「Life」を求めて

「Life」を求めて

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2005.10.28
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カテゴリ: 哲学について
仕事が終わってから上野にて。
上野に向かう途中、駅前でホットッペパーを配布してたので何気なくもらったんだけど、これってクーポンマガジンだったのね。知りませんでした。
というわけでさっそくクーポン持って居酒屋に行ったら1000円割引でしたw
うーむ、こうゆう情報って大事なんですな。


話は突然変わって、昨日から気になってる「自覚」の話。(以下興味のある人だけ読んで下さい)
普段我々が考えている「私」とか「自分」というような個人的自己意識ってのは、意識現象の一側面であって、ある限定された意識下における一時の自覚を表現したものに過ぎないのであるんだよなあ。だからと言って「私」や「自分」が本当はないんだということが言いたいのではない。それが常に流動的に変化する側面も持っているということが、西洋個人主義に対する(というよりむしろ永井均の<私>にたいする)アンチテーゼとして言いたい。
(和辻哲郎の主著の一つである『倫理学』における「間柄」という概念での人間の捉え方はもしかしたらそのアンチテーゼの最たるものかもしれない。若干全体性のみを強調し過ぎる極端な面も無きにしもあらずって感じだけどね)

本質はまず、意識。意識ってのは、個人的自己意識に限定されるものではなく、たとえば状況に応じて集団意識とかになったり、社会的意識とかになったり、恋人がいれば恋人意識(?)という言い方は変だけど、その場に応じた意識がその場に応じた自覚の在り方をする。

オーケストラの一員として楽器を演奏する時(まあ自分は経験無いけど)、練習通りに演奏して個人個人の音が完全に調和してうまくいった時、その状況で意識ってのは、個人的意識というよりは、集団として一つ意識になっているはずだ。個人的意識というのは反省的意識であることが多い気がする。前にも述べたけど、反省というのは意識の不完全な状態を表す。回りが上手く演奏できているのに一人だけ失敗してしまったとき、意識は自然と反省的になり、反省は個人にかえってくる。個人はなんとか修正してまたオーケストラに復帰するわけだ。

オーケストラも、個人も同じ意識である。個人の意識がただ集まっただけではオーケストラは完成しない。個々人の意識が統一を果してこそ、調和としての演奏が生まれる。

個人的意識ってのは、現代においては尊重されるべきものとなっている。ただ、そのことは意識を個人という特別であるかのような概念で固定し、個人主義的傲慢に陥ることを助けているのは事実だ。意識は個人を脱するからこそ個人を自覚できる。そして我々にまず直接与えられているのは個人としての反省意識ではなく、主も無く客もない全的な意識としての純粋経験である。


うーむ、書いてるうちになんか問題がずれてきてる気がする。
個人の自己意識がなにか特別なあり方をしているように感じる時ってのが誰にでもあると思うけど、オーケストラの説明だけではそれを言い損ねてる気がする。
それに「全的」な意識と言っても漠然とした抽象的な意識ではなくて、個人的で具体的な意識でもあることを上手いこと表現しないとなあ。意識って結局個人的実存的人生にかえってくるしなあ。ってこうゆう考え方が既に現代個人主義的思想に毒されているのかしら。

…なんかややこしくなってきたので寝ます~。

主客未分 全的なる純粋経験の世界に行ってきます。。。










そうっ、だから結局、寝て、起きた時になんで「この」個人的自己意識にいつも返ってくるの?ってのが問題なんだよね~。

はい、おやすみなさい。





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Last updated  2005.10.29 04:15:30
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