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これはもう、黙っていられません。しばらく、ブログの方は開店休業にしていましたが、ちょっとこれは放っておけないことです。奈良市民にとっての「平城宮跡」とは何でしょう。 決して、映画のオープンセットでもなければ、テーマパークでもない。草原を渡る風の向こうに、1300年の時間を感じ、先人に思いをはせる、そんな場所です。それを、草を刈るだけでなしに、土とセメントで埋立てて、草を生えないようにしてしまう。土がむき出しの、土色の広場にしてしまう。そんな工事が突然始められています。 一体何のために? 「往時の平城宮の広がりが甦ります」 はあ?何言ってるの。 「往時」って朝堂院の両側には、建物が並んでいたんですよ。 土の広場にして、何で広がりが甦るの。「大極殿へのアプローチが便利に」 それなら、通路付ければいいじゃないですか。 そもそも1300年祭までは、この広場の中を自由に歩いていたんですよ。「出来上がりは、朱雀門前の朱雀大路のような姿に」 あそこ、イベントやってても砂埃が酷いの知ってるの? 今の朝堂院なら草のおかげでそんなことはないけど、面積も何倍も広いのに、 その砂埃って、とんでもないものになるのは明らか。 しかも、この工事の請負額って、予定価額の、99.8%だって言うじゃないですか。「とにかく工事をしたい」「させたい」というのが見え見えのインチキ事業じゃないの。 こちらのブログも、是非参考に。
2012.10.12
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榛原に「高山右近の碑」があります。先の旧「伊那佐郵便局」へ立ち寄ったのは、実は、高山右近の碑へ行った途でした。但し以下の写真は、その時ではなくて今年の1月のものです。 宇陀市の榛原のうちでも旧伊那佐村の澤、大貝というあたりに、「高山右近の碑」と右近親子の城「沢城跡」があります。榛原の町から大宇陀に向かう宇陀川沿いではなくて、菟田野に向かう芳野川沿いに、県道31号をさかのぼり、比布で県道を外れて伊那佐文化センターを過ぎて川を右岸へ渡りしばらく行くと、この写真の「高山右近の碑」があります。 昨年12月、NHKの「歴史秘話ヒストリア」の放送の中で「高山右近がキリスト教の洗礼を受けた城」として、大和宇陀の沢城が紹介されました。 その時までは、キリシタン大名と奈良との関わりなど思いも寄らないことでしたので、早速、現地を確認に赴いたのでした。 先の「右近の碑」から、少し南へ行くと「沢城跡」「沢」を示す矢印があって東へ進む道を示しています。その先にあったのが上の写真と、下のような表示板です。 つまり、沢城というのは「宇陀三将」の一人、沢氏の城なのですね。三将とは、沢氏の他、秋山氏(秋山城、のちの大宇陀松山城)、芳野氏(菟田野東郷、下芳野の芳野城)を指し、伊勢国司北畠氏のもとで宇陀を分割支配していたという。高山右近らは、松永久秀が大和に侵入し宇陀をも支配した時に、その武将として父の高山久照(飛騨守図書)が沢城に入城したとされています。その後、久照は、松永久秀から奈良でのキリシタンと仏教との「討論」の審査役を命じられ、その際にキリスト教の教えに感銘して、宣教師を沢城に招いて自ら洗礼を受け、家族と共に入信したということです。もともと摂津の出身であった高山家は、のちに高槻に移り、沢城には再び沢氏が入りますが、豊臣の天下統一の頃には廃城となっていたようです。宇陀の三将は、北畠氏のあと蒲生氏郷や藤堂氏などの配下に名前が見えるようですが、江戸期まで続いたかどうかはよく判りません。 居館「下城」跡よりのぞむ、沢城跡の方向です。大河ドラマのような「大大名」こそ生まれなかったものの、大和にはさまざまな武士たちの足跡があったのですね。奈良は、情報戦の武器とも言える「墨」「筆」の産地であったと共に、武器そのものの「刀鍛冶」や「甲冑」の産地でもあったようです。ちなみに徳川幕府お抱えの三大甲冑師「岩井」「春田」「明珍」の三家は、すべて奈良の甲冑師だそうです。
2011.09.25
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宇陀の芳野川のそばでした。一月ほど前、ちょっとしたドライブをしました。橿原から明日香村、石舞台から近年ようやく車が通れるようになった道で多武峰へ。そして山の中の十字路の信号を越えて、トンネルへ。名前の通り長~い「大峠トンネル」をぬけると大宇陀、松山の街並からちょっと折れて芳野川を渡り、沢城のふもとで「高山右近の碑」を確認。そして榛原の町へ下る途中、ちょっと脇道に入ったところにその建物はありました。 宇陀市榛原の比布に残る、旧「伊那佐郵便局」の建物でした。現在は、県道沿いに「榛原比布簡易郵便局」ができていて、郵便業務はそちらで行っています。 かなり傷んでいるのは確かですが、木造の洋館スタイルで、ちょっとメルヘンぽい建物です。取り壊しの話が出ていたようですが、地元の有志の方たちが、何とか残して活かせないかと取り組んでいるようで、その一端がツイッターに流れてきていました。こちらがその「まとめ」ですがちょっと時間軸が前後してるようです。なぜ「比布」にあるのに「伊那佐郵便局」なのかは、町村合併の歴史を見るとわかります。このあたりは明治の町村制で「伊那佐村」となり、その下に、「比布」「澤」などの字があったのですね。昭和29年に伊那佐村が榛原町に編入、翌年には内牧村も榛原町に加わります。そして50年後の平成18年に大合併で榛原町は大宇陀、菟田野、室生とともに宇陀市となります。 つまり、現在残る「比布簡易郵便局」よりも、村を代表していた「伊那佐郵便局」の方が「格が上」だったわけですね。 付近には「伊那佐文化センター」「伊那佐幼稚園」など伊那佐村の名残となる施設もありますが、地名としての「伊那佐」は「榛原」の陰に隠れて残っていません。使われなくなって20年過ぎているそうですが、何とか有効に再生活用してほしいものです。
2011.09.16
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桜井市忍坂の石位寺です。 この写真では見えませんが、お堂の後ろには立派な収蔵庫があります。 桜井から、女寄峠を経て大宇陀へ向かうR166は、かなり急な坂道ですが、その登り口のあたりが「忍坂」という地区。ただしくは(おしさか)でしょうが、まあ(おっさか)と読む方が多いのではないでしょうか。地区には「舒明天皇陵」などもありますが、最近では桜井の市街地を避けて安倍文殊院から山側を抜けるバイパスがつながったり、整備された「中和幹線」へ朝倉台を抜けて脇本でつながったりと、ちょっとした交通の要所のようにもなっています。その国道の北東側に並行する旧道に入ってくると、そのさらに北東側に「石位寺」があります。このお寺の存在を知ったのは、信州の仏像巡りをされている方のツイッター投稿からでした。合併で大きくなった長野市内には「清水寺」(せいすいじ)という名前のお寺が二ヶ所あります。一つは、一時群発地震があったり、大本営の移転候補地だったりした「松代町」にある真言宗豊山派のお寺。もう一つは、「若穂保科」にある真言宗智山派のお寺。どちらも善光寺などからみると川中島の向こうの千曲川を越えた対岸になります。 じつは、保科の方の清水寺さんが、大正時代に大火で伽藍を消失し、その後に、再建のために入手されたのが、当時、桜井忍坂の石位寺にあった仏さんたちだというのです。それも、16体もの「集団移転」だといいますから、なにやら明治の新十津川村を思わせます。どういう事情があったのかはよく判りませんが、石位寺側の経済的困窮があったともいわれます。しかも移転したうちの7体までが平安時代末期の作で「重要文化財」指定されているというのですから驚きです。保科の清水寺の様子については、こちら とか こちら(2008・10/27-28の記事) をご覧下さい。後者には清水寺のご住職に聞かれた話も書かれています。 ということで、いまこちらの方はどうなっているのかというと、無住で、地区の方が管理されているようですが、重要文化財の石造「伝・薬師三尊像」がいらっしゃるようです。 最初の写真で右手に見える無人の庫裏(地区の集会所も兼ねているのでしょうか)の方には、その石仏の写真や、拝観予約の方法などが掲げられていました。 明治の神仏分離で移動を余儀なくされた仏さまはたくさんおられますが、こういう形で移動されたというのは、ちょっとめずらしい話ではないかと思います。ともあれ信州ではとても大事にされている様子がうかがえるのは、幸いなことです。境内へは、西側の坂道を上がって入ったのですが、正面にはかなり急ですが石段がありました。こちらを降りて旧道に戻ってみあげると、サルスベリの花が見えました。
2011.09.13
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「奈良町小寺巡礼」に参加しました。奈良まほろばソムリエの松本さん( @yumeyamato )は、奈良のあちこちを案内するツアーを主催されています。8月の最終の土日(27日、28日)には、奈良町の南西部(南風呂、南城戸、鳴川、木辻あたり)に点在する、比較的地味なお寺10ヶ所あまりをめぐるツアーを開催していただきました。ツアーの全体については、28日に参加された奈良倶楽部さんのブログで紹介されていますので、そちらの方をごらんいただくのが良いかと思います。近くに住んで、普段前を通ったりはしていても、境内やお堂の中に入る機会はめったにありませんので、本当に良い機会となりました。観光寺院ではないお寺に、事前のコンタクトをとっていただいた松本さんのご苦労に感謝したいと思います。 中将姫所縁のお寺が多いのですが。中将姫が開いた最初の庵という「安養寺」、生誕の地で産湯の井戸もある「誕生寺」、父藤原豊成卿の古墳がある尼寺「高林寺」、父娘の墓や姫が継子いじめにあった話に出てくる「雪責めの松」や突き落とされた崖があるという「徳融寺」など、もと藤原豊成卿の屋敷があったという一帯には、中将姫所縁のお寺が並んでいます。ただ高林寺の前住職、珠慶尼さまの思いとしては「継子いじめ」を芝居などで面白おかしく強調されるのは、中将姫(法如尼)にとっても本意ではなかろうというお話でした。 さて、最後にお邪魔した徳融寺さんでは、赤ん坊をだいた子安観音や極彩色のお地蔵さまなど、本来のお寺の仏さまの他に目についたのが、この石像でした。 「このオジサン、いったい何者?」というところですが、御霊神社近くの薬師堂町の出身で、のちに「きたまち」に「長慶橋」や「長慶寺」を設置したという「吉村長慶」氏の石像なのだそうです。で、ちょっと角度が難しくて見にくいのですが、こちらの写真2枚もこの方が作られたもの。 大日如来像と、世界二聖を揺すり起こす吉村長慶なのだそうです。ここは案内板を読んでいただきましょう。 226事件の後の昭和12年に、「軍馬のいななきはすなわち国を亡ぼす」という文言を刻んだというのは、やはりそれだけの世界観を持った人物だったのでしょう。近年、吉村長慶については「宇宙菴 吉村長慶」という評伝が刊行され、奈良が生んだ「奇豪」として知られるようになってきているようです。キリストと釈迦を揺すり起こして、この世の乱れに対するように促すというのは、まさに奇豪の発想と言うしかないように思われます。
2011.08.29
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東城戸町「旧井田康子邸」のことは紹介しましたが井田(上村)先生の名前は、いろいろなところに残っています。前にも紹介しましたが、佐保短大には、井田康子賞奨学基金を寄付されていますし、東城戸町会所でもある大国主命神社の「拝殿」には、井田先生の寄付を記した棟札が掲げられています。 売却された旧邸とその裏の広い敷地がどうなるのか、まだよく判りませんが、先日、二月堂の横で、井田(上村)先生のお名前の入った石碑を写真に撮りましたので紹介します。(日記の日付は、前回よりかなり開いていますが写真にあわせました。) 場所は、二月堂の北側、お水取りの時にお松明が上がってくる階段を登りきり「北の茶所」へ向かう角のところです。「北の手水場」の右手に、他の寄進石碑などよりひときわ大きなものが三体立っています。 右から(写真から読み取った限りです)「南無観自在 祠堂 金貳阡萬圓也 東城戸町 井田康子」 「南無観自在 奉献 一金壱億圓 上村耕作」「春の雪 二・二六事件思出づ 宮中に入りて務め果せし(完二) 祠堂 金貳阡萬圓 井田完二 小浜生 奈良永住」「南無観自在」とは、お水取りでおなじみの観音さま(観自在菩薩)に唱える名号ですね。 上村耕作というのは父上でしょうか。井田完二氏は、先生の夫君で、昭和62年に亡くなられていますが、その晩年のお二人の様子は、平成13年になって歌集「続続 楽書日記」として出版されたようです。(元同僚、萩野先生のブログによる)教師としては、大変「堅い」「厳しい」先生で、生徒指導にうるさい「生活部長」として恐れられていた方でしたが、「高村光太郎」研究とともに、「源氏物語」についての研究もされていたように、夫君の死後の歌には人を恋うる想いが溢れているようです。 さて、「井田完二」という方は、三高(現京都大学)の卒業のようで、同窓団体「三高自昭会」の発行になる「神陵文庫」の第五巻に、その名前が見えます。 神陵文庫は、三高の同窓生が月例会や公開講演会で講演した内容を、冊子にまとめたもののようで、同じ巻には「小松左京」、東京都知事の「鈴木俊一」、京都府知事の「林田悠紀夫」、住友銀行の「磯田一郎」、交通工学の「天野光三」と、錚々たる名前が並んでいます。そして、井田完二氏の講演は、ズバリ「二・二六事件と私」というタイトルで、昭和11年の2.26事件の際に、内務省地方局勤務の氏が、決起軍に包囲占拠された内務省庁舎を避けて、宮中の某所で内務省の業務を行った様子が描かれています。なお文末には「井田特許事務所長」と紹介されています。にしても、先生のお宅がこの後どうなっていくのか、大変気になるところです。聞くところでは、今回購入された会社では、三条通りのもと「都ホテル」のパーキングも購入されたとか。どちらも奈良の町にとって大きな意味のある場所かと思います。 (2015年1月5日石碑写真を再確認して加筆)
2011.08.16
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JR奈良駅の東口です。 新しく、階段とエスカレーターの部分に屋根がつきました。以前(昨年10月ごろ)はこんな感じで、完全な雨ざらしでした。 鉄骨が剥き出しですけど、横方向から見た時にあまり目立たないように思えます。そして内側から見るとこんな感じですが、来年3月ごろまでに手前(南)側の階段にも伸ばすようです。 階段部分の屋根4枚が、すべて水平なので、スリットから外部がよく見えます。エスカレーター部分は、完全に覆うようになっていますが、階段部分はオープンな感じ。下から見るとこんな風です。 鉄骨に抵抗があるかも知れませんが、高架駅舎の水平方向のラインに逆らわないような「目立たせない」デザインには、わたしは好感を持ってみています。 少なくとも、こういう無理矢理なデザインよりはよほどマシ。このアーチ形のガラス屋根だと、夏場は温室みたいになって、噴水の蒸気とともに熱中症になるんじゃないか。行基広場には、水平方向の風の通り道がないし。 この合成写真だと、熱気や湿気は抜けるじゃないのという意見もあったので、ちゃんとした平面図も載せます。これで見ると、ビルや壁面との間隔は30cm程度にしか見えません。「ピロティ」は近鉄ビルの建物が張り出してきていますし、商店街のアーケードともかなりくっついています。
2011.08.14
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一見、なんでもない奈良のまちかどの写真ですが 角振町のアサコムニッセイシャの前、向うは三条通り、左側は友楽西館の解体工事現場です。手前に、交通事故の目撃情報を求める看板が立っています。あれ?目撃看板って、向うの三条通りに立ってたんじゃなかった。とよく見ると、たしかに向うの三井住友銀行の前のポールにも看板がありますよ。こんな近いところで、2件も目撃証言を必要とするような交通事故が起こってるんですね。 上は三条通りの三井住友前の看板、7/28朝のクルマと自転車の事故。そして、下はアサコム前の看板、8/3早朝のトラックと自転車の事故。 うーん何ででしょう。1週間の内にごく近くで2回も事故、それも自転車絡み。 考えられることは、西側の工事現場の仮囲いが真っ白で真っ平ら、光を反射していることでしょうか。どうも圧迫感があったり、距離感の目測が狂ったりしてるのかな。ちょっと困ったことです。
2011.08.11
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お地蔵さんは、子供を守って下さいますが「お産」の手伝いという話は、あまり聞きませんね。きっかけは、三ヶ所で行われた写真展でした。そのうち、奈良町物語館で展示されていた17年前の「わたしの奈良写真」の作者の方々のいちばん端に、見覚えのあるお名前を発見しました。(実は、別の一ヶ所での展示作品の作者、桂修平さんの実のお祖母さまでした。)民家の軒先のような所に立つお地蔵さまですが、周りには花がたくさんあって大切にされている感じです。いったいどこだろうとお話を伺って、「あれはお産を手伝ったお地蔵さんですよ」と教えていただきました。ネットでその話が載っていましたので転記します。● 騎馬で助産に出る地蔵尊 奈良市 奈良ホテルの東に、荒池子安の地蔵尊といって、すすぼけた石地蔵が、小堂に安置されて居る。昔、堂守の老婆が、夜中にふと目を覚ますと、お堂の中が何だか騒がしい。聞くと 「今夜は、忙しいのだ。これからお産の手伝いに行かねばならぬ。」 という話声がする。恐る恐る堂内を覗いてみると、地蔵尊が白装束で、白馬に跨って立って居られ、やがて何処かへ出て行かれた。 翌朝地蔵尊を見ると、全身汗びっしょりとなって居られた。是から、安産を祈るものが段々ふえたが、出産のときには、いつも佛体がぬれるということである。 (東蕗村) 場所は、奈良ホテル東側の天理街道(R169)を渡り、バス停留所のすぐ裏になります。瑜伽山のふもとで、隣は奈良ホテルの臨時駐車場です。このお地蔵さんの話は、「奈良町物語館」の命名の元になった「奈良まちづくりセンター」発行のパンフレット「奈良町物語」に横井紘一さんの挿絵入りで載っているのですが、現在は絶版となっています。奈良の町々の面白い話が載っている冊子、ぜひ復刻してほしいものです。
2011.08.08
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あらためて、現在の行基広場を。 東向アーケードの上からはみ出してる「寛永堂」の看板が目障りですが。ともかく、駅から出て東をみると、登大路の坂が見えて、自然と目線が上に行きますね。その上には、やはり奈良らしい広い空。やっぱり屋根はおかしいでしょう。 駅ビルの中からみても、やはりオープンな空が「奈良」への期待感を引き出してくれます。ビルの改装で見通しが良くなったことで、自然な空の光りが美しく感じられます。地下のホーム、コンコースと上がってきた乗客の目線は、やはり自然と上を向きます。 こんなところに、太い柱が立ってしまうと、せっかくの美しい登大路の歩道や並木が見えにくくなってしまいますね。「あの坂の向うに、公園が、大仏さまが、若草山が」という気持ちが、覆い屋根のせいで萎えてしまうのではないでしょうか。行基さんの広場が青空なのは、当時の市長だった故鍵田忠三郎氏の決断だという話もあります。空の雲を観察して「地震雲」を見立てたという鍵田さんらしい話です。この近鉄駅前からの登大路に向かう景観は、奈良市として保全すべきものではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。(一部邪魔物はありますが)奈良市景観課では、こういう意見募集中です。 奈良らしい眺望景観の保全活用に対する意見を募集します
2011.08.06
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児童虐待を早く見つけてねという啓発でした。可愛いクマのぬいぐるみが、泣いてたり、ケガしていたり、汚れて転がっていたり。なんだろうと思ってみると、児童虐待を早く見つけて通報してねと言うポスターなのでした。JRや近鉄の、奈良近辺を走る電車の車内に掲出されています。こんな可愛いポスターだと、何だろうと思ってみますよね。
2011.08.04
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何のためなんかようわからん。それが、今回の行基広場の屋根に対する最大の疑問かもしれません。今回のパブリックコメントの計画案には、「目的」の記述がありませんので、昨年8月に最初の意見募集で使われたものを開いてみました。 「近鉄奈良駅前行基広場は、奈良観光の玄関口でありながら、待合いや交流のための場所としては、特に降雨時には利用しにくく、待合いだけでなく駅から商店街までの移動等においても雨に濡れる状況です。また晴天時には強い日射の影響を受けたり、団体の待ち合わせは地下になるなど、利用者環境に乏しい状況にあります。 このため行基広場に屋根を設置することにより、悪天候時の雨露を遮り、晴天時に日射等の影響を和らげることにより、快適な交流空間を創出し、奈良観光の玄関口にふさわしい待合い空間としての機能向上を図ります。」 で、そのときの最初の計画書にあったのが、以下の画像です。 「悪天候時」云々って、こんなん、やたら高い柱でちょっと雨降ったら確実に地面が濡れるやろというのは誰が見ても明らかですね。 それに「団体の待ち合わせ」って、小学生の一クラスだけでも、屋根からははみ出しそうです。昨年のいろいろな意見を受けて、今月出された計画案の画像が次の二つ。変わったのは柱の表面に「木」を貼り付けたのと、屋根の面積を広げて、アーケードや地下出口などとの隙間を減らしたこと、そして、屋根のアーチを深くしたことですね。 「木貼り」は、JR奈良駅構内の柱が好評なのを受けて、後ろの壁の色と合わせたのでしょうか。ただ、逆に駅ビルなどの材質との違和感が強くなって、よけいに目立つことになったかも。それに、雨を避ける機能のために、アーチが深く下端が下がったことで、内部からは「覆われている」という感覚が余計に強くなったのではないかと思います。いわば「鬱陶しさ」はより強くなったといえるかもしれません。そもそも、行基広場自体が、そんなに広さがあるわけではなく、「団体の待合い」といっても修学旅行の学年丸ごとなどはとても無理なところです。「目的」では、「団体の待ち合わせが地下になる」としていますが、本来、駅の地下コンコースは県や市の事業で作られた公共の空間であるのに、近鉄が喫茶スペースなどの「私的・営利的利用」を行うことで狭くなっているに過ぎません。団体の待ち合わせ云々というなら、そっち方の対策を先にするべきでしょう。当時、先代の「鍵田忠三郎市長」がわざわざ「空が見えるように」したというこの空間に、むりやり巨象のような大きな屋根と太い柱を持ち込む理由としては、根拠が薄弱のように思われます。どのみち、雨の吹き込みを完全に排除などできないのですから、南側の壁沿いからひさしのような形にすることで、広々とした奈良の空を味わう開放的な広場を維持してほしいものです。広場が屋根で覆われてしまったら「はい、あの道のさきが博物館、東大寺ですよ」と、坂道の登大路方面を案内しにくくなるのは確実です。
2011.07.23
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県の独断先行で反発を受けた「行基広場の屋根」いろいろと「有識者のご意見」とか、現地でのアンケートとかを行った上で、あらためて「意見募集」ということになっていますが、「え?全然変わってへんやん」というのが正直なところです。 ・近鉄奈良駅前行基広場の屋根設置計画(案) 前のプラン との違いは、柱の表面を「木貼り」にしたことと、屋根の面積をひろげて、東向のアーケードや近鉄駅ビルに近づけたこと、そして地下出口の上も覆うようにしたこと。柱や屋根の形は、基本的に最初の絵のまま、大して広くもない広場に、大きなゾウを無理矢理押し込んだような状態にかわりはありません。 もっとも肝心なことは、近鉄奈良に降り立って、地上に出た人が感じる「奈良だからこその空の広さ」「開放感」という、観光の第一印象を維持しながら、駅と商店街アーケードとの連絡性を確保することのはず。そういう配慮、指向が読み取れません。もちろん「計画書」には、「圧迫感を与えないような開放感の感じやすさ等を考慮して」という文言(「**感の感じやすさ」って、おかしな日本語だと思います)がありますが、その結果として最も低いところで6.7m(マンション2階ぐらい)という高さと、「アーチ屋根の傾斜設置」というどうも不安定で目障りな形状を固守しているようです。まあそれはともかくとして、現状、駅を降りたところで見える風景はどんなものか、ここに屋根がかかったらどうなるのかを想像するためにも、写真で確認してみました。 まずは、地下コンコースからエスカレーターを上がって、前へ進んだ時の光景。 すぐ前にあるのは、地下から直接あがってくる階段の出口です。 次に、駅ビルのピロティの南西端から見渡した広場の光景 登大路の坂から、商工会議所などの建物がよく見えます。計画では、屋根の上端と下端とは「ひがしむき」という文字の上端からアーケード下端ぐらいの高さになりそうです。また左の地下出口もすべて覆うような広さです。 さらに、地下出口を上がってきて見える光景です。 この視線の上に、屋根が架けられることになります。登大路は文字通り「上り坂」ですので、先へ行けば「空」の面積が小さくなります。屋根で押さえられると「奈良の空の広さ」はかなり損なわれることに。 ただ、逆にふり返るとこんな感じ。 これはしかし、行基さまに相応しいかどうか、かなり問題ではありますねえ。ちょっとこの南側の壁面は、隠せるものなら隠したい。(特に県庁方面から来ると気になるんでしょうね) ただ、そのために、広場の空をすっぽり覆うような屋根が必要なのかというとそうではないはず。南側の壁から張り出してくるような、片流れの屋根で十分でしょう。どっちにしろ、7mなんて高さでは雨の降り込みは必定ですから、気にする必要はない。(商店街のアーケードでも、そのぐらいの高さで家屋に接していないところは必ず雨が降り込んでくる)とにかく、そんなに広くもない「広場」に、目障りな太い柱や、大きな屋根を持ち込んで、せっかくの「駅を出た瞬間の視界の広さ」という奈良の「売り物」を破壊してしまうことはないと思うのですが。
2011.07.22
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ということは、片方が判ればおしまいです。なので今回で、一挙ネタあかしをします。抜け路地2は、三条通りの専念寺とNTTのビルの間の路地、これの出口は、抜け路地03でやすらぎの道・率川神社南側の路地となります。 ただし、こちらの他に北向町の常徳寺の横に出る道もあります。※この辺は、三条通りの現状ともあわせてあらためて詳しく取上げるつもりです。 さてもう一組は、「奈良町」を案内する時におぼえているととても便利な路地です。 元興寺極楽坊を過ぎて、鵲町(かささぎ)を東へ曲がるとこの公納堂町(くのど)の景色。左側には吉野葛の「天極堂」さんが経営する「一福茶屋」、そして「ならまち工房」(実はここもちょっとした「抜け道」ですが)、さらに人気抜群の町家カフェ「カナカナ」などがならんでいます。 そしてさらに東へすすむと、左手に菩提町のならまち大通りへぬける道がありますが、反対側に見えるのがこれ、興善寺の駐車場です。よく見ると、角のところにカフェの案内看板が出ていますね。 上の写真、右奥に見えている興善寺の山門に行き当たって、東を向いたところが、抜け路地05の写真です。それを角度を少し変えて、よく見通せるようにしたのが、次の写真。 突き当たりは、奈良での「手打ち蕎麦」のお店としてかなり早くに有名になった「玄」の入り口。後ろには、今西家書院の向うに清酒「春鹿」の酒蔵などが見えます。左手の自転車の置いてある先あたりが、角に案内のあった雑貨&カフェ「チャポロ」さんのお店です。実はこの先、突き当たりをまた右に曲がる道があります。それがこちら。ちゃんと抜けられます。 途中には、カレーとコーヒーの「香炉里」(こるり)さんのお店もある。写真の突き当たりが「チャポロ」さんで、右手が「玄」になります。 そしてこの路地を抜けたところが、抜け路地6の写真ですね。違う角度からみるとこんな感じ。電気店の先、興善寺の南門へ入る通路をはさんで、十輪院さんの塀が続いています。 十輪院のあたりからふり返ると、こんな感じ。右手の角にもなにやらお店の案内が出ています。 角を曲がって、さっきの路地の続きにあたる「紀寺中通町」も覗いてみましょうか。途中からはそこそこ道幅があるようです。突き当たりは紀寺草小路町ですね。 こちらの通りにも、こんな雑貨のお店があったりします。 で、知る人ぞ知る人気のお店が、こちらの「よつばカフェ」さん。 先の十輪院の通りに戻れば、その門前にも、こんな町家フレンチのお店があったりします。「めしあがれ ボナペティ」さん。 さて、公納堂町から、法徳寺、十輪院、興善寺と、三軒のお寺が並んだ十輪院町に抜ける今回の路地、おぼえておくと絶対にお得です。周辺には結構イイお店もあるし、なによりも、二つの通りをワープできるのが便利です。御霊神社から十輪院などを見て、カナカナや今西家へ行きたいという時に、いちいち毘沙門町・鵲町へ戻ったり、天理街道へ抜けたりしなくとも、平行移動ができますから、お客さん連れて奈良町を案内する際には絶対におぼえておくべきですね。
2011.07.19
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「春日曼荼羅」にはいくつかの種類があります。明治39年1月の、奈良帝室博物館(現在の国立博物館)新年特別陳列では、奈良市内を中心に各町や社寺に伝わる「春日曼荼羅」を60点、20日間に渡って展示されたという記録があります。東城戸や南市所有に代表される「宮曼荼羅」(春日大社の境内図と五柱の神=仏を描いたもの)が14点、興福寺の諸堂・諸仏と組み合わせて表現された「社寺曼荼羅」が8点、西城戸町所有など鹿の背に五柱の神(仏)が乗った「鹿曼荼羅」が21点、鹿島立ちや浄土曼荼羅、地蔵曼荼羅など7点、そして、「春日赤童子像」が10点となっています。 実は、6月の押熊常光寺の聖天さんご開帳で拝見したたくさんの絵像の中に、お伊勢さんの「雨宝童子」とともに春日の「赤童子」もありました。奈良町に伝わる「赤童子」も見たいなと思っていましたら、「フルコト」さんの行き帰りに、こんなポスターを発見したのです。 え?赤童子祭って、あの春日赤童子のお祭りなの。春日講とはちがうのかな。とにかく会所はどこだろう。山田熊夫先生の「奈良町風土記」には、東包永についてこう書いてありますね。「町内に弁財天をまつる。町有の春日赤童子像、三社託宣の掛軸もある。」 おっと、その前に「東包永町」ですが、これは「ひがしかねながちょう」と読みます。西包永町もあって、その南側に、東笹鉾町、西笹鉾町(ささぼこちょう)というのもあります。「包永」というのは刀匠の「手掻文殊鍛冶平三郎包永」が14世紀に住んでいたからとされていますが、この町を通る一条通の東の端は転害門(手貝、手掻)につながっています。さて、東包永町の会所は、一条通から北へ入っていく道の先にあるということなので、9日の夕方おじゃましてみました。途中のちょっとしたスペースで「金魚すくい」や「みたらし」など子どもたちの喜びそうなお店が作られていましたが、その先に「会所」がありました。 はやくも子どもたちが集まっていますが、会所の一番奥に祭壇、そして手前の部屋では、子どもたちの「くじ引き」の用意で、景品がひろげられていました。祭壇の写真の前に、いただいた由緒書きをスキャンしたものをご覧下さい。 どうやらこの記述によれば、明治になって奈良・大和に疫病が起こるようになり、この町内にも患者が発生したため、町の守り神として春日若宮を表わす赤童子をお祭りするようになったようですね。やはり一般的な「春日講」の拝礼とはちょっと違っているようです。さて、声を掛けさせていただいて、祭壇の写真を撮りました。左に赤童子、右側は春日・伊勢・八幡の「三社託宣」(神様の言葉)の額です。特徴的なのは、お供えものに「赤童子」の名に相応しく「赤いお餅」が右側の三方に上がっていることです。そして、左側はスルメイカですが、中央にも米、塩とともに小豆が乗っています。 赤いものには、天然痘などの厄除け効果があるという説もあるようですし、明治期の疫病から、大切な町内の子どもたちをまもるために赤童子をまつり、赤いものをお供えしたのでしょうか。お祭りの日程は、現在は7月の初旬の土曜日曜ということのようです。なおこちらのお祭りについても、調査と記録のために「奈良まちづくりセンター」の方が見えていました。
2011.07.10
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弁財天のお祭りでもあります。奈良町では、餅飯殿にも東向にも弁財天がお祭りされて、7月の6・7日に祭礼が行われます。<この間、更新が止まっていましたが、とりあえずこの辺からさかのぼって再開してみます。> スーパー「オーケスト」の向かって右手、マンション入り口との間に、餅飯殿の弁天さん(宗像神社)がお祀りされています。吉野の天河弁財天より勧請された七弁財天の内五柱を正面の神殿に祀り、のち町家より一柱をこの場所に迎えたという。 右手の聖宝理源大師堂も、お祀りの時には扉が開いて中を拝見することができます。 聖宝理源大師の御像に、神変大菩薩役行者像、「餅飯殿」のいわれとなった箱屋勘兵衛が祀られています。(上記2点の写真は以前に撮影したもので祭りの当日のものではありません)理源大師は元々東大寺で修行され、のち吉野大峰山で修験道を修め、醍醐寺の開祖となった方。この春公開された東大寺本坊の持仏堂にも御像がいらっしゃいます。 今年は、猿沢遊歩道(率川を暗渠にした道路)に面したミツハシさんの空き店舗で、餅飯殿町財団のさまざまな「お宝」が公開されていました。(以前はマーチャントシードセンターの2Fで行われたこともあります。)外からガラス越しに見えるところに、「釈迦涅槃図」が掲げられていました。いろいろ映り込んでちょっと見にくいですが、色鮮やかで美しいものです。 そして、こちらは「山上講」といえばこれという「吉野曼荼羅」。中央は蔵王権現さまですね。権現さまの足下右手には、神変大菩薩役行者が前鬼・後鬼とともに見上げている。左上が牛頭天王(スサノオ=祇園さん)、下から二段目は、左の勝手明神と右が子守明神だそうですが、毘沙門天と弁財天のようにも見えます。黒袍の4方は、金精明神など吉野山の神様たちのようです。上のほうに描かれた山の中には「八大童子」が点在しています。 とにかく、これだけの色鮮やかな曼荼羅が伝わっているというのはすごいですね。他にも、「餅飯殿」という名称のきっかけともなる山上講の縁起を記した古文書や、昔の餅飯殿町の戸別地図など貴重なものが展示されていました。また、そういう「お宝」を収めた箱なども相当な年代の文化財といえそうです。 現在「ならまちづくりセンター」の研究者の方が、奈良町の「会所」について調査・記録をすすめておられるようで、この餅飯殿の文化財についてもプロのカメラマンの方が丁寧に撮影をされていました。奈良の町の豊かな文化財を正確に伝えていくことは大いに意義のあることだと思います。
2011.07.07
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以前、中街道の「上村(井田)邸」を紹介しました。その後、少し前に上村家が購入した、西隣の二軒分の敷地ともども売却されたことがわかりました。おそらくマンションなどが建てられるのではないかといわれていますが、町家そのものがどうなるのかはまだよく判りません。今回はその周辺をあらためて紹介したいと思います。 まず、寺林の通りと中街道の四つ角から南へ向かいます。左にあるのが、もと「なかにし旅館」の建物。 その中西さんが新しく建てられたのがこのお家です。奈良らしくてイイですね。 もと旅館の方はこんな感じ。ちゃんと防火用の袖壁が突き出ているし、虫籠窓も美しい。 「なかにし」さんの側から見るとこんな感じで、旧上村(井田)邸、田村眼科医院と続きます。 この2枚が、旧上村(井田)邸の表構えです。太い格子が、奈良町ならではの形ですね。 お隣の「田村眼科医院」の建物も古い医院の建物として貴重な存在だと思います。今は、主として向いの新しい建物で診療されています。 二軒とも大きさが違いますが袖壁がついています。 その少し先にある「寺田邸」も小ぶりですが美しいお宅です。右に見えるのは、町家ではなくて景観形成のガイドラインに沿ってデザインされた「賃貸マンション」です。表からは町家に見えますが、中はエレベーターのついたマンション。その向いは、前に紹介した製墨の松寿堂さん。 さて、井田康子先生の生前に、通院や介護など車の出入りの便をということで、宅地の裏側に隣接して、寺林通り側に面した二軒を買収されたのだそうです。実は、上村邸には裏に、かなり大きな畑地が二筆あり、東城戸の大国社(町会所)と接していましたが、さらにその西側に敷地が広がったことになります。次にそちらを確認してみます。 まず中街道から西側を見たところです。寺林通りの北側に、少し傷んでいますが美しい町家が二軒並んでいます。 それを正面から見たところ。ちょうど大国主命神社(東城戸町会所)の向い側です。餅飯殿の和菓子店「萬々堂」さんの持ち物だそうで、以前は社宅のように使われていたとか。 さて、その大国主命神社の西側と南側に「旧上村(井田)邸」の敷地が広がります。大国主命神社の社殿や、町会所の建物が塀越しに見えています。 左手が大国主命神社の敷地、そして地道のままでスロープの手前までが一軒分の敷地、右手の舗装された部分は、もう一軒ずっと奥まで細長い賃貸駐車場でした。そして、奥に見える大きな木ともう一本、その手前のスロープなどの広い土地が、もともと上村(井田)邸に附属した畑地だったそうです。 ともかく、これだけのまとまった広い土地が、町家の敷地以外にあるようですし、なんとか登録有形文化財の「家屋部分」には手をつけずに「開発」ができるのではないかというのが希望的な見方です。購入されたのが、近くで事業をされている方だということも漏れ聞いていますし、これだけの敷地や建物を奈良町に相応しい方法でうまく活用していただきたいものです。 町家についても単に「保存」というだけではなしに、その魅力的な活用の方法も考えていく必要はありそうです。
2011.06.24
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奈良町ラビリンス解答編4は「きたまち」です。あの地道の路地はどこやらわからんと、奈良町の住民にもいわれましたが、実は「きたまち」にある抜け路地でした。抜け路地5 と 抜け路地02 がそれです。きたまちの東西に通るのは一条通、その東の突き当たりは転害門です。 その向い、一条通の南側にはお餅の店「威徳井屋」さんがあります。右が一条通。 少しすすむと「まんとくん饅頭」などでおなじみの「萬林堂」さん。師匠筋の萬々堂さんの「ぶと饅頭」に倣った商品を「春日二梅枝」という名称で作ってはります。例の「レインボーラムネ」が手にはいることもあるようです。 一条通をふり返るとこんな感じ。「ハタリ」というのは、鹿の角細工をされているお店で「まちかど博物館」にも指定されています。たしかご主人が「畑里さん」だったような。古~いジョン・ウェインの動物映画に「ハタリ!」というのがありましたね。 少し戻ると、こんな住宅地図の看板を見つけました。左上の方にあるのが、koharu cafe と フルコトさんのあるお家らしい。ムムッ、これは「抜けられる」ぞ。 ということで、カイロプラクティックの看板の所から路地に入ってきました。ふり返ると、両側のお家は緑が一杯、でもこれ、ちゃんと抜けられるの? 途中で、畑のような所とか、造成中の空き地とかがありますが省略して、とりあえず「koharu cafe」さんの真っ白い壁です。 端っこに「フルコト」の看板も。 「フルコト」さん、「二階」というのでてっきり「koharu cafe」の二階かと思ったら、さらに奥にもう一軒お家があってその二階なんですね。ビックリ。一階は「器人器人」さんというのが入るらしい。 フルコトさんに上がって、窓から眺めると、この辺がぬけてきた路地かなあ。フルコトさんのお店の様子については、奈良倶楽部さん、nara nakaさんが詳しく書いておられますので、そちらをどうぞ。 そして、若草中学=多聞城跡へ続く道に出てくるとこういう看板があります。出題の写真の頃と比べると、看板が変わっていますね。 一条通との交差点。まあ、普通はこちらの道から進んで、右へはいるんですけどね。その先には、若草公民館、若草橋を渡ると多聞町、北へすすめば若草中学ですが西へ行くと聖武天皇陵・仁正皇后陵があります。(光明皇后というのは通称で、正式のおくりなは仁正皇后なのだそうです) 最近、「きたまち」は、ユニークなお店がいろいろと増えてきています。「ならまち」が満杯になってきてるのでしょうか。にしても、きたまちの「入り口」ともいうべき初宮神社さんもうちょっとキレイにならないかなあ。春日大社の「もちもの」らしいですけど、式年遷宮でお金がないのか知らん。今は、なんか崩れてしまいそうな塀とか社殿だし。
2011.06.19
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「三条村」も、奈良町なんです。30年ほど前の奈良の地図では、国鉄奈良駅の周辺に「三条町」と書かれて、三桁の地番が記された地域が大きく広がっていました。旧国道から西の方では、現在すべて住居表示が施行されて、三条添川町、三条栄町、三条桧町、三条宮前町、三条本町、三条大宮町などとなっています。一方、東の方は、正式地番は未だに三桁のままで、三条池町、三条細川町、三条横町、三条三綱田町、三条今井町の他、三条通り2丁目、三条通り1丁目(油阪地方町、大宮町1丁目の一部含む)などの通称町名=自治会名が使用されています。明治22年に、奈良市の原型となる自治体「奈良町」が成立した時には、「上三条町」「下三条町」とともに「三条村」が加わっています。同様の例は、紀寺村と紀寺町、京終村と京終町、京終地方西側町、京終地方東側町、木辻村と木辻町、油阪村と油阪地方町などにみられます。 少し、奈良町の歴史をかじった方なら、「そうか、奈良奉行の支配する奈良廻り八ヶ村というのがあったし、三条村もその一つか」と思うところなのですが、どっこい「奈良廻り」には、三条村は入っていません。八ヶ村は、城戸(現・大森町など)、油阪(現・大宮町)、杉ヶ、芝辻、法蓮、京終、川上、野田(登大路など)となっています。それどころか、江戸時代の奈良町絵図には、上三条丁、下三条丁の他に、 三綱田、今井丁、横丁、ほそ川などの、現在は「通称町名」として扱われているような町名がちゃんと出てきます。つまり「旧三条村」という三条横町、三条細川町、三綱田町、三条今井町なども、もともとは奈良町に含まれていたということです。とはいえ、旧三条村には、大きな農家らしい建物が今も残っています。高架になったJR奈良駅のすぐ近くに、こういう建物があるということはおぼえておいて損はないと思います。 まずは、三条細川町あたりの家屋の写真から。 上の続き その向い側 こちらは、三綱田町の方、母屋の姿がよく見えませんが。 その一軒おいて並びです。 三綱田の道は「瓜屋辻子」に行き当たりますがその角です。このあたり「松田」「福村」「飯田」というお宅が何軒もあります。 ちなみに、三条通りから南に延びる横道ですが、西から順に「瓜屋辻子」(奈良銘品館・柿の葉寿司のところ)、「(三条)横町」(もと近畿大阪銀行)、「(下三条町)新道」(喫茶ピノキオ)と古絵図では記されています。この三条横町ですが、落語「鹿政談」に出てくる豆腐屋のあった「さんじょう、よこまち」と同一なのかどうかはよくわかりません。とりあえず現在豆腐屋さんはありません。江戸時代に「丁」切りされていたにもかかわらず、なぜ「三条村」として明治を迎えたのかの大きな原因は、やはり「農家」だったことが大きいのではないでしょうか。西の方に田畑を持って農業を続ける上で、水利などを維持するためには「村」のまとまりが必要だったのだろうと思われます。その水利組合の石碑が、「旧三条池」あとのマンションの傍らに、「三条会館」「不動堂」とともに立っています。 不動堂には、三条通り角の「多田屋食堂」にあった弥勒石仏なども安置されています。
2011.06.18
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「奈良町ラビリンス」解答編その3は、「四の室辻子」その3は、けっこう知る人も多いところ、抜け路地1と抜け路地04ですが、この写真をまずご覧下さい。 抜け路地04の写真にも「四ノ室辻子」の文字が見えるように、この間の路地には名前がついています。今は元林院町で一つの社にまつられている四之室神社と八王子神社ですが、おそらくこの路地の方に四之室神社があったことから、四之室辻子と呼ばれるようになったのでしょう。この看板では「よのむろ」と読まれていますが「しのむろ」と読む方もある。「むろ」が訓読みですので、そろえるなら「よ」なのでしょうけど。 四之室・八王子神社のある元林院の通りへは、三条通りの樽井町からこの道を入ります。車の駐まっているあたりに石の欄干が見えますが、かつて菩提川にかかる「絵屋橋」があった名残り。かつてこのあたりに絵師が住んでいたことから付いた名前だそうですが、いまは暗渠になってその上が「猿沢遊歩道」と呼ばれています。この遊歩道が樽井町と元林院町との境目ですね。映画の「沙羅双樹」では、娘の「夕」も加わっているバサラ祭りの様子を、この角から樋口可南子さんたちが見ているシーンがありました。右のカメラ店は変わりませんが、左の方には当時喫茶店(二階はショットバー)でした。 絵屋橋を越えた先の元林院の通りのようす。「いずみ」の先に「まんぎょく」の看板が見えます。その少し先の向い側に、現在の「八王子四之室神社」が祀られています。今も、花街の名残の町家が残る、しっとりした雰囲気の通りです。「まんぎょく」は、「鹿男あをによし」のドラマで、小川先生とマドンナこと長岡先生がシゲさんの個展(@テンテンカフェ)を見たあと食事したレストランのロケ地になりました。 そして、ここから右に入った先が本当の抜け路地「四之室辻子」になります。この角にはいろんなお店の看板が出されています。 路地に入って少し行くと右手から、三味線の音が聞こえてきました。ここは、元林院花街の検番です。本来は芸妓さん舞妓さんの「元締め」の事務所ですが、今も音曲や踊りの稽古が続けられています。 検番事務所のとなりには、建築家の山下さんがご自分の事務所に元林院花街の様子を伝える写真を展示した「元林院写真ギャラリー」があります。そして、もう少しすすむと左側にあるのが、奈良でのエスニック雑貨店としてはたぶん最も古いのではないかと思われる「諸国民芸雑貨MARUMARU」さん。実は、後に2軒お隣にインド料理屋さんもできたので間違われることが多いようですが。 そして、一段と道が狭くなるあたりにあるのが、創作料理とお酒の店「樹樹」さん。大阪生まれだけど奈良が大好きという元モデルのママさんのお店には、奈良の博物館やお寺の仏像や奈良町のお店などの情報がいろいろと集まっています。(鳥や獣肉は自身が嫌いなので出さないのだそうです) そして、普通の傘は、ひろげたままではとても通れないという狭い路地を抜けると、餅飯殿のアーケード街です。アーケード柱の根方に出された何枚かの看板がなければ、そこに路地があることすら気づきにくいのではないでしょうか。実はこの「四之室辻子」という地名は、江戸時代にいろいろと刊行された「奈良町絵図」にもちゃんと掲載されている「歴史ある」路地なのです。3月6日の記事で取上げた「和州奈良之図」(天保十五年)では、今回の場所は「えや丁」「志のむろ」などとして表示されています。元林院花街は古典文学などにも登場してきます。落語では、冬場の元林院で泊まり続けた大阪の若旦那が退屈紛れに野施行にでかけ、その縁で狐が恩返しにやってきてうどん屋を手伝うという「吉野狐」という話などもあります。 上の「樹樹」の写真で、お向かいの家の壁がかなり大きいことが判ると思いますが、実はそこは「桔梗屋」という大きな旅館だったそうです。餅飯殿の古い写真にも「桔梗屋」の看板が見えます。ただ、この路地はある意味で「異界」だったようで、「子供は入っていったらアカンで」といわれていたそうですが。
2011.06.17
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「奈良町ラビリンス」解答編その2さて、二つめの解答は、こちらにしましょうか。抜け路地3+抜け路地06 ですね。でもこれ、06の方は「あ、見覚えが」という方もあるかも知れませんが、3の方は、知らない方が多いでしょうね。ということで、まずはこの写真から。 でも、これでも判らないかも。ここは、西新屋町の南の端です。手前の方の右手に、小塔院への入り口や、「こんどう豆腐」や奈良オリエント館などがあります。左へ曲がると、御霊神社の方へ行けますね。 上の写真の突き当たり(ここは抜けられません)を右へ折れるとこんな風景です。白い塀は「聖光寺」のもの。映画「沙羅双樹」では、このお寺での「数珠繰り」の光景が出ていたはずです。黒板の看板が出ているところが、抜け路地の「入り口」なのですが・・・・・・・・・・・・・実は「沙羅双樹」では「俊」の双子の兄が、このあたりで「神隠し」に遭ってしまうのです。この塀の内側の巨樹は、そのシーンで印象的に使われていました。 「茶の湯」というリラクゼーションのお店が路地に面してあるようです。「神隠し」のシーンは、乳母車にカメラを乗せてこの辺の路地をガタガタと走らせていたので、見る側にとってはちょっとキツイものがありましたね。手前の門は「白山神社」です。中の写真は、こんな感じ。↓聖光寺の屋根が見えています。ここの路地はちょっとキツイ(そりゃ神隠しが起きるぐらいw)です。家の軒先をかすめて通りますので、やはりちょっと遠慮がちに通り抜けることに。そして出てくるのは、三棟町の誕生寺の横(抜け路地06)です。誕生寺は、中将姫が生まれたところということになっています。その前は、もう東木辻町で、昔の遊郭街。下の写真の建物や、右手の「静観荘」などは典型的な遊郭建築の名残です。 「奈良町ラビリンス」解答編、まずは映画「沙羅双樹」絡みの二ヶ所をご紹介しました。そりゃ「迷宮」だから「神隠し」もありますわねえ。ご訪問のときはくれぐれもお気をつけて(笑。
2011.06.15
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奈良町ラビリンス解答編その1えっと、楽しようと思って「コメントに書きます」ということにしたのですが、やはりテキストじゃあ、抜け路地の面白さは伝わらないなと。ということで、抜け路地解答編を追加写真付きで行ってみます。 *まずはもうコメントに書いた分ですが、抜け路地4+抜け路地01ですね。 西寺林の路地が、勝南院に抜けるという件です。 焼き鳥「おんどり」お好み焼き「団」や「キッチンペピタ」などのある路地です。昔はこの角に靴屋さんがあったようですが、取り壊して地域のインフォメーションのような使われ方をしています。 「勝南院」の通りはこちらです。寺林の通りを東にすすんで道祖神社(通称・博奕の神さん)の所を南へ曲がる。「天ぷら飛鳥」やお茶の「田村青芳園」(電柱の向う側)などがあります。路地の出口は、田村さんの向う側の緑の庭のお宅の向う側です。このお宅は、昔、岡本小児科があって、私も幼い頃に連れてこられた記憶が。 この日は、庭であじさいが咲いていました。以前は、この庭にニャンコがいて「もらって下さい」と書いてあったのですが。 南側から見た、路地の出口です。手前の灯籠は、勝南院町「住吉神社」の灯籠。河瀬監督の映画「沙羅双樹」では、主人公の幼なじみ「夕」(兵頭祐香)が母(樋口可南子)とともに下御門商店街へ下駄を買いに行った帰り、この抜け路地を通ってでてきます。そして、不在の父親のことについてこの通りに立ったまま会話するシーンがありました。ちなみに、「夕」の自宅は、さらに南へ道を渡って中新屋の菊岡漢方前を右へ入った西新屋町で、「こんどう豆腐」になっているところという設定でした。(相手の「俊」の方は、その西側背中合せの鳴川町にある町家で、今は改装されて「桜舎」というゲストハウスになっています。)
2011.06.14
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「悲田院」そのものはどうなったのか。先日の日記で、悲田院跡地の様子はお伝えしたのですが、「悲田院の観音様」を探しているという方のコメントをいただきました。私の方は「地蔵堂」の存在を確認したので、まあそれで一段落と思っていたのですが、その方の活躍で新たな情報を得ることができました。ごく近くにいながら、知らないことはあったのだなとあらためて自戒しました。(この前の西新屋率川神社について隣町の皆さんがあまりご存じなかったのも無理のないことです) 悲田院は、もともと阿弥陀寺さんがお世話されていた。南城戸町の悲田院は、守りをしていたお婆ちゃんが亡くなった後、荒れ果てていたそうですが、 寺地を奈良市が買い上げたことでその資金で新たなお堂を、南風呂町阿弥陀寺さん(↓写真)の境内地に建立、傷んでいた仏像なども美しく修復されたそうです。(入江さんの写真に、二人の小さい子どもたちと写っていたのはそのお婆ちゃんだったのでしょうか) 山門入ってすぐの左手に「悲田院」と額のかかった観音堂が建っています。昼間は通用口が開いていて、観音堂にお参りすることができます。説明書に、悲田院の経緯などが書かれています。
2011.06.07
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さて、満を持して登場は「奈良町ラビリンス」ですぞ。これら12枚の写真は、すべて奈良町(ならまち、きたまち)の「抜け路地」どこから入ればどこへ抜けるのか、当ててみてください。すべて「車(4輪)での通り抜けは不可」のところばかりですが、住宅地図などには「通り道」として記載されています。一部、最近新たな店ができたりして看板の様子が変わったりしているところもあります。 あまりランダムに出しても、困ると思うので、片側を6枚続けて、もう一方側を6枚続けて出します。抜け路地1 抜け路地2 抜け路地3 抜け路地4抜け路地5 抜け路地6さて後半の6枚は、前の6枚の路地の反対側です。どれがどの路地の出口か、当ててみてください。抜け路地01 抜け路地02抜け路地03 抜け路地04抜け路地05抜け路地06 さて、見たことのありそうな場所ばかりだと思いますが、「え?これ抜けられるの?」というところもあるのでは。回答編は、数日後にコメント欄に書かせていただきます。
2011.06.03
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しばらく更新をサボっていました。この間に、奈良の町では、第2回の「まちなかバル」とか、4次総合計画否決についての議会側の市民への説明会とかがいろいろあってツイッター上では賑やかだったのですが、その分、こちらはそのままでした。まあ、ネタの写真はいろいろあるし、あんなこともこんなことも載せたいのですが、修正編集するのが面倒ということで、手が着いていませんでした。そこへ、奈良町の「赤線」というやりとりをタイムライン上で発見して、木辻の写真がそのままになっているのを思い出しました。奈良町にかすかに残る木辻遊郭の面影 この写真のどこが遊郭やねんとお思いでしょうが、この中街道の角の新築の家が木辻遊郭「第三油屋」の建物があった場所。有名な建物でしたので、いろいろなページに取上げられています。ただ上記リンクのページの写真のうち、上から二枚目の鳴川町の風景では遊郭はずっと向うだし、一番下の右は、着物の洗い張りのお店でまあ関連業種と言えなくはないけど遊郭ではありません。 中街道から、東の花園町へ坂を上る途中の景色です。かつては坂の両側に妓楼が並んでいたそうですが、この先右手にある称念寺には「遊女」の墓石が集められているそうです。このあたり「東木辻町」から坂の上の「花園町」にかけて、井原西鶴の「好色一代男」などにも出てくる「木辻遊郭」があったとされます。(戦前は、高畑の「連隊」の需要などもあったのでしょうか) 坂の上の四つ角から北を向くと、右手にあるのがこの建物です。以前は手前の空き地になっている部分に同じような建物が並んでいたようです。昭和の住宅地図には「初音旅館」と書かれていますが、「北初音楼」という遊郭だったようです。このすぐ後ろは、中将姫ゆかりの「誕生寺」なのですが、いささか妙な感じですね。 その向いにあるのがこちら「静観荘」です。こちらは「本家岩谷楼」だったそうで、現在は素泊まりの旅館として営業されていますが、外国のお客様には遊郭の名残の豪華な内装が評判なのだそうです。 この玄関、見覚えのある奈良ファンは多いかも知れませんね。ドラマ「鹿男あをによし」で、明日香村に出かけた小川先生と藤原クンが、おでん屋(実は奈良町の「蔵」さん)で飲み過ぎて、村の路地(実は知事公舎横の道)で藤原クンをおんぶしてやってきた旅館という設定でロケに使われました。 こちらの建物については、こういうページで紹介されていますのでご覧下さい。 旅館静観荘 Ryokan Seikan-so ついでに言えば、こちらの木辻は「遊郭」で「娼妓」がいたところ。南市や元林院は「花街」で「芸妓」がいたところ。まあ「元林院と違て南市の方は転び芸者」で芸より身を売るといわれたりしたようですし、戦後の進駐軍がいた時代には「オンリーさん」になっていた芸者さんもあったそうですが。
2011.06.02
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「ならまち」のど真ん中だと思います。ならまち資料館や、庚申堂、どっとFMなどのある西新屋町のことです。 小塔院の向いあたりにあるこれは何?注連縄かかってるけど、看板はありません。 額には何も書かれてません。 ふーん、率川神社から長屋門を持ってきて使ってるのか。 中はたしかに神社のようです。 となりの芝新屋町、中新屋町に友人がいるので「あの西新屋にある神社みたいなのは、何?」と聞いてみましたがすぐに答えは返ってきませんでした。「たしかに、なんかあるけど、ガイドブックなんかにも載ってないわなあ。」そもそも、この日わざわざこのあたりへ来たのは、先の悲田院・陰陽町の写真を撮っている時に、奈良町の「今」と「昔」とを対照した少し前の新聞記事をもって現地確認に歩いている人に出会ったからでした。実際は「今」となっている記事の写真も、本当の今からみるとかなり前のことで、例えば鳴川の聖光寺の横の地蔵堂にしてもとなりの建物がすっかり変わっています。「奈良町物語館」の向いの塀の中にあった立派な「蔵」は写真にはあっても今はもうありません。そんなことを「確認」しようと西新屋まで歩いてきて、そうそう、そういえばこの「神社」は何だったんだろうと思ったのでした。で、もう一度中を覗いて、確かめてみてわかりました。「率川神社の長屋門を使っている」のではなくて、ここが「率川神社」なのでした。よく見ると灯籠の足には「率川社」と彫られています。ついつい「率川神社」といわれると本子守町の率川神社(大神神社摂社)のイメージがこびりついているので、「あちらから門だけ移設した」と思いこんでいたのでした。 例祭は9月1日だそうで、祭神は「コトシロヌシ」だそうです。あっちの率川神社ではなくて御霊神社さんが祭礼は執行されているとのこと。但し、山田熊夫先生の「奈良町風土記」によれば、「坊目拙解」で村井古道は「飛鳥神並神社」であるとして率川神社と称することに疑問を呈しているようです。門の「額」が何も書かれていないことについて、ご近所の話では「以前は行列のようなものを描いていたが、消えたのか亡くなったのか」といわれていました。ところで、景観形成建築物指定書の「背景」みたいに使われている「絵」は、いったい何なんでしょう。「祭」の文字や、仏さんらしき絵が見えるのですが。なぞです。
2011.05.22
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入江さん「古都の暮らし・人」の図録 奈良市写真美術館で、平成17年の1月から3月にかけて「古都の暮らし・人」という題で行われた昭和20~30年代の写真の展示会の際に発行されたもので、たぶん今も在庫があるでしょう。 展示会では東大寺の筒井さんなどが撮られた写真も出品され、「懐かしさ」に身悶えした方も多かったと思われます。図録には館所有の入江さんの写真だけが収められています。で、ほとんどの場所は「これ、あそこや」と判るのですが、記憶にないのが、この写真の「悲田院遊場」というところです。同じページには、陰陽町の市に寄贈された松矢邸もしくはその西側の写真、そして一つ前のページには、陰陽町の坂の登り口と、中街道からおしろい地蔵の十念寺へ下る道が写っています。これらのどの写真にも、小さな子供が写っていて、「悲田院遊場」ではおばあちゃんらしき人も見えています。でも「遊場」ってなんだったんでしょう。 ナゾのまま古い住宅地図を見ると、南城戸町の銭湯「稲妻温泉」ととなりの仏壇屋の裏あたりに「悲田院」の文字を見つけました。どうやら、永らく「ならまち郷土館・建設予定地」となっているところが、その悲田院のあったところらしい。そもそも「悲田院」をググッて見ると「貧窮者や孤児の救済施設」というのが出てきますが、奈良町の「悲田院」というのは、残念ながらよくわかりません。 上の写真は以前に撮ったものですが、先日、たまたま隣接地の建物の作業か何かで、柵が開いて車が入っていました。入ってみると、たしかにここが「悲田院」の跡でした。 あの写真のイメージよりもかなり広いですね。むこうの高くなっているところは、鳴川町になりますが、ここでふり返るとこんな建物がありました。「悲田院地蔵堂」と書いてあります。 そして、その前の写真にチラッと写っていますが、右手には、石がかためて置かれていますが、よくみると墓石とか石仏らしきものや、石塔の一部のようなものもあります。 もう少し先へ入ってみると、左手に陰陽町の方へ上がれる階段が見えます。そしてその次の写真は、陰陽町の側から悲田院跡地を見た様子です。右手のベージュ色が銭湯の奥にあるアパートの建物。正面の建物の向うに、中街道沿いの駐車場から「音声館」へ抜ける道、その向うの高い瓦屋根は、徳融寺さんでしょうか。 この階段のそばにあるのは、ちょっと可愛い二軒続きの棟割り長屋です。悲田院側から見えていたのは、この建物の裏側なのですが、日本家屋なのに色瓦が似合いますね。別の角度からの写真には、高御門町西光院の墓地が写っています。 この先の角を曲がると、乾家の長い塀の先に陰陽町の坂の通りが見えてきます。 で、けっきょく「ならまち郷土館」というのはどうなっているのでしょう。全く動きがないまま、いわゆる「塩漬け土地」になっているようです。近隣で何か工事があったりしたら、資材置き場とかに使われたりしているようですが、何とももったいない。近鉄奈良駅にあった「なら奈良館」が閉鎖となり、あの精密な奈良町の模型(一軒一軒の建物を復元)の行き場が懸念されていたり、「ならまちセンター」の青田家模型(清水通の旧家です)が持て余されていたりと、「ならまち郷土館」の必要性も高まっているかも知れません。しかし、あの写真の「遊場」というのが気になります。なんらかの施設は設けるにしても、せっかく陰陽町とつながっていて、これだけの広場になっているのに、もっとあの写真のような「子どもたち」が主役の場にできないものか。「音声館」も近くにあるのに関連施設にできないのだろうか。もちろん、下手に児童公園にしても一定の開放性、常時看守が確保されないとあの「下三条町東街区公園」の二の舞になってしまいます。陰陽町では、鎮宅霊符神社の西隣の「松矢邸」が奈良市に寄贈されたことで、「からくり」に関連した施設として活用しようという動きも出ています。あの「霊符さん」の可愛い狛犬ももっと知られてほしいですね。 元興寺絡みの、いわゆる「ならまち」のエリアからは少し離れているものの、陰陽町の通りは「平城京四条大路」の名残りの通りです。だから、元興寺に「高御門」という門が作られ現在の高御門町となった。 先に紹介した「鎮宅霊符神社」なども含めて、中街道のこのあたりは奈良町の大きな核となる要素を持っているはずです。いわば「悪所」であった木辻遊郭跡や、北京終あたりに残る立派な町家、そして明治建築の京終駅など、奈良町エリアの南西部を総合的に掘り起こすことで、いわゆる「ならまち」をもっと幅の広いゆたかなエリアとして売り出していけるのではないかと思います。
2011.05.21
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かつての流通メインロード「中街道」の町家です。今回は「登録」のあるものを紹介します。 東城戸町の故井田(上村)康子先生宅です。先生は奈良女子大附属中高の教官のあと佐保短大でも高村光太郎や源氏物語などの研究・教育に精励されました。直接の血縁がなかったようで、生前からその資産を地域に寄贈されてきました。東城戸「大国社」の拝殿や東大寺二月堂北側の手水所、さらに佐保短大「井田康子賞」奨学基金などに名前が残っています。この自宅についても「自身の死後は奈良市に寄付する」ということで、文化庁の「登録有形文化財」のプレートが取り付けられていました。ところが、この写真を撮影した今年1月には、あったはずのプレートがみあたりません。先生の遺志があったとはいえ、何らかの処分がされるのではと危惧されていました。 しかし今日、前を通った時に撮影したのが下の写真です。プレートが復活しています。やれやれ。もう一つ、近くの松寿堂さんの前を通ると、こんなディスプレイがされていました。 「ならまちまちかど博物館」ということだそうです。ちょっと写真だと格子で見にくいのですが。次に、「ならまち大通り」を渡った先、南城戸町の二軒も紹介します。 「和ロウソク」の製造販売を行っていたという「細川家」の建物は県指定の文化財。 そして細川家の隠居部屋として作られたというのが、お隣の「森家」でこちらは奈良市指定文化財。 こちらの当主は、先の松寿堂さんとは先々代同士がご兄弟だそうです。美しく修復されたのをそのままにするのはもったいないと、このところ土曜日曜には公開して来客にお茶を出したりされています。入ってすぐの「みせの間」は、茶室風の造りで、網代天井がみごとです。ちなみにこのお向かいのアパートの一室には「五想庵」というデザイナーさんのプライベートギャラリー(こちらも土日にオープン)があったりして、新旧のデザインを楽しむことができます。今回は「登録」されたものだけですが、その他にも、趣のある町家が中街道周辺にはたくさんあります。元興寺周辺のいわゆる「ならまち」だけではない奈良の町の面白さを感じていただければと思います。 追記)井田邸は、売却予定かと。 その後、井田邸の経緯について周辺から事情を聞きました。自宅については、生前、奈良市ではなくて「奈良まちづくりセンター」におまかせしますという話だったそうです。事情のわかった弁護士さんもついていたそうですが、最晩年は周囲とのコミュニケーションも困難となり、解任されて別の方が付いたらしく、「まちづくりセンター」もそれ以上関われなくなった。そして「通院等の駐車場に」ということで、奥の西側で接する敷地を買収して更地にした。(寺林からの東西の通りに面する) しかし、結局、現在転売を検討されているらしいと。一時、「登録有形文化財」の指定を解除するにはどうしたらいいのかという相談もでていたということです。ということで、プレートは戻ったものの、今後の動向は予断を許しません。 以前は、井田先生のいとこにあたる方たちが面倒を見られていたそうですが、現在どうなっているのか、そこまで突っ込んで訊いた方はないようです。裏の敷地がかなり広くありますので、できればそちらにマンションなどを建てるにしても、街道側は現状を維持もしくは整備してほしいものです。
2011.05.17
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1300年祭のあと三条通りの工事も再開。少し古い2月の写真ですが、下三条町付近は、拡幅がほぼ完了。 ただ街路の上の施設はまだこれからですね。シラカシの植樹が進んできていますが、今後、電柱の地下埋設や歩車道分離のためのボラードなどが予定されています。次の「絵」は完成予想の一つですが、今後いろいろと変更はあるかもしれません。 そして、この三条通りのキャラクターとして商店街が採用したのがこちらです。以前に写真を紹介した「シカの白ちゃん」がこんなイラストになりました。 1000点近い中から選ばれたポイントは、交通安全・青信号の「目」だそうです。そして手足の先は注意の黄色信号のイメージも。 一方、JR奈良駅近くの方は、同じ2月ごろはこんな感じでした。 左のもと「マクドナルド」ととなりの「島岡洋品店」さんは、現在建物が撤去されてこんな感じ。 島岡さん宅の奥には、ずいぶんと立派な木が植わっていたのですね。そしてとなりの建物には、「みむろ最中」白玉屋さんの仮店ができてます。 ただ、このあたりで一番の問題は、上の写真中央にみえる南都銀行やスーパーホテルの入っている「旧いろはビル」のことです。この建物は、旧24号線=県道奈良橿原線の拡幅予定地にもかかっています。三条通側のセットバックと、県道側のセットバックと両方をやらねばなりません。ようやく県の事業も動き出したそうで、やっとJR奈良駅と三条通りとの「見通し」がよくなりそうですが、さて、いつ頃になるのか。一説では、ビルが古いので丸ごと解体新築するのだという話もあります。
2011.05.17
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やっぱりこうなったら現地確認ということで、県文化会館の裏へやってきました。 これが現在のNHK奈良放送局(放送会館)ですが、「古くて小さい映画館」の跡地としては大きすぎるような気もしますね。ここが「鍋屋町27番地」です。鋳物工場ということで調べると、「山中鋳造所 鍋屋町22番地」というのが検索でかかり、電話番号も出ますが、地図には全く出てきません。(GoogleMapだと駐車場) 電話帳のデータだけがのこっているのでしょうか。「NHKのところにあった鋳物工場は、小学生の社会見学などもあった」という話ですから、それなりの広さもあったのでしょう。奈良町の昔話でおなじみの増尾正子さんもNHKのある場所は「大きな鉄工所だった」と書かれています。 さて「今のNHKのもう一本裏」ということになると、昭和40年代の奈良を知る人間にとってはピンと来る建物があります。それこそ「いつ壊れてもおかしくない」ような建物ですが、一癖ありそうなテナントや住人で記憶に残るのがこの「半田アパート」です。 そもそもアパートといいながら、南側に洗濯物を干すような設備もなさそう。中街道の旧錦市場と似たような臭いがします。あちらの方も、元は劇場だったという話もあります。 そもそも、この中途半端な敷地面積が「古い小さな劇場」ぽいような気がします。 いずれ「きたまち」に詳しい方が決着させて下さることでしょう。追記)意外と早く結論がでました。 どうも正解は、このあたりらしいです。 NHKのすぐ東の通りで、県庁の西側から北へきたところ。手前が半田アパートのある交差点になります。(道が狭いので、なかなか写真が撮りにくいです)中央にあるのが産経新聞の奈良支局、駐車場、小さく見える瓦屋根の民家、そしてちょっと洒落たマンションと続きます。「電気館」があったのは、この家並みの一部だったようですが、その名残となるような建物の痕跡は見あたりません。実は「電気館」は、もともと芝居小屋だったようで、そのとなりに銭湯があり、白塗りの「女形」さんが男湯に入ってきて男の子がビックリしたという話が伝わっているそうです。木辻方面でも、もと劇場や映画館と思われるところがいくつかありますが、今回はこのぐらいにしておきます。ともかく、奈良の街の中に近年閉鎖となった三ヶ所(友楽の東西、観光会館地下)以外にも、多くの映画館があったということは記憶に残しておきたいところです。テレビやビデオの時代について行けなかったといえばそれまでですが、今は逆にテレビがネットでの画像・動画配信の時代について行けなくなっている状況が生まれてきているのではないでしょうか。
2011.05.12
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奈良の町に映画館がなくなってしまいました。友楽の二つの建物や、東向の「観光会館地下劇場」などが最後でした。 そこで、その三ヶ所以外で、かつて映画館のあったところを集めてみました。 まずはここ。「友楽座」があったところは、奈良銀行本店(の右半分)になりました。 そして「セントラル劇場」(洋画と東宝系?)があったのは今の「奈良市場」の敷地。たしか「潜水艦イ57降伏せず」は、オヤジに連れられてここでみたような気がする。 ここは花芝町の「プラザ花芝」ですが、ここに「南都日活」がありました。 サンルート奈良は、もとは「尾花座」もしくは「尾花劇場」でした。たしか「松竹」系だったと思いますが、晩年は「ブレイジングサドル」などちょっとマイナーな洋画で楽しませてもらいました。 南市町の駐車場になっているところは「中央映劇」の場所。戦争物やアクション系の洋画がかかっていたような。 で、その向いにあったのが「スターミュージック」 でした。ヌードショーの小屋ですが映画の上映もしていたはず。河瀬監督の映画「火垂」にも主人公の仕事場として登場しましたが、今は建替えられておしゃれなカフェになっています。(意外と狭かったのですね) 私の記憶にはっきり残っているのは、これらだけですが、たしか木辻だか綿町だかにも映画館はあったはず。キャバレーになったのか市場になったのかわかりませんが、当時のあのあたりはそういう歓楽街的要素が残っていたのではと思います。かつては銭湯の脱衣所は、さながら映画館の宣伝場で、市内各所のさまざまな映画館で上映されるポスターが掲示されていました。今から思えば子供にはかなり刺激の強いものもありましたが、別にうるさくとがめる人もなかったように思います。時代の流れとはいえ、やはり一ヶ所ぐらいは映画館があっても良いのではと思います。
2011.05.10
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菊岡漢方の看板の写真です。 こちらは表にかかげられているもので「鹿」の絵 で、こちらが調剤室に掛けられている「兎」の絵のものです。 どちらも、ずいぶんと細かく陀羅尼助の効能について描かれていますね。蔵馬のおじさんこと大久保先生の話だと、この菊岡さんの看板からあと、あちこちのお店で蔵馬工房の看板が使われるようになったとか。たしかに、実用に耐えるものですね。
2011.05.10
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休日の「ならまち」でときに見られる光景です。中新屋町の「はり新」をすぎてしばらくの左側、休日にこんなお店が出ていることがあります。「鞍馬」じゃなくて「蔵馬工房」さん。京都が本拠地の「蔵馬のおっちゃん」が、とっても楽しい板絵を注文に応じて描いたり、輪切りの木ぎれに描いたアクセサリーを販売したりしています。右手のふり返って「なにか」とうそぶく太い猫は「小沢さん」のイメージか。となりの「ちょいと仕事に出掛けてます」というのはドロボウ猫。左手の方では「節電節水中」と洗濯板でお洗濯のニャンコがいる。「おっちゃん」こと大久保先生曰く、タヌキもネコも同じように描いてるんやけど、なんでかネコばっかり売れる。信楽のタヌキはみな買うてるのになんでやろ。中新屋の通りにはもと「桶辰」という風呂桶などの職人のお店があって、閉店後ちょっと味のある板切れが供給されたという条件があったのかどうか、この近辺のお店には大久保先生が板切れに描いた作品というか看板がずいぶんとみられます。以下「蔵馬工房の看板」オンパレードでよろしく。(看板普及のきっかけとなった菊岡漢方の看板は別の機会に) さて、他所の店の看板をタダで映すだけでは申し訳がないですね。ワタシが買い求めたのも出しておかないと。なぜか同じネコのバリエーションが二つなのですが、どうもこの太さが、自分のお腹を見透かされているみたいで、つい買い求めてしまうのです。 とにかく、この蔵馬工房さんがきっかけとなって、奈良町の看板に、木の板に書いたものがが当たり前になったような気がするのですが、ちがいますかね。
2011.05.08
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三条通の二つの物件に動きが出ています。 上三条町の「旧りそな銀行新奈良営業部」の建物が、解体作業にかかっているようです。もとの「協和銀行奈良支店」でしたが、協和埼玉銀行>あさひ銀行を経て、りそな銀行奈良支店となり、奈良銀行(旧三栄相互銀行)との合併によって「りそな銀行新奈良営業部」となりましたが、JR奈良駅前への移転により空きビルとなっていました。下が、営業中の「りそな新奈良営業部」時代の写真です。 りそな銀行関係では、三条通にもう一件、旧奈良銀行の本店の敷地もあります。 こちらは、あらかたの建物は解体済みですが、会議室など一部が残っています。(民家のようなのはオーナーだった野村家の建物なのでしょうか?) こちらの写真は少し前のものですが、現在、地質調査のためのボーリング装置が持ち込まれています。 どちらも、この春までりそな銀行の所有のままでしたが、2月ごろまでに入札が行われ3月末までには売却の手続きが済んだようです。やはり国の公的資金が入っているのを返却する資金の一部にということだったのでしょうか。 売却先ですが、旧協和の方については、奥で隣接する「浄教寺」さんが購入したようです。街路事業が進行するなかで、お寺の駐車場などとして使っている敷地を市に売却することになって、その代替として使用するために購入されたようです。もちろん駐車場だけでなしに信徒会館のような建物も設置されるのではないかと思われます。(一時は、三条通に面して墓地ができるのではと心配もされました。)一方、旧奈良銀行本店敷地の方は、最終的にダイワハウス関係の会社が購入したようです。マンションということになる可能性が高そうですが、地質調査が終わらないと具体的な計画は出てこないと思われます。こちらも友楽あと同様に、商店街の大事なポイントとなる場所ですから、その利用計画如何によっては、地元からの意見がいろいろとあがることは必至と思われます。
2011.05.07
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平城京天平祭は、5日が最終でした。久々の平城宮跡ステージにまんとくんたちが出ると聞いて、行ってきました。 「おーい、まんとくん」手を振ってくれてます。 「しぎとらくん」「せんとくん」(その陰に蓮花ちゃん)「古代ちゃん」「ネッピー」「まんとくん」、そして右端は群馬県の「ぐんまちゃん」です。 中学2年生のアイドル「万葉シャオニャン」と一緒に踊ります。 午後の部を前に、グリーティングからお帰りのゆるキャラたち。「ぐんまちゃん」は関東の風評被害を跳ね返すために奈良にやってきました。 この日は「ならB級グルメ決定戦」も行われました。 天気も良くて、前半のころと比べると大にぎわいでした。 ちなみにB級グルメ決定戦は、シャモ肉入りの「焼きそうめん」が優勝したそうですが、写真のような行列でしたので私は参戦は遠慮しておきました。
2011.05.05
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このGWの県による交通対策は主に二つ。1)パークアンドバスライド(北=奈良坂、西=中町、南=天理白川の三ヶ所の郊外駐車場)と、2)奈良公園~平城宮跡の周遊バス&奈良公園ぐるっとバスの運行ですね。このところ、県では奈良公園の交通対策について説明会を開催しているのですが、なぜか奈良市の中心からはいささか外れた会場での夜間開催ということで、出席する機会がありませんでした。(若草山・大仏殿周辺と、高畑・飛鳥地区が直接の影響はわかるのですが、なぜ中部公民館ではなくて100年会館なのでしょう。)それと、ぐるっとバス運行期間に合わせて「木簡型一日フリー乗車券」も400円で販売しているのですが、この通用範囲がなかなかのお値打ちです。市内200円均一区間のみならず、浄瑠璃寺、西の京、秋篠寺までって、ちょっとサービスしすぎの気もしますが、奈良市内へ来た以上クルマを使わせないぞ!という断固たる姿勢は感じられます。ということで、その大きな武器として今回使われているのが、県庁そのもの。これまでも屋上の整備・開放などを行ってきましたが、今回は県庁を奈良公園エリアのバスターミナルとして活用しています。 平城宮跡への周遊バス(200円)がこちら 県庁舎の前庭がシャトルバスのターミナルに そして奈良公園ぐるっとバスの案内です。 県庁舎玄関には、バスを待つ客のためにイスとテーブルのセットが何組か置かれています。さらに、守衛さんが「屋上からの展望」もお勧めしてくれます。まさに県庁舎丸ごと「観光拠点」にしようという意気込みが感じられます。実際に「ぐるっとバス」乗ってみました。ちょうど、東行き(県庁東>大仏前)は渋滞中でしたので、乗ろうとすると「いま渋滞して時間がかかりますがよろしいですか」という確認がかかりました。 出てすぐの県庁東交差点、京都方面は「左折可」で流れていきます。 大仏前交差点、二つの写真の間でまるまる10分かかってます。 今回のバスの停留所は、通常の奈良交通路線バスと重なるところもありますが、独自の名前が付けられています。(奈良交通の場合、近くにある他の停留所との区別で、かなりややこしい名前だが、今回の停留所名は単刀直入で判りやすい。) ・奈良公園前(県庁前) 通常は「県庁前」 ・国立博物館 〃「氷室神社・国立博物館」(外回り) ・東大寺(往き) 〃「東大寺大仏殿」(東行き) ・手向山八幡宮・二月堂前 若草山麓の道路の北西端です。 ・若草山麓 春日大社からの階段上がったところ。 ・春日大社 「春日大社本殿」春日大社の駐車場 ・東大寺(復り) 「大仏殿春日大社前」(外回り) ・浮見堂 鷺池の南西端の三叉路 こんな感じで、ぐるっとバス用の標識が立っていて、ほとんどの場所には、アンケートなどを持ったスタッフが配置されて乗客に説明したりしています。ルートのうち、手向山~若草山麓~水谷橋の間の土産物店街では歩行者との接触防止のために、スタッフがバスの前を歩いて「露払い」をします。また浮見堂停留所からしばらくの間の公園道路でも「露払い」が行われていましたし、天理街道への合流(信号無し)ではガードマンが誘導していました。 車内の電光表示も、独自の停留所名「春日大社」になっています。見た感じ乗車が多かったのは、「若草山麓」「春日大社」「東大寺」でしょうか。「博物館前」では渋滞中でしたから乗客はありませんでした。「浮見堂」も終点近いこともあって乗車はなかったようです。 乗ってくる人の半分ぐらいは、首から「木簡型一日フリー乗車券」を提げていました。(結構大きいので運転手さんも確認しやすそうです) 私自身、よそへ行ってあちこち見たい時は、やはりバスや路面電車など「フリー乗車券」を使うことが多いですね。小銭の出し入れで余所者が地元客の邪魔をすることもないし、「お得」ですし。今回の「奈良公園ぐるっとバス」の課題はこんな感じでしょうか。 1)なんといっても、県庁東~大仏前の渋滞が問題。いっそ逆回りで県庁東右折>浮見堂>大仏前>若草山のルートを先にする方法も。2)フリー乗車券、5000枚限定というアナウンスは必要ないのでは。便利だしもっと気楽に買ってもらえるようにしたほうがいい。(県の補助金予算の関係があるとすれば、西の京、浄瑠璃寺は「オプション」扱いとか) 3)今回、平日の5/2、5/6も「県庁前ターミナル」が稼働しているが、秋のシーズンなどにどうするか。県への賓客などがあれば、玄関で迎えることが必要になる。4)県の事業としてやっているので、多くの「人手」を使っているが、採算性の点で問題だろう。スリムな形で、継続的な運行ができるための工夫が必要。「先走り」はどうしても必要なのかどうか。 5)運行の定時性確保に、短い区間での運用は効果的だが、公園と奈良町とを結びつけるようなルートも必要ではないか。また、一方通行でもよいが「通し」の循環も可能にすればどうだろう。(浮見堂から乗って、県庁を過ぎて東大寺など) 平城宮跡周遊は、5/8までですが、奈良公園バスの方は5月中の土日の運行が続きます。(フリー乗車券も同じ)せっかくの意欲的な取り組みですので、良い成果が出てほしいものです。
2011.05.04
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大阪市立美術館です。 6月5日まで開催の歌川国芳展に行ってきました。 ツイッターで「4時間近くいた」 なんていうのを見て、うそやろ、そんなアホなことないやろと思い、とはいえやはり早めにと思って入場が午後2時頃でした。で、すみませんnakaさん疑ってごめんなさい、マジで4時間かかりますね。実際には、「あと30分で閉館です」といわれた時点で「残りまだ60点ほどありますので」という状況。3時間ではとても足りませんでした。もうシーツひろげて閉店状態のミュージアムショップで、ひったくるように図録を買い求め、「あ、双六見てない」と駆け戻り、息弾ませて表に出てきました。少し公園で休憩をと思うまもなく「閉園します」というアナウンスで、新世界へ向かいました。いやー、しかし面白かった。 「絵画」でもなくて、「イラスト」のような「アニメ」のような、ウィットに富んでいて、いうなら「紙に描かれた上質の落語」みたいなもんでしょうか。とにかく「絵を見る」だけじゃなしに、武者の名前とか、詞書きもできるだけ読みたいと思うので、ついつい時間がかかる。それに、どこかにパロディが隠れているのではと油断できない思いで見ているので、ヒマがかかりますねえ。(二ヶ所ほど途中で休憩する場所がありましたけど)今回は「前期」ということで5月8日まで、10日から後期なんだそうですが全出展作品421点で、通しの展示はわずかに20点あまり。つまり、200点の展示を二回やるようなもんです。まあ、版画なのでサイズがそんなに大きくない(だから余計に数が増えて時間がかかる)わけですが、その分、図録のボリュームも半端じゃないです。わが家にある分でいうと、奈良博の「神仏習合」、京博の「河鍋暁斎」「大絵巻展」などに匹敵しますね。ホントは、猫モノのクリアファイルなんかも買いたかったんだけど時間切れでした。 さて、もう一度行って「後期」を見るかどうか、ちょっと考えてみよう。
2011.05.02
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今年は「平城京天平祭」4/29~5/5になりました。これまで「平城遷都祭」(ならせんとさい)として、毎年この時期に行われていたものですが、平城遷都1300年祭がおわったことで、名前が変わりました。 もともと平城遷都祭は、奈良市の「ならまつり」として朱雀門周辺で行われてきたもので、一昨年は建築中の大極殿に近いエリアで行われ、昨年は1300年祭平城宮跡会場での行事の一部として組み込んで行われました。昨年の「東市西市」は朱雀門前広場が会場でした。 ステージは、大極殿前の一ヶ所です。佐伯門側から東市西市の会場を見ると桜の花越しに大極殿が見えます。 大和のうまいものの店が並ぶ「東市西市」 東市西市ものづくり体験では、凧や瓦、竹細工などのコーナーが(作った凧を揚げて楽しむ姿もありました) 会場内では遊歩道の柵が整備されてきています。 エントランス広場の建物はなくなっていますが、久々にシャトルバスの姿が見られました。今回の交通システムは、イベントが5日で終了後も5月8日まで以下のように続けられます。1) 奈良県庁~近鉄奈良~JR奈良(西口)~平城宮跡の直通シャトルバス(200円)を、9:00~18:00の間、20分間隔で運行。2) 奈良阪、中町との間でパークアンドバスライドのシャトルバス(無料)を運行。天理(白川池)へは帰りのみシャトルバスを運行。(駐車料は500円) 3) 平城宮跡の駐車場は、期間中身障者など専用として、一般車は駐車できない。今回、公園・駅と平城宮跡との直通有料バスというのは、初めてかと思いますが、けっこう乗っている方が多くほぼ満員状態での運行だったようです。歴史館&遣唐使船が23日から再開したこともあって、観光のポイントとしての平城宮跡が定着していくのではないかと思われます。 ただ、東市西市の屋台の売り上げは思うようには上がっていないようです。昨年のように、最初から「何かお金を使おう」というお客様はそう多くないようです。
2011.05.01
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仏教界では追悼行事を呼びかけていました。震災から四十九日の4月28日、地震発生の午後2時46分に全国のお寺で法要や鐘をついて、被災者の守護や犠牲者の追悼をしようということでした。興福寺でも南円堂の鐘楼にこういう掲示がありました。興福寺南円堂でも、藤の花が咲いています。 藤棚越しに見える南円堂さん、二人のお坊さんが中に入って観音様に祈っています。 お堂から出てこられたお坊さんが般若心経などを唱える中、居合わせた20人ほどが交代で鐘をつかせていただくことができました。 全部で21回の鐘をついたあとは、光明真言「おんなぼきゃべえろしゃのうまかぼだらまじはんどまじんばらはらばりたやうん」が繰り返される中、合掌して追悼と復興を祈願いたしました。
2011.04.28
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旧世尊院の盆藤展は、3日まで開催中ですが、こっちの藤もしっかりと咲いています。こちらの場所は、奈良町の東城戸町「大国主命神社」です。左の屋根が、大国さんの拝殿で、お参りする時はこの藤棚の下に立つような形になります。この場所を外から見るとこういう感じです。奈良町の景観形成地区に指定され、数年前には奈良市の補助を受けて門や塀などが改修整備されました。道を挟んだ向い側には、ぶと饅頭の満々堂さんが所有する美しい町家もあります。 敷地の中はこういう風になっています。 藤棚の左手と奥とが、町の「会所」で右手が大国さんの拝殿(その右手で見えないのが本殿)です。拝殿手前の木は50年ほど前に植えられた桜ですが、先日まで満開で塀の外にもたくさんの花びらが舞い落ちていました。春日講などの行事は、現在、奥の会所で行われていますが、左の棟は町内会の会所としてはかなり広いものです。椿井小学校の前身の一つ「嚶鳴舎」がここにありました。 明治5年から6年にかけて、奈良市内でもあちこちに小さな学校が開設されました。その一つがここにあった嚶鳴舎でした。開化天皇陵に隣接する漢国町の「山の寺」(念仏寺)に設置されていた陶化舎と統合されて、現在の椿井小学校の前身となりました。 この広い敷地は、もともとこの地にあった「奈良晒」の大きな商家のもので、現在「柴田寝具店」となっている四つ角からここまでが一つの敷地であったと言います。移転の際に「家運隆盛は大国さまのおかげであった」として、町内一同が引き続いて大国さんをお祭りすることを条件として、その敷地を町有のものとして寄贈されたのだということです。現在は住人がいないため、行事などの時以外は鍵が閉まっていて入ることができません。ただ、最近水曜日の午後には先生が来られて書道教室を開いておられます。子どもたちの学舎としての復活も期待したいところです。
2011.04.27
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普段はひっそりした初宮神社ですが、昨日はイベントで賑やかでした。大門市場で始まった「一箱古本市」、楽器の演奏や手作りのお菓子の販売などもありました。ただ残念なのは、近鉄の駅から続く商店街が県庁などを相手にしたところも多く日曜はひっそりしていること。来月も22日にあるらしいです。ちなみに初宮さんは、興福寺旧境内の北西の角に近く、おん祭りのお渡りに先立って田楽座が参拝奉納することで知られています。
2011.04.25
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早くに出来ていたJR奈良駅高架下の公衆トイレですが、結局オープンは4月1日からだったようです。あの男子小便後ろ姿丸見えの仮設トイレで奈良の観光地としての評価をどれだけ落としたか、下らん予算年度にこだわった役人には東電とともに賠償請求したいところではないかと。なお写真左の「お手洗い」の看板の裏側は、1Fの自由通路に通じていて、自由通路から表に出ることなく(雨に濡れずに)トイレを使うことができます。
2011.04.24
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元興寺では企画展示が今日から。ということで、北円堂から五十二段を下り、ならまち大通りを越えてやってきました。 特別展示(極楽坊縁起絵巻と厨子入智光曼荼羅)でも拝観料はふだんと同じ400円ということで、まずは極楽堂に上がります。阿弥陀様の両脇に智光と礼光の両法師がいらっしゃいます。 企画展示は、かつての池のあとに建てられている収蔵庫の三階で行われています。この中には、国宝の五重小塔や、さまざまな仏さま、板絵智光曼荼羅(大きなケースに収められていて直接見ることはできない。近赤外線の複写が見られる)なども納められています。で、肝心の縁起絵巻は元禄時代の複製ですが、それだけに着色も美しく見やすいものでした。何よりも上巻で、智光法師が行基菩薩に嫉妬して頓死し、地獄で閻魔さんに叱られるなどというお話は、初めて知ったもので、大変興味深いものでした。 元興寺極楽坊境内でも、雨の中、八重桜が鮮やかに咲いていました。
2011.04.23
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今年も、北円堂は今日から特別開扉。ということで、やはりあの空間の魅力は捨てがたく今年も行ってきました。世尊院から地下道を戻り、金堂の工事現場をさけてぐるりと大回りをします。南円堂の方から、西へ曲がる角にはしばらく前に金春流の薪能石碑が建てられています。 今年も拝観料は300円で、大変お値打ちだと思いますが、拝観が終わってお堂の外からちょっと写真を撮ってみました。中央が弥勒如来(ここでは弥勒菩薩ではなくて、未来の姿として如来になっておられる)、後ろに立っているのが無着菩薩と世親菩薩で実在のお釈迦様の弟子ですが、とてもリアルな人間味のある彫刻です。(以上三体は鎌倉期の運慶ら慶派の作品) 手前の坐像は法苑林菩薩で向う側に大妙相菩薩がおられますが、こちらは室町時代。 柱の陰に立っていたりするのが、持国・増長・広目・多聞の四天王さまで、堂内ではもっとも古い平安時代の木芯乾漆像ということになります。 北円堂は、弥勒三尊と、四天王、無着・世親菩薩という三種類のそれぞれ異なる「風合い」の仏像が、八角の丸い壇上に不思議な共存関係を作っていて、魅力的な独特の「世界」となっています。また開扉は大抵の場合、二面もしくは三面の扉が開けられるため、外から差す光の効果もあります。この空間は、一度体験すると忘れられないものになるのではないでしょうか。 北円堂の南側は、道を挟んで「阿修羅」たち八部衆がいた西金堂跡、さらに南円堂が見えます。
2011.04.23
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「盆藤展」が、国際奈良学セミナーハウスで。 県庁東交差点の北東角にあるのが、県所有の「国際奈良学セミナーハウス」(民間事業者による指定管理)ですが、もとは興福寺の子院「世尊院」であったといいます。興福寺ゆかりの世尊院客殿の建物で、藤原氏に関わる盆藤展というのは、まことにふさわしいことではあります。というよりも、まあ今まで中に入った記憶がないので、この機会に旧世尊院とはいかなる建物かのぞきたいという本心で、出かけてきました。(盆藤展は18日から5月3日まで。400円) 門、前庭、玄関と、美しい藤が飾られています。この玄関に向かって左手には、喫茶スペースや宿泊施設、研修室などの備わった新築のセミナーハウスがあります。中へはいるといくつもの部屋に盆藤が飾られて、上品な藤の花の香りが漂います。私は花のほうは不調法なので、庭越しの知事公舎のようすとか、板戸に描かれた絵などのほうに目がいきました。
2011.04.23
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海住山寺さんのHPで見てそんな素晴らしい観音様がいらっしゃるお寺って、どんなところだろうと、ちょっとの間を作って大仏鉄道跡を車走らせました。(厳密に言うと下梅谷から先は違いますけど)もちろん、観音様は予約して10人以上でないと拝めないのは判ってますが「現光寺の場所」だけ確認したかったので。住所と地図で確認すると、加茂の駅の東の山裾を流れる「新川」(これ駅の周りの地面よりも水面の高い天井川ですね)に沿って北へ進み、線路にあたる手前の村(大字北小字山ノ上)の中とわかりました。手前の兎並(うなみ)は何度か行ったことがあるので、まあ要領は心得ています。余計なことですけど、加茂駅東の住宅地はもともと田畑だったところだし、万一、この新川が溢れたら浸水してしまうだろうなあ。 立派な建物の多い村の道から見るとこんな感じ。少し引っ込んだ場所にあるので知らないままだと通り過ぎてしまうかも知れません。 手前にあるのが「収蔵庫」のようです。観音様はこちらでしょうね。で、次の写真が左手の空き地(収蔵庫整備のための作業に使われたのでしょう)からみた、全体像。ちょっと木の陰に鐘楼(但し鐘はない)が見えます。そしてその次が本堂の正面。 ということで、現光寺の十一面観音様を拝観するには、10人集めないといけません。(「同等」ということは、10人分5000円の御布施すればいいのかな。) 昨年は、1300年祭で五條の草谷寺、阪原の南明寺、矢田の東明寺と隠れたところの仏様を拝ませて頂きましたが、こちらはリストに入っていませんでしたね。京都府とはいえぜひ広く見せて頂きたかったところです。で、最後はおまけ。JR関西線、加茂までは「大和路線」という路線愛称がついてますがこの先は「関西線」のままで非電化です。かつてのキハ35、36、キハ58等に代わって、いまは「第三セクター鉄道」によくあるようなスタイルの、小振りなディーゼルカーキハ120型が亀山までの運用にあたっています。乗務員扉なしで、当初はトイレもない車でした。
2011.04.21
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あるいた方が健康にもよいのでぐるっと一回りしてみました。 愉伽神社は相変わらず閉まってたけど、天神さんの何種類もの桜は元気だったし、大仏前には修学旅行がずいぶんと来てた。そうそう、浮見堂には中国人観光客も来てましたね。で、「公慶道」=公慶上人が、自坊(現在の龍松院=筒井さんの塔頭)から大仏殿に通った道を確かめようと、大仏殿の裏側に回ってきました。講堂跡と道を隔てて西側の広場で満開になっていたしだれ桜です。きっちりとディアーライン(シカの食害跡)が出ているのが、奈良らしくて面白い。こちらは同じ場所のもう一本。ディアーライン越しに見える白い壁は、正倉院のもの。正倉院から東へ進んで龍松院の前に出ると、はい、ありました小川に石を渡して越えたあと大仏殿に向かう「道」が。途中で後ろと前と写真を撮りました。先日の公慶堂公開では、公慶上人が勧進して歩いた道と思っていた方もあったようですが。(例の京都の街中歩いた地図もあるから紛らわしいかも)大仏殿の裏を通って、指図堂の裏あたりまでくると、こんなサクラもありました。カエデの新緑と相まって気持ちの良い風景でした。右手の塀は、勧進所(公慶堂などもこの敷地の中にある)です。 さて、このあとは焼門裏の喫茶「工場跡事務室」&「NATIVE WORKS」(どちらもお休み)をのぞいたり、大門市場が更地になっているのを見たり、一条通りに出て「萬林堂」さんのまんとくん看板や「ハタリ」さんの角細工を眺めたりなどしました。多聞城あとの若草中学へ向かう道で「コハル・カフェ」を見つけたりしたあと、多聞の町の中を抜けてきました。ちなみに佐保川北岸の「多聞町」は「絶対に普通自動車で入っていってはいけない」場所として知る人ぞ知る場所です。 えっと、ここで急にシカの写真です。それも、オスジカばっかりが10頭近くも木陰にたむろしています。じつは、ここ公園の中じゃないんですよね。 ここ、佐保川と一条通りの交わるあたりにある聖武天皇陵でした。こいつら、一条通を通ってここまで来たんだろうか。まあ観光客も来ないから、のんびりと草食べてくつろいでるようです。正面が聖武天皇のお墓ですが、右手奥には「仁正皇后陵」というのもあります。え、そんな皇后さん知らない? 実は、あの光明皇后の公式の名前が仁正皇后なんです。さてここから真南の方を目指して歩けば、奈良女子大学、花芝・東向北を経て近鉄奈良駅です。近鉄奈良駅をでて奈良交通バスのビルの横には「皇陵巡拝」のための石碑が残っていますが、気がつかない方も多いでしょうね。
2011.04.18
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「路地裏カフェ」の二つめです。震災前の3月上旬、朝のNHKで紹介された「奈良の路地裏カフェ」三軒、一つはすぐに判りましたが、あとの二つは「ならまち」ではなさそうでした。(三つ目は「山」がみえていた)二軒目の路地に入るあたり、どうも見覚えがある場所だったのですが、それは意外なところでした。 ここは、三条通り(下三条町)と大宮通りをつなぐ「今辻子(いまづし)」の通りでした。向うの「川本医院」は、象さんがシンボルの耳鼻咽喉科のお医者さんです。角に立つ赤い道標のところを左へ入ります。 今辻子町の会所などの先に、まずあるのがこちら。これはカフェではなくてギャラリーで、「OUT of PLACE」という名前です。その先にチラッと見えているのが「カフェ」でした。 「パビリオン」という名前で、絵本とコーヒーのお店ということです。テレビでは、ずいぶんと広々とした感じでしたが、場所はホントに「路地裏」の狭苦しいところにありました。とりあえず場所がわかったので、このあとは「今辻子町」を少し紹介しましょう。ここからは今辻子町のあれこれです。 さっきの質屋さんから50mほど三条通側に戻ると、こういう道があります。いまは東側しか残っていませんが、もともとは西の方、西之坂町に向かう道もあったようです。で、下の写真のように、開化天皇陵の参道敷地でまた途切れてしまうのですが、本来は林小路町まで続く道、いわば三条通りのサブとなる道でした。 (林小路側の道もホテルフジタの敷地まで来て、南へ曲がり三条通につながっている) 向こうに見える屋根は霊巖院のお寺で、このあたり、ホテルフジタの奥の方や御陵の敷地などは、住民はいないはずですが「百万ヶ辻子町」という町名がついています。「百万」というのは、謡曲「百萬」の主人公となっている春日の巫女で、その住処がこのあたりであったことから町名になったといわれています。その「百萬」の供養塔もあるのがこのお寺「西照寺」です。さっきの写真で突き当たりの少し手前に門の屋根が見えています。このあたり、徳川家康が大阪冬の陣で奈良に逃げてきた時のエピソード(桶屋の桶に隠れた)が残っていて、西照寺もかつての境内では東照宮を祀り、今も家康公の墓碑や位牌が残っているそうです。向う側林小路の漢国神社にも、家康が奉納した甲冑がつたわっています。 西照寺の手前には、今辻子町でお守りする神社「住吉神社」があります。三条通を挟んで南側にある「月日社」が、神功皇后の妹「与止日女」などを祀るのと好対照(住吉大社は神功皇后と住吉三神=表筒男、中筒男、底筒男を祀る)と思いきや、そう簡単ではありません。 この灯籠の柱には「九頭社」とあります。傍らの案内板によれば、もともと九頭神社、九頭大明神を祀っていたようです。明治の神仏分離では「明神」「権現」を禁止するようになっていますから、その関係で明治時代に住吉神社へと変貌したようです。(案内板では住吉三神と九頭明神と書かれています)三条通りの「裏側」にも、いろいろと面白いお店や歴史があるんですね。ところで、このページの写真撮ったのは3月11日のことでした。「その時間」には道で人と立ち話をしていて全く気がつかなかったんだけど、ある事務所に入った時に「今の地震気持ち悪かった」と言われました。
2011.04.17
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「楽人長屋」をおぼえていますか?1月3日の記事で、大乗院庭園文化館のトイレ入り口のことを書きました。「楽人長屋の復元」と謳われているけれど、ちょっと違うのではないかと。その後、どこかに当時の写真が残っていないものかと探していました。 そして、私が探しているのを知った方が見つけていただいたのが上の写真です。奈良市都市計画部が「奈良町都市景観形成地区」について紹介するために発行したパンフレットの中にあったものです。 ちょうど車が右手から顔を出しているのが、鶴福院の交差点で、そのずっと先の方はすでに道路が拡幅されているようにも見えます。電柱の手前に開いているのが、問題の「楽人長屋の土塀にあいた門」です。こちらの写真とは、あきらかに違いますね。昭和の写真で、電柱の向うには、馬蹄形ではない木造の「門」が映っていますが、こちらの方はちゃんと移設されていたのです。場所は伝香寺・いさがわ幼稚園の南側で、もともとは川(今は暗渠)に面していたところにあります。暗渠は「道路」ではないので、ちょっと目立たない場所ですが、案内板もついています。(手前の祠は、銘がありませんが弁天様のようです。) 案内板によれば、天井板から明和6年(1766年)の墨書が発見されたということですので、この門も「値打ちもの」であることは確かです。ただ、やはり「楽人長屋」と謳う以上は、あの特徴的な馬蹄形の門をきちんと復元してほしかったですね。ちなみに、楽人長屋のあったのは、このあたりということになります。この右手の方には柳生家のお屋敷と「飛鳥橋」(の欄干)があって道が曲がっています。
2011.04.16
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というのが、感想に出てきました。なにかというと、だんだん周囲の人にも知られてきた例の友楽東あと住宅専用マンションの問題です。なかには「えらい、なめたことするもんやな」ともいわれます。 そら京阪さん、大阪の中之島とくらべたら何やけど、これでも奈良では一等地やで、と。 登記情報によれば、友楽の二つの土地建物は、南都銀行によって貸付担保5億円、根抵当15億円という権利設定がされていたようですが、目先の資金回収で、将来の奈良に禍根を残すようなことにならなければよいがという意見もある。 東西の三条通の流れと、南北の東向・小西・餅飯殿・中街道の人の流れ、交流人口のいわば「潮目」にあたる場所だけに、「金の卵を産むニワトリ」となるはずの場所を首を絞めて解体=分譲してしまうという結果にもなりかねません。これだけの場所で住居のマンションというのは売れるのは確実で、たしかに「確実な資金回収」はできるのでしょうが。(一旦、底地まで含めて分譲してしまったら、万一あとで土地利用を変更するのは事実上無理でしょう。)少なくとも、こういうのだけは止めてほしいですね。 やすらぎの道、高天交差点近くのマンション。↑ この辺はオフィスビルも多いのですが、この区間は、一段とひっそりした感じです。 こちらは、ならまち大通りの北室町にできているマンション。下御門と勝南院の間です。いちおう「景観形成地区」としての修景は施されています。最近のマンションでは「セキュリティ」が売り物になっていることも多く、玄関には鍵がかかっていたりする。住民はそれで良いのでしょうが、近隣にとっては「大きな壁」ができているに等しい状態ですね。 で、「壁」ばかりのまちになってしまうと、こういう感じ。 ここは、7年前にあの「楓ちゃん」が誘拐された現場です。右手のマンションの防犯カメラに誘拐した車が撮られていたようですが、そりゃ「後の祭り」というもの。「人の目」とカメラの目では、意味がまるで違いますね。
2011.04.14
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