シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2025年04月08日
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カテゴリ: 神秘体験空間
神秘学では、本物の預言者は占わないといわれている。というのも、お釈迦さんが説いたように、この世で生起するカルマの法則は、善因善果、悪因悪果なのだから、なるべく善因を遂げるに越したことはない。良い事をすれば、その良い事は必ず自分に返ってくる。しかし、善果を見込んで、善因を成すのは利を求めるので、偽善になり、詐欺行為なので、当てが外れて、利ではなく害が返ってくる。というのは、カルマの法則では、自分が他人にした行為が、自分に返ってくるわけで、他人に損害を与えて、自分が得をすれば、今度は立場が逆になる宿命を背負うからである。

だから、老子などは、無為自然を説いて、利を求めて行動するのを戒めている。功利主義はダメなんである。尤も、真の功利主義は、功利というよりは、社会全体や宇宙全体の幸福主義というべきかもしれない。宇宙全体が幸福になるには、宇宙全体の各成員が宇宙全体を隈なく見通せる高度な知性をもつことであるから、この世から、自己本位の、低次の無知蒙昧をできるだけなくすことである。

功利主義 - Wikipedia


だから、占いというのは、自分だけ得をしようという発想で、占うのでは、百害あって一利なしなのである。アインシュタインは、神はサイコロを振り給わずと量子力学を批判したが、正確にいうなら、神はサイコロの目を自由自在に出せる、というべきだろう。占いなどをすれば、その占いの結果に左右されて生きることになるだけである。そのうち、占いが自己暗示になって、占いに依存し、占いの中毒になってしまうだけである。占いに一喜一憂して、霊魂が成長しないのでは、サイコロを振るだけのために、この世に生まれてきた根無し草人間である。

子どものとき、いしいひさいち氏の「がんばれ!!タブチくん!!」という漫画が流行った。アニメ映画にもなったので、当時は一種のブームになり、特に印象的だったのは、うろ覚えだが、主人公タブチくんが捕手だったので、福本選手の盗塁に悩まされ、ゴキブリのようにみえてきて、ついには禅寺に修行に行き、ヒロオカさんに似た坊主に、不動心を教わるエピソードだった。

がんばれ !! タブチくん !! - Wikipedia

不動心 - Wikipedia


結局、タブチくんは、不動心がわからずに、不動心という言葉に悩まされ、動かされて一喜一憂し、かえって不動心に揺さぶられるオチだったような記憶が残っているが、その後で、ゴジラ松井選手が、不動心という本を書いてベストセラーとなっているのは、当時の野球選手に不動心が半ば合言葉になっていたのがよくわかる。

松井選手の本は読んでいないのだが、不動心をググれば、不動明王の姿からわかるように、『不動明王は格闘技の守護神でもあり、右手に剣を持ち迷信や無知を断ち切る一方、左手に縄を持ち"諸悪の根源"や暴力的かつ制御不能な感情を縛るものとされている。恐ろしい風貌をしているが、奴隷階級と関連のある髪型によって、慈悲心と奉仕の心に属するものとして象徴づけられている。』とウイキに書かれているから、現代でいうところの、メタ思考、メタ認知のようなものなのがわかる。

メタ思考とは?高い人の特徴やトレーニング方法をわかりやすく解説 | アルー株式会社

メタ認知とは?高い人・低い人の特徴とトレーニング方法を解説 | Talknote Magazine


メタ思考やメタ認知を簡単にいえば、一種の俯瞰である。俯瞰とは、端的にいえば、自分の意見はあるが、その意見に自分が拘束されない自由な余地を残しておくもので、人智学的にいえば、いわば思考と感情と意志を明確に区別することである。前回紹介したように、神智学では、三途の川のような、思考の川があり、人間はその傍らで、その思考の川を眺めているだけにすぎないという。人間は思考の川に映った自分をみて、それを自分のものと、つまり自分の思考と錯覚しているらしい。

俯瞰景 - Wikipedia


この思考の川を分離できないで、人間は感情的になると、ついには、思考と感情と意志が区別できなくなる。自分の意見がまるで自分の子でもあるように思えてくる。そして、自分の意見が否定されると、自分の感情や意志、存在までも否定された気分になる。特に権力をもつと、権力に依存して、これら3つを混同し、利己的行為に走りがちになる。そして、自分が神にでもなったような気分に浸り勝ちになる。だから、自分の意見に固執するのは一種の偶像崇拝なのである。

不動明王が、右手に、迷信や無知を断ち切る剣をもつのは、従来の権力を捨て、つまり執着心を断ち切り、左手に諸悪の根源の破壊や暴力、制御不能の、否定的な感情を捕える縄をもつのは、心をバランスよく巧みに制御して、何ものかに依存する奴隷身分から抜け出して、自由に独立し、宇宙全体に慈悲心を巡らせて、奉仕せよ、と説いているわけなんである。



早い話、相手の攻撃に対して、感情的に応じて反発せずに、相手の意を汲んで、スルーしなさいという、一種の禅問答のようなものである。そうすると、相手の攻撃心は、受け手を失って、自分に返ってきて、策士策に溺れる、というようになる。火に油を注ぐのではなく、火には水で消火しなさい、という戒めなのである。禅にある、釈迦に会えば釈迦を殺せ、である。自分が出会っている仏は自分がつくりだした偶像なので、ニセモノだから、偶像を捨てろということである。自分のなかの、慢心がそのような偶像をつくりだしている。絶えず謙虚であり続けなさい、という戒めである。

仏に逢うては仏を殺せ 父母に逢うては父母を殺せ (禅の名言) | 和魂美才


そして、また破壊や暴力や権威などに、同じもので対抗するな、つまり、それらは噛ませ犬にすぎないのだから、それらとマトモに戦って、たとえ勝っても自分の実力と思うな、と不動心は説いているわけで、むしろ、自分のなかの破壊、暴力、否定的な感情を捨て去るのに良い機会としなさい、と説いているわけなんである。破壊、暴力、否定的な感情に共鳴、共感してしまうと、それらと共にいずれは地獄に堕ちてしまう教訓なのである。だから、負けるが勝ち、というわけで、武士の情けは、この負けるが勝ちにあるのかもしれない。

負けるが勝ち(まけるがかち)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo 国語辞書

「武士の情け」の意味は? 武士の特権や「情けは人のためならず」も解説 | Oggi.jp


さて、巷はトランプ関税で大騒ぎだが、キリストは、悪魔には抗うな、と説き、右の頬を打たれたら、左の頬を指し出せ、と言ったのは有名な話だが、その意味を正しく理解している者がほとんどいないのは、この世が悪魔に支配されているからといえるかもしれない。

コラム : 「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の新解釈がだいぶ水平思考的だった件 - 謎解きのある日常。

2016 年 9 月 4 日「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」 - 日本 キリスト教団花巻教会


前回紹介したサイトでは、人間が、この世に生まれてくる目的は、「分離」を学ぶことで、分離により、嫌なことやネガティヴを体験し、霊魂を成長させるため、と説いている。人間が神から生まれ、独立して、神にまで成長するには、分離を学ぶのが必要なのは明らかである。神が人間にあわせるのではなく、人間が神にあわせるまでに成長する必要がある。

例えば、子どもが親離れせずに、いつまでも親の保護下にあれば、親に依存してしまい、親の有難みがわからないで、独立して自由に一人で生きていけなくなる。いつまでも、子どものままで、自分の気持ちしかみえなくなってしまう。視野を拡げないといけないのに、視野を狭めるばかりになる。自分の殻を抜け出して、社会の仕組みや物質界の仕組み、そして宇宙の仕組みを知っていくために、その有難みを経験しないといけない。

だから、悪魔はある意味スパルタ教師として、人類の反面教師役で、この世の物質界を支配している。悪魔に屈せずに、抗うことなく、悪魔と共鳴する心を、自らのなかから捨て去れるかどうか、の、いわば悪魔卒業の試験を、地球で受けているわけなんである。だから、右の頬を打たれたら、左の頬を指し出せ、というのは、簡単にいうなら、悪魔のような復讐心を捨てなさい、ということなんである。

悪魔は、自分のなかの悪魔を映す鏡なのである。自分の心のなかに闇をつくるものを捨てれば、それは自然と天国をつくる素材となる。だから仏教では喜捨と呼んでいる。

つまりは、この世の悪魔を見る事で、人間のなかに眠っている悪魔の心を放棄しなさい、という意味なのである。だから、悪魔の振り見て、我が身を正す、のが転じて、人の振り見て我が振り直せ、という諺になったのかもしれない。だから、悪魔は、自分の姿を映す鏡を恐れるわけなんである。悪魔は、人間の目に映る自分の姿がみれないからである。

泥棒にも三分の理という諺がある。互いに三分の理を主張しあえば、自分が正しい、という自惚れ屋の世界で、血みどろの争いになり、怒りや破壊と、恐れのネガティヴな応酬合戦になるのは目に見えてくる。そうやって、どんどん人類は愚かになり、他人の気持ちがわからずに、社会全体や世界全体、そして宇宙全体を永遠に理解することなく、知的生命体は人間だけだと思い込んで、ただただ怒りの表明や破壊を繰り返してきた。そのような人類の思い上がった破壊、怒り、恐れの思想が、この世に数限りのない悪魔のような独裁者をつくりだしたわけである。

盗人にも三分の理 | 会話で使えることわざ辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス


独裁者たちは、この世を支配し、地獄を生み出しているのに、自分が地獄に堕ちるしかないのを自覚できないでいる、無知蒙昧の愚か者なのである。そのような無知蒙昧を相手に戦うほど愚の骨頂はないだろう。そのような独裁者が、この世での生命を奪おうとも、それは肉体だけの話でしかない。というのは、霊魂は永遠に不滅で、自らで、死を認めない限り、死ぬことはないからである。

我々人間は、神の子なので、永遠の生命をもち、それ相応の能力をイメージトレーニングすれば、いつでも地獄にでも、天国にでも、行けるのである。自分中心の地獄をつくれば、地獄に堕ちるし、自分だけでなく社会や世界や宇宙全体の幸せを考え、そのために奉仕すれば、天国に行けるのである。それは自分の幸福が宇宙全体の幸福につながるように、努力するかどうかにかかっている。自分だけ幸福で、他の人や社会全体が不幸のどん底なのは、地獄に堕ちるだけである。



神智学では、癌は、自分の心の自由な想いの表明が、抑圧されたストレスにより生じるのを解き明かしている。自己が想ったままの自然な表明が、否定的な想いに拘束されてしまい、自由な想いを表出できないために、ストレスになり、それが肉体に抑圧された感情として、腫瘍化して現れる。本当は実現すべき自己表出なのだが、自分が周囲から否定的にみられるのを恐れて、抑圧してしまうのが、肉体に腫瘍をもたらして、癌化させてしまう。

だから、神智学では、癌の病因は、否定的な抑圧された感情と解き明かしている。本当なら芸術などで表現されていた感情が、抑圧されたために、感情の代わりに、肉体に腫瘍の形で表現されてしまうのである。だから、癌とは、抑圧された感情の叫びというものかもしれない。だから、癌を美術で表現するなら、ムンクの叫びになるかもしれない。

叫び ( エドヴァルド・ムンク ) - Wikipedia



だから、ストレスをためないのが、癌にならないためによく、最近の医学でもわかりつつあるが、運動するのが、癌の予防になるのは、運動によって、破壊や暴力や否定的感情が、適度に発散され、それらの執着心を解放し、転化するので、よいわけで、また、笑うのも、免疫防御のバランスを回復させるのは、笑うことで、これらの否定的な感情が発散されるからである。笑う門には福来る、というわけなんである。

とにかく、悪から学んで、自分のなかから、闇を捨て去って、なるべく自分のなかに天国をつくることが、そのまま健康のイメージトレーニングになるのである。人間の心は、地獄と天国をつくるツールなのである。だから、古代エジプトの最後の審判の図では、天秤に、人間の心臓を乗せて、天使の翼と均衡をとれるか、その死者の生前の行いにより審判される、のが描かれているのである。


適当な図がみつからずに、上の図を拝借したが、間違いがある。天秤の左の皿にはツボのようなのが乗っているが、原図は心臓である。そして、右の図の皿にクシのようなのが乗っているが、原図は、天使の翼である。作図者が唯物論に染まり、唯物的にツボとクシに置き換えてしまったのだろう。古代史には、こうしたミスがよくある。



くしゃみの回数で意味が違う という迷信を友人と話していると解釈が違いました。何種類かあるのでしょうか。 | レファレンス協同データベース

にけつッ !! - Wikipedia

にけつッ!!|読売テレビ


この、すぐに花粉症を疑う現代の風潮を、医療番組でもないバラエティ番組で、ケンコバ氏が批判していたわけなのだが、実は、この批判は、当たらずといえども遠からずで、神智学により解き明かされた、病気の根本についての古代叡智からくる「病は気から」という諺や、「馬鹿は風邪を引かない」の意味を面白可笑しく、わかりやすく解説している。

「病は気から」は本当だった? ―― ストレスと免疫|朝礼 de ポン!ためになる話題| NEC ネクサソリューションズ

馬鹿は風邪を引かない - Wikipedia


ケンコバ氏はくしゃみを数回しただけで、花粉症を疑うのは、かえって自分が花粉症ではないか、というストレスに誘導するので、そのようなストレスを受けないように、自分は花粉症ではない、と想うのが重要と、その番組で、すぐに花粉症を疑う風潮を批判していた。いわば病気の自己暗示的側面を指摘したのである。

また、ケンコバ氏は、子どものときに、ほとんどの子どもが泣く映像をみて泣かなかったので、学校の先生に、異常と判断されて、親が呼び出されたそうである。そして、この先生は、ケンコバ氏を泣かすためにわざと意地悪をしたらしい。いまから考えれば、この先生のほうが、例外を認めない異常な教師というべきかもしれない。ケンコバ氏の話によれば、この先生は長年の経験から権威だったようである。現代にも、自分が正しいと信じて疑わない自惚れ屋さんが老害として巷に君臨し、世間を賑わせている。

そしてまた、頭髪が黒々しく、白髪が全くないケンコバ氏は、髭には白髪が混じるので、頭髪を黒く染めているとよく疑われるので、全く迷惑で、人を見た目で勝手に判断する、ルッキズムの風潮も、ついでに批判していた。

神智学が解き明かした古代叡智によれば、また、お釈迦さんも、病苦は執着心から生まれる、と説いているように、病は気から、執着心をもたない馬鹿は、風邪を引かない、というわけなんである。要するに、ストレスをためないのが、健康の秘訣といえる。要するに、執着心や、破壊的な心や、否定的な心をもつと、それが、病因となるわけである。神智学では、これらの考え方を、ネガティヴな心と呼んでいる。

現代にも、英語には、シックネスとイルネスとディジーズの、病気の3つの表現があるが、ググると、シックネスは体調の悪さで、イルネスは、そこに個人的な不調が加わり、ディジーズは、公的な病名に使われるのがわかる。

間違えやすい ”ill” と ”sick” の適切な使い分け方って?

「病気」って英語で何て言う? sick ・ ill ・ deasese の違いとは?

病気は英語で sick ?症状や場面で異なる言い回しをマスターしよう! | オンライン英会話の Weblio 英会話コラム(英語での言い方・英語表現)

Illnessは、体が正常に動かない状態を指し、個人の感じる不調全般に使います。
Diseaseは、医者が診断するような具体的な病気を表し、もっと正式な言葉です。
Sicknessは、具体的な症状よりも、体調が悪い一般的な感覚を表すのに使われます。
Ailmentは、日常的に遭遇する軽い病気や体の不調を指します。

神智学では、シックネスは、原則的に、ネガティヴな心からくる病気で、ディジーズは、人体のバランスが崩れたことで、外的要因やウイルスや細菌などが、肉体に広まり、発症する病気と、区別している。つまり、肉体レベルで起こるバランス不調と、その上の心のレベルで起こるバランスの不調の区別なのである。肉体を操っているのは、心なので、肉体の不調のレベルを、心にまで見通せるかどうかが、真の治療家には重要なのである。現代人には、唯物論しかないから、シックネスとディジーズの明確な区別ができないので、対処療法だけにとどまってしまう。

だから、病気に罹るというのは、自分の心のなかにまだ闇が残っているわけで、肉体に現れた症状を取り去るだけでは、天国をつくることにはならないわけで、それはまだ悪魔の支配下にあるので、不動心で、悪魔の支配下から、自らを解放しなければ、天国にはいけないわけなんである。自分で、自分を悪魔の支配下から解放しない限りは、地獄に堕ちて、また地球に生まれる輪廻転生を繰り返すだけで、ついには地球もなくなってしまうと、霊魂を自らで消滅させてしまうので、永遠に自分で自分を殺しながら、死んでしまうのである。

シュタイナーは、自分の心のなかに、天国をつくる、この不動心を、キリストと共に死に、精霊の名の下に蘇る、と表現している。これは、キリストのように、この世で善行を積めば、あの世で、天国をつくれるので、次の木星紀には、自由な愛の天使という名で、地球人を卒業し、次の木星紀では、人類の上位の天使として、次の木星人を教育するという意味である。

それにしても、地獄に堕ちるのを自覚できない地球人が多いのに呆れ果ててしまうよね。いつまで戦うつもりなのかな。不動心どころか、恐怖心ばかりが増長増殖する地獄の世界の到来だよ。





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Last updated  2025年04月08日 22時55分34秒
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