シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年10月29日
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カテゴリ: 神秘体験空間
自称ネットフーテンの寅さんのつもりで、ネット界隈を旅していると、たまに面白い記事に遭遇する。それは、次の『「なぜ戦争はなくならないのか?」ホッブズが説く人間の残酷な本性とは【社会契約論】』という記事である。

「なぜ戦争はなくならないのか?」ホッブズが説く人間の残酷な本性とは【社会契約論】 - Yahoo! JAPAN


この記事によると、動物は自然と共生し、比較的平和に暮らせるのに、理性をもつはずの人間がなぜ争い続けるのか、ホッブスは探求した、というのである。この疑問については、神秘学では、人間が悪魔に唆され、理性の、知恵の実を食べて、失楽に陥ったため、と答えがでているが、ホッブスは、人間の(地上の)理性から改めて考えてみたわけなんである。

ホッブス曰く、「人間にはプライドがあり、現代社会では、他人と比較しないことは難しく、比較が人間の本能で、生きる意志や努力につながる」。このホッブスの考えは、失楽し、カリユガに陥った人類の本能を説いている、と考えられる。

神秘学から端的にいえば、失楽により、神の宇宙意識と直接つながる霊能力が失われたために、本来の自分の役割が悟れずに、悟れない者同士が、お互いに外見を比較して、優劣を競う事で、人類の本能を外側から解釈している状況といえるだろう。

そして、ホッブスは、「自分の身を守る事」を外見から、自然権として定義し、自分の生命を、自分の生活圏として唯物化したために、生物の縄張り争い、みたいなものから、「万人の万人に対する闘争」を想定したようである。このホッブスの考えは、シュタイナーの「万人の万人に対する闘争」の預言として、現代で成就しているところでもある。実際に、人類は呼吸するように、論争、闘争、戦争ばかりしているからである。

そして、ホッブスは、『結果として自然状態の生活は「孤独で貧しく、汚らしく、残忍で、しかも短い」ものになってしまいます。』と結論している。

そして、ホッブスは、この結果を避けるべく、「社会契約説」を提唱した。この社会契約論を、この記事から以下に抜粋紹介する。

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『すべての人が「暴力を使う自由(自然権)」を放棄し、それを「政治権力」に委ねなければならないと主張しました。ホッブズによれば、すべての人が暴力を放棄し、国家にその権利を譲ることで初めて平和な社会が成立するのです。国家だけが暴力を使う権利を持ち、国民はその国家に従わなければならない、とされました。ホッブズは「国家が成立することで、人々は争いをやめ、平和な生活を送ることが可能になる」と考えたのです。また、ホッブズは「国民は政府に反抗する権利を持たない」と主張しました。



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このホッブスの社会契約説を要約すると、人類の生存圏を唯物的に解釈し、自然権とし、個人の権利ではなく、集団の政治権力として、国家に集約することで、国家が個人の生存圏を保障する代わりに、個人には国家との社会契約の選択権をもつ、という万人の万人に対する闘争を避けるための、個人の国家選択権説ともいえるだろう。

簡約すれば、個人として戦う競技はやめて、国家というチーム競技で戦うことにして、個人はチームを選べる、という感じといえるかもしれない。現代のスポーツが、ある程度、このホッブスの理想論を現実化しているが、残念ながら、個人にはチーム選択権が与えられていないのが、現実問題として残っている。例えば、日本が嫌だからといって、好きな他国に移住しても、その国での生活圏が保障されるわけではないから、少なくとも、その国の母国語を話せないといけないわけで、選択権が空理の、机上の空論であるのがわかる。

しかも、人間の暴力が表面上のプライド、つまり理性から生じている、と誤解釈している点も見逃せない。これはホッブスが唯物論者であり、唯物的知識の限界ともいえるかもしれない。「前世からのメッセージ」のマスターたちによれば、本来の高次の知性ならば、「実るほど頭が下がる稲穂かな」というように、暴力は何の解決にもならず、かえって憎しみを増加させるものでしかなく、何の愛も生じない、愛の反対側にあるものでしかないからである。

つまり、ホッブスの社会契約論とは、個人の権利を国家に無責任に帰属させただけでしかなく、人類に憎しみを植え付ける悪魔の権力を与えただけでしかない。個人の小さな憎しみを、国家の大きな憎しみとして表現させただけでしかない。有り体にいえば、目に見えないものを、目に見える形にしただけで、つまり、前回紹介した、悪魔を国家権力として召喚したにすぎないわけなんである。

大切なのは、国家権力を、憎しみの総意ではなく、高次の知性によって、個人の愛で、外面から内面へと転化して、再び取り戻し、内面を愛で満たして、権力という魔物を退治し、亡きものにすることである。権力者から外見的な権利をとり上げることなんである。

社会契約論というよりも、キリストが説いたように、他者を害する、武器をすてて、お互いに愛し合いなさい、というわけなんである。誰の心にも既に天国はあるのだから、外の国ではなく、内の国の住人になりなさい、という天国住人論が必要なわけなんである。

さて、巷の騒々しい選挙も終わってどこもかしこも選挙番組をやっているのをみていて、選挙を勝敗で決める権力闘争の虚しさ、愚かさを感じざるを得なく、しかも、一般の定年年齢の60歳を過ぎてる老人たちばかりで、さすがに少子高齢化といっても、国の中枢が老人ばかりで正直言ってウンザリである。

昔の日本人なら、後進に道を譲ってとっくに隠居しているはずで、晩節を穢す日本人が増えているのがよくわかり、この国の政治改革がほとんど進まずに、この現状を、身体に譬えると、新陳代謝が滞っているわけで、これが少子高齢化の元凶なのではないか、とも思えてくる。高齢者の運転事故が問題になり免許返納を推奨するようになったのだから、国会議員も定年制にするか、記憶力検査や知能検査を導入して、ドクターストップでも取り入れるべきではないかと、ヨボヨボ議員たちをみていて、嫌気が差すわけなんである。

しかも、話す言葉のほとんどが嘘塗れであるから、あの年齢にもなって、どうしてあのように息をするように嘘をつけるのか、全く笑止千万である。嘘をついてまで、権力者でいたいのか、人間の浅はかさ、欲望塗れの愚かさに呆れてしまうばかりなんである。醜態を曝す格好の悪い老人ばかりの国になってしまった。

高齢者同士が仲良く年金で支え合って暮らすのではなく、一部の高齢権力者が権力を振りかざして権力闘争で、税金を収奪し、他の高齢者を死に追いやっているような現状と言わざるをえなく、その醜態は目に余り、被災者などの悲惨な生活には見て見ぬふりである。



まともな人が孤独(ぼっち)な理由 | ブッダの教え - YouTube


早い話、外に幸福を求めるのは若者の特権で、いい歳こいて欲ボケ爺になってはいけない、と言っているわけで、老人は、内に幸福を求めるのが人生の後半の重要な役目なんである。でないと、老人に相応しい叡智が獲得できないからである。老人に相応しい叡智とは、自分の人生の目的を知ることで、自分らしく生きることである。自分の前世からのカルマを知り、カルマを解消するために自分らしく生きることなのである。

自分の人生は、他者とは違っているわけで、他者の人生とは比較にならない。だから、若者のように、外に外見だけの幸福を求めても無意味だからである。老人になってまで、他者に承認欲を求めるのは、欲ボケ爺で、自分の人生を生きていない証と言わざるを得ないからである。

だから定年とは、ある意味、自分の人生を生きてきたかどうかの、人生の前半期の審判といえるかもしれない。孔子は、「50にして天命を知る」、と説いている。この意味は、在り来たりの唯物論でも、自分の人生の意味を知ると、解釈されているが、真意を解釈するなら、自分の前世が見えるようになった、という意味となるだろう。

そして、次の「60にして耳従う」というのは、霊視力の次に、霊聴力を獲得したという意味で、死者や霊魂と波動を通じて、会話できる、という意味になり、その次の、「70にして、…矩を越えず」、というのは、霊魂が望むように、あの世にも行けるが、自分の肉体にも戻ってこられる、という光と調和し同一した意味になるだろう。だから、この論語の孔子の人生は、人智学でいうなら、秘儀参入法で、真面目な修行者が獲得する人生の推移といえるだろう。

40 にして惑わず。ー現代版解釈1『論語・為政』ー ブログ書いてもいいですか?


だから、ちなみに、「十五にして学を志す」という、この学とは、秘儀参入学で、密教の秘教でもあり、「三十にして立つ」のは、師から独立して、自分独りで秘儀参入できるようになった、という意味になり、「四十にして惑わず」は、悪魔の誘いに惑わされないようになったわけで、欲望を捨てた、という意味になるだろう。40歳で、人生の欲望を捨てたので、自分の前世が、50歳でみえるようになったと、全てがつながるわけなんである。



そしてまた70で、人の道に外れないように思うままに生きる、という意味も、孔子が自慢し、マウントをとっているように感じるし、孔子ともあろう人が、70になるまで、道に沿って思うままに生きてこなかったの?という疑問や、これまた知性や経験の矛盾が生まれてしまう。逆説的に考えれば、人の道を外れる70歳の老人がほとんどいないのが当たり前で、孔子の時代の高齢者は人の道に外れる人が多かったのか?新しい疑問が生まれてくる。

このような論語の唯物論解釈だと、どことなく、巷を賑わせた某議員の、ポエム語録を髣髴とさせてしまうぐらいツッコみどころ満載なんである。唯物論的解釈だと、現代人の知性が、古代人を、どことなく見下している感がある。こんな、いい加減な教育が、明治政府の道徳教育だったわけで、先に紹介した社会契約論のように、人民から思想の自由の、権利をとり上げて、国家に束縛し奴隷化してしまうような、どこか新興宗教の教義のようで、悪魔との契約論なのがわかる。

道徳教育論-理論と実践- (9) | 特別の教科「道徳」指導案


唯物論自体が悪魔のモノなので、明治政府の富国強兵から西欧の植民地政策により、太平洋戦争まで、一連の道徳教育を鑑みれば、唯物論の弊害が大であるのが伺えるだろう。戦時中の戦意高揚のための、士族階級保障の靖国神社や特攻作戦などは、ホッブスの社会契約論を地で行った権力者のための権力者による権力者の暴挙であるのがわかる。

それは社会契約論などで、万人による万人の戦いを、万国による万国の戦いに変換したためで、個人が国家を選ぶどころか、権力者たちの権力闘争から、国家間の戦争に巻き込まれ、生存圏を保障どころか、生存権を権力者の陳腐な判断力に奪われかねない奴隷と化した現実を生んでしまったわけなのである。

これが、現在の民主主義の限界で、国家を越えて権力者を選択できない社会契約論の限界を露呈しているわけなんである。民主主義というのなら、権力闘争をせずに、個人の生存権を保障できる権力者を、地上のどこにでも求められるようなシステムを人類がつくらない限りは、その権利の保障が無意味で、その問題点に言及しないといけないわけで、そのような権力者が絵にかいた餅で、ニセモノであるのを暴露すべきなんである。

そのような権力者は人類史上生まれたためしがなく、愚かな権力者しか生み出さなかったから、人類は戦争ばかりしているわけで、だから、そのような権力者から、せめて権力、交戦権をとり上げて分散するシステムを臨時に構築しなければいけないわけで、とりあえず、世界全体で、権力者を隈なく選択できるシステムを身分や人種民族を問わずに、構築しないといけないわけなんである。

ホッブスが素晴らしいのは権力が暴力から生じるのを読み解いたところで、権力者が支配欲塗れなのを洞察したところである。しかし、現実には、権力者は権力を正当化するために、出来る限り、自分が権力に居座るために、住民に完全に自由な選択権を与えないし、住民の移住も認めないから、権力者をなくさないと平和はやってはこない。

だから少なくとも、権力を無くした、誰もが自由に権力者を選択できる、完全な平等制が実現しないかぎり、民主主義は、一部の権力者に牛耳されて奴隷化され、戦争はなくならないわけなんである。だからせめて、人民を巻き込まずに、権力者同士で戦わせるしかないだろう。権力という武器をとり上げて、お互いに愛し合うように舞台を整えるのに、人類は、経験と努力を注ぐべきなんである。

権力者から権力をとり上げて、国境を無くさないといけない、というのが、ホッブスの社会契約論を、霊的に解釈した論語による帰結なんである。誰もが国家を選択でき、自由に移住でき、安全に暮らせる、社会ユートピア論を議論すべきなんである。60も過ぎた権力者が天命も、耳従うのもできないのでは、何のための権力なのか、人類の理性という名の幼稚性を思い知るべきなんである。孔子を馬鹿にし過ぎている。孔子は自分が霊能者になったのを論語で説いたのである。

巷の醜い権力闘争をみせつけられて、せめてMLBのワールドシリーズ観戦が、一服の清涼剤になるものと期待して、今回のブログを書いたわけなんである。戦いはスポーツのなかだけにしてほしいものである。国民の生活圏向上のために、戦うスポーツ選手ならみていて楽しいからである。そこには私利私欲塗れの権力者の醜悪な姿など微塵もないからである。戦うのなら、自分の人生と、宿命と戦うべきである。





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Last updated  2024年10月29日 18時39分16秒
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