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「ぶと」とはどういうものかご存じですか。奈良のお菓子のうちに「ぶと饅頭」というアイテムがあります。餅飯殿の萬々堂さんが、春日大社の神饌「ぶと」(「??」)をもとに餡を入れて砂糖をまぶしたお菓子にしたものです。萬々堂ののれん分けともいえる萬林堂さん(東包永町=転害門のそば)には、よく似た「春日二梅枝」というお菓子もあります。(萬林堂さんは「まんとくん饅頭」の製造販売もされています)「ぶと」も「二梅枝」(ふたつばいし)も春日大社に伝わる「特殊神饌」「古式神饌」の中にある「唐菓子」のひとつですが、実物を見たことのある方はそんなに多くはないと思います。今回、おん祭りの「撤饌」として「ぶと」をいただきましたので、写真をお目に掛けます。ちょうど納豆のようにわらで包んでありますが、中に入っているのは米の粉を水でこねて蒸し、搗いてこねて形を整え油で揚げたものです。ちょうどヒダが餃子に似ているかも。ちょっと手元に届くまで時間がかかったので、すこしカビが浮いていますね。これを薄くスライスし焼いて砂糖醤油をつけたり、鍋物に入れたりして食べます。「唐菓子」の他に、大宿所に「懸け鳥」として掛けられていた塩鮭や塩鯛なども、祭りの後は「撤饌」として奉仕者に下げ渡されたりします。
2010.12.21
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話を「奈良町の中街道」に戻します。 本当は卸売市場の方が、中街道と京終の「本題」なのですが、その前に小売市場を ニチイ(現ビブレ)、ダイエー(撤退)、いそかわ(パケット)が出来る前の、食品を中心にした買物は、「小売市場」がメインでした。なかでももっとも賑わっていたのが「椿井市場」、そして「椿井市場」の客を奪うような形で繁盛していたのが「奈良市場」でした。まずは「椿井市場」のほうから。 「椿井市場」は、その名の通り椿井小学校と中街道を挟んだ位置に入り口があり、西へ100mほどの長さのある市場でした。昭和30年代には、青果、乾物、鮮魚、かまぼこ、生花、精肉、酒、味噌などの店がいくつも連なって大変賑やかなところでした。一部に、衣料品の店もありましたが、衣料・雑貨や電気・時計などの「もちいどの」と、食品なら何でもあるとも言われた「椿井市場」とは、まさに「名コンビ」でした。薄暗い通路にまぶしい裸電球の下、天井から下がった籠の現金と「サービス券」(台紙にノリで貼る)、電動で回る「はえ取り紙」、濡れた路面と店主たちの長靴姿といった情景は、当時の子どもたちにとって一種の「ワンダーランド」だったのです。 今は、東側入り口から3分の一ほどに「鶏肉・焼き鳥」「鮮魚・惣菜」「青果」の店の他、中華料理店などが残るほか、中程の生花店(女将は大仏さまの花を生けているという)や西端の酒店などが「生きて」います。かつて火事で存続が危ぶまれたことがありましたが、「倒産防止共済」を活用して東側の店が生き残ったというような報道があったと思います。(北隣が製墨の老舗「古梅園」ですが、製墨には「煤」を採るために菜種油の灯火が燃やし続けられます。なんどか発生した椿井市場の火事の中には、古梅園の灯火が移ったものもあったようです。) さて、椿井市場から北に100mあるかないかの位置に出来たのが「奈良市場」でした。もとは「セントラル映劇」だったかの映画館でした。その今の姿はこの写真です。 市場時代の建物の躯体はそのままで、1階がコインの駐車場、2階は市場のころから続く飲食店となっています。細長い椿井市場とちがって、間口の広い奈良市場は、お客の回遊性もよかったようです。現在「もちいどの駐車場」になっている率川(暗渠)の向う側も含めてかなりの広さがあり、椿井から移ってきた店もかなりあったようです。ちなみに、奈良市内のケータリング大手「東鮨」の発祥のころの「お持ち帰り寿司」の店の一つが、この奈良市場の南西角にあり、のちに「のれん分け」で独立したオーナーの店になりました。 現在、猿沢池近くにある「かきまぜ奈良うどん ふく徳」は、この奈良市場にあった「福助うどん」に弟子入りした方が、店を引き継ぐ形で営業されているはずです。また2階の飲食店でもバー「バック・ザ・フェイス」やジャズスポット「とらきち」などのお店は、奈良の夜遊び人種には懐かしいお店となっています。 さて、中街道を南へすすむと、もう二つの「市場」があります。 まずは、西木辻町といっても南城戸町の「音声館」駐車場のすぐ隣にあるのが「錦市場」です。京都の錦市場とはなんの関係もなく、「にしきつじ」町にあるから「にしき」市場と名付けたような。ここも本来の「市場」から飲食店中心になっていたことがありますが、それも姿を消して、理容美容とコインランドリーが残っています。たしか、こちらでも火事があったような。 そして、今一番元気なのが東木辻町にある「ビッグナラ」ですね。 実はこの場所も、昔々は劇場だったといいます。その後、キャバレー(たしかミスナラとか言ったような)になり、それがのちに小売市場になりました。ビッグナラは小売市場から、単一レジによるスーパー形式の店舗となり(経営体は「商業協同組合」)、さらに近年は「きたまち」手貝門近くの「若草店」や、五条西町の「西の京店」などを出店するに至っています。(追記)「ミスナラ」 ではなくて 「ナラタウン」 だったらしい。ミスナラという店は、猿沢池の近くの「池之町」にあった。一つ上の「錦市場」も、その前は劇場だったようです。(追々記)ご近所の方から古い情報をお聞きしました。・錦市場 「奈良劇場」という芝居小屋で、旅回りの大衆演劇がやって来ていた。・ビッグナラ この場所は、遊郭時代の診療所があったところ。そのころから今の駐車場の所へ張り出した敷地だったという。劇場だったということはない。 ところで、いまのこの付近(市内循環バスでいうと「綿町」「北京終」あたり)の様子を見ると、「なんでこんなところにキャバレーなどが?」と不思議に思われるでしょうが、それにはいくつかの要素が考えられます。 一つは、歴史のある「木辻の遊郭」の存在です。ビッグナラの北にある坂道やその東側の花園町あたりが、その場所でした。もう一つは、京終付近が「卸売市場」を中心にした「商業エリア」であったこと。つまり、この辺はもともと「お金がよく動くところ」だったのですね。さらに、循環道路をもう少し東に行けば、高畑(現在の教育大、女子大附属中高)は「進駐軍」の基地でしたので、そうした需要も高かったのでしょう。 次は、京終周辺の「卸売市場」と周辺のようすをたずねてみることにします。 ☆大事なことを忘れていました。椿井市場の「あの、お店」です。椿井市場の、たしか以前は「漬物屋さん」のあったところに、 小西通りから移ってきゃはったんですわ。もとの店は、コトーモールのところにあったんやったかなあ。「無愛想」というのか「お客に注文が多い」というのか、当時の奈良市の商店街の会長のところになんどか苦情の電話が入ったというあのお店です。「二つ下さい」というと、必ず「二個ですね」と言い返さはります。まあでも「予約は出来ません」とか「大きいお札はダメ」とかいうのは、直接目の前に来てくれたお客さんが大事で、釣り銭のために饅頭のための大事な時間とられたくはないということなんでしょうけどね。実際、饅頭は美味しいですし、私は、寝込んでいた母のためにわざわざ買いに行ったこともあります。で、なぜ餡が紅白揃ってもいないのに「夫婦饅頭」なのかが、最近ようやくわかったんです。(知らなかったのは私だけかも。一時「白あん始めました」と書いてあったけど、今はどうなのかな。) それは「白い肌と肌とを合わせて作るから」 なんですと。間のアンコの色はどっちでもよかったようで。どこやらの街道筋の夫婦饅頭の店の売り文句らしいです。なんやらえらい「大人の味」ですなあ。
2011.01.25
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卸売市場だった京終の中街道今度は逆に、JR桜井線から見てみます。踏切から見えるのは「奈良塗料」、そして包装資材の「笹本商店」、その先には「奈良種苗」。これらの店はやはり一般消費者相手の店ではありませんね。いわゆる「プロ仕様」の店が、今も並んでいます。(写真にはありませんが、並びの先には飲食店に卸している「奥戸製麺所」もあったはず) さらに北へ進むと交差点の角に「廃墟」のような駐車場がありますが、これが実はかつての「京終青果卸売市場」だったのですね。途中には、水産関係卸の建物もあったはずですが、同じく駐車場などとして使われたあと更地になってしまったようです。少し前の住宅地図だと、この向かい側(中街道を挟んで東側)には、「奈良中央漬物」という会社の名前が見えます。 そして青果市場跡の裏にあるのは、こちら水産卸の「南都水産」の本宅と社員寮です。南都水産は、「川徳」とも称されて、奈良の生鮮食品卸売のリーダー企業ですが、今は大和郡山市の中央卸売市場での事業が中心となっています。川徳=故2代目川井徳蔵氏の実弟が、市内寺町で質屋「川春」を営んでいた故川井春三氏でした。 この通りを、中街道の反対側(東側)へ進むと、餅飯殿や下御門から鳴川町、瓦堂町と下ってきた「中つ道」との角に「京終天神社」が見えます。その「北京終町」あたり「イワイのパン」があったはずですが、見あたりませんでした。付近の美しい町家の写真を撮った中にあったのが、この写真の家でした。(向うに、天神社の赤い鳥居が見えています) あとで、ここが「谷井友三郎」氏の生家(藤井家)であったと知ったのは、tetsudaさんのブログで「なんか見たような家だな」と思ってのことでした。寮美千子さんが、「売りに出てる、何とかしなくちゃ」と言っていたのはここのことだったのですね。その後、売り家の話はどうなったのか、2011年1月現在、この姿のままではあったのですが。
2011.01.26
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シカの女王「白ちゃん」を知っている方はいますか。かつて、奈良公園のシカの中に、一頭だけ、額に白い毛が「王冠」のように生えている牝鹿がいました。その姿を見て、人々は「シカの女王」とよび、「今日は、シカの女王に会えてラッキーだった」といいました。そしてのちに「白ちゃん」という愛称が付けられました。ふつうの牝鹿は、生まれて2年後ぐらいから子ジカを生むようですが、その特異な姿からか、8歳の時にようやく子ジカをもうけます。しかし、その子ジカは半月ほどで交通事故でなくなってしまいました。母の白ちゃんは、その後、子ジカの命を奪った「白い自動車」に対して敵意をむき出しにしていたともいいます。たった一頭しか子供に恵まれなかった白ちゃんですが、まもなく18才になろうかという昭和47年の7月に、自身も交通事故でなくなりました。白ちゃんの生涯については、かつて岡部伊都子さんが「シカの白ちゃん」というタイトルの児童書にまとめて、筑摩書房から出版されました。同書には、奈良の写真家で、白ちゃんの幼いときから晩年までを写真に撮ってこられた飯村稀市さんの写真がたっぷりと収められています。(残念ながらお二人とも故人となってしまいました。以下の二枚の写真は飯村さんの作品です。) 今年、三条通りの商店街では、歩道を中心とした街路の拡幅整備にあわせて、安全な道路のシンボルとして「シカの白ちゃん」を人々の記憶によみがえらせ、そのイラストを募集しました。http://www.nara-sanjo.jp/event.html 全国から800通あまり、1000点近くの応募があったとのことで、現在、選考中だそうですが、中には「母ジカ」の白ちゃんに角が付いているものとかもあったらしい。シカのイラストというと、まず「子ジカのバンビ」がイメージされてしまうようですが、白ちゃんの場合「シカの女王」とも呼ばれた存在ですから、可愛い中にも「威厳」と「品格」のあるものが選ばれて欲しいですね。
2010.10.07
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