日本の歴史が詰まった町 ~ 知 覧 ~
薩摩の小京都

知覧の江戸時代中期の武家屋敷 通り、道路の両側に低い石垣とその上に槇(まき)の刈り込みが並ぶ武家屋敷、

知覧型二つ家民家 、 知覧 独特のL字型民家、江戸時代後期の民家のようです。
本来分棟だった居住用の「オモテ」 と 台所・土間の「ナカエ」 をつないだ建物、 さらに使い勝手よく小棟でつないでいるのは知覧型である。 (資料より)
武家屋敷の庭園は公開されているが有料である。 ので見学しない。
500mほど続く武家屋敷通り、現在も多くの方が住まわれている。

おじさんが庭の草引きをしていた。
こんにちわ~
立派なお庭で、手入れ大変ですねぇ~
ハ~ィ 剪定がたいへんですわ~ 植木屋さんがクレーン車を持ってきてしてくれますが、 費用が高くつきましてねぇ~
なるほど、維持管理するのが大変だぁ~
垣根だけ残して転居したのか更地になっている屋敷もある。
武家屋敷の中をそぞろ歩きするのも、落ち着いていいものだ。
知覧特攻平和会館
今回の旅で是非立ち寄りたかった所だ。
薩摩の小京都と呼ばれる静かな佇まいの街に陸軍知覧飛行場が出来たのは、
1941年(昭和16年)日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦したときだ。
1945年(昭和20年)戦争末期、戦局の悪化にともない、本土最南端の陸軍特攻基地となった。
多くの若者が片道の燃料を積んで南海の果てに飛び立っていった場所だ。

この知覧特攻平和館内には、1036名の特攻戦没者の写真、遺品、肉親に宛てた遺書
等、関係資料が展示されている。
隣の特攻平和観音堂には特攻隊員の霊が祀られている。

三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、地上には三角の屋根しか見えない兵舎でした。各地から集まった隊員は、ニ・三日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。出撃の前夜には、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を酌みかわしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙をしたためて、死地に赴いたのであります。ここに、三角兵舎を復元し、当時を偲ぶよすがとするものであります。
(説明文をそのまま引用)

1945年4月12日、知覧基地より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊 穴沢利夫 少尉(のち大尉)操縦の 一式戦闘機三型甲「隼」 と、それを見送る知覧町立高等女学校(現 鹿児島県立薩南工業高等学校 )の女学生達
(ウィキペディア フリー百科事典より)
| 薩南の涯(はて)の山のなかの静かな町。 と号(特攻)要員と呼ばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過ごした町。 祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が250キロの爆弾を抱えて、よろけるように飛び立っていった町。 そんな隊員や、それを取りまいた人びとの、さまざまな思いが罩(こ)められている町 知覧。 |
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| 神坂次郎文学碑「今日われ生きてあり」より |