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2006.02.16
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問い合わせは・・・
電話:087-882-4022
〒761-8004 高松市中山町五色台 (財)喝破道場

-群馬県 51歳 男子
みずから望んで -群馬県 51歳男-
小生は、自らこの薄暗い部屋に入ることを望んだ。そこで新たな体験を得る為である。また純粋な自己自身との対話を訳したいためである。
自己とは何か。自己じこ自己じこ今この自己、と書いているそのもの以外に説明して自覚することは今の私にはできません。このボールペンの先を動かて動かしているものそのもの。心身脱落への努カ・無心への努力・脱落心身への努力、仏道への努力、放下することとへの努力…。いつも頑張り元気だった母を一番尊敬しています。

母がしてくれたこと
一、保育園に通っている頃に「おかあちゃん淋しいと」言った時、母は仕事を休んでくれました。2日間ぐらい。中学校3年生までのこと。


一、中学校一年生の時、自分の不注意で学校の二階から落ちて、腕を折ってしまい、この時昼夜看病してくれたことを思い出します。

母にしてあげたこと
一、母の日に「しんせい」というたぱこを2個買って送ったことと、つい死ぬ少し前にも話していました。小学校6年生の時、誕生日に、カナリヤをかってくれたこと。この時はまさかとおもっていたので嬉しく記憶しています。

母に心配や迷惑をかけたこと
一、数限りなし
 保育園は、家の前の神社の中に有り、門は石造り、高さは1.8mぐらい門扉は木造でいつも乗って遊んでいました。真中だけ乗って体重をかける分下がっていました。門を入って中ほどに小川石の橋。
両脇に生垣、中庭にあんずの老木、園の入口の両側に下駄箱があり、入口を開けて中に入ると机と椅子。
洋服は青の薄いので、自分はひねた顔をしていたのをおぼえています。ある時、神社の横の所に「一宮館」という映画館に二人で入って、保育園に遅れて午後帰り、心配した母に叱られたことを思い出します。
保育園に通っていたころ、兄貴達は冬休みで、神社で遊んでいるのをうらやましく思ったこともありました。弁当箱を長ひばちで暖めて食べたことを思い出します。
それぞれの弁当箱からさまざまな匂いがでていました。
保育園から小学校に上がるとき、簡単なテストをしました。火事になったらどうしますか、とか、この絵の中に母さんに似ている人がいますか、とか聞かれても該当する顔がなくて困ってしまったこと。保育園から小学校へ宝さがしに行ったことなどを思い出します。

一年生の時は、家の近くの女の先生で橘先生という先生がいて、この橘先生に残されたことを母にいうと、母は先生の帰りを待って何かを言ったらしい。「自分の子供は頭が悪くて勉強ができない…」そんなことではなかったかと想像します。
それ以後は勉強が出来なくても残されるようなことはなくなりました。

その頃の履物は、自転車の古タイヤを底にはりつけたゾウリやタビそして下駄だった。それから少したってから靴になりました。二年生だった時も女の先生で、小学校の近くに家があっったと言ってましたが、このこの先生は顔は細長くてきつく恐い顔だった。
三年の受持ちの先生は女の先生でしたが顔もおぼえていません。

中学から高校に


宮沢賢治の雨にも負けずが好きで 、黒板の上に詩を貼っていたことを思い出す。

自分はソフトポ…ルがうまく、この先生にピッチャーをしろと言われ、それ以来小学校では3番も打ち、ピッチャーをして楽しく思いました。
それと学校には勉強でなく、給食と遊びで休むことなく卒業したのを覚えています。
家に帰っての遊びは、ビー玉・メンコ・かくれんぼ・チャンバラ、その他太陽の沈むまで外で遊んでいました。
雨の日が一番辛かったことを覚えています。落ち着きがなくいつもなにかをしていたこと。その頃自分のことだけしか考えていませんでした。いつも笑顔で笑うこともあまりなかったようなことも母が言っていました。
一年に1~2回ぐらいしか笑わないこと。中学に入学し算数が数学になる。これを聞かされたときは目の前が真暗…。それに英語、自分は努力するということが大嫌いで努力も勉強もしませんでした。何時も学校で成績はビリから何番目だ、と兄が何時もいっていた「頭が悪いなi」と。
その頃は、勉強をやる意味を考えたことなかった。苦をさけ楽しく楽な方ぱかり選んでいたような気がする。

 高校受験をひかえ、先輩からいただいた問題を自分なりに勉強しました。本校6名のうち自分は3番目で合格し、自分の下に、2名いることを嬉しく思ったことがありました。
その高校も中途退学。貧乏な父母に入学金を出して頂き、その金はどこから工面して来たのか、私は知らない。それから定時制に入ったが初日に目己紹介しただけで行かなくなり、友達が誘いに来ても行かなかった。
その頃自分の内面に、これではいけない、命を懸けることができる何かを探さなければという気持ちが強く強くたぎってきたのであります。モトクロスもしたけれど、自意識が強すぎてこれもものにならず「小心なところが大である」。そんな時に兄貴が本を読め、世界を知れ!、と言ったことがきっかけとなり、本を読んでいくうちに、ゴッホの書簡集というのに出会った。読んでいくうちに漢字が読めない・意味が判らない。英語がでてきてもわからない。この時にもう一度定時制に入学して二学期に編入できたので勉強しょうと心に決めて夜は定時制、帰って来てからはテレビの通信高校講座を、そして日曜日にはデッサン教室、帰ればテレビで勉強と、母と共に勉強できたことはが一番楽しかった。
その頃テストが楽しみとなり、テストはできなかったけれど、通信教育はとても判りよく丁寧に指導していました。何年か後にはNHKで中止になったのは残念だった。

もっとよく判るほどに、勉強したかった。他人のための勉強ではなく、自分自身の勉強を。

高校卒業に一〇年かかった。その間にデッサン教室で石膏像を中心に受験生に混じって、朝から夕の暗くなるまで、根情切なる思いで、消しては拭き、消しては拭きしていました。
これは妥協を許さない方法で一枚一枚と書き上げたことを懐かしく思いだします。

母が倒れる


山梨県立中央病院脳外科。入院の手続きを終了し、入院する室に入った時、この病院は良い病院だと思った。看護婦さんの態度・医師のの説明、それになによりも手術して意識が回復するという喜び…。また母と話しをすることができるという幸福感。それに部屋の人々がとても親切だったことが有り難かった。

男の身で母を看護している事を話したら「大変だねー、まあ-頑張って」と励まされ、色々な物を頂いた。前の病院ではなかったことだった。
母の手術も無事終了して手術室から出てきたときは、すべての人に感謝したい気持ちで一杯でした。病室に着いてベッドに移され、また鼻から管を入れて点滴を開始した。そしてお袋の目が覚めるのを待っていました。

母の死と四国巡拝のこと

 そうこうしている内に、若しお袋さんが、90歳、100歳まで生きるとしたら、と考えるようになりました。
自分の将来と、ものを作って生活するような仕事、一日中家にいて母の介助をできる仕事・・・、そんなことを考えて何が一番いいのか、と考えて陶芸がよいのではと考え、それも山梨県内でと思って探し、県内の陶芸家を見つけました。
さっそく入門して陶芸家へ通うこと三年、なんとか形にすることはできるようになりましたが、まだ電動ロクロで成形したことがありませんでした。
そこで弟子入りをお願いし、夏と冬の仕事は休むようにして、母が元気なうちに早く技術をマスターしょうと思いました。
そこで日曜を除く毎日を車で一時間、往復で二時間かかる道のりを通いました。なんとかロクロで成形し焼成できるところまでいった時、母が亡くなってしまいました。

6月21日午前3時過ぎ、小生の前で息を引取りました。苦しまなかったことは有り難いことだと感謝いたしました。死ぬ時は、鳥も魚も草も木もみな同じように死ぬものだとつくづく思いました。
それから6月20日ごろ、車で四国巡拝し、夏のお中元の仕事を終了したところで、歩いて四国巡拝をしました。その時は母のことしか考えていませんでした。山形に帰って、陶芸の仕事を始めようとしましたが、無気力で力がわいてきません。
12月の歳暮の仕事はまったく放逸な仕事ぶりでした。
そして正月から夏まで規律のないだらしない生活を送り、翌年の夏中元の仕事が10月まであり、それが終了した時点で、もう一度四国を自分の為に歩こうと、できるだけ野宿して過去を整理して歩くことを決め、整理して歩いて行くと、自分の悪い所が次々と浮かんできました。

自分が純粋に生きようとすると、世間の風あたりは強くなり、随分と衝突もしました。
純粋に生きることがなにか悪人のようなかっこうになってしまう。それでも自己からけっして目をはなさずに今日まで生きて来ました。人間の道、理論の道から外れなかったと信じてこの告白を終了いたします。

最後に、お袋のためにこの一生を捧げてもよいと考えるようになっていました。身心脱落、脱落身心。今月から何日になるのか判らない。自分目身ともう一人の純粋な人間性と。楽しい出会い、苦しい出会いのかもしれない。「完」





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Last updated  2006.02.16 14:05:53 コメント(1) | コメントを書く


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