代人が高度の文明を築いたといえるのか?

いずれにしろ、現代人は生命以下の物質現象しか理解できない、のである。例えば、古代文明を、その遺跡から理解できないのは、古代人よりも、低度の知性しかもたないからである。古代人よりも、馬鹿だから、科学が発展すればするほど、競争が激しくなり、物質破壊により、いまだに、戦争しているわけである。

古代アトランティス時代の大破局により、宇宙についてのそれまでの高度な知性は失われてしまったわけで、大破局というのは、いわば、それまでの、タマゴの卵白のような世界から、物質界というタマゴの硬い殻のような世界ができたわけだが、そのために、古代の叡智の、卵白を感じる感覚や知性を失ってしまったわけなんである。聖書の記述では、マヌと呼ばれたノアだけが高度の知性をもち、次の人類に教え説いたという。



第一、宇宙人を探索しようとする動機が不純である。知的好奇心というと、聞こえがいいが、知的欲求といえば、ある意味、乱暴に聞こえるだろう。物質の構造を知るために、物質を破壊するのは、知的欲求で、動物実験もその類である。知らなくてもいいことを、知ろうとするのは、例えば、赤ちゃんにピストルをもたせる、のと同じではなかろうか?

現にプーチンが核兵器をもっているから、ウクライナに侵攻できたわけで、独裁者や権力者に高度な知性を与えたら、何をするかわからないほど危険である。オッペンハイマーが原爆をつくらなかったら、広島、長崎に原爆が落とされ、大量殺人も行われなかっただろう。大量殺人をしたものは、何百万人もの被害者の怨念や死の苦痛を、死後に、地獄でそのまま苦しみを味わい、のたうちまわるだろう。天国から出禁を食らい、永遠に彷徨えるユダヤ人となるだろう。古代人が、死者の書として既に、最後の審判などから伝承しているのを読み解けばわかる道理である。

知的好奇心や知的欲求が招いた悲劇が、現代人の核兵器といえるだろう。現代人は、古代アトランティス時代の叡智を再び獲得しないといけない。現代人は、古代アトランティス人からみれば、未開人で野蛮人だからである。生命の尊さを理解できていないからで、それは覚醒意識ではなく、眠ったときの潜在意識から、第六感、超感覚により獲得できる感性で、それらは前世を観れる能力から現れるらしい。

だから、覚醒意識で、何をしようが、覚醒意識自体が、高度な知性ではないので、無駄なんである。少なくとも、睡眠中の潜在意識を、覚醒意識に近づける必要がある。つまり、夢を、覚醒意識で解き明かせないとダメである。夢のなかで、高度な知性の天使たちとともに、覚醒時の人生の計画を練り、前世から、人生をやり直すだけの、創造力を獲得するからである。

灯台下暗し、というが、灯台の光が、高度な知性であり、我々人類は、その高度な知性の光を使って、灯台のように、遠くを照らしているわけで、元々の光をそのままみることができないから、その光よりは、どうしても、暗くなるわけで、自分の眼を自分で見れないのと同じで、高度な知性の宇宙人を、照らし出すのは不可能なんである。照らし出したとしても、その一部であり、欠片や断片にすぎない。人間もそのまま自分の姿全てがみれない。鏡に写しだしても、表面だけで、しかも表だけの、左右逆になる。体内や内臓もエックス線でしかみれないし、しかも、それは固い物質部分でしかない。

現代人の知性は部分的で、包括的ではないからである。

また、それら光や電磁波で、より遠くを映しだそうとすればするほど、高度な知性が低レベルになっていくわけで、つまり氷山の一角をより小さくみるようになる。だから、現代人は統計や確率論を持ち出すようになるが、それは所詮、全体の一部でしかないので、確率論では、1をどれだけ少数や分数に分布させるか、分割するかになってしまい、結局は、物質的な経験論からの予知論の問題に行きついてしまう。

予知すればするほど、全体の1ではなくなるので、無意味になるわけで、地震予知が不可能なのは、この理由による。確率論でいかに低いといっても、起こらないわけではなく、ましてや量子論的には、トンネル効果もあって、確率がゼロに近くてもゼロではない。だから、地震の少ない確率の土地に地震が起こるわけで、それが神戸や能登だったわけなんである。地震を司っているのは地球にある月の波動なんで、エーテルを検知できないと無意味なんであり、科学ではエーテルを否定しているから土台無理なんである。

だから、高度な知性に向き合わない限りは、覚醒意識では、真逆の方向に進むだけなんである。要するに、宇宙人がいない方向に進んでいるだけなんである。地震予知と同じで、地震確率の少ないのを狙って地震を起こせるからで、何事も性善説で起こるわけではなく、現代人は現状しか判断根拠を得られずに、あえていうなら、より宇宙人がいない方向に進んでいる、といえるだろう。

だから、宇宙人探索は、我々地球人が最も賢いという鼻を高くするための、天狗になるために行われているにすぎない。たとえ、宇宙人の断片をみつけても、宇宙人という確証は得られない。地球人が、地球という星で生活する限りは不可能なんである。少なくとも、地上の重力を感じる感性を捨て去らないといけない。

地球環境で生きられる生命体が、地球生命体なんである。それは高度な知性を、地球化しているからにすぎない。だから、地球化された知性で、他の天体を探索しようが、地球ではない時点で、無意味なんである。地球との違いが現れるだけで、地球から見える姿でしかないからである。探索船を打ち上げようが、電波で情報を伝える時点で、地球化されているからである。



さて、また先日、BSNHKで、原子爆弾を開発したオッペンハイマーの伝記をやっていたので、そのことについて書こうと思ったのだが、漫画家の鳥山明氏が亡くなった、ので、急遽、哀悼の意を込めて、鳥山明氏の漫画についての想い出を書きたくなった。

鳥山漫画は、ドラゴンボールで有名だが、個人的には、Drスランプが、ギャグ漫画として、漫画界のブレークスルーに思える。それまでの漫画といえば、スポ魂か、子ども向けの、仮面ライダーのような戦隊モノがほとんどで、ギャグに徹する漫画は少なかったからである。

そもそも漫画とは、滑稽さや風刺などの、コミカルな表現からはじまったようにみえるが、手塚治虫という、漫画の神様が出てきて、漫画を小説の文学や哲学に変えたようにみえる。手塚氏の漫画は、従来の漫画を超えた作品といえるだろう。手塚氏のブッダや火の鳥などは、一種の哲学を描いているようにみえる。その後の、藤子不二雄氏や、松本零士氏のSF漫画が活動分野の裾野を拡げ、更にリアル性を求める多様な劇画調のスポ魂モノなどが流行っていき、昭和の漫画の主流派を形成するようになってきた。

日本の漫画の歴史 - Wikipedia


だから、60年代から70年代には、従来の、滑稽さや風刺などの、コミカルな表現の漫画、俗にいうギャグ漫画は、本来は正統派なのに、有名なのはほとんどなく、新聞に載る4コマ漫画などの、子どもにとっては、亜流というか、異端派に格下げされた感があった。というのも、手塚氏がギャグ漫画を描かなかったせいといえるかもしれない。ギャグ漫画で有名なのは、ほぼ赤塚不二夫氏しかいなかった。

しかし、鳥山氏が出てきた当時の80年代は、ギャグ漫画ルネッサンスともいえるかのようなギャグ漫画ブームが到来して、それ以前のギャグ漫画といえば、赤塚不二夫氏の天才バカボンや、おそ松くんなどの、赤塚ギャグ漫画の独断場だった感がある。



シェー - Wikipedia


赤塚漫画の一発屋キャラは、人物を綺麗に描くよりも、デフォルメしたギャグセンスに重きを置き、ヘタウマな絵で、現実へのカリカチュアに徹した、独特の虚像、虚構表現満載の赤塚ワールドの住民だったが、対照的に、鳥山漫画は、確かにカリカチュアもあるが、まるで芸術作品のように、人物を綺麗に描き、そのままフィギュアにすれば、斬新的な彫刻やモデルになるくらいの、現実を超えた、未来の、どこかリアルな鳥山ワールドの独創性を感じさせた。

カリカチュア - Wikipedia


というのも、鳥山漫画にはイラストレーターのような、どこかモダンアート性、アンディウォーホールのポップアートをギャグ漫画にしたような洗練さを感じさせたからである。鳥山漫画に出てくる、どのキャラも、ポップアートのような芸術作品にもみえる。

アンディ・ウォーホル - Wikipedia


特に好きなのが、ニコチャン大魔王である。ニコチャン大魔王の地球(ちたま)征服には笑わせてもらったし、梅干し食べてスッパマンのセコいキャラでも笑わせてもらった。ドクターマシリトの憎たらしさも面白かったが、なにより、それまで、汚いものとされていたウンチを、芸術作品にして、ウンチ君という生き物にしたのは、ギャグ漫画革命といえるかもしれない。


このような鳥山ギャグ漫画の他にも、江口寿史氏のすすめパイレーツや、鴨川つばめ氏のマカロニほうれん荘、高橋留美子氏の、有名な、うる星やつら、ゆでたまご氏のキン肉マンなど、当時の80年代は、ギャグ漫画のルネッサンスといえるぐらい、ギャグ漫画が盛り沢山だった。

つまり、鳥山漫画は、漫画キャラのポップアート化に、その神髄があるようにみえる。世界共通の漫画キャラで、現在のアイコンの先駆けといえるかもしれない。個人的には、Drスランプは、当時の米国人の漫画キャラのポップアート化にみえる。というのも、ペンギン村は、日本(作者の出身地らしい)となっているが、どこか、米国の田舎の村っぽさも出ているからである。

そして、ドラゴンボールは、鳥山氏が、西遊記をネタにした漫画と言っているように、古代の中国を、現代未来風にポップアート化したような世界で、発刊当初はギャグ漫画路線だったのが、当時大人気の北斗の拳の影響を受けて、格闘路線に変更したようである。当時の週刊ジャンプは、北斗の拳が凄い人気で、他にもキャッツアイやシティハンター、キン肉マンなど、もはやいまでも伝説となっている。

アイコン - Wikipedia

北斗の拳 - Wikipedia

シティーハンター - Wikipedia


80年代の漫画の教科書が週刊少年ジャンプだったといえるかもしれない。ジャンプ漫画のキャラを知らない人は少なく、Drスランプのアラレちゃんやドラゴンボールの孫悟空、北斗の拳のケンシロウや、シティハンターの冴羽遼などはお馴染みだった。これら主人公の漫画内での展開が、天気予報と同じで、日常の話題だった。

巷の、鳥山氏の追悼ニュースをみると、鳥山氏は主要キャラ以外は度々忘れてしまい、記憶の断片から、その都度新キャラをつくりあげ、古キャラを忘れないと、新キャラがつくれないと、言っていたという。サイヤ人の髪の色が、漫画の紙面では、白なのは、黒のベタ塗りが面倒くさかった、という、有名な都市伝説もあるが、黒に塗るのを忘れていたのかもしれない。

超サイヤ人の金髪は「黒の塗りが面倒だから」じゃない。|鈴木 優一 (note.com)


その都度、キャラを更新していく描き方は、ある意味、疑問や問題をその都度解決していく、数学者にもよく似ている。古代ギリシア人からすれば、現代の漫画家は、現代の代数学の数学者よりも、数学者のようにみえるかもしれない。

というのも、現代の数学者は、大自然を、言葉の代わりに、数で表現する、代数学者と、幾何学で表現する、幾何学者がいるが、古代ギリシアでは、ほとんどが幾何学者だったからである。つまり、鳥山氏のような現代の漫画家は、大自然を、幾何学から発展した、アイコンの、擬人化によるキャラクターで表現しているからである。

だから、大自然をアイコンのキャラで表現する、鳥山氏は、古代ギリシア人からすれば、数学者のようにみえるかもしれない。鳥山氏の数学者的な長所が、恐らくドラクエなどのヴァーチャルなゲームの創作活動に巧くマッチしたようにみえる。

確かに、日本のアニメには、古くからのアミニズムからの擬人化が、上手く取り入れられていて、その最たる例がロボットで、手塚氏の鉄腕アトムといえるが、手塚氏の自画像は、本人似だが、鳥山氏の自画像は、なぜか、本人とは似てもしないロボットなのが面白い。鳥山氏の画力からすれば、本人の自画像ぐらいは容易なはずだが、ロボットなのはいかにも不思議である。


アニミズム - Wikipedia

擬人化 - Wikipedia

ほとんどの漫画家は自画像を描いているが、鳥山氏には本人似の自画像が無いのも不思議である。その代わりに、周囲の人物が、漫画に登場させられている。ドクターマシリトは、当時の編集者で、読者にも、締め切りを迫る憎っくき相手と紹介されている。センベエ博士は、高校の先生がモデルらしい。ペンギン村のモデルは、出身地の清州市という噂もある。

鳥山氏が、他の漫画家と違うのは、キャラに合わせて、有名な創作言葉を生み出しているところである。アラレちゃんの、「んちゃ」「ほよよ」「おはこんばんちわ」「バイちゃ」などや、孫悟空の、かめはめ波、元気玉、界王拳など、技に名前をつけるのは、北斗の拳と似ているが、北斗の拳の技名はほとんど知られずに、アタタタタと鍵盤を打つかの如くの連打と、「お前はもう死んでいる」というセリフで、ヒデブ―と言って死ぬ言葉だけが印象的だったが、対照的に、かめはめ波の知名度は抜群で、戦隊モノやウルトラマンの技に近い。

則巻アラレ - Wikipedia

孫悟空 ( ドラゴンボール ) - Wikipedia


そこで、かめはめ波を調べてみると、カメハメハ大王に由来しているらしいが、その技の仕草は、合気道にも近いような遠いような、独創的な拳法にみえる。ある意味、赤塚不二夫氏の、イヤミのシェーにも似る印象を与える。そして、技のネーミングは、ドラえもんの、4次元ポケットから出る未来の道具にも似ている。

かめはめ波 - Wikipedia


かめはめ波は、いまでも世界的なアニメファンにより、知名度抜群で、ドラゴンボールファンのコミュニケーションツールとして、独創的な拳法の型として知られているが、鳥山氏の独創性が面白いのは、アラレちゃんに、「めちゃんこ」を言わせることで、当時、「めちゃんこ」が大流行したことがある。漫画から、流行が生まれるのは革新的といえるかもしれない。

独創的で革新的な、フォンノイマンや、アランチューリングなどの数学者が、数学から、コンピューターをつくったように、鳥山氏は、ドラクエのようなロールプレイングゲームをつくった。コンピュータはいわば演劇の舞台設定で、ロールプレイングゲームは、疑似演劇といえるわけで、人生の役割分担を疑似ゲーム化したものともいえるだろう。

ジョン・フォン・ノイマン - Wikipedia

アラン・チューリング - Wikipedia

役割演技 - Wikipedia


鳥山氏の独創性の凄さは、現実世界の嫌われもののウンチを、キャラ化したアイコンにし、ペンギン村のなかで、擬人化され、アラレちゃんのペットのような遊び相手にしたところにある。この一見して醜悪なもののなかにも、愛嬌を探している洞察力に驚かされる。それは、キリストが、道に転がっていた犬の死体をみて、歯が綺麗だと言ったように、醜悪のなかに、美を見つける態度と似ている。

シュタイナーは、動物の糞には、植物の肥料となるような、霊性を育てる養分が潜んでる、と述べている。古代エジプトでは、生命の排泄液を、ミイラと呼び、糞や尿や汗などから、排泄した生命の霊性を探ったという。つまり、古代人は、ウンチから、ウンチを出した生命体を、霊的に推測できた。

だから、鳥山氏のウンチ君が、生きているように、ウンチも霊的には生きている、といえるだろう。このような、なにものにも、霊性を探求する姿勢について、前回紹介した、3つのグナをあてはめると、サットヴァに相当する。古代インド人が、鳥山漫画の作品をみれば、ヨーガやサーンキヤの理念から、サットヴァの態度と評価するだろう。

古くはアニミズムといわれ、古代ギリシアでは神格化、キリスト降臨後の、中世では擬人化となった、この万物に霊性を求める態度を、サットヴァという。ちなみに、サットは、万物という意味で、ヴァは、見通すという叡智の意味らしい。ドラゴンボールの7つの球は、人体のチャクラを暗示していて面白いが、鳥山ワールドは、どこか宗教観を感じさせるのも不思議である。

この万物を見通すサットヴァの目が、霊眼で、それは万物と合一する愛の犠牲の態度らしく、どんなものにも愛情を注ぐ、どんなものにも美しさを感じる態度といわれているらしい。つまり、万物を創造性に導き、善導するのが、サットヴァ的な態度のようである。

これとは逆の、万物を奴隷化し、モノ化し、とくに生命を唯物化するのが、タマス的な、闇の態度らしい。大自然を、自分の召使いかのように、奴隷化し、扱う態度を、タマスと呼ぶ。例えば、巷の懇親会に、破廉恥ダンサーを呼ぶような議員たちは、ヒトをモノ化しているので、古代インド人のサットヴァを体現した菩薩の賢者がみれば、タマスと判別されるだろう。

ちなみに、万物に親しみ、善導する、サットヴァと、その逆の自分しか考えられない、タマスとの中間の、自分に利益が見込めるときだけ、関係を求める態度、利益のない場合は、我関せずの不干渉の、打算的で、表面的な、利害関係の付き合いを、ラジャス的態度と呼ぶらしい。

だから、万物に、愛を追求する態度がサットヴァで、場合に応じて、利害関係で愛を追求するのが、ラジャスで、自己愛のみを追求するのが、タマスといえるかもしれない。だから、形だけの対応、例えば、一時期、巷でいわれたマニュアル通りのマックスマイルは、ラジャスといえるかもしれない。つい最近、巷の芸人の発言で話題になった、医薬分業体制の、薬剤師の問診なども、保健点数稼ぎの形だけの対応なら、ラジャスといえるかもしれない。

② 資料1 (mhlw.go.jp)

wp027.pdf (med.or.jp)

これからの病院経営を考える 第 6 回 変革を求められる薬局業界 ― 今何が起きており、今後どこに向かうのか ― | PwC Japan グループ


だから、心のない素っ気ない対応、自分の欲望を満たすだけの態度、自己目的でしかないエゴを、闇のタマスと呼ぶようである。というのも、それは本当の自分ではなく、自分から派生した物欲のエゴの、虚栄心の、幻想の自己をみているにすぎないからである。偽物のエゴを、自己と捉えるのは、自己の詐欺師である。

現代には、タマスが横行している。そのようなタマス的な、唯物的な態度を続けていると、人間はヒトという生命から、神性を失い、獣のモノと化していくだろう。自分の欲望のために、宇宙人をみつけるのは、ラジャスか、タマスといえるだろう。

少なくとも、宇宙人を尊敬しているのなら、宇宙人の側に、我々人類が行って近づくしかない。自分の欲望を解消するために、宇宙人探索をする、現代人の邪な態度を、高度な知性の宇宙人は、まるっきりはっきりとお見通しで、サットヴァしているので、そのような科学者に、正体を明かすことはないのである。

宇宙人探求法は、物質的観測法では無意味なのであり、古代から伝承されているように、愛に対して祈ることにある。漫画家が、作品に身を削り、愛を込めるのは、漫画の世界への、愛の祈りなんである。そして、愛が、キャラとして、脳裏に降臨し、イメージとして現れ、愛が一つとなり、ペンを動かす。

愛されるキャラが生まれるのは、作者が愛をどれだけ込めたかにある。アラレちゃんも、悟空も、高次の宇宙人との愛の絆で、愛の結晶なんである。人間はエッチだけで子が生まれる、と物質的に思い込んでいる。エッチは通過儀礼でしかない。

愛への祈りから、宇宙人はいつでも愛として現れる。人類が宇宙人側の愛に寄り添い、サットヴァになれるかどうかの問題である。

自らが愛に近づけば、愛は自ずと現れるのを、サットヴァするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

              ★        ★       ★

 創造的な諦め、創造的な断念の概念を理解しなければならない。諦め、もしくは創造的な断念(これは魂の中で実際に経験できる)を、日常の生活から、遙かにかけ離れた思考として認識するのが極めて重要である。そのとき初めて、人類の進歩において、一歩先に進める。

 というのも、「太陽」から「月」に移行する進化において、実際に、このようなことが起きたからである。そのとき、何か諦めに似た事柄が、高次の存在たちの領域で生じたが、それらの存在は、「地球」の進化に結びついた。

 この理解のために、再度、古「太陽」での進化を考えてみる必要がある。しかし、その前に、人智学徒には、お馴染みの、現代に至る過程で生まれた、ある意味謎めいて見えた存在に注意を向けてみる。

 繰り返し指摘してきたのは、進化の過程で、後に取り残された存在にまで遡れる、人類の発達に先行する存在たちである。実際、人智学徒は、ルシファー的な存在たちが、地上の人間に介入している、のを知っている。

 そして、再度、指摘したように、これらルシファー的存在たちは、古い「月」紀に達成できたはずの発達段階に到達できなかったために、地球紀では、我々人間のアストラル体に侵入できるようになった。

 宇宙進化史の文脈の中で、頻繁に、簡便な比喩を用いたが、人間が落第するだけでなく、天使も、発達段階を全うできず、後から生まれた他の存在たちの発達段階に介入することだった。そのように、ルシファー的存在たちは「月」紀において、後に取り残され、「地球」上で人間たちに介入している。

 ルシファー的存在たちには、何らかの知的な欠陥があったから、宇宙進化から遅れた知的障害者に違いない、でなければ、なぜ達成できたはずだ、と安易に考えがちである。そのような考えを持ちがちである。しかし、また別な考えもできる。

 『月』上にて、ルシファー的存在たちが取り残されなかったら、人間は決して自由を獲得できなかった。自らで決定する為の独立した能力を発達させるのは不可能だった。

 自由を獲得する一方で、我々人間はアストラル体の中に欲望、衝動、熱情をもっていて、常に、ある高みから、駆り立て、低次な自我へと引きずり下ろそうとするのは、ルシファー的存在たちに依る。しかし、このアストラル体の中の、ルシファー的存在たちの力を通して、善から彷徨い出て、悪になる能力を持たなかったなら、自由に行動することも、自由意志、もしくは、選択の自由と呼べるものも、人間は自己のなかにもてなかった。





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Last updated  2024年03月12日 15時07分43秒
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