「Life」を求めて

「Life」を求めて

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2006.02.13
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カテゴリ: 哲学について
意識が生成するのは何に由来するのかということを、ここしばらく考えることが多い。

これだけだと抽象的なので、
生活の現場においてそれを考えてみよう。

たとえば、

朝の目覚めをいかに気持ち良く迎えられるか、ということで生活における意識の「張り」ないし「充実」の度合いを測ることができると思う。

仕事から帰り、疲れ果てて次の日の段取りもなく、バタンキューすると、大抵次の日の朝は布団から出たくないことが多い。

それは、目覚めてから、意識の方向性が定まらないから。
自分が何をするかがわかってないから。

前日の夜に手帳を開いて、次の日の段取りを考えていたり、

そのように、その日具体的なイメージがあらかじめ用意されていると朝の目覚めはまったくもって障害でもなんでもない。

朝、目覚めて我々は、瞬時にここがどこで私が誰であるのかを把握する。そしてその内容によって、起き上がるの辛くなったり、楽しくなったりする。
朝の意識がどのように形成されるのか不思議でならない。


赤ん坊は大抵皆泣きながら生まれてくる。
心地よい母体という「静」の世界から、いずれ「個」としてその実存を背負うことを運命付けられた「動」の世界へ。

「赤ん坊」を主題化して見てみると、赤ん坊にとっては、母体が世界の総体である。
赤ん坊にとって母体の外は大気圏外の宇宙空間と同じようなものであろう。
肉体的・物理的に一であった母と断絶し、個として世界へと投げ出された赤ん坊は、
まず大泣きする。

それを単に生理学的反応と見ることもできる。だがそんな抽象的な解釈で意識の説明にはならない。

ここではそれ(赤ん坊が泣きながら生まれること)を、

個としての生をこの世界に確立したことへの自己主張でもあると考えてよいかもしれない。。。

世界を拒絶しながらも、そこに自己の確立を図らなければならない。
赤ん坊の誕生はなんて実存的なんだろうか。


子供の世界は狭い。だがそれは大人から見れば狭いだけで、子供にとってはその意識が世界の総体である。意識が世界の総体であるということは、何も子供に限らず我々大人にとっても同じことである。

成長すということは、

自覚の拡大とは、関係性の把握のことで、自己と他者、見る自己と見られる自己、自己と世界、自己と社会。。。。それらの関係性が意識において明確になっているということでもあるだろう。
最近「教育」とは何かをよく考えるが、おそらく教育とはこうゆうことだ。
関係性を明確にすることなんだ。自覚の拡大を促すことなんだ。


少年時代は世界の外側への明確なイメージもなく、ただその時を世界の総体として把握している。きっとそれは自我意識が明確でないからだろう。

ここ数日、よく子供の頃海岸で見た赤い夕日が、特別な感情を伴って思い出されることがある。
いわゆるノスタルジックな気分で。

ノスタルジーとは何だろうか?

それは当時の世界の把握のしかたを当時のままに思い出してしまうことであるとだろうか?
現在の大人としての豊富な関係性の意識において、
当時の内もなく外もない、世界の総体としての意識を、当時の感情もそのままに想起されることなのだろうか?

そうとも言えるが、こうも考えることができる。

その当時の意識と、現在の意識と、その二つの意識の距離を把握する意識感情をノスタルジーと呼ぶ、と。
少なくとも、ノスタルジーを感じているのは少年である当時の自分ではない。それを想起する側である。





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Last updated  2006.02.16 22:54:35
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