「Life」を求めて

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2005.10.27
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カテゴリ: 哲学について
6限(18:00~19:30)の授業と7限(19:40~21:10)のゼミに毎週出席しているんだけど、6限いつも時間ギリギリまで授業する先生がいつもより30分くらい早く終わって、?、と思ったら、先生に呼ばれて
「今日体調悪いから帰るけど、7限のゼミ英治Aに任せたからやっといて☆」

まあ学会の発表やら準備が重なって忙しかったらしいし、いつもの滲み出てるエネルギーが今日は見受けられなかったし、時々あることなのでので仕方ないかなと。

先生がいないゼミってのも最初は若干不安だったけど、これはこれで良いもんだ。プロが一人いると自分で考えずに無意識に頼ってしいがちだってことがわかったし。
素人なりに積極的な議論や意見交換ができ、文章の文脈(西田幾多郎『善の研究』を読むゼミなので)も皆で協力しながら読解していくということができた。次回の流れも全員で確認し、すっきりと終わり良いゼミでした。
まあ、だからって今後先生いらないってわけじゃないけどねw

 今日のゼミの収穫は「自覚」についての理解。(以下興味ある人だけ読んで下さい)
ちょうど「神」についての箇所。一般に自覚とは、反省によって起こる。「私は教師である」とか「今日は木曜日である」とか。
一方、神における自覚というのは反省の上にあるのではない。

反省によって生じる自覚とは真の自覚ではなく、かえって自覚の不完全性を表す。自覚が真に深まるというのは、「私は○○である」とか「今は○○な時である」というようにあらためて反省の生じる余地の無いほどに現実が理解されている状態をいう。だから真に自覚が深まると「我を忘れる」ということが起こる。
だから我々の自覚即ち意識は、それの不完全ゆえに生じる、と言うこともできる。そして神は実在そのものであるから「…神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識は無い。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識は無いのである。」(P227)
西田はわりと汎神論的な傾向で神をとらえているのだけど、汎神論からさらに一歩進んで、一元的実在論ともいうような神の捉えかたで、実在即ち宇宙や自己、自然や精神が、直接に神の思想であり、意志であり、その表現であるということを述べている。

いやあ、「私」ってのは不完全故にあるもんなんですなあ。でもその不完全性ってのがなぜ現実に〈この〉不完全性でなきゃならないんだろ?





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Last updated  2005.12.13 23:06:33
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