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このブログは、愛夢舎という 「塾」
が運営するものであり、
この僕も、 「塾のセンセイ」
あるが、
このテーマに関しては、塾の人間という意識では書いていない。
かつて、学校教員採用の最前線にいた人間という立場で、書いている。
(同テーマの過去の記事は、↓こちらから
『教員採用に想う.1』
『教員採用に想う.2』
また、
僕のかつての活動については、こちら→ 『愛夢舎Sub History.2』
からどうぞ)
教員採用に関する不祥事
が、
ずっと話題になっている。
ついに、
不正によって採用になった教員の解職
、
不合格となった受験者の再試験という方針が報道された。
だから、ダメなのだ。
僕は、私立学校の教員採用にかかわってきて、
各校の考えを、お聞きしてきた。
まず
学校の質
とは、何によるものであるか。
言うまでもない、
「教員力」
だ。
校舎や制服ではない。
そして、
高い 「教員力」
とは何をもっていうのか。
これには諸々のご意見があったが、
抽象で言うと
「人柄」
である。
ゆえに、私立校の多くは
「面接試験」を最重要視する
のである。
学科試験の得点ではない。
しかるに、
公立採用試験では
この学科試験が非常に大きなウエイトをしめる。
今回の不祥事も
テストの得点を改ざんしたというのが、一番分かりやすいケースだろう。
無論、面接において、
「口きき」があったとか、そういうこともあるのだろうが、
金銭等の授受があったことによって、価値は180度変わってしまったものの、
実は、
面接等における、第三者の意見を参考にする態度自体は
糾弾されるべきでない。
「人柄」を重視するのであれば、
たかが数十分の面接での印象で判断は危険であって、
その人を長く知る人の意見は、大変信頼できるからだ。
教員はコネで採用すべき
その点、ご注意いただきたいのですが、
しかし、公立採用は
本質からずれている気がする。
その原因として、
公の親方が、民間の市場原理を変な風に取り入れ、
それを推し進めてきてしまったことがあると考える。
「面接」 という、人によって基準のかわる曖昧な方法ではなく、
「学科試験」 という、客観性の高い試験方法で合否判定を行う。
大変、理にかなっており
公平であるように思われるだろう。
しかし、ここに大きな落とし穴がある。
採用となった「教員」は
生徒・保護者たちと、毎日のように「面接」をし、
あいまいだろうがなんだろうが、
その印象によってのみ、信頼を勝ち取り、
評価される
という点が考慮されていない。
生徒たちは、先生を
「テストの点数」で好きにならない。
子どもたちの「あいまいな目」が
「この先生が好き!」と思えるかどうか、
それこそが、最大の評価観点であろう。
考えてみればよい。
学科試験で、他の受験者より5点か10点、
良い点数をとった。
そのことが、その教員が優れていることの証拠になるだろうか。
こういうことを書くと、
今度は
「じゃあ、勉強ができなくてもよいというのか」
という極論をぶつけられることがある。
僕は、こう答えることにしている。
「学力のない教員は、教員ではない。
が、学力のない『教員志望者』は
その理由において、不採用とするべきでない。」
おわかりいただけるだろうか。
採用前の時点での学力は、
それは、高い方がよいに決まっている。
学力が低いというのは、志が低いことにもつながりえる。
しかし、
採用になってから学力を磨くことをしないのであれば、同じことだ。
教員採用試験の高い競争率に、
志望者たちは試験前の学習にはいそしむものの、
いざ採用となった後、それほど勉強をしない人が多い。
だから、
生徒の英語の質問に答えられない教員が現れる。
そして、
もうひとつ。
公立採用試験においては、
教科の 専門知識
の比重は、相対的に考えると、そこまで高くない。
では、何が重視されるかというと、
「教職教養」、「一般教養」である。
このうち、 「教職教養」
とは
例えば教育史、教育心理、教育関連法などについてのテスト。
そんなものに詳しくたって、
生徒の前で実践できなければ意味がない。
そして、教育法に詳しくたって、
教科の知識が不足しているのであれば、本末転倒である。
例えば、私立校の採用試験においては
当然、学科の専門知識は重要視される。
英語の教員であれば
英検1級、TOEIC900点以上という人は、ザラにいる。
私学の教員採用については
こんな面白い事例がある。
東京都では、毎年「私学教員適正検査」という統一試験があって
私学での教員を目指す者がこれを受験すると、
結果が各校に配布され、
学校はこのデータを参考に、志望者に声がけをするという仕組みである。
試験は
「専門教科知識」と「教職教養」の2つがあって、
僕が携わっていた頃は
それぞれA~Dの評価がついて、学校に配布されていた。
これから受験を考える方はよーく心した方がよいが、
「専門教科」でD評価がつくと、
これは、絶対に、採用されない。
だったら、受験しない方がマシである。
そのくらいの破壊力がある。
では反対に
2つとも「A」がつくとどうなるか。
これはこれで、ほぼ「教員」になれる。
ところが
ある学校でこんなご意見を聞いた。
「専門が「A」ってのはいいけど、
教職教養も「A」って子は、
気持ち悪いよね・・・ (だから採用しない)
」
全ての学校のことではないが
中には、そういうところもある。
これが、私学現場での採用の考え方だ。
教育法とかをカリカリ、コツコツ勉強する学生。
それはそれで悪くないが
例えば同じ期間、外国を旅したり、サークル活動にいそしんだり、
色々な人と出会って、多くの経験をした人の方が
生徒に「語ること」ができそうだ。
それは、保護者の意見も同様なのではなかろうか。
中には
「子どものころ、少々「道を踏み外した」くらいの人の方がよい」
という保護者もいる。
ところで
教員志望者、採用試験の受験者には
今回の事件に関して、何の責任もない。
極端にいえば
贈賄して、子女が教員になることを援助したおエライさんも、
悪の根源ではない。
だって、
そうでもしなければ教員になれないシステムなのだから。
つまり、改めるべきは、
教育委員会のあり方ではない。
そうではなく、
採用方法そのもの。
すなわち、
大親分である文科省が、
採用についての考え方を現場主義にすべきなのである。
今度は不正があった教員を解職するという。
そんなことをして、誰が困るか。
もちろん、 生徒たち である。
「不正をおかした先生より、
実力のある先生の方が子どもたちのためになる」?
そんな次元ではない。
しょせん、あまり役にたたない学科試験における若干の点数の違いにすぎない。
今現在、教壇に立つ教員は、
「不正」があったとしても、
子どもたちの大きな信頼を受けているかもしれないではないか。
不正なき教員が信頼されていないという事例もあるのだから。
そんなことより、
信頼していた先生が突然教壇を去り、
「あの先生は悪いことをしたからです」
とか言ってみろ。
子どもたちは
人を信じることをあきらめてしまうかも知れないではないか。
はっきり言って
テストの点数なんて関係ない。
経過がどうあれ
彼らは「教員」になってしまったのだ。
なった以上、子どもたちのために尽くしてもらわねば困る。
ただ、それは不正なき教員だって、同じことだ。
テストの実施内容の調査、
その結果による現職教員の解職。
それは、しょせん、
「点数が良いものが偉い」という
市場原理を一面的にとらえたうえでの、
大人社会のことだけしか考慮しない、
悲しき判断であると思う。
Kama
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